今週の法話

法華宗北海寺住職-二王院観成による仏教用語と法話集です。毎週水曜日に更新いたします。

オウム真理教は六師外道、仏教に非ず ! 

2011-11-25 00:07:21 | 宗教
 オウム真理教は罪なき善良な29人を殺した凶悪な殺人集団である。邪教の最
たるものである。教主といわれる麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚は、インドで修
行してきたと誇っていたようであるが、事件後の追跡調査では修行らしき修行
はしてこなかったと報じられた。今になって思えば、麻原死刑囚は日本にいる
段階でインドの「六師外道」を知ったものと思われる。それを知るのは簡単で
ある。仏教史などを読めばすぐに分かることである。その「六師外道」の一つ
に無道徳論者のプーラナ・カッサバ(不蘭迦葉・ふらんかしょう)がいる。その
思想を知ってインドに行く気になったのであろう。なぜなら、インドに行って
からプーラナ・カッサバの思想を知るのは難しいことである。現地のヒンズー
語を理解できなかったはずである。先のテレビクルーの追跡調査でも、ヒンズ
ー語が流暢だったということは出てこない。たとえば中村元氏の「ゴータマ・
ブッダ」(釈尊傳)を読めばすぐに分かることである。「六師外道」とは、仏教
以外の6人の宗教家、思想家の意味である。

 「無道徳論」とは、人間の不道徳的な殺人などの行為によって悪の報いは受
けることはないという、唯物的な考え方である。たとえば、刀で人の首を切っ
たとしよう。結果的に切られた人は死んだ。しかし、刀が首と胴体の間を通過
しただけである。その行為そのものは悪ではなく、悪の報いを受けることもな
い、という思想である。プーラナ・カッサバは、この地上の生きものを一つの
肉団、一つの肉塊となそうとも、これによって悪の生ずることもなく、悪の報
いの来ることもない、と説いている。

 いずれにしても、麻原死刑囚は何もせずに部屋に閉じこもっていたと報じら
れている。恐らく、無道徳論者の修行を知りたくてインドに行ったと思われる。
しかし、インドの一般的な禁欲生活の修行を知って、何もする気が起きなかっ
たものと思われる。このような思想だから、29人もの殺人を平然としたので
あろう。しかし、麻原死刑囚は、自分を「プーラナ・カッサバ」というホーリ
ー・ネームを自ら名乗ることはさすがに気が引けたようである。その代わり、
愛弟子の井上死刑囚に、「プーラナ・カッサバ」というホーリー・ネームを名
乗せている。オウム真理教は、「人を殺すな」という仏教とは何の関係もない
邪悪な宗教である。マスコミは、動機が不明だ、未解明だと報じているが、上
記がその答えのはずである。
 具体的に論ずれば、オウムの修行項目の一つに、「空中浮揚」がある。座っ
たままで、体全体が少し空中に飛び上がることらしい。しかし、空中浮揚した
からといって、何の意味があるのであろうか。人類の幸福、人間の進化と何の
関係もない。インドの苦行者を見聞している中で、空中浮揚なら自分でもでき
る、と認識したのではなかろうか。
 また「解脱」も修行の一つらしい。しかし、ブッダの説く解脱とは全然内容
が違っている。「苦から解き放たれること」、「煩悩や束縛を離れて精神が自
由となること」、というのがブッダの解脱の意味である。英知をえることが真
の解脱の意味である。その立場に立てば、他人を殺したり、苦しめたりするこ
とはご法度である。
 オウムは「ポア」と称して無辜の人々を殺害した。その根拠は人間は輪廻す
るから殺してもかまわない、ということらしい。そんなことは一般社会では認
められるはずがない。いずれにしてもオウムに高邁な理想論は何もなかったも
のといえよう。したがってオウムの理念や動機をいくら探しても見つかるはず
はない。その程度の邪悪の宗教である、と断罪する以外に方法はない。

 いずれにしても、オウム真理教は、「六師外道」の一つである無道徳論者の
一派と断定できる。元幹部の12人の死刑が確定した。確かに彼らのした残酷
な殺人は到底許されることではない。しかし、かれらの殺人を否定するのであ
れば、国による死刑も残酷な悪である。殺人に善と悪の区別はない。

 ブッダは、人類の真の平和を求め、説いたのである。