また間が空いてしまいました。
フリーランスになってから4年半、昨年くらいから新しい案件も含め、結構いろんな相談があって、この人ほどではないにしろあわただしい局面になりつつある。
ここではあまり仕事のことは書いてはこなかったけれど、基本的には個人事業としてのプロデュースやプランニングの仕事。
ずっと広告業界でやってきた経験やネットワークを生かして、僕に声をかけてくれた人に“そこまでやってくれなくてもいいのに”、と言われるくらいのアウトプットをしたいと思ってやっている。
デザイナーやプランナーや周りのいろんな人の協力のお蔭もあり、年々仕事も増えてきていて、もっとこんな仕事もしたいなあ、こんな企画を実現できたらいいなあという次への欲も出てきている。
忙しくなっている中でより充実した仕事、納得のいく仕事をしっかりやっていくためには、以前《“らしさ”を突き詰める》という記事でも書いたのだけど、自分の強みとは何か、より自分らしい仕事とはどんな仕事か、という自問自答を繰り返していくしかない。
自分のvisionを極めていくこと。掘り下げていくこと。しっかりと固めていくこと。
全然話は変わってこの話。
小保方晴子さんが声明「プライバシーに関わる取材が過熱」STAP細胞研究者
メディアのことについてはさんざん書いてきたけれど、やっぱりこうなっちゃうんですね。
割烹着、指輪、ラクロス、などなど些末なことを必要以上に取り上げて、肝心の研究内容、STAP細胞のことについてはお茶を濁している。
何でもかんでもワイドショーネタとしてしか取り上げられない日本のメディア。
いつまでたっても全然変わらないこの体質。
そりゃ一般人にはわからない難しい話をテレビで延々とやったって仕方ないのはわかるけど、そっち、行きすぎだろ、ってこと。
局によって、新聞、雑誌社によって、それぞれの持ち味を出した特徴的な取り上げ方をしてくれればまだいいのに、どこも同じ、代わり映えしないような取材の仕方、取り上げ方に終始する。
もっと研究内容について、将来の可能性について、僕らにもわかりやすいように掘り下げていく、報道していく姿勢はないのだろうか。
そんな番組や記事を作っても、誰も相手にしてくれないのだろうか。
上記の小保方さんの声明についても、ネットメディアでは取り上げているもののテレビや新聞では言及してないように思う。
それぞれのメディアの特性や考え方を生かした個性溢れる取り上げ方の方が面白いと思うのに、前にも書いた記者クラブの現実と同じで、皆横並び、呉越同舟、護送船団、自分だけが落ちこぼれないように互助会的に支えあっている旧態依然とした体質。
多くの視聴者や読者はワイドショー的な取り上げ方だけで満足してるわけではなく、違和感を感じている人の方が多いのだろうとは思うけど、いつまでたっても一向に変わらないこの現状にいささかうんざりしている。
長いことNYにいる津山恵子さんが最近こんなことを発言されてました。(引用させてもらいます。)
《日本人は、テレビはどうなりますか?新聞は、雑誌は?と既存の枠にとらわれて、生き残りのための質問をしてくる。米国人は、メディアはどうなる?メディアに働く人はどうなる?とvisionaryな質問。先端についていくためには、頭が後者なので、日本人に答えるには頭を巻き戻して「過去・現状はこうだから、これが問題で、これからはこうしたらいいのでは」となる。米国人には「今先端で起きていることはこれだから、将来はこうなるでしょう」と答える。日本の政治やビジネスは、visionに欠けるとよくいわれるけど、答えを求める問題意識から違っているからだと思う。》
日本とアメリカのものごとの本質的な捉え方の話。
アメリカでは目先のことや短絡的なことでなく、できるだけ想像力を働かせて、解きほぐす、突き詰める作業が存在している。
何がどう問題なのか、という思考の中に、自分ならではのvisionが明確にあるかどうかが問われている。
一般的な問題でなく、自分事としての問題意識。
仕事でも何でも、できる限りvisionaryに考えて、想像を働かせて、visionaryな問いかけができるようにしていかなければいけないとつくづく思う。
STAP細胞のメディアの取り上げ方の話も同じ。
視聴者や読者にわかりやすく伝えることはもちろんだけど、そこにそれぞれのメディアのvision
というものがクロスされていなければいけないのだと思う。
フリーランスになってから4年半、昨年くらいから新しい案件も含め、結構いろんな相談があって、この人ほどではないにしろあわただしい局面になりつつある。
ここではあまり仕事のことは書いてはこなかったけれど、基本的には個人事業としてのプロデュースやプランニングの仕事。
ずっと広告業界でやってきた経験やネットワークを生かして、僕に声をかけてくれた人に“そこまでやってくれなくてもいいのに”、と言われるくらいのアウトプットをしたいと思ってやっている。
デザイナーやプランナーや周りのいろんな人の協力のお蔭もあり、年々仕事も増えてきていて、もっとこんな仕事もしたいなあ、こんな企画を実現できたらいいなあという次への欲も出てきている。
忙しくなっている中でより充実した仕事、納得のいく仕事をしっかりやっていくためには、以前《“らしさ”を突き詰める》という記事でも書いたのだけど、自分の強みとは何か、より自分らしい仕事とはどんな仕事か、という自問自答を繰り返していくしかない。
自分のvisionを極めていくこと。掘り下げていくこと。しっかりと固めていくこと。
全然話は変わってこの話。
小保方晴子さんが声明「プライバシーに関わる取材が過熱」STAP細胞研究者
メディアのことについてはさんざん書いてきたけれど、やっぱりこうなっちゃうんですね。
割烹着、指輪、ラクロス、などなど些末なことを必要以上に取り上げて、肝心の研究内容、STAP細胞のことについてはお茶を濁している。
何でもかんでもワイドショーネタとしてしか取り上げられない日本のメディア。
いつまでたっても全然変わらないこの体質。
そりゃ一般人にはわからない難しい話をテレビで延々とやったって仕方ないのはわかるけど、そっち、行きすぎだろ、ってこと。
局によって、新聞、雑誌社によって、それぞれの持ち味を出した特徴的な取り上げ方をしてくれればまだいいのに、どこも同じ、代わり映えしないような取材の仕方、取り上げ方に終始する。
もっと研究内容について、将来の可能性について、僕らにもわかりやすいように掘り下げていく、報道していく姿勢はないのだろうか。
そんな番組や記事を作っても、誰も相手にしてくれないのだろうか。
上記の小保方さんの声明についても、ネットメディアでは取り上げているもののテレビや新聞では言及してないように思う。
それぞれのメディアの特性や考え方を生かした個性溢れる取り上げ方の方が面白いと思うのに、前にも書いた記者クラブの現実と同じで、皆横並び、呉越同舟、護送船団、自分だけが落ちこぼれないように互助会的に支えあっている旧態依然とした体質。
多くの視聴者や読者はワイドショー的な取り上げ方だけで満足してるわけではなく、違和感を感じている人の方が多いのだろうとは思うけど、いつまでたっても一向に変わらないこの現状にいささかうんざりしている。
長いことNYにいる津山恵子さんが最近こんなことを発言されてました。(引用させてもらいます。)
《日本人は、テレビはどうなりますか?新聞は、雑誌は?と既存の枠にとらわれて、生き残りのための質問をしてくる。米国人は、メディアはどうなる?メディアに働く人はどうなる?とvisionaryな質問。先端についていくためには、頭が後者なので、日本人に答えるには頭を巻き戻して「過去・現状はこうだから、これが問題で、これからはこうしたらいいのでは」となる。米国人には「今先端で起きていることはこれだから、将来はこうなるでしょう」と答える。日本の政治やビジネスは、visionに欠けるとよくいわれるけど、答えを求める問題意識から違っているからだと思う。》
日本とアメリカのものごとの本質的な捉え方の話。
アメリカでは目先のことや短絡的なことでなく、できるだけ想像力を働かせて、解きほぐす、突き詰める作業が存在している。
何がどう問題なのか、という思考の中に、自分ならではのvisionが明確にあるかどうかが問われている。
一般的な問題でなく、自分事としての問題意識。
仕事でも何でも、できる限りvisionaryに考えて、想像を働かせて、visionaryな問いかけができるようにしていかなければいけないとつくづく思う。
STAP細胞のメディアの取り上げ方の話も同じ。
視聴者や読者にわかりやすく伝えることはもちろんだけど、そこにそれぞれのメディアのvision
というものがクロスされていなければいけないのだと思う。
思うことなのですが・・・・。
必ずって言っていいほど、
『卒業文集』や『卒業アルバム』の写真を
出す傾向にあるのですが、
『マスコミ』の皆様は、
やられた方の気分を考えたことが
あるのでしょうか?
といつも思ってしまいます。
う~ん、どう考えても
『罰ゲーム』にしか
見えないのですが・・・・・。
ふうっ。
ではではっ。
>小保方さんの件について『も』思うことなのですが・・・・。必ずって言っていいほど、『卒業文集』や『卒業アルバム』の写真を出す傾向にあるのですが、
昔の級友、幼なじみ、親戚のオバサン、近所の人。
ヒーローでも犯罪者でも一気にそこに行きます。
ほんと、いい迷惑ですよね。
他の手法、取り上げ方、切り口はないのでしょうか?
どのようにして小保方さんみたいな人が生まれてきたのか、というのは一つの大きな興味ではあるのだけど、各社とも同じように同じことを聞こうとして取材しなくてもいいんじゃないでしょうかね。
皆がそこに行くのでなく、それぞれ違う視点、別のやり方を期待しちゃいます。
そんな時間も金もないよ、ということでしょうけど、それだったら、各社時間も金も使って同じような取材しないで、ネットのニュースと同じように、コンテンツ拝借して使いまわししたらいいのでは?と思ってしまいます。
何書いたか覚えてないし、(悪いことをした場合)そこ
から「悪の深層心理」みたいなもの分析されても…。
小保方さんの場合、理系のトピックなので、コメンテー
ターが自分の得意に引きつけて(現代の家族がどうの、
若者文化がどうの、アメリカではどうの とか)語れない
んだと思います。
でも、理研に取材すればわかりやすく解説してくれる人
がいるはずです。今後の予算に影響するし。
>卒業文集は、いつも「自分だったら嫌だな」と思います。何書いたか覚えてないし、(悪いことをした場合)そこから「悪の深層心理」みたいなもの分析されても…。
そうですよね。
何書いたか覚えてないよりも、大体卒業文集なんてものが存在したのか、あの頃そんなもんあったのかが疑問です。今度小学校の友人に聞いてみよう。
>小保方さんの場合、理系のトピックなので、コメンテーターが自分の得意に引きつけて(現代の家族がどうの、若者文化がどうの、アメリカではどうの とか)語れないんだと思います。
たしかにそうです。
どうにも引き込めないネタですもんね。
そうなると、割烹着やラクロスみたいな引き込みやすい安易な方向に流れやすいです。
>でも、理研に取材すればわかりやすく解説してくれる人がいるはずです。今後の予算に影響するし。
そうなのでしょうけど、そういう突っ込み方はしなくて、易きに流れる傾向が。
多分多くの人がそう思っているはずなのに、マスメディアは視聴者、読者の大多数が勝手にこうなんだろうと規定している。その勘違いがいつまでたっても治らないところが腹立つわけです。