手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

健幸くらぶ 詩吟   あおばの会

2018-05-24 20:05:02 | 詩吟関係
 健幸クラブが名称を「あおば」に変更したことは二週前に書いたと思う。その「あおばの会」の詩吟、二回目が今日でした。9時40分に家を出て福祉センターに向かいました。そて教室へ。5名全員そろっていました。会長さんから、文化協会が文団協に加盟したということについて判らないいう言葉がありましたので、文団協を脱退していた経緯について話してあげました。文団協(文化団体協議会)に手稲区か独立するまでは手稲文化協会も加盟していたのですが、手稲区になったとき、時の澤田会長が独断で文団協から脱退していたのです。当時手稲文化協会はその存在すらあやふやな運営だった。手稲文化祭を、コミニテセンター運営委員会と共催で、実質コミニテイセンター文化祭といってもよい状況だった。そんな時私が事務局長をやることになり、まず文化祭をコミニティセンター運営員会から独立させて、しかしコミニテセンタチーで文化祭を開催していたのだけれど、クミンセンターができて以来、文化協会文化祭と銘はうっても、実質コミニティセンター文化祭としか受け取られなく、見学者はごくごく少なくなっていました。そこで、区民センターで手稲文化協会文化祭を、区民センター使用料減免をしていただき開催する運びに、私が区長交渉から地域振興課交渉まで一人でやりました。しかし、直ぐ指定管理者制度が起きて、使用料減免が出来ない事態になり、文化祭の開催自体がむつかしくなりました。そこで、手稲区として手稲文化祭を開催できるように助成をしてもらうべく活動したりしました。ちょうどそのころ文化協会独自で、伝統芸能祭を手稲区の後援を受けて開催し始めていて、そこから上がる収益を会場費に回せば、独自に文化祭を開催できるようになりました。しかし、手稲区として、文化祭開催の助成をしてほしいという運動も継続してやっていました。区の方では困り果てて、区民センター文化祭と共催の形でやってほしいと区民センター運営員会を動かしてきました。最後当時のクミンセンタ―運営委員長氏家氏と私の話し合いで、手稲文化祭ということで、手稲の文化活動を盛り上げていく、費用については文化協会に一切負担はかけないという約束で現在の形の文化祭が開催されることになったのでした。しかし、文団協への加盟は、特別考えない゛来ました。札幌10区で文化協会のあるのは手稲だけということを誇りとして活動してきたのです。文団協へ加盟すると、当然のこととして上部団体、舞踊連盟とか、華道連盟とか、そういう団体に加盟することになるはずで、それがなければ札幌文化団体協議会の組織する大会には出場できないのではないかと思います。文化協会が今年70周年で功労者表彰を考えたのでしょうが、どんな動き方になるのか心配です。

 そんないきさつの一部を話してあげました。そのあと、前回やった「金剛山」をやりそのあと短歌「我胸の・・平野國臣」をやりました。平野國臣について少し丁寧に説明してあげました。短歌の吟に入ったとき、女性が一人見学に来ました。仲間に入れてほしいということで受け入れることになりました。火曜日の講座の方にも来たいという話でした。これからこんな形での加入者が増えてくるかもしれません。うれしいことです
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