手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

いい時代を生きてきた

2011-01-18 19:11:30 | 無題
80歳を過ぎて、改めて振り返ってみると、辛く、苦しいこともあったけれど、どれもが楽しい思い出になっていて、素敵な80年だったといえそうです。

 太平洋戦争の終わる年に永山農業学校に入学し、戦時中の中等学校の姿を経験し、敗戦後の厳しい生活を経験し、旧制から新制への学制改革の中心で学生経験をした。永山農業を卒業して、北海道第三師範の本科一年に入学したが、師範の本科は旧制高等学校と同格で、バンカラ姿で、「三師の書生さんは荒熊よ」などど大声で歌って、ストームなどをする最後の時代だった。そして、新制大学の一期生として学芸大学を卒業した。

 新制高等学校の教諭になり、38年間先生を務めた。沼田高校・美唄東高校・札幌西陵高校と生涯三校だったけれど、とても素晴らしい同僚との出会いがあり、生徒にいい先生といわれることも無かったけれど、それなりに多くの思い出を今も暖めることの出来る38年だった。
 
 沼田では、季節定時(農業科)の先生、この時代農業の後継者がこぞって定時制の生徒として入ってきていて、今も教え子が沼田の農業を支えている。
 
 美唄東に転勤したときは、丁度、炭鉱が衰退するときで、美唄は炭鉱の町だったのに三井、三菱の炭鉱が相次いで閉山するときだった。あれだけ華やかだった炭鉱が瞬く間に消えてゆく姿を見てきました。

 そして、札幌西陵へ、このときは札幌の新設校ラッシュの時代でした。札幌西陵の新設3年目に転勤したのでした。西陵は白石と一緒に設立されたのです。一学年10学級というマンモス高校だったのです。退職の頃は、生徒の減少期に入り、生徒の気質もひどく変わってきているときでした。
 
 退職後20年を経ているが、退職後の人生のほうが、深いものがある。これは先生としては大してことの無かった証です。教職離れたけれど、美唄ではじめた詩吟が丁度指導者の資格を取れたときで、自分の詩吟の教室を持っていました。退職後は詩吟に専念し、教場も増え、手稲文化協会にも加入し、多くのお弟子さんたちに囲まれてとても充実した生活となりました。現在、週5日詩吟を教え、北詩連札幌西支部の総務部長をさせていただき、文化協会では事務局長として、いろいろの活動を続けてきました。

 退職後は、パークゴルフ、ダンス、カラオケも趣味に加え、更にPCも覚え、このようにブログを書き続けたりしています。

 80歳、体力が落ちて、70前半頃までの華やかな生き方は出来なくなったけれどそれでも、まだ人並み以上の生き方をもう少し続けられそうです。
コメント
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