goo blog サービス終了のお知らせ 

手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

平野國臣 「わが胸の燃ゆる思い・・・・」

2015-10-28 20:03:06 | 無題
 西郷隆盛と僧月照の錦江湾身投げ事件を知っている人は多いと思います。安政の大獄で勤皇僧月照にも危険が迫ったとき、西郷は、月照を薩摩藩に庇護してもらうため、月照を連れて京を脱出した。しかし、薩摩は久光公の時代になっていて、直接連れて帰国しても庇護される保証がありません。それで月照を筑前博多の同志の家にあづけ、一人薩摩に帰り月照の保護をしてもらうべく運動をしていました。一方、西郷と月照の後を追って幕府の手が迫っていることがわかり、一刻も早く薩摩に送りたいと考えているときに、平野國臣が同志のうちを尋ねてきました。すぐに國臣に薩摩へ月照を連れて行ってほしいと頼みます。即座にそれを引き受け、途中山伏の姿に変装して薩摩への関所を通ろうとしたけれど、許されず夜陰に漁師の小舟で海から薩摩に入ります。そして西郷とともに薩摩藩に庇護を申し入れたが許されず、逆に月照を日向へ追放せよとの命令が出されます。月照と西郷を乗せた船には國臣も同乗していたのです。日向に向かっているけれど、その途中で月照を斬ることが命令なのです。西郷にそれができるわけかなく共に死ぬことを選び、あい携えて冬の錦江湾に投身したのです。その水音を聞いた國臣がすぐ舟を止めさせ引き返し探したところ、二人が浮き上がったのを見つけすぐに救い上げ、浜に船をつけて蘇生の術を施したところ、若い西郷は息を吹き返したけれど、月照は帰らぬ身となったのでした。

 この後、西郷は月照と一緒に死んだと幕府には報告をし、奄美大島へ名前を変えて送られたのです。

 一方國臣は薩摩から追放されます。この時の薩摩の仕打ちを嘆いたのがこの歌でした。この事件から平野と西郷の交流が始まるのです。

 平野は、この後、尊王討幕の活動を展開し、8月18日の政変で、先行した天誅組を引き留めに向かいますが、間に合わず引き換えし、その後生野の変を起こし捕えられ獄舎にいる時に大火が起こり、獄中のものとともに切られることになったのです。

 平野は歌人としてもすぐれた才能の持ち主でしたが、笛の名手でもあったといわれます。

台風北海道直撃  かなりの被害が出ている

2015-10-08 18:57:08 | 無題
  今年の台風今までは北海道それほど打撃を受けていなかったと思うが、今回は直撃で各地に被害をもたらしている。

 根室で台風に備え、入口のシャッターに青いビニールシートをはりつけ下を土嚢で押さえ、浸水を防ぐ対策をしているのをテレビで見ていました。なるほどと感心していました。ところが今日の報道でその防水対策は役目を果たせなかった様子が出ていた。根室港は港の岸壁の高さが低いのですね。満潮時と台風の高波が重なると、町が水浸しになる。こんなことなかったのでしょうがこれで2年連続でやられている。本当に気の毒です。屋根のトタンが飛んで電線に引っかかっていたり、街路樹が風で倒されたり、余市のリンゴ畑は半分くらい落ちてしまったといいます。

 その点、手稲は確かに風も強く雨も交じっていたけれどそれほど昼間はひどくなかった。今、外の風の音がかなり高く響いている。ひょっとすると今晩が荒れるのかもしれない。でも水害の心配はいらないから助かります。ただ、強風で停電になるのが一番怖い。

 今日午前中、町内のパークゴルフ大会でした。雨のぱらつく中で27H周りました。何とも情けない結果でした。それでも4位でした。インスタントラーメン5個入りのもの二つが賞品でした。今年はまともに稽古していないのですから仕方がありません。もうパークゴルフも楽しみといえなくなりました。

 詩吟明後日10日は手稲文化祭出演。慌ただしい毎日を送っていて、準備万全といえません。今頭の中には11月15日の「年忘れ演芸大会」の 構成吟のことで一杯です。構想は決まり、配分もほぼ固まったのですが、これからナレーションを作り、プロジェクターの原稿を作り、パワーポイントに打ち込まなければなりません。当然稽古にも入らなければなりません。その前にある西支部吟詠剣詩舞の集いの練習も組み込まなければなりません。ようやく三つ終わるのです。後二つ、頑張らなくちゃ。

此の生此の夜長へに好からず/名月明何れの処にか看ん  蘇軾

2015-09-27 19:18:06 | 無題
  今日は旧暦8月15日、中秋の名月の輝く日です。先ほど庭先に出て名月を眺めました。これで虫の声を聞けたら最高なのですが残念ながら我が家の庭から虫の声を聴くことはできません。花畑には結構な草が?茂っているのですが虫は姿を現しません。

 蘇軾の「中秋の月」転句、結句を題に取り上げました。この時期になると思いだされるのです。「名月明年何れの処にか看ん」この素晴らしい月を来年は何処で見ることになるのだろうというのですが転句の冒頭「此の生」との関係からすると言外に「見ることはできないのかもしれない」という思いがにじむのです。それだけに単純に名月を楽しんでいる詩と言い切ることのできない重さを感じます。

 日本では特に江戸時代には隅田川に舟を浮かべて月見をするのが風流であったようです。舟の中で月見酒を楽しむこれは月に酔うのですね。「夜墨水を下る」「月夜舟行」などはとても楽しい詩です。

 芭蕉は「名月や池を巡りて夜もすがら」と読んでいますが、月を少しでも長く眺めていたかったのでしょうか。一晩中見ても見飽きないくらいに感じているのかもしれません。また池の水面に浮かぶ月影の美しさに魅せられていたのかもしれません。

 百人一首に「・・雲間よりもれいずる月の影のさやけさ」というのがありますが、雲から顔を出す月を待っていて、雲が切れた瞬間顔を出す月影はえも言えぬ美しさなのだと思います。</fontt>

栃木・茨城県の大洪水

2015-09-10 18:26:19 | 無題
 びっくりでは済まない大洪水被害。まずは被害者の方にお見舞いを申し上げます。史上最大の雨量だった様です。鬼怒川の堤防を突き破って川が町に流れ込んでいる。そのすさまじさ。鬼怒川の堤防は3メートルほどかさ上げされたばかりといいます。それがなかったらまだまだ大変なことになっていたのでしょう。

 自衛隊や警視庁のヘリコプターで次々救助されていく姿を見て、助けられるのはありがたいことだけれど、この後のことを考えると本当に気の毒です。ものすごい広範囲が水没しているようです。一階が水没すると。たとえ二階に避難していても食べ物もなくなることになる。

 今のところ北海道は圏外みたいですが、今日は一日強い風が吹いていて、今も外は風の音が鳴り続けている。今晩には雨になるらしいが、予報を見ていると札幌は二つの雨域の真ん中で一番安全なところになりそうだ。

 この異常気象は、これから続くのでしょう。ということは、いつ大雨に襲われるか、竜巻に襲われるか、予測できない事態が起こりうる時代になっているということだ。今まで先祖伝来平和だった村が町が忽ちにして廃墟にされるかもしれないおそろしい時代になっているということだ。雨、風、地震に噴火何が起きてもおかしくない。そうは言っても、自分の今住んでいるところは大丈夫だという気がするので、非常事態に対処する準備は全くしていない。洪水の心配はないかもしれないけれど、地震、竜巻が襲わない約束はないのだ。最低の逃げ支度だけはして置いてもおかしくないのかもしれない。

「キリギリス鳴くや霜夜のさむしろに・・」 面白い話を聞いた

2015-08-31 18:40:32 | 無題
明日から9月です。8月と言う言葉にはまだ秋という感じがないけれど、9月となると、秋だ!という感じがでてくる。虫の鳴き声、星の美しさが際立ってくる。

 「キリギリス鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む」新古今集に入っている歌だが百人一首にも取られていてよく知られている歌だ。ただこの歌の「キリギリス」というのは「鈴虫」なのだそうです。

 それはそれとして面白い話を聞きました。私の詩吟のお弟子さんのある方が夜外出して帰宅する途中で「キリギリス」がないていたのでそっと寄ってみたら見つけることができたので、大切に持って帰宅して虫籠に入れて一週間ほど飼っていたそうです。とてもよく鳴いてくれていたといいます。ある日、詩吟の稽古をしていたらお孫さんが真似して声を出したら、お孫さんの声に反応するようにキリギリスが鳴いたのだそうです。そんなことがあって一週間たって庭に放したら、その晩とてもよく外で鳴いているのが聞こえたといいます。そして、次の朝玄関に出てみたら虫かごの上に放したキリギリスが止まっていたというのです。それでまた籠にいれて続けて飼っているという話でした。

 その方の言うこと、孫の声が忘れられなくて戻ってきたのじゃないかと思うというのです。

 偶然のことかもしれないけれど、小さなお孫さんの高音に仲間と勘違いして反応したキリギリスガその仲間を求めて戻ってきたとすると何とも面白い話となる。キリギリスにも「独りかも寝む」という情念があったのか・・・・。

領土問題で感じること

2015-08-14 19:14:55 | 無題
 第二次世界大戦は三国同盟で戦った。その中で日本だけがひどい目に合っている。

 独逸も伊太利亜もそれなりの苦労はしているとは思うけれど、日本ほどではないと思う。

 領土問題で若しも沖縄が中国の占領地になっていてたら日本に返還されることはなかたと思う。同じように、北方四島が返還されることはないと思う。ウクライナは態の良い侵略のように見える。そんなことをするソ連が四島返還をするはずがない。あの日本に対する宣戦布告、そしてソ連軍の日本人に対して行った理不尽な行為、そしてシベリヤへの連行、あの行為に対する謝罪すらないのだ。歯舞色丹も完全占領国に仕上げ、たとえば将来二島返還に応ずる事態になっても、それまで投資した代償の要求、またはロシヤ人の保護を名目とした共同統治みたいな形に持ち込む可能性がある。

 返す気持ちがあるのなら二島海域の領有権問題ももう少し緩やかかもしれない。ソ連の言い分は二島は返すと言っているのに日本が受け取らないので、実効支配地域とした、と言うことにするように思える。今や世界裁判みたいなものは機能しないのだから、歯舞色丹も実効支配のソ連のものになっちゃうような危険性を感じる。尖閣列島に中国の艦艇が離れずにいるのは日本の実効支配をいわせないためのように思う。

 世界中の国が自国の領有を必死に守っている。日本も北方四島の領有を主張するのも当然のことだけれど、解決にはソ連との話し合いしかない。ソ連が手に入れた島をすんなり返すはずもない。訴える先もない。力ずくで取り返すことはできない。

 日米安保が無くなれば、尖閣も中国の実効支配対策が確実始まると思う。どんな形かわからないけれど力の均衡が崩れたらあらゆる手段を講じられるのでしょう。竹島も何の手出しもできないまま韓国の実効支配地となった。

 今の時代、戦争で解決はできない。代わりの機能らしきものも、大国の拒否権がある限り期待はできない。

勝負事には運がつきものだけれど、計算のできる強さがなくちゃ・・・

2015-08-09 18:52:32 | 無題
 麻雀は強かった。こんなことを言ったって、その時の付き次第で負けることも当然ある。こんな中でどう戦うかという戦いの理念を持てるかどうかが強さと関係する。

 私は、まず第一に負けは最低限に抑える努力をする。作戦はもっとも確率の高い役付けを念頭にし、配牌の様子で上がれる可能性の判断をして、時には意図的にほかの対戦者を警戒させるために捨て牌を工夫することなどもやる。また、付きが来ているときは、強引な作戦も辞さない。又対戦者の勢いをそぐ対応、もう少し待てばもっと高い手になる可能性があっても、先に上がることを優先したりする。また、自分の手に惚れて危険を冒すことも相手の状況次第で潔くやめる決断(完全に死ぬ)ことも辞さない。

 自分の進む方向が決まったら、危ない牌は早く処分し、危機に対応できる配慮も必要だ。

 よく見受けるのは、自分のことだけ考えて、ほかの対戦者の動向など全く見ていない人もいる。

 麻雀を例に書いてきたが、仕事の進め方でも、与えられた仕事を単にやり遂げるだけでなく、その仕事のアプローチの仕方、さらにはそれが更なる発展の足懸りとならないかなどを熟考してゆく人でありたい。

 私はある組織の活性化に努力したことがある。そんな中で、トップの指導力の必要を嫌というほど味わってきた。トップのトップダウン的な指導性が無ければ組織の活性化はできない。単に目前の仕事をやるだけでなく、先を見越した指導力、行動力がなければならない。それのない中での活動はその時の評価はできても、将来に対する展望につながらない。

 実は手稲文化協会の話です。文化協会の存在感を区に区民に認識してもらう活動を、トップを差し置いてやった。当然トップがやらなければならないことをやってきた。苦労して作り上げたものを更に質の高いものへと進めるのがトップの仕事だけれど、そんな意識は全くない。単に作り上げた行事がそのままできればよく。トップは下手な挨拶をするだけでよいみたいな事しか考えていないのでないかと疑いたくなる。手稲文化協会として手稲の文化活動の中核として活動する文化協会と名実共に認めてもらうための手立てをどれだけやってくれているのか。ただ、今会員の中から適当な人物を見つけることがむつかしい。外部からでもよいのだ。文化協会に理解のある大物を見つけるべきかもしれない。

一寸あからさまな無礼な一文になったが、自分が苦労してきたものが、今や崩壊の危機にあると感じてつい書いてしまった。

歴史・・・その裏表

2015-07-20 19:13:15 | 無題
  日本の歴史を私たちは学校教育の中で教わり、それをそのまま真実として受け止めてきている。でも教科書に書ききれない多くの事実が裏にあることを知らなければならない。しかし、それを知るには大変な努力が必要のようだ。

 今連続テレビドラマ「花燃ゆ」を毎回みるように努力している。学校で習ったことは誠に薄っぺらなことだったように感じる。同時にドラマでもこのあたりもう少し突っ込んでほしかったと思うこともある。

 禁門の変で朝敵となった長州、長州藩内の動揺、第一次長州征伐軍の編成に当たっての薩摩の動き、この時奄美大島から西郷が呼ばれ、征討軍の中心に座ることになって、西郷の意思が長州を恭順させることで終わらせたはずだけれど、ほんの一場面西郷が恭順の提案をしただけしか放映されなかった。それはそれとして、この後薩長同盟が組まれ、第二次長州征伐軍を奇兵隊が打ち破って行くのだけれど、坂本龍馬が薩長を結びつける手段に西欧の新式武器の大量購入の手だてを整えたことが挙げられている。それにしても、あれだけの大量の新式武器を購入することが良くできたものだと思わざるをえない。大政奉還から戊辰戦争へとあんなにうまく事が運べたのは何だったのだろう。

 錦の御旗が掲げられると大阪にいた将軍が夜逃げのようにして江戸に戻り、江戸城は無血陥落となった。あんまり出来すぎた話のようにも思える。又、明治新政府の中で西郷が征韓論に敗れて故郷に帰ったといわれるけれど、この征韓論の中身もどうも教科書とは違うようだ。

 
 日本はこの後、日清戦争、日露戦争へと突っ走るのだけれど、維新間もない日本によくもこんな戦争をする財力があったものだと思う。当時の帝政ロシヤのアジヤ侵攻を恐れている外国の資本が日本を戦争へと巧妙に推し進めたのかもしれない。その流れが日本の破滅、第二次世界大戦への道のりだったのかもしれない。

 随分高い犠牲を払って、今の日本を確立したのだ。高い犠牲の上で獲得したのが憲法9条の不戦の誓いだった。

 明治維新から日清、日露の戦い、第一次世界大戦、日中戦争へと、突き動かされ、図に乗った日本を今度は破滅させるために戦争に突っ込まざるを得ない状況を作り上げた何かかがあったのではないだろうか。

 今、集団自衛権の論争が進んでいる。日本が犠牲の果てに打ち立てた不戦の城が揺らぎ始めている。ゆるがせるような外圧がかかっている。この外圧に乗っかってはいけない。今度戦争に巻き込まれたら、日本はなくなるでしょう。今の時代そんなことは起きないといえるだろうか。中東での戦いの連続は、武器を供給する国があるから戦いは続く。武器を供給する側の思惑は何なのか。

 シリアの反政府運動が成功しなかったのは、後ろにロシヤいたからでしょう。ウクライナのロシヤのやり方は形をかえた侵略戦争でしょう。そんなロシヤが北方四島返還をするわけがないし、二島もこのまま取り上げていくつもりだと思う。中国は反日運動を強化し、その中でじわじわと手を伸ばしてくる恐ろしさを感じる。日本が憲法で戦争放棄したのに、まだ帝国主義国家ででもあるかのような教育をし、反日行動を強めている感じがする。</font>

初めて植えたズッキーニ 葉っぱだけは大きくなったものの実が育たない

2015-07-15 19:50:57 | 無題
 今年初めてズッキーニを二株植えた。青と黄色です。大きくなって花が咲き実も付くのですが、着いた実が成長しないで先の方から腐れてゆくのです。それで、薬でもかければよいのかと思って農協に行き聞いてみました。すると花は咲いても蜂などがいなくて受粉できないからだといわれた。なるほど今年は花畑にもさっぱり蜂が飛んでいない。それなら人工授粉させればいいのかと思ったけれど、どうやら花が咲いている時間はそんなに長くないみたいで、私が行ってみる時はほとんど花がしぼんでいて受粉させるためには無理に花を開くしない。そうすることが良いことかどうかわからない。もう少し温かくなったら虫たちの活動も盛んになるでしょうから、そのうちにまともなものが取れるのかもしれません。見守って行きます。

 キュウリは今年接ぎ木の苗3本を植えた。ネットに這わせました。ネットの上まで伸びて、節々に今実がついてます。もう少し大きくしてからとることにしますが、いっぺんにとれる量が多すぎそうです。これから伸びる蔓をどうすか困っています。ネットを屋根のようにて前に伸ばし、上を這わせるようにしたらどうかと考えています。面倒なのですがそれしか方法はないのでしょう

 今年どういうわけか春菊が生えない。土のかけ方が悪かったのでしょうか。二回目に撒いたのはもう芽生えていいはずなのにまだ生えて来ない。

 秋大根は芽を出しました。間引きをしてやらなければなりません。今年も20本は収穫できると思います。インゲンは来週あたりから取れるようになりそうです。

 狭い軒下畑だけど結構楽しめます。

「うみ族」か「やま族」か・・・私は「やま族」でした

2015-07-13 19:17:16 | 無題
 こんな話を聞く。山を好む人はまじめだというのだ。

 私が真面目ということは言えないように思うけれど、私は海にはゆきたいと思わなかった。それかといって多くの山を登ったのかといえば、大雪山を数回登ったくらいなのだ。昭和19年に初めて登りそれから5年くらい毎年登った記憶が残っている。

 戦後のなにも無いころ、今のような山登りの装備もないまま、ほとんど普段着にちょっと重ね着を持つくらいで出かけたものだった。ルートは愛山渓から層雲峡に縦断する二泊三日の登山でした。縦断する間ですれ違う人は一組か二組で、この出会いがたまらなくうれしく、どちらからともなくご苦労さんと声をかけあう。それが何とも言えないくらい心地よく感じられたものでした。

 その登山の仲間だった友達はみんな私よりはるかにまじめな方たちでした。

 私はあまり社交性がないので、海などで仲間と群れになってはしゃぐことができず、黙々とひたすら歩く山の方が向いていたのかもしれません。真面目というより、群れることの好きでない、引っ込み思案な性格だっただけかもしれません。

 海に行く機会はいくらもありましたが、海でパーティなんていう考えは全く持ちませんでした。

 家族とも、現役時代、子供が高校生くらいまでは、毎年のようにキャンプに出かけましたが、海水浴には行きませんでした。当時の三角テントがまだ捨てないでありますが、もう時代遅れ、捨てなくちゃなりません。

 すべて今は思い出の彼方です。こんなことを書くことは、老化現象なのでしょう。