旅路(ON A JOURNEY)

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気の向く儘。
男はやとよ、
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実存主義とは何か

2011年05月26日 22時39分49秒 | Weblog
実存主義とは何か
J‐P・サルトル
人文書院



そのむかし実存主義にかぶれていた。「実存は本質に先立つ。」、「人間は未来むけて投企する存在である。」、「主体性」などの魅惑的な言葉が蘇える。たまたま当時読んだ松浪信三郎著「実存主義」を読み返した。「実存とはなにか」で始まる第1章から雲行きが怪しい。松浪はいきなり実存という言葉の定義から探り始めるのだ。この書き出しは私の記憶と大きく異なっている。サルトルには「実存主義とは何か」という通俗講演を一冊の本にまとめた実存主義の入門者がある。ほどなく、サルトルのこの著作と松浪の「実存主義」を取り違えているらしいことに気がついた。「19世紀の合理主義的観念論および実証主義的思潮に対する反駁としておこった。主体的存在としての実存を中心概念とする哲学的な立場およびその20世紀における継承を実存哲学という。」平凡社 哲学辞典

J・P・サルトルの「実存主義とは何か」が届いた。無神論的実存主義者というレッテルを貼られて憤慨した御大ハイデッガーに言わせると、通俗的な講演記録なのであえて著作とは記さない。
『17世紀の哲学者がみた人間観
人間という概念は、神の頭の中では製造者の頭にあるペーパーナイフの製造技術と同一に考えてよい。神は職人がひとつの定義、ひとつの技術に従ってペーパーナイフを製造するのと同じように、さまざまな技術とひとつの概念にしたがって人間を創るのである。こうして個々の人間は神の悟性のなかに存するひとつの概念を実現することになる。
実存主義的人間観
実存が本質に先立つとは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿を現し、そのあとで定義されるものだということを意味する。実存主義の考える人間が定義できないのは、人間が最初はなにものでもないからだ。人間は自らがつくったところのものになる。したがって人間の本姓は存在しない。人間は自らそう考えるところのものであり、自ら望むところのものである。また、実存してのちみずから考えるところのものであるにすぎない。つまり、人間は自らつくるところのもの以外のなにものでもない。』J・P・サルトル「実存主義とは何か」より抜粋のうえ一部改竄。

ハイデッガーのサルトル批判はともかく、松浪信三郎著「実存主義」(岩波新書)よりもわかりやすい講演記録だ。サルトルの「実存主義とは何か」1955年8月初版に続いて、その改訂版「実存主義とは何か」1996年2月初版が届いた。1955年版については講演の記録にしては翻訳のキレが悪く著述のようなまわりくどさを感じていた。40年を経た1996年改訂版では伊吹武彦の翻訳が一掃されて気鋭の若手研究者による翻訳によって講演の臨場感がうまく表現されているのではないかと期待した。迂闊だった。改定版なのだから気鋭の若手研究者が登場することはない。初版と同様に伊吹訳だった。1988年に伊吹は逝去しているというのに殆ど手が加わっていない。この改訂版のために「1945年の実存主義」を新たに書き下ろした海老坂武がひかえめに伊吹訳を「平明でわかりやすく、リズムのあるすぐれた翻訳」だとことわったうえで、「ここはややわかりにくいのではないか、ここはやや原文から外れているのではないかと思われる箇所」を巻末の訳注ページに訳し直している。その数は「実存主義はヒューマニズムである」で58箇所、「討論」で38個所に及ぶ。もちろん、海老沢の訳し直しの方が日本語としてみるとはるかに明晰だ。残念なことに、こういう改訂版だから講演の臨場感など望むべくもない。初版の表紙は薄い。改訂版がハードカバーなので読む際に心なしか緊張する。「時代に巻き込まれている、拘束されている以上は、自分を積極的に時代に巻き込む、拘束することを選ぶ。身に起こることを受け入れるのではなく、身に起こることを引き受ける。状況に対する受動性から能動性への転換、これがサルトルのアンガジュマンという用語の誕生点である。(海老沢による巻頭文「1945年の実存主義」から引用ののち一部を改竄)また海老沢はおなじ巻頭文のなかで、「貧困という経済状態がひとを革命的にするという命題」に対して、サルトルが「貧乏人が貧困を捉え直し、自らの貧困として引き受け、さらに貧乏人によって貧困がはっきりと許しがたいものとなる人間世界の中に置き換えられるということがあってはじめて、貧困は革命的な力になりうるのだ。」と考えていたことを明らかにしたうえで、かれは社会的・経済的・歴史的な要因が人間をつくるのではなくて、人間的主体性の自由な投企が歴史をつくるのだと考えていたと解説する。

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