不法にも 故郷追われし 悲しみは
消えず只ただ ロスケが憎し
終戦記念日は今年で六九回目、色々なことが再び想い出されて
悲しみがよみがえります。
先ず不法にも一方的に条約を破って、しかも終戦間際に侵攻して
来たソ連軍への憎しみは、この先何年経っても私から消えることは
無いでしょう。
戦争が終わった直後の混乱時に命を奪われた私の父と級友と、
更に友人の親父さん方の死は、明らかに戦争が終わった後のことで
その他多くの避難民が亡くなられております。
そしてまた少年団員だった私たちが、任務を終えて山奥へ避難する
途中、突然現れたソ連機の機銃掃射を受け、じゃが芋畑に身を隠して
難を逃れたのも、戦後の事だったおです。
それらの悲しみが癒えぬ内に、着の身着のまま まさに
裸同様で故郷樺太を追われたのです。
我が家の苦しみと悲しみ、父の行方不明と長兄のシベリヤ抑留、
それによる母の若死になど全ては、ソ連軍の不法な侵攻によって
始まったのです。
ですから私は引き揚げ後の家計のために、13才で家族と離れて
農家の手伝いに出、その後15歳の時親戚の世話で美唄の炭砿に
就職したのでした。
因みに私の学歴は小卒です。但しその後働きながら夜間高校へ
通いました。
そんな訳で、私の悲しみ憎しみは未だに消えないのです。
消えず只ただ ロスケが憎し
終戦記念日は今年で六九回目、色々なことが再び想い出されて
悲しみがよみがえります。
先ず不法にも一方的に条約を破って、しかも終戦間際に侵攻して
来たソ連軍への憎しみは、この先何年経っても私から消えることは
無いでしょう。
戦争が終わった直後の混乱時に命を奪われた私の父と級友と、
更に友人の親父さん方の死は、明らかに戦争が終わった後のことで
その他多くの避難民が亡くなられております。
そしてまた少年団員だった私たちが、任務を終えて山奥へ避難する
途中、突然現れたソ連機の機銃掃射を受け、じゃが芋畑に身を隠して
難を逃れたのも、戦後の事だったおです。
それらの悲しみが癒えぬ内に、着の身着のまま まさに
裸同様で故郷樺太を追われたのです。
我が家の苦しみと悲しみ、父の行方不明と長兄のシベリヤ抑留、
それによる母の若死になど全ては、ソ連軍の不法な侵攻によって
始まったのです。
ですから私は引き揚げ後の家計のために、13才で家族と離れて
農家の手伝いに出、その後15歳の時親戚の世話で美唄の炭砿に
就職したのでした。
因みに私の学歴は小卒です。但しその後働きながら夜間高校へ
通いました。
そんな訳で、私の悲しみ憎しみは未だに消えないのです。