今日15日は65回目の終戦の日として、各新聞はもとよりテレビニュースなどでも大々的に報じられ、さらに各地でその記念行事が行われております。
しかしこの日はただ単に終戦の日としてだけでなく、父の仮の命日として私たちきょうだいには特別の日でもあるのです。
終戦当時私たち家族は、今はロシア領となっている南樺太の国境に近い炭砿町に住んでおりました。
当時の各家庭のラジオは、デマ放送を恐れた軍当局の指令で全て撤去されていたのでした。
ですから戦況のことや、後々知らされた玉音放送など、まして肝心の終戦さえ知らなかったのです。
確か終戦の前々日のことでした。突然避難命令が出され、また父の職場がたまたま港の浜市街にあったために、民間人による港湾守備隊に徴用されてしまったのです。それが私たち親子の別れ別れのきっかけでした。
その頃母は病により半身不随の身でしたから、そんな母を置いて行く父の気持ちは今も知る由もありませんが、さぞかし身を切られるほど辛いものがあったことでしょう。
終戦が一般的に知られるようになって、山野を彷徨う避難から開放されてようやく家に戻ることが出来るようになりました。
とうぜん家では父と母が待っていて呉れてると思っていたのでしたが、何故か父の姿は無く母だけが出迎えてくれたのです。
翌日からさっそく私たちのきょうだいの父親探しが、地域の方々と共に始められたのです。
父が属していた民間人による港の守備隊は、ソ連軍の上陸開始前に解散され、それぞれが浜から炭鉱町に戻ることになったのです。
その時には父はまだ他の人たちと一緒だったようなのですが、何故か父だけ一人が帰って来ませんでした。おそらくソ連軍の艦砲射撃か、上陸して来たソ連軍の銃撃にでも撃たれたのかも知れません。
それ以来一応終戦の日を父の命日として来ましたが、65年経った今もいぜんとして父は行方不明のままなのです。
現在百歳を越えた高齢者の生存行方が問題になっておりますが、私の父は明治29年生まれですから、生きて居ればちょうど114歳になる勘定です。
因みに父亡き後の我が家は、戦後でソ連軍の統治下にありましたから、それはそれは大変なものでした。
さらに頼みとしていた長兄もまた出征したままでしたから、病の母を中心にして何とか乗り越えて、無事に北海道に引揚げて来ることが出来ました。
忘れもしません、抑留先のシベリアから一足先に帰還していた長兄が函館港まで迎いに来ていたのです。その時の母との抱き合う場面はまさに劇的な瞬間で、その映画のような場面が今でもはっきりと想い出されます。
その後の母は、無事に長兄とは会えた喜びも束の間で、それまでの心労からか、または兄との再会などで安心したのか、それから2ヵ月後に他界しました。
病身とは云いながら、母はまだ42歳という若さでした。
今65回目の終戦の日を迎えて想うことは、10人ほども子沢山でありながら、その子どもたちの誰からも死水をとって貰えずに果てた父の無念、母の若死やシベリアの抑留の無理からか、還暦を目前にして逝った長兄、またソ連軍統括時代の食料事情の劣悪さが祟って二十歳そこそこで夭折した次兄と参兄たちを想い出さずには居られません。
今ロシアとのビサ無し交流とか、日本商社との交流が盛んになりつつありますが、戦争末期日本の弱みに付け込んで参戦して来た当時のソ連軍、私は今なお信用出来ないのです。当然忘れることも許すことも出来ません。
今でも詳しいことは分かりませんが、当時在ったとされていたソ連との不可侵条約は、いったいどうなっていたのでしょうか。
先日訪れたお寺の前で咲いていた紫陽花です。
しかしこの日はただ単に終戦の日としてだけでなく、父の仮の命日として私たちきょうだいには特別の日でもあるのです。
終戦当時私たち家族は、今はロシア領となっている南樺太の国境に近い炭砿町に住んでおりました。
当時の各家庭のラジオは、デマ放送を恐れた軍当局の指令で全て撤去されていたのでした。
ですから戦況のことや、後々知らされた玉音放送など、まして肝心の終戦さえ知らなかったのです。
確か終戦の前々日のことでした。突然避難命令が出され、また父の職場がたまたま港の浜市街にあったために、民間人による港湾守備隊に徴用されてしまったのです。それが私たち親子の別れ別れのきっかけでした。
その頃母は病により半身不随の身でしたから、そんな母を置いて行く父の気持ちは今も知る由もありませんが、さぞかし身を切られるほど辛いものがあったことでしょう。
終戦が一般的に知られるようになって、山野を彷徨う避難から開放されてようやく家に戻ることが出来るようになりました。
とうぜん家では父と母が待っていて呉れてると思っていたのでしたが、何故か父の姿は無く母だけが出迎えてくれたのです。
翌日からさっそく私たちのきょうだいの父親探しが、地域の方々と共に始められたのです。
父が属していた民間人による港の守備隊は、ソ連軍の上陸開始前に解散され、それぞれが浜から炭鉱町に戻ることになったのです。
その時には父はまだ他の人たちと一緒だったようなのですが、何故か父だけ一人が帰って来ませんでした。おそらくソ連軍の艦砲射撃か、上陸して来たソ連軍の銃撃にでも撃たれたのかも知れません。
それ以来一応終戦の日を父の命日として来ましたが、65年経った今もいぜんとして父は行方不明のままなのです。
現在百歳を越えた高齢者の生存行方が問題になっておりますが、私の父は明治29年生まれですから、生きて居ればちょうど114歳になる勘定です。
因みに父亡き後の我が家は、戦後でソ連軍の統治下にありましたから、それはそれは大変なものでした。
さらに頼みとしていた長兄もまた出征したままでしたから、病の母を中心にして何とか乗り越えて、無事に北海道に引揚げて来ることが出来ました。
忘れもしません、抑留先のシベリアから一足先に帰還していた長兄が函館港まで迎いに来ていたのです。その時の母との抱き合う場面はまさに劇的な瞬間で、その映画のような場面が今でもはっきりと想い出されます。
その後の母は、無事に長兄とは会えた喜びも束の間で、それまでの心労からか、または兄との再会などで安心したのか、それから2ヵ月後に他界しました。
病身とは云いながら、母はまだ42歳という若さでした。
今65回目の終戦の日を迎えて想うことは、10人ほども子沢山でありながら、その子どもたちの誰からも死水をとって貰えずに果てた父の無念、母の若死やシベリアの抑留の無理からか、還暦を目前にして逝った長兄、またソ連軍統括時代の食料事情の劣悪さが祟って二十歳そこそこで夭折した次兄と参兄たちを想い出さずには居られません。
今ロシアとのビサ無し交流とか、日本商社との交流が盛んになりつつありますが、戦争末期日本の弱みに付け込んで参戦して来た当時のソ連軍、私は今なお信用出来ないのです。当然忘れることも許すことも出来ません。
今でも詳しいことは分かりませんが、当時在ったとされていたソ連との不可侵条約は、いったいどうなっていたのでしょうか。
先日訪れたお寺の前で咲いていた紫陽花です。