釧路市内循環バス
先日の午後のことでした。前を走る市内循環バスの車体の後部に、啄木の短歌と肖像が掲載されているのを見かけました。
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
石川啄木とは、大変縁の深い釧路ならではのことだと、つくづく思いました。
さいはての駅に下りたち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
この短歌は、石川啄木が明治41年1月21日の夜、初めて釧路入りしたときに詠んだとされています。
夭折の薄倖の詩人と言われるなかでの、啄木の北海道での足跡は、まず函館に渡ってから、小樽・釧路と移り住み、そのいずれの町で新聞記者として活躍しておりました。なかでも釧路時代は、わずか76日間に過ぎませんでしたが、華やかでかなり充実したもので、啄木の26年間という短いの人生で、もっとも恵まれていたと伝いられています。
その例が、歌碑として市内に残っています。
小奴といひし女の
やわらかき
耳朶などもわすれがたかり
気鋭の詩人であり、また短歌の口語化の実践者だったいわれているように、短歌などはすべて一般的な言葉で語られています。
こうして多くの人々に愛される啄木ですが、その半面「嘘つきとか借金王・泣き虫など」であるとかの、悪い話も無いわけではありません。
しかしそれらの真偽は別にして、私も大フアンの一人で若い頃には、歌集・詩集や小説などを読み耽ったものです。そして柄にもなく啄木にあこがれて、似たような短歌を作っては喜んでいたものでした。
なお釧路市内には、啄木の歌碑25基が、米町公園をはじめとして、おもに橋南地区に建てられ、今に残っております。
「しらしらと・・・」ではじまる歌碑の一つが米町公園にあります。
先日の午後のことでした。前を走る市内循環バスの車体の後部に、啄木の短歌と肖像が掲載されているのを見かけました。
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
石川啄木とは、大変縁の深い釧路ならではのことだと、つくづく思いました。
さいはての駅に下りたち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
この短歌は、石川啄木が明治41年1月21日の夜、初めて釧路入りしたときに詠んだとされています。
夭折の薄倖の詩人と言われるなかでの、啄木の北海道での足跡は、まず函館に渡ってから、小樽・釧路と移り住み、そのいずれの町で新聞記者として活躍しておりました。なかでも釧路時代は、わずか76日間に過ぎませんでしたが、華やかでかなり充実したもので、啄木の26年間という短いの人生で、もっとも恵まれていたと伝いられています。
その例が、歌碑として市内に残っています。
小奴といひし女の
やわらかき
耳朶などもわすれがたかり
気鋭の詩人であり、また短歌の口語化の実践者だったいわれているように、短歌などはすべて一般的な言葉で語られています。
こうして多くの人々に愛される啄木ですが、その半面「嘘つきとか借金王・泣き虫など」であるとかの、悪い話も無いわけではありません。
しかしそれらの真偽は別にして、私も大フアンの一人で若い頃には、歌集・詩集や小説などを読み耽ったものです。そして柄にもなく啄木にあこがれて、似たような短歌を作っては喜んでいたものでした。
なお釧路市内には、啄木の歌碑25基が、米町公園をはじめとして、おもに橋南地区に建てられ、今に残っております。
「しらしらと・・・」ではじまる歌碑の一つが米町公園にあります。
20年ほど前に訪れただけですが 啄木の碑が
こんなにたくさんあるとは知りませんでした。
札幌大通り公園の銅像や函館の湯の川温泉にある
啄木の銅像しか知りませんでした。
「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の
冬の月かな」が大好きな詩です。
美唄から移転してもう40数年にもなりますが、実のところ10ヵ所しか知りませんでした。
美唄通過の折に、詠んだとされている「石狩の美国といえる停車場の・・・」や、函館のは知っておりますが、美唄時代には、月に一度の割りで出札していながら、札幌のはまったく気が付きませんでした。
今は出札することも少なくなりましたが、その機会のおりには探して見ます。また出来ましたら、ぜひ美唄にも行きたいものと考えております。
「東海の小島の磯・・・」は、私も大好きな歌歌です。いずれにせよ、啄木の短歌は共感できるものが多いです。それが魅力てきで多くの人たちに愛されているのでしょう。