山羊を公園で散歩させてはいけないとか、また山羊に、公園に遊ばせてはいけないなどの条例があるのかどうなのかは、もとより知る訳もないにだが、今日の昼間、柳町公園のウォーキング中に見たのは紛れもなく山羊だった。
はじめ遠くからでは、ただ単に白い大型犬かと思っただけだった。
しかし周りには飼い主らしい人が見当たらなかったので、あるいは放し飼いでないかと、急に心配なった。
もしあんなに大きな犬が放し飼いだったら、このまま暢気に歩いている場合でも無いだろうと、すぐに車に戻ることにした。
車に戻りはじめたとき、一組の老夫婦が花壇から出てきて、その白い犬に近付いていった。
とっさに危ないのではと思ったが、二人はいっこうに恐れる風もなくなおも近付いてゆき、携帯を構え始めた。遠くからでは見えなかったが、どうやら犬は、近くの木に繋がれている様子だった。
慌てていったんは車に戻りかけていたのだが、老夫婦にならってカメラを取り出しながら近寄っていった。
やや近付いてから判ったのだが、てっきり犬だとばかりに思っていたのは、山羊だったのである。写真を撮りながらも、遠目とは云いながら目の前の山羊を、放し飼いの大型犬と見まちがえ、逃げ出そうとした早合点と慌てぶりが可笑しくてならなかった。
山羊のほうでは、近寄って来る人間どもには目もくれず、繋がれた綱を引きずりながら、木のまわりの草を食べるのに夢中だった。
おそらく公園近くの家で飼われている山羊なのだろうが、もともとおとなしい動物だからと、キット安易に考えたに違いないのだ。
しかしここは、街の真ん中にある公園なのである。とうぜん後々の問題にもなり、糞害などのお咎めを受けることにもなりかねないだろう。
もうすでにその周りには、小粒の黒い糞が散らばっていた。飼い主は、いぬ同様にキチンと処理してくれるのだろうか。小粒で犬のように目だ立たないだけに、いささか心配になってきた。
当の山羊はそんなことには、まったくお構え無しに、一度も頭を上げることなく、ひたすら草を食べるのに夢中であった。
何故かそのとき、吉永小百合さんの歌「奈良の春日野」の歌詞「「ふんふんふん鹿のふん」が、ふいに想い出された。
遠目ではてっきり放し飼いの大型犬かと・・・?
近付いて見ると山羊で、良く見ると糞が落ちていた。
はじめ遠くからでは、ただ単に白い大型犬かと思っただけだった。
しかし周りには飼い主らしい人が見当たらなかったので、あるいは放し飼いでないかと、急に心配なった。
もしあんなに大きな犬が放し飼いだったら、このまま暢気に歩いている場合でも無いだろうと、すぐに車に戻ることにした。
車に戻りはじめたとき、一組の老夫婦が花壇から出てきて、その白い犬に近付いていった。
とっさに危ないのではと思ったが、二人はいっこうに恐れる風もなくなおも近付いてゆき、携帯を構え始めた。遠くからでは見えなかったが、どうやら犬は、近くの木に繋がれている様子だった。
慌てていったんは車に戻りかけていたのだが、老夫婦にならってカメラを取り出しながら近寄っていった。
やや近付いてから判ったのだが、てっきり犬だとばかりに思っていたのは、山羊だったのである。写真を撮りながらも、遠目とは云いながら目の前の山羊を、放し飼いの大型犬と見まちがえ、逃げ出そうとした早合点と慌てぶりが可笑しくてならなかった。
山羊のほうでは、近寄って来る人間どもには目もくれず、繋がれた綱を引きずりながら、木のまわりの草を食べるのに夢中だった。
おそらく公園近くの家で飼われている山羊なのだろうが、もともとおとなしい動物だからと、キット安易に考えたに違いないのだ。
しかしここは、街の真ん中にある公園なのである。とうぜん後々の問題にもなり、糞害などのお咎めを受けることにもなりかねないだろう。
もうすでにその周りには、小粒の黒い糞が散らばっていた。飼い主は、いぬ同様にキチンと処理してくれるのだろうか。小粒で犬のように目だ立たないだけに、いささか心配になってきた。
当の山羊はそんなことには、まったくお構え無しに、一度も頭を上げることなく、ひたすら草を食べるのに夢中であった。
何故かそのとき、吉永小百合さんの歌「奈良の春日野」の歌詞「「ふんふんふん鹿のふん」が、ふいに想い出された。
遠目ではてっきり放し飼いの大型犬かと・・・?
近付いて見ると山羊で、良く見ると糞が落ちていた。
おなじ動物の糞でも、兎や山羊のほうはあまり嫌悪感は湧きません。馬糞にいたっては、魚釣りのミミズ探しなどでむしろ馴染み深いものを感じます。
私も誰にも負けないほどの「サユリスト」を任じております。