妻の他界以来の買物は殆ど娘と一緒なので、買物カートの役目は当然娘でしたが、最近になって私が引き受けることにしました。
それは何故かと言うと、八十歳を過ぎた頃からなのですが、何故か店内の歩行に心許なさを感じたからです。
ふとしたことで、娘のカートを押してみたところ、歩行の覚束なさが消えてしまったのです。
いうなればカートが杖代わりなった感じでした。それが切っ掛けで、買物が済んだ後での店内はもとより、車まで駐車場を押して行くのを買って引き受けたのです。
そ こで亡くなる1年ほど前の妻との買物で、亡妻が同じようなことをしていたことを想い出したのでした。
妻と一緒の買物では、カートを押して歩くのは殆ど私の役目でした。ところがいつの間にか買物の間も、また買物を終えて車に戻る時も妻はカートを放しませんでした。
妻一切話して呉れませんでしたが、たとえ重いバッグを載せたカートであろうと、富に弱って来た足腰では杖に頼るより、カートに支えられて居た方がずうっと楽だったのでしょう。
今になって亡妻の苦労を知ったしだいです。やはり私は駄目亭主だったのですね!
下の写真は、先日買物帰りで目にした花です。季節が外れましたが、せっかく撮ったもので、亡妻も私も好きな花だけに捨てるに忍びず載せました。
それは何故かと言うと、八十歳を過ぎた頃からなのですが、何故か店内の歩行に心許なさを感じたからです。
ふとしたことで、娘のカートを押してみたところ、歩行の覚束なさが消えてしまったのです。
いうなればカートが杖代わりなった感じでした。それが切っ掛けで、買物が済んだ後での店内はもとより、車まで駐車場を押して行くのを買って引き受けたのです。
そ こで亡くなる1年ほど前の妻との買物で、亡妻が同じようなことをしていたことを想い出したのでした。
妻と一緒の買物では、カートを押して歩くのは殆ど私の役目でした。ところがいつの間にか買物の間も、また買物を終えて車に戻る時も妻はカートを放しませんでした。
妻一切話して呉れませんでしたが、たとえ重いバッグを載せたカートであろうと、富に弱って来た足腰では杖に頼るより、カートに支えられて居た方がずうっと楽だったのでしょう。
今になって亡妻の苦労を知ったしだいです。やはり私は駄目亭主だったのですね!
下の写真は、先日買物帰りで目にした花です。季節が外れましたが、せっかく撮ったもので、亡妻も私も好きな花だけに捨てるに忍びず載せました。