6月7日(木) ときどき
玄関のチャイムが鳴ったのは、4時ちょっとすぎ。母の声が聞こえる。
「私の家じゃないですよ。息子の家に連れてきたのですか」
ショートステイの送りの職員さんに、話しかけている。若く、今日はじめておくってくれてきた職員さん、答えようがなく、黙っている。荷物を受け取り、お礼を言っていると、
「ありがとうございました。皆さんによろしく」 そして、 「また、お世話になります。お願いします」
最近の帰宅時は、たいがいこんな様子だ。現在からさかのぼって、過去の記憶は鮮明だ。現在の時に近づくほどに、記憶は欠けてくる。30年ほど前に、長く住んでいた、新潟の家を離れ、この房総の地に移住した、長男の家に同居したことは、欠落している。それは、家に帰ると云う行為、家に送ってもらうことを意識することで、ずっと昔住んでいた家の記憶につながる、ということのようだ。
最近は、特に、昔の記憶の中を漂うようなことが多くなってきた。ベット生活にするため、母の部屋の模様替えをした時、邪魔になるような家具を、納戸にしまい込んだ。その中に、古い小さな茶ダンスがあった。ある時、急に、なんで、勝手に茶ダンスを持って行ったのか、と問い詰められた。知らないよ、というと、親の型見にもらったものを、なんで勝手に、そっちに持って行ったんだと、非難する。
今まで、そこにあった茶ダンスが無いことに気付いた時、親の形見を、私がどうかする訳ないから、息子に取られてしまったことで、納得させようと云うことだろう。そんな風なことが、ちょくちょく起こるようになってきたが、人の生きると云うことはなんだろうと、思わざるを得ない。
サツマイモの定植。畔の草刈、モアでの作業。