徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

オレたちに世界を体感させるもの/「JAPANESE ONLY」問題

2014-03-10 22:09:37 | Sports/Football
何を通して「世界」を見るか。
本であったり、音楽であったり、演劇であったり、映画であったり、アートであったり。それがサッカーのようなスポーツである人も多いだろう。当然のことながら、世界を見つめる“接点”が多ければ多いほどオレたちの「世界」は拡がり、よりクリアに見えてくる。見えるというのは大げさかもしれないけれども、少なくともオレたちは世界を意識する。
思考に言葉のハードルはあっても国境のハードルはない。
オレたちがサッカーで見ているものは「世界」の豊かさだ。

「JAPANESE ONLY」問題。
すでに開幕戦で特定のプレーヤーに対して人種差別的なブーイングが起きたという話も出回っていた。土曜日は日本平に行って負けてヤケ酒を呑んでいたので、それどころじゃなかったのだが、日付に変わったあたりで事件を伝えるニュースを目にした。
「JAPANESE ONLY」という横断幕が意味するものはレイシズム以外にないのは多くの記事やブログで指摘されている通りだし、世界中のメディアに拡散されている現状では、この件に関していくら言い繕っても無駄としか言いようがない。10日の報道ではダンマクの提出者は浦和フロントの聞き取り調査に対して「差別の意図はない」と答えているようだが(またメディアでは、ヘイトスピーチ擁護とも取れるような様々な“意訳”を交えて報道しているが)、日本の、そして世界中のレイシストが使う、この言葉を選んだ時点でアウトなのだ。
すでにレイシズムを監視する市民の会によって、Jリーグ(公益社団法人日本プロサッカーリーグ)宛てた、<差別的横断幕 "JAPANESE ONLY" を出したサポーターおよびこれを放置した浦和レッドダイヤモンズ株式会社に対する断固たる処置を求める署名>も行われている。これはJリーグの中の話だけでは済まない。

JAPANESE ONLY(『オシムの伝言』公式ブログ)
「外国人お断り」-浦和レッズのゴール裏に差別主義横断幕(清義明/連載.jp)

Jではアジア枠が設けられているように、アジア系のプレーヤー、特に日中と共に東北アジアの3強リーグである韓国出身プレーヤーの獲得、起用はもはや特別なものではない。むしろ外国人枠3名とは別に有望な“外国人”が取れるのだから、多くのクラブはこれを有効活用するし、ほとんどのサポーターもそれを歓迎する(たぶん)。スタジアムレベルでは、Jリーグは少なくとも人種差別的な行為は皆無で、健全なリーグだと言える。
しかしJサポのアングラサイトでもある2ちゃんねるのドメサカ板では、半島出身者や在日を獲得すると必ず揶揄する書き込みが現れる。エスパルスならば「チョンパルス」といった具合に。主催者の系列団体に問題があったとはいえ、健太体制時代に韓国で開催されたピースカップに参加したときも中傷が酷かった。さすがにネトウヨの巣窟である。サポの文化(ネタ化)の少なくない部分は2ちゃんねる経由で行われ、熟成される。2ちゃんねるの最大勢力のひとつであり、現実にも決して“アジア枠”を使おうとしなかったレッズの姿勢は少々特殊ではあった。

月刊浦和レッズマガジン3月号に掲載されている「浦和ウルトラ師弟問答」なる企画で、URAWA BOYSの元リーダーである相良純真氏が、こうコメントしている。
<浦和のウルトラは韓国が嫌いだからね。ウチの歴史にはないことだから、最初はいろいろな反応が渦巻くと思う。昔はチョウ(・キジェ)さんがいたけれど、今ほど嫌韓の雰囲気はなかったからね。クラブのスタッフが本人には伝えているそうだけど、本人が相当の覚悟を持って浦和に来ていることは僕も感じるんだよね。そういう選手に対して、僕は頭ごなしに『でもダメだ』とは思えない。>
問題は「クラブのスタッフが本人には伝えている」という部分だ。これはクラブがレイシストの存在を明らかに認めているということだろう。ダンマク提出者の責任やコアサポ周辺の問題だけではなく、フロントがレイシストを看過してきたと言わざるを得ないのではないか。
浦和レッズやJリーグが国内完結型の方向性を持っているならともかく、出自を理由にした排除を求めるレイシズムは、サッカーというスポーツとJリーグのベクトルとは明らかに真逆なのだから、リーグやクラブの処分は適正に行われることを求めたい。

まあ、しかし正直なところ、浦和のフロントやリーグがどのような「処分」を下すのかは現時点では疑問ではある。
去年の清水エスパルスに対するサポーターの軟禁事件、選手バス襲撃事件に対するリーグ、フロントの処分は激甘だったという印象は否めない。さらに「差別事案」といえば、2011年5月のゴトビ核爆弾横断幕事件でのリーグの見解はあまりにも甘かった。浦和フロントは勿論、これまでトラブルに対するリーグの姿勢はほとんど事なかれ主義に近いものだったと言える。それはいかにも「差別に無自覚」な日本らしい立ち振る舞いだった。今回の件に関しても、リーグは「どのようなものであるかは分からないが、万一差別的行為であるならば看過はできない」とコメントしている。「どのようなものであるかは分からないが」ではない。レイシストのメッセージは明らかろう。
これはホームタウン、サポーターといった言葉で、これまで20年に渡ってサッカーを通して日本人の意識に変革を起こしてきたはずのJの理念に反するものといわざるを得ない。
ヘイト行為は一瞬にして多くの人を傷つける。そして残念ながら、「差別の意図はなかった」と安易に言い訳して取り下げることができる。ヘイトダンマクは簡単に降ろすことができるのだ(実際には信じられないことにゲーム終了まで降ろされなかったらしいが…)。実に簡単な話だ。
でも“そのダンマク”を降ろせば話は終わるのか。

日曜日には、またひとつサポーターの行動について残念なニュースがあった。千葉サポーターがゲームに勝ったにもかかわらず、また唯一の得点を挙げたプレーヤーにも関わらず、そのプレーヤーが「ライバルクラブからの期限付き移籍」というだけで、ライバルクラブを中傷するタオルマフラーを手渡してゴール裏でスピーチさせたという事件だ(また悪いことにチームカラーが同色なのだ)。
何て陰湿で、残酷なんだろう。何て男らしくないんだろうと思う。

勿論ゴール裏同士を口汚く罵り、煽り合うことはサポーターの習い性で、ある意味でエンタテイメントとも言える。
そんな煽り合いにも“社会”のルールはある。オレたちはサッカーを通して世界を、そしてオレたちが生きている社会(コミュニティ)を体感する。これは出自や年齢、性別を超えて、自分の愛するクラブの勝利のみを願い、サポートすることを共有する、シングルイシューの社会だ。それを逸脱するような行為は許されるべきではないだろう。そんなものを“相手”として認められるだろうか。
オレたちがスタジアムで争うのはサッカーへの理解、自分たちのクラブへの愛情の深さと熱さだ。
浦和レッズは、10年前の2004年に優勝したというだけで「サポーターだけ」を特集した前代未聞のMOOKが作られるようなクラブだ。こんなクラブは今のところレッズ以外、日本にない。愛情の深さも熱さも認めざるを得ない。
しかし、こんな事件はあまりにもセコ過ぎて、なんて男らしくないんだろうと思う。
そして、こんなことを繰り返すのは、レッズだけではなく、サッカーへの裏切り行為とも言えるものだ。ダンマク首謀者の“彼”は誰と、何を戦っているのか。
最後に、ある浦和サポーターの言葉を引用する。

<僕は、最後まで、サッカーに対してだけは裏切っちゃいけない、と固く誓っている。なぜならば、サッカーは僕のことを決して裏切らないからなんです。>

ヘイトダンマクは降ろされても、サッカーは一生続く。スタジアムのヘイト問題は適正な処分が下ることを願うし、サッカーに興味のない人たちや去年一年ヘイトスピーチと闘ってきた人たちにまでロックオンされてしまった以上は、これまでのような処分では済まされないことは確実だろう。
次の浦和のホームゲームはオレたち、清水戦である。今回の件で心を痛め、署名活動などに動いている浦和サポーターの皆さんには申し訳ないが、オレたちは違うところを見せてやろうぜ(やっぱし煽っておく)。

つまらない連中に四角四面に仕切られる前に、煽り合いながら一緒に前に進むんだよ。



サッカーとレイシズムの問題については、昨年7月に清義明さん主催のイベントが行われたので、こちらも参考に。
挑発と憎悪/サッカーと愛国-フットボールvsレイシズム-(1)
「憎悪」だけでサッカーは楽しめるのか/サッカーと愛国-フットボールvsレイシズム-(2)

【追記】
(当事者ブログ)サガン鳥栖戦における埼スタゴール裏ゲートでの人種差別的弾幕について。(「想像力はベッドルームと路上から」2014年3月9日付)
史上初の勝ち点剥奪か無観客試合 浦和にJが厳罰検討(中日スポーツ 2014年3月12日付)
横断幕 村井チェアマン「差別と認識」(デイリースポーツ 2004年3月12日付)

五野井郁夫 サッカーファンの名誉を挽回する(上)――人種差別に立ち向かった浦和レッズのサポーターたち(WEB RONZA 2014年03月21日)
五野井郁夫 サッカーファンの名誉を挽回する(下)――スポーツが持つ自浄能力(WEB RONZA 2014年03月22日)

オレたちにできることはまず判断すること/2ステージ制反対アクションへの揶揄について

2013-09-20 20:38:03 | Sports/Football
YESやNOに意味があるのではない。判断することにまず意味があるのだ。

2ステージ制についてぐちゃぐちゃ文句を言わすに提案した方がポジティブだという。
誰が提案するのだろう?
誰に提案するのだろうか?
そしてそれはどうやって提案されて、背後に営業能力に長けたマーケティング軍団が控えるリーグ上層部で本当に検討される可能性があるのか?本気でそんなことを思っているのか。
おそらく「提案する」というのは、「ネット上で議論する」程度の意味でしかないだろう。今まで散々やってきたように。

冗談を言っちゃいけない。
オレたちにできることはまず判断することなのだ。
それそのものを揶揄することはまったく意味がない。
そんなふうにサポーターのアクションを揶揄する姿はネトウヨにしか重ならない。

「いいね」を押した人は本当にいいと思っているのか。
がっかりさせないで欲しい。

「120分間もがんばった末にPK戦負けで勝ち点0ではかわいそう」の論理

2013-09-16 05:38:50 | Sports/Football
11日のJ1、J2合同実行委員会で導入の方針が固まり、明日17日の理事会で「2ステージ制」復活が正式に決定する見通しだという。土曜日のアイスタでも清水、名古屋両ゴール裏で反対の意志を示す横断幕が掲げられた。
これに対してネットに出没している「勝手に代弁すんな!」という人も気持ちもわからないでもないのだが、積極的に賛成でもない限り、リーグは強行してしまう模様なので代弁も何も関係ないです。この状況で言う主張というのは「反対」でしか意味がない。賛成、もしくは「どうでもいい」ぐらいに思っているなら、「反対の反対」なんざ主張せずに放っておけばいいんです。
どんなところにも「反・反」の輩は出没するものである。

ドメサカ板まとめブログ : J1各チームサポーターによる2ステージ制反対の横断幕まとめ

勿論オレも2ステージ制には断固反対です。

<アメリカのプロサッカーリーグMLSは96年にスタートした。そして、アメリカ人の関心を引くために、日本と同じような延長戦や、その後のシュートアウト(日本のPK戦に相当)を実施した。しかし5シーズン目の来年、シュートアウトを廃止して引き分けを導入し、延長戦も10分間だけにするという。
 日本でも、今季からPK戦が廃止されて引き分けが導入された。理由は、「120分間もがんばった末にPK戦負けで勝ち点0ではかわいそう」という、多分に心情的なものだった。
 だがMLSでは、「どういうリーグにしていくか」からすべてが発想されている。当初は、サッカーを知らないアメリカ人を引きつけて「ビッグスポーツ」に仲間入りしようとしていた。しかし来年からは、主としてすでにサッカー好きの人びとの満足を考えてリーグを運営していく方針に転換したという。(中略)
 Jリーグはスタート前の91年に大がかりな調査を行い、サッカーをしている中高生が観戦にくることができるように「土曜日午後6時半キックオフ」の原則を決めた。しかしその後、人気沸騰とテレビ放送からの要請でそんな取り決めは忘れ去られ、現在に至っている。
 Jリーグとはどういうリーグなのか、それぞれのクラブは地域社会のなかでどのような存在なのか、どういう人びとにスタジアムにきてほしいのか。すべてのことを、原点に戻って考え直す必要があるように思う。>
大住良之「サッカーの話をしよう」No.291 「ファン不在」の土曜午後3時キックオフ 1999年11月24日

一年通して戦って、「頑張って」年間勝ち点で1位になってもプレーオフで年間勝ち点下位に敗退したら「かわいそう」だよなあ…。何なんだよ、「がんばった」「かわいそう」って。小学生か。

ドローはそんなに悪いことなのか/ワールドカップ2014予選オーストラリア戦

2013-06-05 06:17:39 | Sports/Football
ザックの「引き分け狙い」を采配ミスとして批判的な言葉が報道やネット上に流れているわけですが、そもそも残り10分の時点で栗原を投入することの何が悪いってんだろうか。
もういい加減にそんなナイーブは捨て去るべきじゃないのか。
この日、最も優先させるべきことは「ホームでのワールドカップ出場決定」であって、この日を含めて残り2ゲームの予選リーグで圧倒的有利な立場にある代表が「何が何でも勝つ」ことではない。
「何が何でも勝つ」のは「何が何でも勝たなければならない場合」に限る。
勿論、ホーム(でワールドカップ出場決定を)で、宿敵のオーストラリア代表に、という「勝ちたい」条件は揃っていた。しかし勝ちたいからといって「何が何でも」勝てるわけではない。相手だって「何が何でも勝ちたい」からである。
いや、正確には「死に物狂いで、何が何でも勝ちたい」オーストラリア代表が相手だからである。

「何が何でも勝たなければならない状況ではない」というのは実にテンションやモチベーションの保ち方が難しいと思うのだが、この日までにテレ朝が煽り続けた「歴史的一戦」というコピーが成就し、このゲームがスポーツエンタテインメントとしても文字通り歴史的一戦になった要因は、まず予選突破に微妙な順位にいるオーストラリア代表こそ、このゲームを何が何でも勝たなければならなかった(負けられなかった)ことに尽きる。
キックオフ直後の彼らのテンションの高さがそれを証明していたし、代表がゲームを落ち着かせた15分、20分過ぎからは危険なカウンターとさらに危険なセットプレーに徹していた。
この手の大一番はしょっぱいゲームになりがちだけれども、ほとんどの時間帯で緊張感のある戦いが続いたのはオーストラリア代表のおかげだ。
そんなゲームで、全力でファイトしたドローを批判的に語るなんて、本当にゲームを観ていたのかと思ってしまう。
つまりドローであることに意味のある、見応え(内容)のあるドローが、ホームで、ゴールデンタイムで放送されたことこそに意義があるのだ。イタリア人のザックが本当にドローを「狙った」のであったのならば、もっと退屈なゲームになっていたかもしれない。しかし栗原が投入されようともこのゲームはまったく退屈なドローにはならなかったと確信している。
この日のゴール裏と、この日のオーストラリア代表はそんなことを許さなかったのだ。
テレ朝は安太郎に采配批判をさせるよりも、彼らに感謝すべきだろう。

直前のテストマッチに敗戦しつつも、ドローでも出場が決定する代表に高い緊張感を与えたオーストラリア代表と埼スタのゴール裏に感謝。同じアジアグループの代表としてオーストラリア代表が予選を勝ち抜いてくることを祈っている。

サッカーがおもしろい理由/後藤健生「Jリーグ観戦ガイドブック」

2013-05-15 02:12:37 | Sports/Football


<いよいよ、サッカーファン待望のプロサッカーリーグ「Jリーグ」が5月15日に開幕します。Jリーグの発足が決まってから後の日本サッカーをめぐる動きはまったく怖いほどまでに爆発的です。>
<「サッカーはなぜおもしろいのですか?」という質問をよく受ける。これは、なかなかむずかしい質問だが、僕はいつもこう答えることにしている。「それは、サッカーがルールから自由なスポーツだからだ」と。サッカーは「手を使ってはいけない」という根本的な制約はあるが、それ以外はまったく自由なスポーツだ。ルールブックにはキックオフとペナルティキックの時にボールを前に蹴らなくてはいけないと書いてあるが、それ以外はボールを前に蹴っても、後ろに蹴ってもいい。長いパス、短いパス。どれを選ぶのも選手の自由。(中略)戦術的にも、その場で何をするのかは、その選手が自分で決めればいい。いや、自分で判断しなければいけないのだ。(中略)サッカーの競技規則はたった17条しかない。これは、他のどんな競技と比べても最も短いものだ。手を使うことと危険なことは反則。敵ゴールにボールを入れれば1点(ロングシュートでも、相手の自殺点でも、とにかくゴールに入れれば1点である)。これだけだ。そのかわり、プレーが自由な分だけ戦術は多様になる。チームによって、国によって、試合のやり方が大きく違うのはこのためだ。だからおもしろい。>
(後藤健生「10倍たのしめる Jリーグ観戦ガイドブック」1993 KKロングセラーズ)

「ゴール裏」論議について

2013-05-08 19:00:41 | Sports/Football
ゴール裏が増設された柏で久しぶりに「ゴール裏」論争が起きているらしい。
ゴール裏論争というとインファイトの河津氏のメッセージが有名だろう。

<ゴール裏の熱狂的な雰囲気を保つためにも、大人しい者や少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい者はゴール裏に来ないでほしい。ゴール裏では立ち続けて応援する、試合をよく観ることが出来ない、物が投げ込まれ怪我をする、サポーター同士の喧嘩に巻き込まれる、など危険かつ不自由なことが多々ある。これを受け入れて我々のように応援する気持ちの無い者はゴール裏に来ないでほしい。>

メッセージの最後に「我々のように」と余計な一言を付け加えてしまうからこの発言には語弊や波紋が生じたわけだけれども、言いたいことはよく分かる。要するにメインやバックの座席と同じような理屈は通用しませんよ、ということである。それでは、なぜあえてゴール裏に来たのか、ということになる。
柏のブログ主さんのエントリーを読む限り1階の「柏熱地帯」はともかくコアサポが2階全体までに及んでいるということでもないらしい。「貼り紙」をするまでは、それなりの「棲み分け」もできていたようにも読み取れる(実際ブログ主さんの行動にそれほどおかしい点はない)。

しかし「2階前段部」ではサポーター同士のトラブルがあったとも書いてある。
これが「少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい者」なのだろう。
これはもう何回も書いていることなのだけれども、サポーターは「愛するクラブを勝利を願い、応援する」というただ一点(シングルイシュー)で繋がっている「社会」である。勝利のために自分は何をすべきなのか考え、行動するのがサポーターであって、「少しばかり応援の雰囲気を楽しみたい」とばかりに、ゴール裏で立って応援している人間に「座れ」と要求するのは、ちょっとあり得ない。
実はトラブルというのは「立て」というゴール裏の理屈よりも、「座れ」という指定席の理屈がゴール裏で要求された場合に起こりやすい。
それは「お客さん」の理屈であって決してサポーターの理屈ではないわけだ。
物が投げ込まれたり、喧嘩が起こったりする「危険」は論外だが、ゴール裏はどうしたって試合をよく観ることが出来ない「不自由」な場所である。清水の場合でも特定のチャントではフラッグが視界を遮る。ゲーム全体をしっかり観ようと思ったらゴール裏ほど相応しくない場所はないのだよね。
しかし、ひとり、ふたり、爆心部に無理やり紛れ込んだって大抵は平気だろう。黙って「地蔵」してたら白い目で見られるかもしれないけれども、「我々」よりもデカい声を出せば、まず文句は言われない。ゴール裏はゲームを観る上では不自由な場所かもしれないけれども、「キミが全力で応援する、サポートする以上は」という意味では自由な場所でもあるわけだ(でなければ困る)。
堂々巡りのゴール裏論議よりもコアの密度をどんどん上げていきたいもんですな(過剰な席取りは勘弁して欲しいけれども)。

結論としてはレッズレベルでコアがゴール裏を埋め尽くすことができないのであれば「元通り」棲み分けすべきとしか言いようがない。

しかし5年前のナビスコ予選の大宮戦や去年のセレッソ戦の日本平を思い出せば、スタジアムでゲームを観るってことが、ただ「大人しく座って観る」ということではないことはわかる。観る者を熱狂させるようなゲームを観せてくれたら、誰だって自然と立って応援したくもなるものだ。
それほどあの時はゴール裏もメイン、バックも関係なく、スタジアム全体が熱狂していた。

「サブ」って何?/サッカー批評No.61「サポーターは敵か味方か?」

2013-03-14 01:14:18 | Sports/Football


特集の冒頭、編集部のリードとして「概論的、学術的なサポーター論ではなく」とあるが、それならばなぜ今回の特集は「20年」などという「学術的」な括りなのか。「ではな」いのならばそもそも「サッカー批評」でやる必要があるのかとすら思う。
やはりサッカー批評はロゴの軟化と同時に中途半端に柔らかくなってしまったのか。
ということで「サポーターの実像」とやらを掲げてはいるのだが、いまいち食い足りない感がしないでもない。実像の描き方、取り上げ方ならいくらでもあると思うが、確か白夜書房だったと思うが、かつて2002年のW杯便乗本ブームの最中、代表の話題と共に、Jクラブを2ちゃんノリのゴシップ視点とサポーターの噂話レベル(だけ)で構成した物凄いムックがリリースされたのだが、実は「概論的、学術的ではないサポーターの実態」というのならば、アレを徹底的に参考にすべきだったと思うのだが(今回本の山を探してみたのだが見つからなかった…ので、見つかったら改めて)。
構成は朝日氏が全面に出ているということで東京、柏色が強く、この手の特集では定番のはずの浦和色は薄く、その他大勢というラインナップ。それでいて「概論的、学術的なサポーター論ではなく」では食い足りなくても当たり前である。

サポーター論というならば、それはまず愛の肯定でなければならない。そこから出発することでしか「サポーターは敵か味方か?」などという大仰なタイトルは活きてこない。
座談会の中でサポーターの問題点として木崎伸也氏は、意味をわかって言っているのかわからないが、さらっと「サブカル化」という言葉を使っている。確かに状況として対プロ野球を出発点に、ネット上でコア層が育っていった「サポーター」と言われる人たちは、その意味では実に純粋なサブカルチャー、新しいカルチャーとコミュニティを形成して、その中で生きている。
しかし、そこで問題点をその「愛の重さ=サブカルチャー」にあると言い切ってしまうのは乱暴過ぎないか(恐らく彼はサポーターの「蛸壺化」を批判したいんだと思うが)。そもそも「サブ」って何だ?

そしてサポーターは敵か味方か?――「木崎伸也(に代表されるサッカーマスコミ)にとってサポーターは敵か味方か?」と問われれば、それは「敵」と答えるしかないだろう(彼が中途半端に口を挟んできたオカの移籍騒動の一件しかり)。
それならばサポーター論の次はマスコミ論であるはずだ。「Jリーグ20周年のサッカーマスコミ論」こそ、次にサッカー批評が取り上げるべきテーマなのではないかと思う。
マスコミ論こそ、実はサポーターを映す鏡になると思うのだが。

オレは清水を「死水」と打ち込んだスポニチを忘れない。

<高度成長時代段階の日本に、まだ「会社が嫌い」の変わり者人間が行くべき場所はなかった。しかし、会社員であることを志向しない「フリーター」というものが登場する。事態は一部で、「野球よりサッカー」になる。しかも、その社会状況を成り立たせる“一部”は、商品の売れ行きを大きく左右する若年層である。日本経済は根本で停滞していて、“売れる商品”はかなり限定したところにしか存在しないという状況が来ていた。Jリーグというサッカーは、かくして投資の対象となる。高度成長が行くところまで行った段階で、「辞めます」を平気で口にする奇っ怪な若い社員が増え、「フリーター」という言葉が公然と罷り通る。その段階で、Jリーグの設立はほぼ可能になっていた。Jリーグ誕生の年が「バブルがはじけた」と言われる年の翌年だというのは、だからとても重要なのである。
「日本のサッカー=Jリーグとはなにか?」――この答えは、「将来を期待されることなく勝手に育ってしまった管理社会の余剰部分」ということにしかならない。「Jリーグがプロ野球に取って代わる」ということは、「プロ野球からJリーグへと、スポーツの世代交替が起こる」ということで、それはすなわち、「日本の男達の間に世代交替が起こる」ということでもあった。しかし、“余剰部分”を生み出すような日本社会を作る男達の中に、「世代交替」という発想はない。だから、「今の子供はもう野球をやらないんだそうだ」の一言に、多くの男達は戦慄を感じなかった。サッカーで育った男達の中にも、「戦慄を感じさせよう」などという発想はなかった。それで、“余剰”から生まれたものは“新しい芽”にはならずに、新手の根無し草になる。終わることにピンとこない日本では、終わったものは終わらず、後から始まった新しいものの方が、先に息切れして倒れてしまうのである。一種の寓話のようなものが日本社会の現実だから、それでもしかしたら、日本人はまともに現実を問題にしないのかもしれない。>
(橋本治『天使のウインク』中央公論新社2000/「サッカー社会と野球社会」より)

周回遅れ…

2012-05-12 01:58:03 | Sports/Football
浦和あたりを中心にした「サポーター(サポート)論」というのは、いつでもどこでも繰り返されているわけだが、熱いサポーター論が交わされるクラブは熱いサポーターが育つ。そして熱いサポートなしには強いクラブは育たない。
ということで、今更ながら<サポーターがプレーするわけではない>などという批判は、クラブ、チームとサポーターを厳然と分けて考える、古臭いフランチャイズ的な思考であって、1992年以降にはまったくそぐわない頓珍漢な認識であるのは、まあ間違いがないところである。

そんな周回遅れの「批判」が今時飛んで来るとは思わなかった。まあ清水を心配する前に自分のクラブを心配しろ、とw 
そもそも「サポーターがプレーするわけではない」とか言っているような輩には「自分のクラブ」などはないと思うんだが。

もちろんこちらも「接近お断り」で「反論無用」です。

開幕前決起集会、改めローカル飲み会

2012-02-27 14:57:17 | Sports/Football


昨夜は浦和の吉沢さん主催の<祝Jリーグ開幕 吉沢康一の≪春闘≫サッカー好き決起集会!!(サッカー好きでなくてOK)>に参加。@十勝平野北浦和店。イベントのアイコンがアレならば行かないわけにはいかないのである。
昼からアルビレックス新潟とのPSMがあるので観てから行こうと思ったら、スカパーの中継は録画で、しかも16時30分からの放送。仕方がないので前半だけ観て浦和へ出撃。

当然のことながら浦和な方々が多数を占めるわけで、微妙にアウエイな雰囲気ながら、カルキン(カルトキング)こと萩本良博さんも参加されていた。
吉沢さんやカルキンさんはドーハにも参戦した日本のサポーター第一世代とも言える人たちなのだが、カルキンさんはトレーナー業をされていて、かつてはアルビレックス新潟にスタッフとして参加している(彼は現在松本で監督をされている反町さんや京都の大木さんの指導に感銘と影響を受けている模様)。サポーター第一世代の彼らが「サッカーで喰っている」ということは本当に素晴らしいことで、既に代理人として活躍されている方もいるけれども、カルキンさんのように現場に関わっている方々には、是非とも本気でプロコーチを目指していただきたいものである。

で、会の後半は講演会帰りだったカルキンさんのテーピング講座。



この日の参加者の皆さんは職種は別として、サポーター、トレーナー、コーチ、審判、GM(自称)、そしてアナーキーの後輩など等、さまざまな形でサッカーに関わっている。サッカーを語るということはグローバルであると同時にローカルな自分を語ることでもある。
「屋外で1時間しかサッカーできない福島の子供たちを埼玉へ遠征させて思いっきりサッカーさせたい」などという話題は酔っ払っていなければ実に感動的な話である。もちろん酔っ払っていても、それは伝わったんだけれども。改めて、サッカー(Jリーグ)はローカルとローカルを繋ぐものなんだよね。ということで、浦和って良い意味でローカルな街だなァ、と思った。



ちなみに吉沢さんは浦和炎上という、サプリを取り扱うネットショップをスタートさせた。ということで昨夜は酒を飲む前に3カプセル。最近はできるだけサプリを服用してから酒を飲むようにしているのだけれども、今日の寝起きはなかなか快調でありました(しかし浦和炎上、ストレートなショップ名だなあw)。

今度は炎上するほど飲みたいと思います。

私は日本人ではないので

2011-09-25 00:03:53 | Sports/Football
アフシン「ただ、川崎が1点負けている時に尊敬できるのは、そこで情熱をもって献身的に追いつこうとしているところです。私にとって興味深いのは、私は日本人ではないのでそう思ったことがあるんですが、1点をリードしている時と1点を負けている時で完全に違ったサッカーをやるということです」(J'sGOAL 9月24日付

<1点をリードしている時と1点を負けている時で完全に違ったサッカーをやる>というのは、リアクションの差はあるにしても日本人に限ったことではないとも思える…が、まあアフシンにしてみれば「できるなら最初からやれ」ってことだろう。そして、これはサッカーに限ったことではないけれども、日本人はケツに火が点かないとなかなか<全力>のエンジンがかからない。全力を<真剣>、もしくは<本気>と言い換えてもいいけれども。

そもそも日本は個人スポーツの国である。
日本は柔の国だから…つまり「勝つと思うな思えば負けよ」。
しかし道教にも似た個人の勝負観や自己達成ならともかく、それはチームスポーツに相応しい価値観なのか。
オレたちは勝つために走っているんだろうか。
それとも負けないために走っているんだろうか。
それってマネジメント的にどうなん?

これ、以前にも書いたけれども、「試し合いとゲーム」の問題にも通じるものがあるんじゃないか。日本人は、何が何でも勝つという執念を持ち得るのか? 日本人にとってチームスポーツとは? 日本人にとって「チーム」とは? 社会的弱者に対して同胞の日本人が時折見せるチーム(コミュニティ)や仲間(国民)への冷淡を考えるとなかなか深いテーマではある。

ちなみに「柔」の歌詞である<勝つと思うな思えば負けよ>は「徒然草」の<勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり>が原典とか。この勝負観、もう深く深く日本人の血肉となっているのかもなァ…。

双六の上手といひし人に、その手立てを問ひ侍りしかば、
「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。
いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして
人目なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかりなり。
(徒然草)

観戦記は改めて。

彼の情熱

2011-08-04 19:48:05 | Sports/Football


森岡隆三コーチ(京都)「マツ(松田)と組んでプレーするのが好きだったし、マツのプレーを見るのが好きだった。日本最高のDFだったと思う。彼の情熱を日本サッカー界は忘れてはいけない」(スポーツニッポン 8月4日付

Jリーグ2連覇を果たした岡ちゃんマリノスというチームは嫌いじゃなかった。
オレは岡田武史という人物が好きだったし、彼のチームは湯浅健二あたりを初めとしたレッズ系の連中に悪態をつかれながらもその強さをキープし続けた。そもそもマリノスに悪態をつくレッズも嫌になるくらい強かった。「強さ」というのはやはりディフェンスの力に他ならないというモデルをJリーグに打ち立てたのが、この時代のレッズ、そしてマリノスというチームで、そのチームの中心にいたのが松田直樹だった。
画像にもあるように彼らの時代から「ASIA」は本格的にリーグの目標となり、結果的にレッズはアジアチャンピオンへと突き進み、マリノスはアジアでの苦しい戦いを契機に息切れしていく。キャリアの終盤は決して望むような結果を得られていたとはいい難いけれども、新しい時代のJリーグを作ったのは間違いなく彼らだった。
昨オフに、その松田を戦力外にしてまでチーム改革を断行したマリノスは今、リーグ首位に立っている。そして松田は松本山雅というクラブでの新しいキャリアをスタートさせたばかりだった。マリノスはこの改革によってチームを前進させ、松田はJFLという予想外の場で、新しい情熱を持ってチャレンジをスタートさせることでキャリアを深化させつつあった。決断は非情で、生え抜きのベテランとの別れは悲しいことだっただろうけれども(それは同じように大改革を断行したエスパルスも同じ、さらに言えばどのクラブでも起こり得ることである)、お互いにとって幸福な、次の一歩だったのではないか。
松田が死にさえしなければ。

マリノスのみならず日本サッカー界のリーダー候補でもあった男の夭折は悲しいことだけれども、きっと彼を忘れることはないだろうと思うし、膨大な映像の中で彼の記憶は受け継がれていくだろうと思う。
松田直樹さんのご冥福を心よりお祈りします。

彼には悪いけど、今でも代表の松田というよりもやはりマリノスの松田なんだよな…。

現場の人

2011-07-23 09:34:02 | Sports/Football
時代の替わり目だった1989年にも時代を象徴する多くの方が亡くなられたものなのだけれども、今年もわずか数日の間にもちょっと驚くような方々が亡くなられてしまった。今年が、ということはないのだけれども…それを言い始めたらここ数年は毎年“そんな年”だったような気がする。そこに象徴的なものの終わりが重なると、それはもうただの偶然とは思えないように感じる。正直、すでにその役割は終えていたという評価もあることはあるのだが、本当に終わっているのに終わってないものと、それが、本当に終わってしまうのとは別だ。
しかし人間はある日、突然幕を降ろしてしまう。
原田芳雄さんの死去や中村とうようさんの自殺はショックだったし、サッカーピープルとしては森孝慈さんの死去もあまりにも急に、そして早く感じた。オレの年代では往年の東京・メキシコ五輪の代表選手というよりも85年のメキシコW杯予選に日本代表監督として闘っていた姿のほうが記憶に残っているかと思うけれども、Jリーグ時代に入ってからはやっぱりレッズの人だったなあ。クラブの創設に尽力した人物だし、初代監督でGMでもあった人なので、サポーターにとっても悲しみは深いことだろうと思う。

しかし森さんの死は悲しいことだけれども、問答無用のレジェンドがいるクラブってのは幸せだと思う。そして森さん自身もレッズというクラブに関わることで(もちろんマリノス、アビスパ時代を通じてだけれども)、60年代から00年代まで「現場」の人であり続けられたことは幸福なことだったんじゃないか。プレーヤーとしても代表監督としても(ワールドカップには出られなかったけれども、あれはあれで80年代の日本サッカーのクライマックスだ)、そして2002年からは創設に関わった(そして残念ながら監督時代は報われなかった)レッズのGMとして一時代を築いた。もちろん70年代の不遇の時代、プロ設立前夜である80年代の雌伏の時代があるとはいえ、文字通り、日本サッカーの黄金時代を生きてきた人物だ。メキシコ五輪世代にとってはJリーグ創設から98年のフランスワールドカップ出場までが世代の役目としてはピークだっただろうけれども、この人にはまだ先があった。それは「現場の人」として求められ、ご本人もあり続けたということに他ならないのだろう。

森孝慈さんのご冥福をお祈りします。

<17日に67歳で死去した68年メキシコ五輪銅メダリストで元日本代表監督の森孝慈氏の葬儀・告別式が22日、東京都世田谷区の公益社用賀会館でしめやかに営まれた。(中略)出棺の際には参列した浦和サポーターから“森コール”が湧き起こり、前日本代表監督の岡田武史氏は涙を見せていた。(スポニチ 7月23日付

<原技術委員長は「『森ファミリー』の代表としてあいさつさせていただく」と述べた上で、「大学、三菱、レッズと、ずっと森さんの背中を見て育ってきた。ダンディで格好よかった。森さんに話を聞いてもらうだけで元気になった。だから、森さんの周りにはいつも人がいっぱいいた」と人柄をしのんだ。>(埼玉新聞 7月23日付

ところで、エスパルスのレジェンドは…書くのはやめておく。

試し合いとゲーム

2011-07-08 05:04:46 | Sports/Football
誰とは書かないが「ストライカー作っていくなら、ピッチの中だけじゃ難しいと思います」という人が、今回のロンドン五輪最終予選の組み合わせを見てもっともらしく「油断禁物(キリッ」などと書いているのを見て、「アンタのそういう発想がストライカーの登場を難しくしてんだよ!」と笑ってしまった。

いや、「(キリッ」とは書いてませんがね。

五輪最終予選の組み合わせはどう見ても「比較的」楽なグループに入ったし、力関係を考えれば「油断禁物」などと言う前に、日本の持つポテンシャルから言えば突破の可能性はかなり高いと見るのが妥当だろう。しかもゲームはセントラル方式ではなくホーム&アウエイである。
これは現状認識と相対評価と可能性の問題であって、「油断大敵」などという個人の胸の内しか知らない、わけのわからないものとは違う。しかし「油断大敵」と口にしてしまう人は少なくない(特にある世代以上の人間は)。

つまり、それは「試合」の発想である。

Jリーグが設立されて20年以上経つ。「革命」に付随して起こることの中に、古い言葉が淘汰され、新しい言葉の登場(使用法、頻度を含む)があると思うのだが、個人的にはJリーグ以後、急速に色褪せて見えた言葉が、この「試合」という言葉だ。今、オレは文章を書くときに「試合」という言葉を使うことに抵抗がある。
試合というのは文字通り「試し合い」であって、これは試し合いを重ねる中で道を究めていくという、そもそも武道に通じる言葉だろう。しかし一方で日本ほど「勝ち負け」という結果に極端な国もない。だから日本人は「真剣勝負」ではなく「(白黒をはっきりさせない)試し合い」を重ねる。その発想が「油断大敵」という保守的で、ある意味思考停止状態の言葉を口にさせる。ストイックな個人競技ならともかく、本来は自立した個の集まりであるはずのチームスポーツにとっては(日本のチームスポーツにありがちだが)その言葉は個人の力よりも和をもって尊ぶ牽制、抑制になったり、萎縮に働く可能性がある。
個人の自由とディシプリンのせめぎ合い、もしくは調和。それがサッカーの面白さではないか。
個人の身体を縛り付けるような言葉を投げかけておいて、「ストライカーを作っていくなら」とは実に矛盾した話だ。しかも彼の書くように、それは「ピッチ内」の話ではなく、日本人に染み付いた「ピッチ外」の話である。

だからストイックで抑制的な「試合」という言葉のイメージがどうにもしっくりこない。
いつ来るとも知れぬ真剣勝負のための「試し合い」ではなく、勝ち負けを繰り返し、その中から勝負の厳しさと楽しさを学び取っていく「ゲーム」と呼びたい。




3.11後は「真剣勝負」が必要だと思うけれども…まあ、これは個々の自覚の問題。

第一世代

2011-05-19 12:00:16 | Sports/Football

昨日は浦和の吉沢さんに誘われて両国国技館の五月技量審査場所に出かけた。
ライブで相撲を観るのは数年前に親孝行したとき以来。改めて思ったのだけれども大相撲って便利な親孝行イベントだよなあ。朝早くからやってるし、国技館の中だけでも一日楽しめるし、18時には終わるから夜は夜で呑みにも行けるし。今回は椅子席だったのだけれども、日産スタジアムあたりとは違って一番上(一番遠く)からでもしっかり取組が観えるのも素晴らしい。
まあ、当たり前の感想なんですが。

あと、八百長問題はまだ燻っているけど本場所じゃないんだし、何でNHKは中継しないんだろう?とか。
中継はもちろん、被災地でも同じようなイベントを開催したら現地の爺婆がどれだけ喜び励まされるだろうとか。
そんなことを話しながらあっという間に3時間半が過ぎた。
話題のブラジル人力士の魁聖も観られたし、白鵬はさすがの横綱相撲を見せた。琴欧州と稀勢の里という個人的には楽しみな取り組みは琴欧州の当日休場で稀勢の里の不戦勝。まあ星取りを見ていると琴欧州は絶不調みたいだったから仕方ないか。
今度は椅子席でもいいから本場所も行きたい。


終了後は両国で酒。吉沢さんと呑むのも物凄く久しぶりだったのだが、シラフのときは良いお父さんみたいになっちゃっていたのだけれどもw酔うと相変わらず永ちゃんだったので安心した。
この間、ブログにも書いた治ちゃんの引用<Jリーグが生み出した根無し草世代>というのはまさにオレや吉沢さんの世代だと思うのだけれども、彼が<サポーターとしてのドーハ世代(第一世代)のその後>を熱く語るのを聴いていて、まだ「浦和の吉沢」も老け込むのはまだ早いと思ったな。彼の構想や企画が何らかの形でまとまるのを期待しているし、微力ながら協力もしていきたいと思う。興味のある人は治ちゃんの『天使のウインク』に収録されている「サッカー社会と野球社会」を読んでみて頂きたい。非常にシンプルだけれども、そこには<20年前に起こった革命>のヒントが書いてあるから。

CDJの藤本さんのビートルズイベントには行けず。Twitterを読んだら結構面白かったみたいでちと残念。
まあ、そもそも両国で楽しく酒を呑んでる時点でアウツなんですが。