徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

ROLLOVER

2011-09-28 17:33:28 | Music
確か3月に入ってから「拠点を関東に移す!」という勇ましいお葉書を頂いた直後に<3.11>が起こって、「ツイてないなァ」と思いつつ、最近も過去のナカスの記事をたまたま読んじゃったりして「どうしてんかなァ…」と思っていた、SHIGEO ROLLOVERこと中野重夫さんから連絡があったので、来月5日はコレに行きます!

シゲオさんはアコースティックセットだそうです。

October Wind
10月5日(水)高円寺ショウボート
18:30open/19:00start
出演:中野重夫(SHIGEO ROLLOVER)+ながはら元/MINIE MYME TRAIN(永潟三貴生+大谷レイブン)/澄田健/佐藤周造(sexperience)
前売¥2700/当日¥3000(ドリンク別)

手の中のもの/マイケル・S・リーフ他「最終弁論 歴史的裁判の勝訴を決めた説得術」

2011-09-25 23:41:42 | Books
<陪審の皆さん、私にはまだ半時間残されていますが、それを使わないことにいたします。私の主張をただ今もって終えます。最後に短い話、賢い老人と、彼をばかにしてお利口ぶりたい少年の話を聞いてください。少年の計画はこうでした。【ぼくは森で小鳥を捕まえる。それを手の中に入れて老人のところに行き、言ってみるんだ。「賢いおじいさん、ぼくが手に何を持っているか当ててみて」。「あー、キミは手に小鳥を持っているね、坊や」と老人は答えるだろう。そうしたらぼくは訊くんだ。「賢いおじいさん、鳥は生きているか、それとも死んでいるか?」老人が「死んでいる」と答えたらぼくは手を開くんだ。そして鳥が飛び去るのを見せてやろう。老人が「生きている」と答えたらぼくは手の中の鳥をじわじわ握り殺すことにしよう、そして手を開いて「ほら、死んでる」と言うんだ】そこで少年は賢い老人のところへ行き、訊きました。「賢いおじいさん、ぼくが手に何を持っているか当ててみて」。「えーと鳥だろう、坊や」と老人。少年は訊きました。「賢いおじいさん、鳥は生きているか、それとも死んでいるか?」老人は答えました。「鳥はきみの手の中にある、きみ次第さ、坊や」
 どうもありがとうございました。皆さんと人生の一部を共にしたことは私の喜び、神がくださった喜びでした。本当です。
 ありがとうございました、裁判長。>
マイケル・S・リーフ、H・ミッチェル・コールドウェル、ベン・バイセル/藤沢邦子・訳『最終弁論 歴史的裁判の勝訴を決めた説得術』朝日新聞社刊「プルトニウムの死」より)

本気の声/TwitNoNukes#5(9.24)

2011-09-25 01:34:51 | News

昼からtwitnonukesデモ5回目。集合時間を10分ほど過ぎたあたりで宮下公園に到着するとすでに前回の3、4割増しぐらいの参加者が集まっていた。当然、ステッカーはゲットできず。
最終的に発表された参加者は1600人で順調に数は伸びている。もともと「ハードルの低さ」では定評のあるツイデモだが、twitnonukesが毎月同じ場所での行動をコンスタントに続けてきたこと、フライヤーの配布など有志の地道な告知が効いていることに加えて、やはり19日の明治公園6万人デモのインパクトがまたハードルを下げたような気がする。

とにかく一段とハードルは下がり、一段と人は増えた。あまりにもスタート時の参加者が増えたために、いつも見かけていた元気に声を出す兄ちゃんの姿ももはや発見できなかった(別に彼と話したこともないが)。
しかし、ちょっと驚くぐらい、みんなが声を出す。
もう一度書く。コールリーダーがいらないぐらい、多くの人が本気で声を出す、のだ(もちろん「リーダー」は必要だが)。
あまりにもリズムそっちのけであちこちで声が出ているので、第一集団の前方はちょっとしたカオス状態で、さすがにトラメガさんに「リードしてくれ」とも思ったんだが、渋谷駅の交差点に差し掛かるあたりからは逆にそれが何とも言えないうねりになってきた。(オレも含め)トラメガを持たずにフリーで声をあげる人たちのコール(言葉)はシンプルにしかならないからレスポンスはしやすい。参加者に声を出させる「声」というのはコーラーの個性などではなく、結局はそういうものだろう。そんな状況が同時多発的にあちこちで起こっている。勿論いずれにせよ「声」に力を持たせるには、その声をひとつにまとめる必要はあるんだけれども(こういう状況になるともはやスピーカーの出力と位置の問題)、これは、ちょっと凄い事になってきたと思う。

公園通りを通っていつもより長めのコースを取ったのも良かったと思う。4キロ2時間コースというのは体力や集中力を考えればこれが限界に近い感じもするし、「そこ」に目撃する歩行者やドライバーがいなければ意味がないけれども、途中参加を歓迎しているデモなのだから(歓迎しないデモなどないだろうが)路上の滞在時間は長ければ長いほどいい。勿論それを可能にするのが渋谷という街なんだろう。
バスの乗客のおばさんや青山で野菜市をしていたおじさん(深谷だったかな)は笑顔で手を振ってくれた。109の前ではガキんちょがコドモオーケストラのリズムに合わせて狂ったように踊っていた。以前に比べれば物珍しげにケータイカメラで撮る人たちも少なくなったような気がする。公園通りでは中指を立ててオレたちを挑発したオヤジもいたけれども(あまりにもしつこいんで「こっち来い」とデモに誘ってあげたんですがね)、東京はデモの街になってきたのかもしれない。
これからもキープオンですね。

そして帰り道に見つけた今日の標語。


今の日本は赤信号だぜ。

私は日本人ではないので

2011-09-25 00:03:53 | Sports/Football
アフシン「ただ、川崎が1点負けている時に尊敬できるのは、そこで情熱をもって献身的に追いつこうとしているところです。私にとって興味深いのは、私は日本人ではないのでそう思ったことがあるんですが、1点をリードしている時と1点を負けている時で完全に違ったサッカーをやるということです」(J'sGOAL 9月24日付

<1点をリードしている時と1点を負けている時で完全に違ったサッカーをやる>というのは、リアクションの差はあるにしても日本人に限ったことではないとも思える…が、まあアフシンにしてみれば「できるなら最初からやれ」ってことだろう。そして、これはサッカーに限ったことではないけれども、日本人はケツに火が点かないとなかなか<全力>のエンジンがかからない。全力を<真剣>、もしくは<本気>と言い換えてもいいけれども。

そもそも日本は個人スポーツの国である。
日本は柔の国だから…つまり「勝つと思うな思えば負けよ」。
しかし道教にも似た個人の勝負観や自己達成ならともかく、それはチームスポーツに相応しい価値観なのか。
オレたちは勝つために走っているんだろうか。
それとも負けないために走っているんだろうか。
それってマネジメント的にどうなん?

これ、以前にも書いたけれども、「試し合いとゲーム」の問題にも通じるものがあるんじゃないか。日本人は、何が何でも勝つという執念を持ち得るのか? 日本人にとってチームスポーツとは? 日本人にとって「チーム」とは? 社会的弱者に対して同胞の日本人が時折見せるチーム(コミュニティ)や仲間(国民)への冷淡を考えるとなかなか深いテーマではある。

ちなみに「柔」の歌詞である<勝つと思うな思えば負けよ>は「徒然草」の<勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり>が原典とか。この勝負観、もう深く深く日本人の血肉となっているのかもなァ…。

双六の上手といひし人に、その手立てを問ひ侍りしかば、
「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。
いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして
人目なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかりなり。
(徒然草)

観戦記は改めて。

内田勘太郎 グッバイ・クロスロード/LB2009年6月号

2011-09-23 04:09:59 | お仕事プレイバック

(塩次伸二さんに)ギターに関してはあんまり訊かなかったけれど、それまでカントリー・ブルーズをやっていて、例えばセブンス(コード)は判っていたわけ。でもそうではない響きのコードがあると。それで伸ちゃんに訊いてみたんだ。「伸ちゃん、言ってみればジャズみたいな響きのするコードって何かな?」「ああ、もしかしたらこれか?」って押さえたのが、ナインスというコードでね。木村君もそうなんだけど、ギターを弾く人間からすると、ナインスを知ったかどうかで世界が変わるわけ。(中略)色合いが全然変わるわけ。ドミソなんだけど、それにナインスが入ることで全然違うスモーキーな音になったりする。ということは、セブンス、ナインスのその先もあるんじゃないかということのきっかけになるわけ。それは塩次さんから教えてもらって。だから自分で好きなコードを探すようにもなったし…大阪の東住吉から太平洋ぐらいに世界が変わる感じ。

--(笑)広がりましたねえ。

そのきっかけによってね。だから伸ちゃんは師匠という感じだったけれども「これは俺の道だからな、勘太郎は勘太郎の道を行かんと意味ないで」とは早くから言われたからね。それは確かにそうだわな、と。伸ちゃんみたいに弾けるわけもなく、弾きたくもなく、俺は自分なりに弾く。それを大きな意味で教えてくれた先輩だね。
 生涯一ミュージシャンって言い方はカッコいいかもしれないけど、この道を志したからには「ギタリストというよりも、ミュージシャンにならんとあかんで」と言っていたのは塩次伸二です…地方の秀才が言いそうなことじゃないか(笑)。
中洲通信2009年6月号 特集内田勘太郎 グッバイ・クロスロードより

美しい時

2011-09-22 21:11:45 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
「素晴らしい美しい日です。こういった嵐だったり台風が来たあとに、そして『人生』も厳しいことがあったあとには、こういった美しい時を迎えることが出来ます。だから絶対に諦めないということです。(中略)(今の清水は)今、日が昇って来ています。そして雲が取れて行っています。その中で虹も見えています。」(アフシン・ゴトビ)
Sの極み 9月22日付)

じゅらく

2011-09-22 16:24:12 | 素日記

昨夜は打ち合わせの帰りに秋葉原で飯でも、という話だったんだがちょうど台風のピークと帰宅時間と重なってしまい地下鉄がどうにもこうにも動かず、仕方がなく小川町で途中下車し、酒亭じゅらくに寄る。
この店、2008年に閉店した上野じゅらくの本店(本家?)ということらしい。そう言われれば確かにそれなりに趣きもあるし、入ってみると店内も結構広い。ということでテーブル席の居心地は悪くない。
てか店内は、店長さんも「3.11みたい」というぐらい台風難民のリーマンだらけだよ。まあさすがに震災時のような深刻な雰囲気はなかったけれども(台風が福島に向かっているという不安感はちと抱きつつも…)。


塩辛じゃがバタ、酒に合う。
ちなみに店の雰囲気にはそれっぽさはなかったんだがTwitterのアカウントもあり。

22時過ぎに店を出ると道路は既に乾き始めていたものの、秋葉原駅はまだ「3.11」以来の大混雑がまだ続いていた。

2011年の敬老の日/NO NUKES! ALL☆DEMO 2011

2011-09-20 01:20:37 | News
目が覚めたら11時30分を過ぎていた。シャワーも浴びられずに渋谷へ向かう(途中で郵便局に寄って行くつもりだったのに…)。
原宿駅で降りて急いで<NO NUKES! ALL☆DEMO 2011>の集合場所の代々木公園けやき並木に到着すると、すっかり集会会場には後片付けのスタッフがいるだけで焦った。結局PANTAさんも見られなかったし、平野君のスピーチも聞けなかった。が、しばらく急ぎ足で追いかけると公園通りの入口でちょうどデモ隊の最後尾が見えた(最後尾付近に野間さんの姿が見えたので初めて挨拶)。
公園通りを下りながらツイデモ部隊…というか、何となくお馴染みの顔ぶれが、何となく固まっているあたりに、何となく合流。このへんはアバウトでいい。ただしこの集団は声を出す人は多いので気兼ねなくコールはできる。渋谷駅の手前あたりからテンションも上がり始め、バンチョー君が地声でリードを始める(途中で声が潰れた)。平野君もトラメガでコールをリードし始めた。ツイデモでは必ず顔を見かける兄ちゃんも前後に動きながら、いつもと同じように歩行者に呼びかけるように元気に声を出す。相変わらず、皆が(皆で)声を出しやすい雰囲気を作っている。

この日は同時刻に明治公園で<さようなら原発 5万人集会>が行われていたためか、デモ警備はちょっと驚くほど緩かった。通常なら2~3メートルに1人はいる警官が、後方の隊列では下手したら20、30メートルに1人いるかどうかの緩さ。いや、もっといたのかも知れないけれども、街中ではほとんど意識しなかった(そのぶん代々木公園に入ると急に道路がカラーコーンで仕切られ歩きにくくなったのだけれども)。だからといって勿論隊列が大きく乱れるようなことはなかったと思うし、そもそも参加者(スタッフ)が全体を見ながらが前後に動きながら隊列を誘導していた(オレらの近くにいたのは子供オーケストラのリーダーさんだったか)。主催サイドがどういうミーティングをしていたのかはわからないけれども、9.11新宿を受けた自主的な行動ならば素晴らしいことだと思う。実に熱くピースフルなデモになった。
この時点でかなり汗だくだったのだけれども、けやき並木でひと休みしてから表参道へ向かう。


<NO NUKES! ALL☆DEMO 2011>で線路沿いを歩いていたときに、路上に停車している福島からの観光バスを見かけた。
おそらくこれが福島からやって来た<福島隊><会津隊><浜通り隊>等のバスだったのだろうか。その時点で明治公園の参加者がとんでもない数になっていたことはTLで知っていたけれども、表参道の入り口で、立ち並ぶ幟旗が青山通りを曲がってこちらに向かってくる光景を見たときにはちょっと感動してしまった。そして、そのまま<福島隊>の隊列に加わる。いつもならちょっと抵抗感のあるクラシカルなシュプレヒコールも自然と声が出た。
表参道を下りながら、幟を持つおじさんに話しかけてみた。
「大江健三郎さん、先頭歩いているんスか?(先頭の街宣車ではそうアナウンスしていた)」
「最初は歩いていたみたいだけどわかんないですねえ」
「大江さんもお年ですもんね」
「ねえ…」
そんなたわいもない話をしたのだが、しかし、周囲を歩いているのはほとんどが60代以上、おそらく大江さんと同世代の方々も少なくなかったのではないか。そう考えれば、彼らは班目春樹氏と同世代の方々であり、米倉弘昌氏と同世代の方々だっていたはずだ。オレとはまた目線が違う、これは大人対大人のデモなのである。彼らは彼らの目線と立場で原発問題に対峙している。もう、無駄に体力だけはあるオレはおじさんやおばさん以上に声を出す他ない。
これが2011年の敬老の日である。

そして今後、「2011年」を伝えるであろう歴史的一枚@Twitter

本当に「数」ではないのか?/右から考える脱原発ネットワーク in 船橋

2011-09-18 23:15:10 | News

右から考える脱原発ネットワークの船橋デモに参加。9月3日の横浜デモ当日は柏へ行っていたので参加できなかったが、2回目の参加。陽射しは結構強かったのだけれども、湿気もそれほどなく風も強かったので思ったよりも歩きやすい天気になった。集会時の参加者は50名前後とそれほど多くなく、制服組とは別に木陰で煙草を吸っていた黒いズボンのおじさんたちが目立っていた。それでもデモが始まると100名前後には増えたか。
「数ではない」のはその通りなんだが、それでもやはりもう少し増えて欲しいものではある(中1週も影響があったか)。
船橋は政権が発足したばかりの野田総理の地元であり、デモる意義は実に大きい。


彼らのデモはとっても熱く、温かい雰囲気があるけれども、新宿や渋谷で行われているデモとは違い、やはり「楽しく」はない。デモ隊は風船でデコレーションしているとは言え、政治的立場を鮮明にする彼らのシュプレヒコールは愚直なまでのクラシカル調で、どうしたってフリーの参加者に「声を出させ」、歩行者を「巻き込む」にはちょっと辛いものがある(前回も書いたが、“文句を言わせないため”のシュプレヒコールだから仕方がないんだけれども)。オレの前を歩いていた、Twitterデモにも参加しているらしきお兄さんが歩行者やドライバーに笑顔で声をかけていたけれども、やはり「右から」というスタンスがハードルを高くしているのは言うまでもない。
勿論それは仕方のない面もある。左派の“持ち分”と見られていた原発問題を、実際に事故が起こり、いまだに進行中である現在、国民運動として“右派”にアピールするという屈折を彼らの行動は抱えているのだから。しかし、だからこそ横浜から中1週という短いスパンで行われているのも理解できる。「数“だけ”ではない」からこそ、そしてアピールする目標がはっきりしている以上、彼らはフレキシブルに動ける。今は行動すべきだとして、それを立て続けに、「継続の意志」をアピールするために実行する彼らは本物の活動家で、その点において共感できる。


そこで、決して“右”ではないオレがなぜ参加しているのかということをやはり今回も考えてしまった。
「数ではない」というのは一方で参加者の熱い情熱を肯定させるものではあるけれども、もう一方で“国民的運動”を目指すのならば「数がなければ意味がない」というのも真実ではある。フジデモの連中が参加者数を“盛り”まくるのも、あれほど“マス”を憎悪する彼らでさえ数の重要さを動物的な勘で理解しているということである。反原発デモにおいて、それを先週、新宿で実行したのが素人の乱だった。彼らの意図や目論見は「数がなければ意味がない」に他ならず(それは関係者のツイートによる前日までの自己宣伝の激しさで十分に伺える)、だからこそ高円寺、渋谷、新宿で1万人以上の動員を達成し、ある程度の成功を収めた彼らの二度目の新宿行動を警察が牽制したのは容易に想像できる。それほど、やはり、というか当たり前だが「数」は脅威である。それが誰にとって、という問題は別として。

それは「決して数ではない」という生き方をしてきたオレ自身でさえやはり考えてしまう状況で、さまざまなデモに参加して数の重要を痛いほど感じている。だから「右から」デモだって、やはり、まず“数”として参加しているのだろう。
勿論、それを共闘と言い換えてもいいけれども。
既成の主催組織というものに“総結集”という発想が生まれないのならば、個人個人がそれぞれのデモで共闘していくしかない。事態ははっきりしているのだから、目標さえ明確であれば、左や右なんてものは関係なく、ね。
また旧態依然に“権力”との直接対決をアピールするようなイベント方式で万単位の動員を目指すのではなく、組織として共闘できないのならば「右から」のような少人数のデモを各地で多発させる。これこそ「数であって数ではない」やり方じゃないかな…そんな夢想もしてしまう。まあ、結局は「個」に戻っていく問題だとは思うけれども。

明日は脱原発ウィークの最終日、日本全国でデモが同時多発し、東京・渋谷周辺では「数」を問われる集会とデモが行われる。

NO NUKES! ALL☆DEMO 2011
9月19日(月・祝) 雨天決行
時間:12:30~集会 13:30~デモ
集合場所:代々木公園けやき並木

さようなら原発 5万人集会
9月19日(月・祝)
時間:13:00~ライブ 13:30~集会 14:15~パレード
会場:明治公園

そして5度目のTwitterデモは9月24日。
これは今、東京で一番“可能性”のある運動体だと思うし、今回も“広場”になることを期待している。

僕達も凄く嬉しくなっちゃった/第26節 浦和戦

2011-09-18 03:45:28 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
アフシン「両チームにとって非常に挑戦する試合だったと思います。その中での週での3試合目ということもありましたし、グラウンドのコンディションも非常に悪かったです。そして気温と湿度というのも、選手達の助けにはならなかったと思います」

ペトロヴィッチ(浦和)「アフリカでもこれほど酷いフィールドは見たことがないぐらいのコンディションでした」
(以上、Sの極み 9月17日付)

スカパーで浦和戦
テレビで観ていても芝の状態の悪さは明らかで、当然ながら前節の静岡ダービーよりも更に悪化していたように思う。王国のピッチとしては実に恥ずかしい限り。まあ「アフリカでも見たことがない」というのは言い過ぎだとは思うが(またヨーロッパ人らしい表現だと思うが)。清水は前節、このピッチでプレイしていたとはいえ、それほどアドバンテージがあるとも思えず(そもそも清水にとってもアウエイ、つまりこのゲームは“中立地”でのゲームだ)、早い時間から中盤を省略するような大味なゲーム展開になってしまった。
とはいえ、ロングボールに揺さぶられながらマゾーラ、エスクデロといったスピードスターに幾度となく裏を突かれそうになったものの、大事な場面でミスを多発していた浦和と比較して概ね清水がゲームを支配していたのは明らかで、残り10分といったレベルを除けば、シュート数の差とほど(そしてペトロヴィッチが言い張るほど)浦和に押し込まれていた印象はない。
繊細なパスワークが望めない状況である反面、キャラの威力のあるミドルやフレディのスルーパスはまたひとつチームの可能性を見せたと思う。ゲーム勘を取り戻しつつあるのか、辻尾が決勝ゴールのアシストを決めたのも素晴らしい。欲を言えば基本ディフェンスヴで、愚直なまでに直線的な動きしか見せない彼には、フレディと敬輔に怒られながらプレイの幅を拡げて欲しいと願うばかりである。てかポテンシャルはあるんだから(たぶん)、いい加減に拡げてくれ。

ちなみに本日、フレディ初勝ちロコ。

フレディ「今までやっことは無かったんですけど、皆さんが喜んでましたし、僕達もそれによって凄く嬉しくなっちゃったので…ちょっと(足が)痛かったけど、でも踊れて良かったです」
Sの極み 9月17日付)

オレらも嬉しくなっちゃうよ。

ということで、エコパ使用は当分御免だが、日本最高のピッチであるアウスタでタカ、伸二、フレディの揃い踏みを早く観てみたい。今日のフレディは痛み止めを打ちながらのプレイだったようだし、タカの状況を考えれば、やはり大一番となるはずの10月2日の名古屋戦あたりが有力か。

そして前節のエコパでは叶えられなかった無失点での勝利は、アフシンのコメントによって眞田雅則とその家族の方々へ改めて捧げられた。シーズンの残りゲームはすべて眞田に捧げられる。

次節は24日、等々力で川崎戦。
大連敗中だったフロンターレもようやく、何とか勝った。切羽詰まった特攻隊みたいな悲痛なメンタリティで対戦するのは嫌だったので、正直ひと安心なのである。これで思い存分、元祖「俺たちは強い」ゲーフラを生温かく見物しつつ、日本平初黒星の借りを返す。今考えても、あの川崎戦の黒星が0-4の3連敗という屈辱の伏線だったと思うんだよなァ…。

片桐はいりの演じ方/LB2006年2月号

2011-09-16 22:51:10 | お仕事プレイバック

片桐 でも「代表作はなんですか?」って訊かれても、私、何にも言えないですもの。

--そうですか?

片桐 別に「この作品で評価を受けました」みたいなこともないですし、賞ももらったことないですし。だから最近は開き直って「この低い位置をキープするのも、ものすごく大変、力がいるのよ!」とか言って(笑)。高く上がったり、降りたりすることは流れに乗っていればできるんだけど、「この低空飛行をずっと続けるってのはすごい力がいるのよ!」みたいなことをわざわざ言っているんですけどね(笑)。

--それはいいキャッチフレーズじゃないでしょうか(笑)。

片桐 よかった(笑)。(中略)だって、認められたいもん。男の人からファンだって言われないですよ、滅多に。アイドルを好きなようにとまではいわないまでも、普通のファンだって言われたことないと思いますね(笑)。悲しい(笑)。

--そんなことはないと思いますけどね。

片桐 ですかね? それでも別に影でいなくて、ほら、言い寄ってこられてもいいわけじゃないですか、誰もそういうことしないもん(笑)。テレビの世界でひどい目に遭ったということもないし。ま、ある意味幸せなんですけど。(中略)

--そのへんはまた女心ですね。

片桐 ま、女の心ですよ! だって全然拒否しているわけじゃないもの。

--観客席の僕としては孤高の存在なんだなって感じはしますけれど。もうそれはカッコいいなと思いますけどね。

片桐 それはがんばって孤高まで登り詰められればいいですけどね。

--低空飛行で孤高の存在ってのもおかしい話ですけど。

片桐(中略)この話はよく言っているんですけど、キングコングみたいになる覚悟がなきゃやっぱりできないわけですよね。やっぱり私が出た当時、映画とかテレビでの扱いはキングコングだったと思うんですよ。でもテレビに出たり、普通にコマーシャルで食品持ってニコニコしてたら、だんだん普通の人になっちゃうじゃないですか。(芸能界に)もう飲み込まれちゃうじゃないですか、ゴックリ。だから若い頃はもうちょっとトゲトゲイガイガしていたかったっていうのはすごくありましたね。

--それは今でも?

片桐 何ていうんだろう。ニコニコしているけど、近寄って来たら刺すかもよみたいな、そういう部分は何かのこしておきたいというか、それはありますね。
中洲通信2006年2月号 特集かっこいい女「片桐はいりの演じ方」より)

好材料/ヤマザキナビスコカップ 2回戦第1戦 新潟戦

2011-09-16 04:20:22 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
スカパーでヤマザキナビスコカップ2回戦第1戦新潟戦
フジがいつからナビスコカップの放映権を取得したのか忘れてしまったけれども(たぶんレッズの黄金時代と重なっているはず…)、レッズ以外のゲームは露骨にぞんざいな扱いを続けてきたフジテレビがついに中継をスカパーに開放した。
ということで、アウスタでの開催なのに現場に行かないというのも実にマズいのだが、経済状態の悪化も洒落にならないので中継を観た。死んじまったら元も子もないからね。
累積警告で出場停止だった敬輔を含めて、若手中心に大幅にメンバーを入れ替えたアフシン。
決勝トーナメント1回戦が一発勝負で、2回戦がホーム&アウエイ、準々決勝以上が再び一発勝負という、3.11の影響でいくらなんでも意味不明な大会方式に変更されているわけだが、ホームの第1戦ならば兎にも角にもアウエイゴールを奪われないことが大事になる…と思っていたあたりでいきなり失点してしまった。
しかしその10分後にはトシのかなりシビアなクロスから、ほとんど角度のない位置から元紀の素晴らしいヘッドが決まる。以降、清水がゲームをコントロールしながら新潟が鋭いカウンターを繰り出すという先日の静岡ダービーのぐだぐだ感を忘れさせるような締まった内容のゲームになった。それなりに存在感を増している元紀はともかく、いまいちゲームでの爆発力を見せ切れないトシや公式戦初出場となったアトムが(ゴールという結果こそ出せなかったけれども)若手らしい躍動感を見せたのは好材料だった。またキャラが幾度となく積極的にゴール前へ抜け出す動きや(仮にタカがいなくともキャラのフィジカルはそれだけで充分ポイントになる)、逆転ゴールにつながったフレディのスルーパスは期待通りのプレーで今後に…といってもリーグ戦の残りゲームは少ないわけだが、期待は持てる内容だったと思う。
2回戦第2戦は今月28日。

で、次はいつ現場に行けるのかわからん。予想外でフレディはデビューしちゃったしエコパ浦和戦はスルーして、アウエイ川崎戦かなァ…。てか川崎、次のリーグ戦で勝てよ。いつまでもネガティブな状況でいられると対戦するときに面倒臭いから。

ところでこのゲームで解説を務めていた秋田豊が「ヤード」を連発していたのにはちょっと笑った。が、しかし彼の解説はさすがに上手い。これだけ明快な解説ができる男が、なぜ監督として成功しなかったのだろうと思う。勿論解説の巧拙とマネージャーとして成功する資質は別物なんだろうが、日本人監督の理論派ってなかなか成功しないからな…。

“他人”は違う/「ぼくたちの近代史」

2011-09-15 14:36:28 | Osamu Hashimoto
<全共闘の時代が終わって七〇年代になって、誰が口きき始めるかっていうと、最初は『限りなく透明に近いブルー』で、あれは完全に高校生べ平連ですね。で、次が『僕って何』。あれは完全に、自分が一般学生だっていう自覚のない「一般学生」ですね。それが一般学生の最大特徴だけど。
 高校生ベ平連、一般学生と来て、七〇年代の最後はワタシのような類ですよ。アチャラカ色物のセンね。全共闘は出てこない。やっぱりなんか膨大な類の人間は沈んでるんだと思うのね。何故沈んでいるのかっていうんで、自分の言葉がないっていうことにやっと気がついたらしいのね。やっと気がついたというよりも、全共闘が終息していく段階で、みんな「あ、自分の言葉つかまえなくちゃいけない」っていう、そういう入り方をしてったんだと思うんだけどさ。ただ、「自分の言葉ってどういう言葉なんだろう?」って考え始めると自分の言葉がなくなっちゃうっていうぐらいに、言葉って、ある意味で他人の言葉を借用してどんどんどんどん自分で使っていくようなことだからさ、それを使う“自分”ていう位置がはっきりしてないかぎり“自分の言葉”って生まれないのね。
 で、自分の言葉を生み出す為に、自分をはっきりさせる方法っていうのは、「あ、その言葉、面白そ」って、他人の言葉を取り込むことによって、他人になることだと思う。他人になることによって、「“他人になった自分”とやっぱり“他人”は違う」って形で、他人と自分の引き算をすることしかないと思う。>
(橋本治「ぼくたちの近代史」主婦の友社1988)


ぼくたちの近代史
<本書は、橋本治スーパー6時間講演会「ぼくたちの近代史」(於:池袋コミュニティ・カレッジ,1987年11月15日)の内容に補筆したものです。鬼才橋本治が語り尽くした「近代の検証と行方」の感動の書。>

登録情報
単行本:218ページ
出版社:主婦の友社 (1988/09)
ISBN-10:4079275471
ISBN-13:978-4079275477
発売日:1988/09
商品の寸法:19x13.2x1.6cm

“考える”ということ/宗教なんかこわくない!

2011-09-14 03:42:42 | Osamu Hashimoto
<織田信長以来、宗教をこわがらなくなった日本人は、信仰とは別にある“世俗の世界”で、独自の信仰体系を作った。“支配者に対する忠誠”に代表される、個人崇拝である。(中略)そして、この“個人崇拝”は、崇拝する側の人間に、“自分の頭でものを考える”ということを禁じるものである。なぜならば、自分のでものを考え始めたら、「なんであんなオヤジを崇めなきゃならないんだ?」ということになってしまう。つまり、織田信長以来続いている“宗教をこわがらない日本の社会”とは、“会社国家日本”であるためのすべてを備えた社会なのである。だから、この日本は、とっても不思議な形で、恒常的なファシズム状態にある。>

<日本人は、真面目になろうとすると、無意識の内に自分の中に“宗教”を探してしまう。だから、そんな日本人は、自分達とは異質な相手が“宗教”を振りかざしたら、なにも言えなくなってしまう。“違う”と思っていた相手が、実は自分と“同じもの”を持っていたら、もうその“違い”を攻撃の論拠にはできない。だから、「宗教団体を政治団体と同列に扱っていいのか?」などという寝ぼけた議論が起こったりもするのだが、しかし、うっかり真面目になろうとする時に日本人が自分の中に発見してしまうものは、実のところ、“宗教”ではないのである。それは、「自分は当たり前の日本人だ」という、“日本人としての一体感”なのである。それを“宗教”だと錯覚してしまうのだから、日本人は相当に宗教に弱い。がしかし、もしかしたら、そんな日本人は“最高に洗練された宗教の信者”なのかもしれない。>

<日本は、原則として、「自分の頭でものを考えなくてもすんでいる」という国だから、「自分の頭でものを考えるのも自由」だし、「自分の頭でものを考えないのも自由」なのだ。つまり、この国では“考える”ということに関しても対立が、原則として起こらない。起こるとしたら“対立”ではなく、“排除”が起こる。(中略)そして必ず、「思想的に似たような人達の間だけで“対立”が起こる。表面はおだやかで、しかしその内部では激しい対立がある。“派閥”とか“内ゲバ”があって、それが絶対に外には漏れないようになっている。“対立”というのは、その対立を成り立たせるための“共通の地盤”というのが必要だから、日本では、同じ土俵に上がれるような人間の間でしか、対立は起こらないのだ。“違う人間の思想”なんか分からないから、日本の論争は“すれ違い”か“仲間内のもの”にしかならない。日本人は、対立するかわりに、仲間はずれにする。そこで、“自分の頭でものを考えない大人”と“自分の頭でものを考えようとする子供”の間にある“隠された対立”が問題になる。>
(橋本治「宗教なんかこわくない!」マドラ出版1995)


宗教なんかこわくない!
<オウム真理教事件とはなんなのかいや、そもそも宗教とは。緊急出版。悩める若者たちに、会社人間の大人たちに、ワイドショーばかりの主婦たちに。時代を読み解く渾身の書き下ろし440枚。><オウム真理教事件とは、遅れてきた田中角栄信仰とオタク予備軍のしでかした、バブル末期の犯罪である。オウム事件にみる日本のすがた、宗教とは何かを語り、時代を鋭く読み解く。>

登録情報
単行本:307ページ
出版社:マドラ出版 (1995/07)
ISBN-10:4944079052
ISBN-13:978-4944079056
発売日:1995/07
商品の寸法:18.8x12.2x2cm