徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

奴らの「ゲーム」に乗らないために

2015-12-16 18:26:54 | Books
<ピストルズ、そしてパンクは、普通の人々に力を与えた。パンクは、人々が音楽をつくる後押しをしただけでなく、自分自身の服をデザインし、ファンジン(同人誌)を始め、ライブを準備し、デモを行い、レコードストアを開店し、レコードレーベルを設立することをも奨励した。ディック・ヘブディジがその著『サブカルチャー――スタイルが意味するもの』で指摘したように、パンクのファンジン『sniffin' glue』には、「おそらくサブカルチャーが生み出したうちで最も見事なプロパガンダ――パンクのDIY哲学の決定的な表現――が含まれている、それは、ギターのネック上におけるスリー・フィンガー・ポジションの図解、そしてそのキャプションにはこうあった」

これがコードの1つ、あと2つ覚えろ。
そして自分のバンドを組め
」>

<「私にとっては、一か所にとどまるのは退屈だ。50過ぎた連中がパンク風のレザージャケットを着てうろうろして、それがなんだっていうんだ。大事なのは、分類不可能なままでいるということだよ。そうすれば、他人がきみを所有するということはない」>(リチャード・ヘル)

(マット・メイソン『海賊のジレンマ ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか』フィルムアート社2012年)

ちひさな群への挨拶

2014-05-05 07:35:21 | Books
あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ
冬は背中からぼくをこごえさせるから
冬の真むかうへでてゆくために
ぼくはちひさな微温をたちきる
をはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれる
ぼくががいろへほうりだされたために
地球の脳髄は弛緩してしまふ
ぼくの苦しみぬいたことを繁殖させたいために
冬は女たちをとおざける
ぼくは何処までゆかうとも
第四級の風てん病院をでられない
ちひさなやさしい群よ
昨日までかなしかつた昨日までうれしかつたひとびとよ
冬は二つの極からぼくたちを緊めあげる
そうしてまだ生れないぼくたちの子供をけつして生れないやうにする
こわれやすい神経をもつたぼくの仲間よ
フロストの皮膜のしたで睡れ
そのあひだにぼくは立去らう
ぼくたちの味方は破れ
戦火が乾いた風にのつてやつてきさうだから
ちひさなやさしい群よ
苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるとき
ぼくは何をしたらう
ぼくの脳髄はおもたく ぼくの方は疲れてゐるから
記憶といふ記憶はうつちやらなくてはいけない
みんなのやさしさといつしょに

ぼくはでてゆく
冬の圧力の真むかうへ
ひとりつきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だから
ひとりつきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐといふのは卑怯だから
ぼくはでてゆく
すべての時刻がむかうかはに加担しても
ぼくたちがしはらつたものを
ずつと以前のぶんまでとりかへすために
すでにいらんくなつたものはそれを思ひしらせるために
ちひさなやさしい群よ
みんなは思ひ出のひとつひとつだ
ぼくはでてゆく
嫌悪のひとつひとつに出遇ふために
ぼくはでてゆく
無数の敵のだまん中へ
ぼくはつかれてゐるが
ぼくの瞋りは無尽蔵だ

ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる
もたれあふことをきらつた反抗がたふれる
ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる
ぼくがたふれたら収奪者は勢ひをもりかへす

だから ちひさなやさしい群よ
みんなのひとつひとつの貌よ
さやうなら
吉本隆明『転位のための十篇』より「ちひさな群への挨拶」/昭和28年

ビジネス書ながら運動論/瀧本哲史「君に友だちはいらない」

2014-04-04 03:29:17 | Books


うまいタイトルだなあと思った。
そしてメインのヴィジュアルに「七人の侍」を持ってくるのもうまい。というかズルい。「チームアプローチ」をコンセプトにした本書の本文内で「七人の侍」に触れるのは(しかも語られるのは映画そのものというよりも、黒澤明、橋本忍、小国英雄の脚本チームだ)、著者によって膨大に提示されるエピソードの中で、冒頭のほんのわずかなのだけれども、「七人の侍」のイメージは本書のコンセプトにずっと流れている。

瀧本哲史は「世の中はそんなに簡単に変わらないよ」と書く。
例えばなぜ天動説から地動説へと、世界の価値観が180度変わるようなパラダイムシフトはなぜ起きたのか。地動説信奉者を天動説信奉者が“説得”し、“論破”し、“宗旨変え”をさせたのか。
その革命的変化は「世代交代」という。
一見、身も蓋もない結論なのだが、地動説を頑なに信じていた古い世代は結局死んで墓の中に入るまでそれを信じ続け、古い世代が死に絶え、天動説を信じる新しい世代(ニューカマー)が増えたことによって革命的変化は起きたという。
瀧本は古い価値観に固執する古い世代を説得し、論破し、宗旨変えさせることは「不可能」で「時間の無駄」とまで言い切る。そして新しい価値観を信じる新しい世代は、古い世代が“死に絶える”その日まで、仲間や支持者を増やし、そのためのチームを作れと言う。ここでいう「友だち」とはさして目的も持たない、馴れ合いの関係を指す(いや、それはそれで大切だったりするのだが、これはビジネス書で、“プロジェクト”の話)。「友だち」ではなく共通の目的(本書では物語、ロマンとも書く)を持った仲間を作れと言うわけだ。
オレは既にいい歳のオヤジなのでここでいう「ニューカマー=若者」には入らないのだが、年齢を抜きにして読み進める。まあニューカマーといっても、それは単に年齢を指すものではないよね。

勿論基本的には…というか、本書はエンジェル投資家が書く完全にビジネス書なので、チーム論の基調はビジネスパーソン向けである。朝日新聞の「プロメテウスの罠」取材チームやオーディオブックの「オトバンク」といった企業の実例や、テレビドラマ「王様のレストラン」、漫画「ワンピース」のチーム論など、豊富なエピソードを立て続けに紹介していく。チーム論中心の3章までは一気に読み進められる。
ここで書かれる「チーム論」は、オレにとってはずっと考え続けているサポーター論であり、3.11以降の社会運動、直接行動の中で日々実感している運動論に近い。
「ウィークタイズ(弱いつながり)」のキーワードもビジネスというよりも、道具としてのSNSの可能性やシングルイシューの社会運動を語る言葉としてしっくり来る。まずシンプルな共通の目標を掲げ、その目的のために人間関係を築いていく。反対を考えれば簡単な話だ。「ストロングタイズ(強いつながり)」は、互いに強い信頼関係を求める反面、関係を硬直化させ、目的を見誤らせ、チームを歪なものにさせやすい。人間関係(友だち)を作ることが目的ではない。目的を達成するために、それに必要な人間関係(仲間)を作るのである。もちろん目的は共通しているのだから、ウィークタイズであろうとも信頼関係は築きやすい。
これは何ともわかりやすい(ただし組織論やアメリカ論が中心の4章以降、瀧本はビジネス書らしくさらっと書いているものの、モンサントやロックフェラーの話題、期間工の切り捨ての描写などはさすがにさらっとは読めないけれども)。

本書の最後では、現在の日本の状況を20世紀初頭のワイマール共和国と重ね、『ALWAYS 三丁目の夕日』で描かれる昭和30年代を永山則夫のエピソードを引きながら批判する。また「ヘイトスピーチ」という言葉を使い、アパートの電気代を踏み倒し、老人を暴行し、博物館への脅迫を行ったネトウヨの事件を紹介しながら似非ナショナリストが跋扈する状況を分析する。ネトウヨ=経済的貧困の産物というのは分析が甘い印象もあるけれども、文章のヴォリュームとしては少ないけれども、所謂「ビジネス書」でここまでヘイトスピーチの状況を書いているのにはちょっと驚いた。
まあ、自分はビジネス書としては読んでいないわけですが(笑)。

そして僕らは大人になる/「いびつな絆 関東連合の真実」

2014-02-01 22:12:17 | Books

工藤明男「いびつな絆 関東連合の真実」(宝島SUGOI文庫)

昨年のハードカバー刊行後の反響と著者に対する関東連合見立派の殺人予告、そしていまだ海外逃亡を続ける見立容疑者を残し、刊行後に行われた「六本木クラブ襲撃事件」裁判の模様を大幅加筆した文庫版。ということで400ページ超ながら、一気の読ませるのは、その話題性もさることながら、どの程度編集部が手を入れているのか、ゴーストがいるのかわからないけれども、文章と構成のテンポの良さにある。また「六本木クラブ襲撃事件」で不幸にも人違いで撲殺されてしまった被害者の描写(検視した解剖医の証人尋問など)は生々しく残虐なものだけれども、基本的にこの暴力集団の残虐描写は本書ではメインテーマとはされていない。まるでそんなスキャンダリズムは必要ないと言わんばかりに、著者は本書から“武勇伝”をさらっと排除してしまう。まあ、本書は武勇伝ではなく、あくまでもギャングスタとしての関東連合の成立と、その告発なのだから、それはそれで当然なのだろう。

ということで、本書で強調されるのは不良少年特有の強烈なタテ社会と世代論である。
出身中学や学年の違いや、先輩後輩の関係は不良少年にとっては実に大事なファクターではあるのだけれども、昭和53年(52年)生まれから昭和58年生まれまでの6世代しか(新)関東連合として認めないというスタンスは、持続する集団としてはかなり異様ではある。
“6世代”の中では年長者のカリスマで、実質的なリーダーであった見立容疑者は「俺たちは横並びの組織で、それぞれが独立した組を持っているようなもの」と言っていたという。“卒業”や“引退”をしなかった彼らは、カリスマの強烈な存在を認めながら、そんな曖昧な関係を結び、グループを維持しながら社会に関わっていく。
少年、青年時代ならば、それはそれで強烈な仲間意識や帰属意識、そしてカリスマの隠然たる力を育むだろう。たとえそれが石元太一被告が自身の著書で書いたように「同調圧力」であったとしても。
しかし、誰だって大人になる。一般社会だけではなく、裏社会であっても、勿論彼らは大人になることを求められる。同世代に限られた不良少年たちの閉じた関係は、当然いびつなものに変質していく。

唐突に競馬の話だが、人生はオープン戦である。
2歳、3歳ならば、ただひたすら同世代の中でダービーやオークスを争えばいいのである。しかし4歳以上はオープン戦だ。百戦錬磨の古馬と渡り合って行かなければならない。
人間だって高校、もしくは大学を卒業してしまったら百戦錬磨の“大人”と闘わなければならない。子どもたちが馬鹿にするような駄目な大人がたくさんいる代わりに、若さの勢いだけではちょっとやそっとでは勝てない、物凄い大人も本当にたくさんいるのだ。
条件戦で戦える時間は、そう長くない。

醜悪な歴史に句点を打て/「在日特権」の虚構

2013-12-13 06:56:29 | Books


野間易通『「在日特権」の虚構 ネット空間が生み出したヘイト・スピーチ』(河出書房新社)
著者は終章で「問題」の基点として繰り返し挙げられる<1952年>に在日が置かれた状況を<0:100>と書く。
1945年まで「大日本帝国の皇民」であった「日本人」が、1952年のサンフランシスコ平和条約発効により在日(平和条約国籍離脱者とその子孫)となり、100もしくは80あった彼らの権利は1952年の段階で0になった。
日本人の権利は1952年の段階で100に戻ったのかもしれないが、元「日本人」の権利はほとんど0、ナッシングである。
在日特権を許さない市民の会をはじめとする行動保守、ネトウヨが盛んに訴える「在日特権」とは、特権でも何でもなくもともと「あった」法的地位を取り戻す歴史でもあるわけだ。0が10になり、30になり、50になっていく歴史であり、決して110や130、150になっていく「特権」の歴史ではないわけだ。
それはこの国で共に住む人間として当然の権利の回復でしかない。

それ故に在特会が掲げる「在日特権」論法のイカサマをひとつひとつ潰していく本書の大部分は、行動保守の悪行を告発するというスキャンダラスな内容ではなく、サンフランシスコ平和条約発効(1952年)、日韓地位協定(1965年)、国際人権条約(1979年)や難民条約(1982年)による国民年金法の国籍条項撤廃、そして入管特例法(1991年)といった歴史的経緯を綿密に描くことに費やされている。また60年代から70年代にかけて実施された市民レベルのコミュニティによる素朴なアファーマティヴ・アクション(積極的差別是正措置)が、ひとつのニュースによって亡霊のように蘇り、在特会によって捻じ曲げられ、デマゴギーの現場となってしまった三重県伊賀市に訪れ、在特会の論法に対して反証していく。
在特会代表の高田誠は今月著書を発売する。それがこれまでの主張のコピペ、改変程度の内容ならば、本書の内容と主張は皮肉なものとなるだろう。「在日特権」そのものがないのならば、もはや在特会はその看板を下げるしかない
ほとんど影響のない「一部」にフォーカスを当て、都合良く拡大解釈する安易な論法はもはや通用しないだろう。

現代のレイシズムは安易なコピペと劣悪な改変を繰り返すネット空間のテンプレートが根拠になっている。そしてネットに限ってしまえばその拡散力と浸透力は想像を絶する。それは「在日特権」と検索してみればわかる。スキャンダラスであればあるほど、罵倒が醜ければ醜いほど注目を集め、それは改変を繰り返しながら“尾ひれ”をつけ、あたかも真実のように語られていく。
著者が執筆の動機に「ネットでの検索」を挙げるのも当然である。
しかし一方でネットは「ブロック」が容易だ。見たくなければ見なければいいし、知りたくなければ知らなくてもいい。
本書で挙げられる<1952年>そして<0:100>という「基点」を理解していなければ、在日の権利が何となく、ぼんやりと「特権」に見えてしまう人もいるだろう。しかしその間にレイシストという怪物は急速に育っていく。
ネトウヨが大した理由もなく、熱狂的に支持するファシスト政権が本性を剥き出しにしようとしている。夢や希望や願望を託すように数百年前の歴史を嬉々として読み語るのではなく、オレたちは今、自分たちが生きている地続きの現代史に真正面から向き合う必要があるだろう。

「書く」という行為は、物事を事実として定着させ(ひとまず)句点を打つことでもある。
本書が2013年に起こった醜悪な「歴史」に句点を打つものであればいいと思う。あんな連中、いつまでも相手にしてる場合じゃないぜ。

カウンター前夜/『奴らを通すな!』

2013-11-08 06:09:07 | Books


山口祐二郎『奴らを通すな!』(ころから)
<これは、俺が反差別運動を「やらなかった」記録と、そして「やったきた」記録だ。>
山口祐二郎は冒頭にそう書く。まったくその通りで「やらなかった」記録は同書のほぼ半分ほどを占める。しかし「やらなかった」とはいえ、レイシストや右翼、新左翼関係者の描写は濃厚で、本人が右翼の運動内部にいながら、在特会をはじめとする<行動する保守>を逡巡しながら見つめ続けてきたのかは充分に伺える。近くにいればいるほど、いかに拳を振り上げ、声を挙げることが困難か、ということである。
しかし反差別運動を「やらなかった」間に、彼が「やってきた」ことはかつての友人への失望と行動する保守に対する怒りに満ちている。そしてレイシストをしばき隊の登場が状況と彼の行動を変える。

今年東京・新大久保で巻き起こったカウンタームーブメントの前夜と現在を理解する上には読むべき一冊。カウンターの現場に顔を見せる警備の方々にも税金で購入するように勧めておいたが、現在の反差別運動の最前線で「何が起こっていたのか」「何が起こっているのか」、そしてオレたちが「何に怒っているのか」を理解するためには是非読んでいただきたい。

『ハイリスク・ノーリターン』にもいえることだが、山口祐二郎は続編を書かなければならない人間である。
彼の「続編」を目の前で期待している。

2.26から3.11へ/『二・二六事件の幻影 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』(2)

2013-11-08 02:59:23 | Books
戦後、青年将校たちの行動は、その若さと共に<純粋や情熱は視野の狭さや思慮の浅さと同義>とされ、多くの批評が加えられた。さらに教養主義の文化人らによって60年代の若者の季節においても、その<行動・理念への情熱>は否定的に語られ続けた。ある意味では当然の帰結だとはいえ、若さに基づいた<行動・理念への情熱>は疲弊し、屈折し、80年代を迎える。
『二・二六事件の幻影 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』で福間氏は終章でこう書いている。

<「二・二六」の戦後史は、「純粋さという浅慮」の論点が後景に退いていく歴史でもあった。(中略)それは、「情熱」「情愛」への陶酔にともない、いかなる思考が停止されるのかを問うものであった。しかし、八〇年代以降にもなると、こうした論点は消え去り、「情愛」のみが前景化するようになった。>(終章 戦後メディア文化の中の「ファシズム」)

その80年代からもすでに20年以上が経った。もはや2.26が語られることもまずない。
しかし<「情愛」のみが前景化>する状況はさらに進行しているといわざるを得ない。<情愛のみが前景化する>ということは、「物語」に陶酔し、思考停止することに他ならない。しかも状況は個人の「情愛」から国家という「情愛」――フィクションに首までどっぷり漬かっている状態というのが現代の日本である。
90年代に日本人が見た「何かの情熱」の典型例はきっと破滅したオウムだっただろう。
そして90年代以降「何かの情熱」すら見失ってしまった日本人が選び、「国家という情愛」を体現しているのがネトウヨ化した現在の自民党だろう。

一方でオレが希望を見出しているのは3.11以降の反原発運動や反レイシズム運動に現れた、もう決して若くはない人たちによる<行動・理念への情熱>の復権、である。
ここにはもはや若さで語られるような「陶酔」はない。若くないんだから当たり前である。
確かに<「純粋さという浅慮」の論点が後景に退いてい>ったのかもしれないけれども、<行動・理念への情熱>に対する日本人のアレルギーはまだ根強い。正義を振りかざすことや主張を押し付けられることへの嫌悪は日常生活レベルで起こる。しかし、残念ながら正義は掲げられなければならないし、まず主張は互いに押し付け合うことから始まる。いくらアンタが嫌だって民主主義のコミュニケーションというのはそういうものなのだ。
本書の冒頭では現代の<変革願望>への疑問が投げかけられる。日本という社会が転換を迫られていることは確かで、日本人の選択は日替わりで迷走を続けている。
そして今「情愛」に浸るか、「情熱」で動くか、それが改めて問われている。

(追記)
ちなみにこれは決してクーデター待望論ではないので、アシカラズ。

情熱の在り処/『二・二六事件の幻影: 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』

2013-11-08 01:04:22 | Books


福間良明『二・二六事件の幻影: 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』(筑摩書房)。
2.26事件がいかに小説、舞台、映画、テレビドラマ、漫画などのメディアで「演出」され、どのように大衆に受容されてきたのか。2.26事件にまつわるエンタテインメントメディア通史の一冊。終章の結論は正直未だ途上といった印象でしかないのだが、なかなか読ませる内容ではある。

キーワードとされるのは青年将校たちの「情熱(公)」と彼らの個人的な「情愛(私)」。
敗戦後から60年代にかけて2.26事件という“素材”は、「情熱」の在り処や正当性が問われ続ける。勿論「情熱」の描写も60年代末から70年代初頭の“政治の季節”では公の情熱から個の情熱にフォーカスが移り、時代の空気を反映して過激化していく。本書で60年代(前後)に多くのページが割かれているのも、60年安保闘争や学園紛争を背景に、それに危機感を持った右翼勢力によるクーデター未遂事件である三無事件、さらに自衛隊幹部による三矢計画の露見など、実にキナ臭い公と個のせめぎ合いがこの時代に起こり、2.26事件における<行動・理念への情熱>を想起させたこともある。
50年代から60年代にかけて2.26事件を材に日本のファシズム批判を展開していた丸山眞男が、学園紛争の時代に教え子であるはずの学生から軟禁され、2.26事件の青年将校以上に、熱に浮かされただけの<行動・理念への情熱>を目の当たりにするくだりなどは実に皮肉に映る。

その一方で65年に発表された利根川裕『宴』の登場あたりから青年将校の「情愛」にメディアと大衆のフォーカスは移る。当然のことながら過激な“政治の季節”を経て事件から時に経つごとにメディアの演出と大衆の受容の傾向は、「情熱」から「情愛」へと移って行くわけだ。個人的にリアルタイムで観た映画である『動乱』や『226』では「情愛」=メロドラマこそあれ、「情熱」ではもはや燃やすべき対象は、ない。バブル期に公開された『226』に至っては、プロデューサーの奥山和由は<パワーダウンした現代だからこそ、この題材を提起する>として2.26事件を取り上げたものの、その「情熱」の対象は「何か」でしかない。
これには笑った。
<行動・理念への情熱>をシンプルにストレートに受け取ったとしても、さすがに「何か」はないだろう。しかし燃やすべき「情熱」を価値相対化地獄で失った末の80年代の価値観は最終的に「何か」を求めざるを得なかったのだ。
『226』の主人公には、決起に最後まで迷いながら決起後は最後まで戦い続けた安藤輝三でもなく、声高に維新を叫び続けながら一方では策謀家でもあった磯部浅一でもなく、そして事件後も彼らのように法廷闘争の果てに天皇の軍隊に銃殺されたわけではなく、事件の渦中で唯一拳銃自殺を果たした野中四郎が選ばれた。つまり事件の渦中で命を絶った=自己完結した彼は、具体的で何らかの「情熱」を見出さなければならない政治性を纏うことなく、「何か」の純粋や情熱を、純粋に、そして情熱的に描くために選ばれたのだろう。
映画やエンタテインメントメディアは必ずしも「事件」を正確に、そして政治的メッセージを込めて製作される必要はないとは思うが、あの時代はそういう時代だったのだとしか言いようがない。

しかしエンタテインメント的には見るべきもののないこの時代にも興味深い記述もある。
80年に公開された『動乱』をきっかけに青年将校ではなく、半世紀の時を経て末端の兵士たちの証言、手記の刊行が促されたという。青年将校の命令によって駆り出された兵士は1400余名。そのうち1000名は入隊一ヶ月未満の初年兵で、原隊復帰後は満州の最前線、それも<叛乱軍><国賊>としてあえて激戦地に投入された。しかも復員後も戦友会という名の<証言抑制機能>が働き続け、彼らの声は表に出ることはなかった(これは戦地での虐殺行為などの加害証言の抑制にもつながる)。そしてこの時代、戦友会の世代交代が起こり、兵士たちが声を挙げはじめたわけだ。
青年将校の「行動・理念への情熱」は事件直後から60年代にかけて検証され、描かれ続けてきたわけだが、事件に引きずり込まれ、心ならずも汚名を着せられ、物言うことも許されてこなかった兵士たちが描かれ、報われることはない。
主人公はいつでも青年将校である。事件を取り上げたところでエンタテインメントの世界では、本書でも触れられる50~60年代に製作された<軍神映画>とさほど変わりはしないのだ。

(長くなったので続く)

「ジョン・オカダをさがしに」

2013-06-14 22:48:33 | Books
<さて、文化をもたず、文学もなく、なにひとつ作品もうまず、過去に太平洋をわたってきたもの以外に作家というのがひとりも現れなかったような一民族の中で生まれたとしたらどうか。新しいアメリカを経験し、その方法的知識をうみ、つくりだしてきた二百年間をもつ白人とくらべて、その期間に幾世代もつづいてきたけれど、その民族はなにひとつコトバもつくらず、冗談ひとつ記録されず、一冊の本も書かなかったとしたら。(中略)
 それこそ、おれが育った境遇だ。料理の本以外の文学的遺産といえば、キリスト教帰依者とか、白人と結婚しただけで白人どもから進歩したといわれるポカホンタス的黄白人のこどもたちの自叙伝しかない。おれは、ほかになにひとつ知るべきものがないんだから、黄色人文学については、ほかになにひとつ知らずに育った。百五十年におよぶわれわれの歴史のなかで、中国人の場合なら六世代、日系人は四世代、朝鮮人二世代といったなかで、だれひとり自己についてナニガドウとかダレガドウとか語られずにはいられない衝動すらもたずじまいだった。(中略)
 一九五七年に書かれたジョンの小説を発見したことは、文学史のなかで憂鬱で孤独な感じになっていた白人作家がマーク・トゥエインをさがしあてたのと酷似している。『ノー・ノー・ボーイ』はおれが黄色人種の歴史のなかでただひとりのキ色人間作家じゃあないのを証明してくれた。この本がすごくいいから、おれは自分のものがどんなにつまらなくてもかまわないんだという気持ちにしてくれた。解放してくれた。(中略)
 アジア系アメリカ人は自己憐憫と、「アジア系アメリカのアイデンティティ危機」という豪勢な理論のまわりをただウロウロしてきた。それは大量生産的布教活動でわれわれを改宗させようとして以来ずーっとつづいている。文明は宗教を基盤にしていて、一番いいのは、ひとつの神をあがめることだという考えが普及してからずーっとそうだ。キリスト教の宣教師はわれわれが同胞の女に接するのも否定し、キリスト教に改宗したものだけに婚姻を認めた。そうやってわれわれの人口までコントロールした。二十年代には、自分がだれなのかわからないようなアジア系アメリカ人世代がうまれた。いまだにそのままだ。ジョン・オカダは、この「アイデンティティ」の危機がトータルには現実であり、同時にどうしようもなくインチキだ、ということを、いまでも多くのキ色人間には強烈すぎて読むのがおそろしい、この本で示している。>

<今月、アジア系アメリカ人作家やおれみたいなコトバ屋が全国からシアトルに互いに出合うのを楽しみに集まった。シアトルは特別なところだからだ。われわれの歴史の多くがここにある。開拓者的アジア系アメリカ人ジャーナリストや作家をうんだ地だ。ジェイムズ・サカモト、モニカ・ソネ、ビル・ホソカワ、ジム・ヨシダ。だがしかしジョン・オカダこそ唯一の偉大な作家だ。おれはシアトルにもどってきた。「ジョン、あんたの本を読んだぜ。すごく気に入ってるぜ」と言うために。>
(ジョン・オカダ『ノー・ノー・ボーイ』中山容・訳 晶文社/「ジョン・オカダをさがしに」フランク・チン1976年6月)

無意味の行く末/小松左京「幸福にも不幸にもならない手紙」

2013-05-08 03:30:21 | Books
<これは幸福にも不幸にもならない手紙です。/誰がはじめたのかわかりません。/この手紙をうけとった人は、これと同じ文面の手紙を書いても書かなくてもかまいません。――書いた手紙を、数日以内に、50人の人に出してもよし、出さなくてもかまいません。出した所であなたが幸福になるわけでもなく、出さない所で別に不幸にもなりません。/アメリカの西部のある人は、この手紙をうけとって、ほうっておきましたが、別にどうにもなりませんでした。――またカナダの女性は、すぐさま50通を友人に出しましたが、別に幸福がまいこんだというわけでもないそうです。>

<「出しても出さなくてもいいし、出した所で幸福になるわけでもなく、出さないからといって不幸になるわけでもない――じゃいったい、この手紙を書いた人は、どんなつもりで書いたんでしょう?」
 「知らんな。ひまだったんだろう…」と、彼は興味がなさそうにいった。「ほっとけよ。――ばかばかしい……」
 「でも――ほんとに変な文章……」
 妻はまだ、文面にこだわりながらつぶやいた。
 「これを読んでると――なんだか、しらけてくるわね」
 この言葉が、新聞を見ている彼の意識の底をなんとなくざらつかせた。>
(小松左京「幸福にも不幸にもならない手紙」1971 角川文庫『怨霊の国』所収)

「不幸の手紙」が世間を騒がせたあと、また不思議な匿名の手紙――「幸福にも不幸にもならない手紙」が流行始めた。手紙が同僚との世間話の話題にもなるほど浸透すると、やがて手書きだけではなくデザインし印刷された手紙までが束になって届くようになった。主人公はその一見意味ありげでいながらまったく無意味な内容と匿名の手紙のしつこさに苛立ち、<見えない大勢に対する復讐心にもえ>自らも「幸福にも不幸にもならない手紙」を投函するようになる――。



主人公は当初直情的なタイプに描かれているけれども、多くの人々にはユーモアとも受け取られていた「幸福にも不幸にもならない手紙」というナンセンス(無意味)によって主人公のみならず人々の意識が徐々に変化していくホラー短編。この短編が書かれた1971年よりも、容易に一人ひとりの目に触れ、無意識に手を貸してしまうという意味では現代の方がチェーンメールの危険性はずっと高いわけだけれども、ここではチェーンメールにまつわる個人の好意や悪意の在り処が問われるのではなく、「無意味」が人々の心理に及ぼす影響に主眼を置いている点で、いかにも1971年(70年代)的な社会批評でもある。
で、勿論これは現代にも通じていて、要するに末期的な「どっちもどっち論者」はこうなるって話です。

永遠に続くオフ会/安田浩一「ネットと愛国」

2013-04-07 18:59:17 | Books


安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』
昨年10月にリリースされ、9日に受賞作が決定する第44回大宅壮一ノンフィクション賞候補作にもなっている作品なので(候補作が原発関係と半島関連作品ばかりというのがいかにも2012年なんだが…)、今更取り上げるのもアレなんだが、やはりここ2、3ヶ月のレイシストとの“闘争”を考える上では本書抜きには語れない、ネトウヨたちの物語。
その感情論を出ない思想はまったく容認することはできないし、そもそも論外なのだけれども、実は彼らに共感しない部分もないわけではない。それは彼らのネットを介したアプローチで、その方法論というのは、今多くの人々が共有しているものだ。掲示板、SNSは、あくまでも“道具”であり、その道具を介して情報の拡散と行動の輪が拡がっていく--その方法論を信奉するスタンスは理解できなくもない。というか、3.11以降の反原発運動の輪も同じようなアプローチで拡がったのは間違いない。
そして彼らは町に出た。オレたちも同じように町を歩いた。
何の違いがあるだろうか。その“新しい社会参加”に違いはない。

しかし実際に行動すればするほど、ネットを介して情報や感情を共有すればするほど、ヘサヨ連中に辟易しながら「個人」を自覚する他なかったオレたちに対して、彼らは寄り集まり、リアル(もどき)なフィクション(要するに“ネタ”だ)を共有することで強固な共同体を作り上げていく。それはまるで永遠に続くような「オフ会」でしかないと思うのだが(本書で取り上げられているフジデモの件など、まさにネタを面白がるだけの巨大オフ会以外の何物でもない)、決して満たされることのない個人の欲求不満の受け皿としての組織を、彼らは次々と妄想敵を作ることで維持し続けていく。そして今、自分たちに対してのカウンター行動が激しくなればなるほど、彼らはより強固に、そして頑迷になっていく。
ウォッチャーやカウンターは以前から行動していたものの、レイシストしばき隊の登場以来、ここ数ヶ月彼らは激しくリアルと出会いつつある。
今なお同時進行のノンフィクションである。リリースされているKindle版はわずか250円なので是非読んでいただきたいと思う。

ぶさいくな高校生のおれ/筒井康隆「ハリウッド・ハリウッド」

2013-02-06 21:35:24 | Books
<始業のベルが鳴り、英語の教師がニコニコしてあらわれた。彼がつれてきた女を見て、おれは彼がなぜ自分の職業に高校教師を選んだかが、初めてわかった。彼はロリータ趣味だったのだ。>
(筒井康隆「ハリウッド・ハリウッド」/『ベトナム観光公社』所収 早川書房刊1971)

勉強ができず、ふた眼と見られぬほどぶさいくな高校生のおれ。少ない小遣いで観るハリウッド映画だけが心の慰めだが、ある日、蹴飛ばした映画雑誌の埃の中からデビッド・O・セルズニックとダリル・F・ザナックとA・ヒッチコックとW・ディズニィとJ・フォードを混ぜ合わせたような初老の紳士があらわれた。何でもひとつだけ望みをかなえてくれるという。そしておれの望みに応えて、目の前にはオードリィ・カルディナーレとチューズディ・エクバーグとアーシュラ・シュナイダーの「ええとこ」ばかり集めた金髪のグラマー美女があらわれたが…。



オレの世代で言えば「花平バズーカ」か。まごうことなき童貞短編。

その進化は正しいのか/筒井康隆「ポルノ惑星のサルモネラ人間」

2013-02-05 00:32:36 | Books
<「与八のやつ、顔つきが変ったと思わんかね」
「あれは芸術に目覚めた人間の顔です。眼の光がまったく違いますね」>
(筒井康隆「ポルノ惑星のサルモネラ人間」/『宇宙衛生博覧会』所収 新潮文庫)

カブキ恒星系ナカムラ星、夜泣き山の麓ににある日本人の調査団基地。唯一の女性調査隊員である島崎すい子博士が怪草ゴケハラミの雄性胞子を吸い込み妊娠をしてしまった。妊娠した場合の処置を「性行為について強い博愛的衝動を無尽蔵に持つ」という原住民
ママルダシア人から聞き出すために生態学者のおれ(曾那)と細菌学者の最上川博士、雑役係の与八は「いやらしい」星の「いやらしい」動植物の待ち構えるジャングルや湿地帯を抜けてママルダシアへ向かう。



「セックス」は人間を進化させるのか、退化させるのか。そしてその進化(退化)は正しいのか。
目覚めていく者、強制的に変わらされる者、そして観察者という3人組はいかにもコメディの定番の役回りとはいえ、3人の道中に襲いかかる(3人に発情し続ける)動植物たちの「百鬼夜行」描写のヴィジュアル喚起力は素晴らしいすな(馬鹿馬鹿しくて)。2005年にリリースされていた同タイトルのアンソロジー(新潮文庫)は「グロテスク」でまとめられているようだけれども、グロテスク感はあまり感じさせないと思うんだが…。

イントロ/筒井康隆「東海道戦争」

2013-02-02 19:28:27 | Books
<仮に日本に危機的な治安状況が発生するとすれば、左からではなく右からのものだろうし、それも単なる職業的右翼の蠢動なんかじゃなくって、自衛隊の一部勢力と右翼が結びつき、それをある種の政治的黒幕が背後から操縦するという形で起るだろうことも確かだ。だが、そうなるためには、保守政権が失脚するか、あるいは弱体化して、革新政権がもっと強力になっていなければならない筈だ。そうでもなければ、やはり、こんな全国的な騒ぎになる筈がない。
 いったい、原因は何だ。どことどこの戦争だ。敵は何だ。味方は何だ。何もわからない。おれはいらいらした。>
(筒井康隆「東海道戦争」早川書房)

シングルイシューのために/針谷大輔「右からの脱原発」

2012-12-06 05:01:44 | Books


統一戦線義勇軍議長であり、右から考える脱原発ネットワークの主宰者である針谷大輔さんの『右からの脱原発』(K&Kプレス)。
まず3.11直後に支援活動として赴いた福島県広野町で目撃した理不尽な光景、6.11脱原発100万人アクションでのスピーチ妨害事件から、右から考える脱原発ネットワーク(右デモ)の立ち上げとデモ・抗議行動の始まりまでをスピーディーに語っていく。針谷さんが抱いていた違和感や嫌悪感は、3.11後の推移を見守っていた3月から行動を始めた4月から6月まで、オレ自身が抱いていたデモ・抗議行動に感じていた違和感に似ている。実際、3.11後から行動を始めた人たちは共感する部分も少なくないのではないかと思う。

これは思想的な問題ではなくて、
本当は別の目的があるんじゃないのか
とか、
というか、
本当に伝わってるのか、伝えようとしているのか
とか、
ついでに言えば、
必死で、真剣なのは伝えたいけれども、ダサくてカッコ悪いの嫌だな
とか。主張として、デモンストレーションとして、プレゼンテーションとして、実に根本的な疑問を抱いた――そういうことなのである。

そしてこの年の7月末に3週間連続で、都内でデモが開催された。TwitNoNukesの3回目の渋谷・原宿デモと右から考える脱原発ネットワークデモと素人の乱8.6東電前デモだ。
この3つのデモは3.11直後の春に行なわれていたデモへの批評になっていたと思う。本格的に立ち上げて間もないTwitNoNukes、これが第1回目の開催である右デモからはシンプルで混じりっ気のない主張の熱気を感じた。すでに春から「有象無象」を掲げ、繁華街で歩行者を巻き込みながら巨大化することで名を馳せていた素人の乱は抗議行動でも同じ手法を繰り返したことで限界を感じた(事実、素人の乱は翌9月に新宿で大量の逮捕者を出して大失速してしまう。あれは8月の東電前デモでの“消化不良”が遠因にあったんじゃないかと見ている)。

ここで、おそらく初めてシングルイシューが大きな意味を持つことになる。
運動はまず拡がらなければ意味がない。針谷さんは右デモのきっかけと意図を、ひたすら「脱原発は左翼だけのものではない」「脱原発に右も左も関係ない大衆運動にしなければいけない」と書く。彼が掲げているものが左右の運動界隈の歪さを証明しているのはスタート直後から明らかだったわけで、彼(ら)はシングルイシューの一極を(あえて)担ったわけである。そして針谷さんが指摘するまでもなく、すでにもう一極は(後生大事に)「左」が抱えていた。
右と左が同じテーマを掲げれば、そこに誰もが入れる「場」ができる(TwitNoNukesはその中核を体現しているわけだけれども)。
本書の中盤から後半にかけては経産省前に建てられた脱原発テントひろばとの対話、TwitNoNukes、そして反原連、官邸前抗議への言及と続く。これは彼(ら)がシングルイシューのためにいかに行動し、それを実践していったのかという記録になっている。
反原連の首相との会談についての記述は少々穿ち過ぎな感も無きにしも非ずだけれども、これは右デモ版の「デモいこ!」とも言えるし、この脱原発運動におけるシングルイシューを理解する上では読んでおいて損はないと思う。

【関連エントリ】
コール&レスポンス/TwitNoNukes#3(7.23)
「場」を拡げるということ/右から考える脱原発ネットワークデモ7.31
空白地帯で馬耳東風/素人の乱8.6東電前デモ