超級龍熱

香港功夫映画と共に

ビートルズに捧げる青春の詩。ペーテル・フリント監督作品「イエスタディ」10月公開。

2016-07-28 00:28:20 | 作品レビュー
さて、昨日は都内某所でノルウェー映画で、ペーテル・フリント監督作品「イエスタディ」(14)を試写で観て来ました。
1960年代、ビートルズが世界中を席巻していた時代のノルウェーはオスロを舞台に4人の男子高校生が「自分たちもビートルズになりたい!」と“スネイファス”なる音楽バンドを結成します。
バンドの1人でポール・マッカートニーに心酔するキム(ルイス・ウィリアムズ)は、ある日映画館で出会った少女ニーナ(エッマ・ウェーゲ)とバス停でキスをして別れて以来、名前しか知らないニーナに恋をしてしまい、毎日のように出す宛てのないラブレターをニーナに書き続けます。
そんなキムの前に現れた転校生の美少女セシリア(スサン・ブーシェ)。毒蛇が首に巻き着いたセシリアをキムが助けた事が縁で仲良くなった2人はデートを重ねますが、それでも裕福な家庭に育ったセシリアは気が強く「貴方なんて彼氏じゃないから!」とツレない態度。
それでも内気ながら優しいキムとセシリアは次第に深く愛し合っていきます。
ところがある日、キムの部屋でセシリアがニーナ宛てのラブレターを読んでしまい、オマケにセシリアの自宅でのパーティーでもキムが泥酔騒ぎを起こして、キムはセシリアに絶交されてしまいます。
そんな絶望するキムに他の3人のバンド仲間は自分たちが演奏するバーにセシリアを呼び、そこでキムがセシリアへの愛を叫ぶ歌でセシリアの心を取り戻すんだ!とキムを励まします。
そして運命の演奏の日。それぞれが様々な悩みやトラブルを抱えながらもキムのために集まった“スネイファス”は、半信半疑でやって来たセシリアの前で歌うキムのボーカルをバックで懸命に盛り上げ、キムの熱唱に感激したセシリアがステージのキムに笑顔で駆け寄ったその時!その2人の前にキムが思いも寄らない人物が姿を見せます!果たしてそれは誰なのか!?

全編に流れるビートルズの伝説の名曲の数々。DVDもCDも無い時代に発売されたばかりのビートルズの新作レコードのジャケットを食い入るようにジッと見つめる主人公たち。
青春という名のちょっと甘くてほろ苦い少年の日の思い出をビートルズのナンバーと共に振り返りたくなる、そんな気分にさせてくれる映画がこの「イエスタディ」です。
私は聴き慣れていたはずの「シー・ラヴズ・ユー」や「レット・イット・ビー」がこんなに素晴らしい歌詞の曲だったのか!と改めてビートルズの偉大さを思い知らされました。
この「イエスタディ」は10月1日から「新宿シネマカリテ」他にて、全国順次(モーニング&レイトショー)公開との事です。
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THIS IS 甄子丹(93)ドニー兄貴生誕日SP!“最後の本格派”×龍熱、運命の邂逅完全再現!!

2016-07-27 10:53:58 | THIS IS 甄子丹
さてさて、今日は何の日?そうです!“最後の本格派”甄子丹ことドニー兄貴の誕生日です♪
なので、今回は私とドニー兄貴の過去にあった出来事、と言いますか、私が何度かインタビュー取材でドニー兄貴と対面を果たして来た中でも、今もその印象が最も強烈な1998年6月の都内は新宿でのドニー兄貴との初対面の完全再現に挑んでみようと思います。

1998年当時、既に自他共に認めるドニー兄貴信者だった私こと龍熱ですが、まだこの時はドニー兄貴とは直接会った事はありませんでした。ただ同じくこの時期から既にドニー兄貴の右腕として行動を共にしていた谷垣健治監督を通じて、私が主宰していたクンフー映画専門同人誌「龍熱」のドニー兄貴特集号がドニー兄貴の手に渡っていまして、ドニー兄貴は私の事を「俺の日本のスーパーファン」と呼んでいて、私の存在は知っていたわけです。
そんな時、健治監督が結婚する事となり、ドニー兄貴が健治監督の結婚式に出席するため急遽来日する事が決定!それと同時に俄かに私の周辺も慌ただしくなってきたわけです。
まず香港映画のタブロイド紙を発行している「香港電影通信」が半分プライベートで来日するドニー兄貴へのインタビュー取材を行う事が決定し、「~通信」は当初は江戸木純さんにインタビューの聞き手を依頼していました。
ところが、江戸木さんがインド映画「ムトゥ踊るマハラジャ」(95)の宣伝プロモーションで多忙だった事もあり、江戸木さんは「龍熱さんという香港クンフー映画の専門家がいるから、僕の代わりに龍熱さんをインタビュアーに推薦します」と私を「~通信」に推薦してくれたのです!!
いや~・・・私はこの吉報を健治監督の本「燃えよ!スタントマン」を編集したK女史からの電話で聞いたのですが、もうその場で江戸木さんに手を合わせていました(号泣!)。
既にルンルン気分♪の私は取材日の6月某日が来るのを今日か明日かと待っていましたが、そんな時ドニー兄貴信者の某女性ファンから私の自宅に電話がかかって来て「龍熱さん、ドニーにインタビューするんですってね。でももしかしたらドニー、来日しても機嫌が悪いかも知れませんよ?」などと意味不明の“応援コール”を貰ったりしたのも覚えています。

で、やって来ました!1998年6月某日。都内は新宿の某ホテルのラウンジに到着した私を見た健治監督が一言「あれ?龍熱さん、今日は気合い入ってませんか?(笑)」
そりゃ気合いも入るでしょう!?と私が答えようとした時、健治監督の携帯にドニー兄貴からの電話が!ドニー兄貴と話し始めた健治監督の表情が苦笑いになっているぞ?
以下、健治監督の通訳でドニー兄貴曰く「あ、健治?いまデパートで2人で買い物してるんだけど、そっちのホテルにまだ行けそうもないわ。だから健治たちがこっちのデパートの1階のカフェテラスに来てくれ。じゃあな!ガチャ!」
こ、これが噂に聞いていた“超音速俺様モード”なのか(^_^;)。私と「香港電影通信」の女性記者さん、健治監督、K女史は炎天下の中をゾロゾロと俺様・・・じゃなくて(^_^;)、“最後の本格派”が待つカフェテラスへと移動する事となったのでした。
そしてデパートの1階のカフェテラスに私たち一行が入っていくと、いました!ドニー兄貴です!本人です!(当たり前)
やや茶髪で精悍に日焼けしたドニー兄貴は薄手のシャツの上からも鍛え上げた上半身がハッキリと判りましたし、何故かビーサンを履いていたのが印象に残っています。(後でK女史に「あれはビーサンはビーサンでもブランド製の高級品よ!」とのご教示あり)
私が今でもハッキリ覚えているのが、健治監督から私たち取材陣を1人1人されたドニー兄貴が、いざ私を紹介されて、私と目が合った時は「この男、誰なんだ?」的な表情を見せていたんですが、すぐに機転を利かせた健治監督が「ドニー、この人があの同人誌「龍熱」を作った龍熱さんですよ!」と説明してくれた瞬間、ドニー兄貴の顔がパッと明るくなり「おお、ユーがあのファンジンンを作ってくれた龍熱か!?何時もサポートありがとう!」と笑顔を見せてくれた事でした。
私はそのドニー兄貴の言葉を聞くと、すぐに持参した在庫として最後の1冊だった「龍熱」のドニー兄貴特集号をドニー兄貴に直接プレゼントしたのでした。
もう一つ印象に残っている事。それがこの自己紹介の時までドニー兄貴の隣に寄り添っていた可憐な女性の姿でした。そう、この女性こそ当時のドニー兄貴の彼女だった萬綺雯でした。
ドニー兄貴が私に「えっとね、彼女も女優なんだよ!」と萬綺雯を紹介してくれたんですが、萬綺雯も自分から私に広東語で話しかけて来て「私はドニーの「精武門」ってドラマで日本人の恋人役をやったの♪」と言うので、私が「はい、知ってますよ。モウティエン・ユウミン(萬綺雯の役名武田由美の広東語読み、のつもり)ですよね?」と答えると、萬綺雯は嬉しそうに「そうそう!良く知ってるわね!」と喜んでいました。
その萬綺雯は暫くするとドニー兄貴を残し、再びショッピングに行ってしまったんですが、そこからいよいよドニー兄貴と私の一問一答が始まりました。(通訳は健治監督!超級多謝!!)
このインタビューの内容、特にドニー兄貴の経歴部分は拙著「香港功夫映画激闘史」のドニー兄貴のチャプターに載せていますし、恐らくドニー兄貴の映画デビューに至るまでの経緯に関しては国内で発売されているどの書籍よりも詳しく、また正確だと思います。
他にもドニー兄貴とのインタビューで印象に残ったコメントですが、ドニー兄貴が敬愛するリーさんこと李小龍の作品ではどの映画が好きですか?と訊くと「李小龍の映画に順番なんか付けられないよ。全部好きさ!」とキッパリと答え、逆に後に「捜査官X」(11)で共演を果たす事になる“天皇巨星”王羽に関しては「王羽?台湾で1度会った事があるよ。まあ良い俳優なんじゃない?」とアッサリ回答だったり、ライバルだった李連杰と死闘を演じた「ワンチャイ天地大乱」(92)について訊くと「李連杰とは同じ武術隊で修行したけど、ちゃんと会ったのは彼が「少林寺」(82)に主演した後に武術隊に凱旋して来た時さ。「~天地大乱」で俺が使った布棍は誰のアイディアかって?勿論、俺だよ!」と興味深いコメントを沢山語ってくれました。
このドニー兄貴と私のインタビューは約2時間に渡って行われたのですが、この異例のロング・インタビューは取材をコーディネイトして下さったK女史のご厚意でした。
K女史曰く「龍熱さんのインタビューだけ特別に2時間よ!」だったそうで、事実、私とドニー兄貴のインタビューは、その後に同じカフェテラスで行われた他の媒体のどのドニー兄貴のインタビューより1時間以上長い時間を取ってのインタビューだったようで、本当にK女史には感謝の一言です。
ただ実際に「香港電影通信」に掲載された私のドニー兄貴のインタビューは、編集の都合で大幅にカットされてしまい、この記念すべき私の初のドニー兄貴のロング・インタビューは何時の日か“ノーカット完全版”の形で公開出来れば、と思っています。
さて、その楽しく充実したインタビューが終わり、仕事のプレッシャーから解放され1人の“最後の本格派”信者に戻った私はドニー兄貴の隣に座ると、用意した色紙に「中国語で大きく甄子丹ってサインして下さい!」とリクエストして、ドニー兄貴から「何でサインを大きく書くの?」と訊かれたり、ドニー兄貴、私、健治監督とカフェテラスから外の路上に出て、そこで私とドニー兄貴のツーショット、ドニー兄貴と私と健治監督のスリーショットなどの記念写真を何枚も撮りました。
それらの写真は今も私の自宅の部屋に額入りで飾られています。
ただその記念写真はちょっと諸事情があって公開出来ないのですが、代わりに今回貼った写真は翌年の99年にドニー兄貴が来日した際に某媒体向けに撮られたポーズ写真で、偶然ながら私がドニー兄貴と初対面した時とドニー兄貴のファッションが殆ど同じな事もあり、今回敢えて貼って見ました(^_^)。

この98年の初インタビューを皮切りに、私とドニー兄貴のインタビューは某映画雑誌誌上での“名物インタビュー”として毎年のように何度も行われる事となりましたが、それでもこの98年のドニー兄貴との初インタビューは今も最も強烈な思い出として私の記憶に残っています。そしてそれはやがてドニー兄貴が私に「俺の日本のスーパーファンの龍熱に俺のファンクラブの会長をやって欲しい!」との展開になっていくのですが、それはまた別の機会にお話しましょう。

最後に改めて一言。ドニー兄貴、お誕生日おめでとうございます!!お互い同い年で、ドニー兄貴が数週間だけ年上ながら(^_^)、これからも“最後の本格派”としての凄味と真髄発揮に期待しています。
そして願わくば、日本でまた再会出来る事を祈っています。
Happy birthday Donnie san !! I wish you and your lovely family have a wonderful birthday !!!
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龍熱の昭和プロレス放談② Mr.プロレスが大巨人戦で見せた戦慄の場外ボディスラム、その証拠写真発掘!!

2016-07-25 11:36:11 | 龍熱の昭和プロレス放談
お陰様で、先日の「李小龍追悼WEEK特別企画」開催中は当ブログのアクセス数も連日ドーン!ドーン!と上がりっぱなしでした(^_^)。
改めまして、連日様々なコメントを下さった方々と共に本当にありがとうございました。
と思ったら、明後日はドニー兄貴の誕生日ですね♪当日は当ブログもちょっとした特別企画を思案中です。お楽しみに!

先日、以前から「観たい!欲しい!」と熱望していた試合の映像を遂に超高画質ブルーレイで入手出来ました(^O^)/。
それが1979年1月にテキサスで行われたNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスに“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントが挑戦した世紀の一戦です。
“ザ・サミット”と銘打たれ開催されたこの試合、私がどうしてもこの試合を映像で観たかったのには以下の2つの理由がありました。
一つは当時のNWAルールである60分3本勝負として行われたこの試合で、“大巨人”となってからは誰にもピンフォールを奪われた事のないアンドレ相手に、当然王者として負けを許されないレイスがどうやって3本勝負の試合を組み立てていくのか。
2つ目の理由がこの試合前後にハルク・ホーガン、ブルーザー・ブロディ、エル・カネック、オットーワンツ、アントニオ猪木、長州力などに先んじて“大巨人”を初めてボディスラムで投げたレスラーであるレイスがこの試合でもアンドレをボディスラムで投げる事が出来るのか、以上の2つのポイントでした。
まさにブルーレイだけあって超高画質&試合音声超クリアで再生されたこの試合、私の予想と反してアンドレがレイス相手に強烈な関節技やチョップなどを駆使した、まるで日本での試合のようなシリアスなストロングスタイルの攻防を見せていくのにビックリでした。
さらにアンドレが猪木戦以外では滅多に見せないハイアングルのブレーン・バスターをレイスに決めたばかりか、私自身が後にも先にもこの試合1度だけしか見ていないアンドレの豪快なダブルアーム・スープレックスがレイスに炸裂!!もうこれだけでも超お宝映像だ!!
ところが、アンドレの猛攻に追い詰められた王者レイスがここから本来の狂暴で危険な“喧嘩屋”の本性を露わにします。
アンドレを場外に誘い出したレイスはアンドレを抱え上げると、何と!ボディスラムでアンドレをコンクリートの床に叩き着けた!!
その衝撃の瞬間を捉えた写真がご覧のスチールなんですが、さすがのアンドレもマットが無い固いコンクリートの床に直接真っ逆さまに叩き着けられる直前、恐怖からか右手で自分の巨体を支えようとしています。いや~レイスも無茶な事やりますねえ!(^_^;)。
レイスはそのままリング内に滑り込み、アンドレは場外ボディスラムのダメージから立ち上がれず、そのままリングアウト負け。1本目は王者レイスが先取しました。
なるほど、このような方法で“大巨人”から1本を取るとは場内の観客も納得でしょう。さすがに“Mr.プロレス”です。
2本目はレイスの“掟破り”の危険な技に怒ったアンドレが逆に場外でレイスをボディスラムに抱え上げると、そのままリング内にレイスを投げ込み(!)、そこに必殺のジャイアントプレスを決めて2本目を返します。さらに決勝の3本目はエキサイトした両者が場外で乱闘となり、そのまま両者リングアウトで引き分け。レイスが自身のNWA世界王座を辛うじて防衛しました。

アンドレは自分が信頼した相手にしかボディスラムで自分を投げる事を許さなかったと言いますが、vs前田日明戦のような“不穏事件”を起こすほどプロレスの“ルールと仁義”に拘ったアンドレだからこそ、日頃からプロレスの“職人”である世界王者レイスの経験と技量を認め、信頼していたのでしょう。
だからこそ誰もが恐れ、嫌がる場外でコンクリートの床に叩き着けられる危険なボディスラムで自分を投げる事をレイスに許したのではないでしょうか。
アンドレのマネージャーだったフランク・バロアは「猪木は(試合で)アンドレにレスリングをさせるから凄いぜ!」と語っていました。
それは“地元のヒーローである対戦相手の持ち味を引き出して引き出して何度もピンチに追い込まれながら、最後は辛うじて王座を防衛して次の防衛戦地に向かう”という過酷な防衛ロードを何年も歩み続ける“闘うチャンピオン”ことNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスもまた同じで、まさに“Mr.プロレス”レイスだからこそ“大巨人”アンドレ・ザジャイアント相手にこれだけの一進一退の白熱した好試合を繰り広げられる事が出来たのです。
今回はハーリー・レイスとアンドレ・ザ・ジャイアント。2人の偉大なLEGENDSがその全盛期に激突した試合の背景に迫って見ました。
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今日は“世紀の闘神”ブルース・リーの43回目の命日です。

2016-07-20 11:27:11 | 闘神伝説~李小龍
さて、今年もこの日がやって来ました。43回目の7月20日です。
ここ一週間、我が「超級龍熱」では「2016~李小龍追悼WEEK特別企画」と題して3つの特別企画をお届けして来ました。
その第1弾が78版「死亡遊戯」の日本人出演者であるA氏への直撃インタビュー、第2弾が“死の宮殿”の番人ルイスことロイ・ホラン教授への独占インタビューにより明かされた「死亡の塔」最後の真実、そして第3弾が私こと龍熱の「活字死亡遊戯」の集大成である「死亡遊戯之旅・最終章~ラフカット96分の真実」です。
改めて私と殆ど面識のなかったA氏、そして全く面識のないホラン教授がよくぞこのような素晴らしく内容が充実したインタビューに応じて下さった、と只々感謝の一言です。
もしかしたらお2人ともが私こと龍熱の「死亡遊戯」と「死亡の塔」に対する飽くなき探求心と情熱を肌で感じ取ってくれたからこそのインタビュー快諾だったとしたら、私自身これほど嬉しい事はありません。
特にホラン教授の独占インタビューは、ホラン教授とのインタビュー交渉、インタビューの質問内容の作成、ホラン教授からのインタビュー回答の英文翻訳、ホラン教授とのインタビュー内容の細かい確認など全ての作業を私1人で行いました。勿論ホラン教授との会話は全て英語のみでした。
恐らく日本人でここまで「死亡の塔」という作品の謎に包まれた真実をひたすら追い求め、そして最終的な“究極の真実”に辿り着く事が出来た人間は私1人でしょう。
そしてそれも「死亡の塔」と「死亡遊戯」という長年に渡って私たちリーさん信者の“夢と希望”を繋ぎ続けてくれた2作品の検証作業に快く手を差し伸べてくれたA氏とホラン教授のおかげです。本当にありがとうございます(^_^)。

今この瞬間、世界中の何処かで多くのリーさん信者たちが“世紀の闘神”への追悼の意を表している事でしょう。
そして我が「超級龍熱」も、こうして私なりの、私だけにしか出来ない形でリーさんに対する追悼特別企画を最後までやり遂げる事が出来た事に深い達成感と幸せを感じると同時に、今回の一週間に渡る「2016~李小龍追悼WEEK特別企画」を最後まで読んで下さった皆さんに心から感謝します。皆さん、本当にありがとうございました。
さあ、皆さん、どうか最後にご唱和下さい。心からの親愛と敬意を込めてご唱和頂ければ幸いです。誠意献給一代巨星、李小龍!!
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「死亡遊戯之旅・最終章~ラフカット96分の真実」 ⑤ 2001~Present

2016-07-20 10:58:52 | 闘神伝説~李小龍
ここまで「死亡遊戯」の約96分間のラフカットの約30年以上に渡る道程を検証して来ましたが、その「死亡遊戯之旅・最終章~ラフカット96分の真実」の大結局となる今回は、いよいよラフカットを巡る検証の舞台が日本へと移ります。
私が「死亡遊戯」の(ほぼ)全てのテイクをテイク順に並べた映像、要するにラフカットの存在を知ったのは、皆さんと同じく「BRUCE LEE in G.O.D/死亡的遊戯」公開前の1998年7月に香港で開催された「ラフカット上映会」ツアーの前後だったと思います。
この98年7月と00年3月の2度に渡って開催された香港上映会ツアーは、私も行きたかったのですが、当時は後に私の代表著作となる「香港功夫映画激闘史」の準備、及び執筆作業に入っていたり等の諸事情でどうしても行く事が出来ませんでした。
ただ「~激闘史」の執筆の過程で、担当編集者に「この本の取材も兼ねて上映会に行く事は出来ないか?」と打診した記憶がありますが、残念ながら担当編集者からは色良い返事は貰えませんでした。
それでも上映会から帰国した友人たちが一様に興奮した様子で上映会の詳細を報告してくれる中で「いや~龍熱さんが「ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!」の「闇の中に誰も知らない「死亡遊戯」を観た!」で考察している展開と全く同じでした!やっぱり龍熱さんは凄いです!」と多くの賞賛の言葉を贈ってくれた事はとても嬉しく思いました。
そして「~死亡的遊戯」が劇場で公開され、全国のリーさん信者にこれまで誰も観た事が無い“幻の40分間の塔内ファイト”に衝撃と感動を与えた事で、改めて“世紀の闘神”李小龍と「死亡遊戯」が再評価された事は私も本当に万感迫る思いでした。
でも私の心の片隅にはどうしても心残りだった事、不完全燃焼のままの事柄がありました。そう、この「~死亡的遊戯」制作の元素材となったラフカットの存在です。
確かに「~死亡的遊戯」の約40分の塔内ファイトは素晴らしかった。私の想像を超えるほどのインパクトでした。それでも、その元素材となったラフカットを観ない事には、私にとっての“死亡遊戯探しの旅”は終わるに終われない!との強い思いがあったのです。
ただその“死亡遊戯探しの旅”の終着駅となるラフカットの入手は、香港功夫映画映像コレクターとして30年以上のキャリアを誇る私にとっても想像を絶するハードルの高さでした。
まず当たり前ですが、ラフカットが市販されている映像ソフトではない事。さらに作品を制作する過程で関係者が編集作業に使用する映像素材のため、外部に出回る事が無いアイテムである事、などがその理由でした。
それまで自分が追い求めるクンフー映画の映像はどんなにレアな作品でも必ず入手して来た私でしたが、ラフカット探索の過程では「これはちょっと厳しいかな」と心が折れそうになった事も正直ありました。
しかしそんな袋小路状態の私の周りで奇跡が起きました。それは私と同じくリーさんこと李小龍を心から愛する友人の好意、つまり熱き友情が生んだ奇跡だったのです。
ここで私に「死亡遊戯」の96分間のラフカットを譲ってくれた友人の名前を明かす事はどうかご容赦頂きたいと思います。
その友人を仮にA君としますが、そのA君からはまず約40分の塔内ファイトを粗編集した映像を収めたテープ(まだDVD素材ではなくVHSの時代でした)が来ました。
この粗編集した塔内ファイトは「~死亡的遊戯」の制作関係者が試験的に編集した映像のようで、リーさんがイノサントの首をヌンチャクで締めるフィニッシュが何故か2テイク並べて入っていたり、エンディング・ロールでは公開版とは違うNGテイクが使用されていました。
そして忘れもしない“あの日”がとうとうやって来たのです!!!
その日、私は待ちに待ったVHSが手許に届くと、そのVHSを荒々しくビデオデッキに押し込み・・・そのまま時が経つのを忘れたかのようにジッと画面に見入っていました。
何度も何度も納得するまでテイクを繰り返し撮るリーさん。撮影合間にスタッフと笑顔で談笑するリーさん。どうしても納得するアクションが出来ずに自分に対して怒りをぶつけるリーさん。相手がミスをしても、それを明るく励ますリーさん。
塔内セットで映し出されるこれら96分間の映像全てがまるで夢のような風景として私の目に次々と飛び込んで来ました・・・!!
その時の私は目の前で自分が観たくて観たくて観たくて堪らなかった「死亡遊戯」の(ほぼ)全てが映し出される中、まだ十代だった自分がBFCの会報に「死亡遊戯」のノベライズを夢中で書いていた頃、2台のビデオデッキを並べて「死亡遊戯」の市販VHSを駆使して何度も何度もダビングを繰り返しながら、限られた情報だけを頼りに“本当の死亡遊戯”を懸命に模索していた二十代の頃を走馬灯のように思い出していました。
そしてそんな「死亡遊戯」に全ての情熱を注ぎ込んでいた“龍熱少年”の時代にタイムスリップした私の部屋の窓の外からは、燃えるような真っ赤な夕日が私の部屋に優しく、そして力強く差し込んでいたのを今でもハッキリと覚えています。
それこそ30年前の私には、私の大好きな「死亡遊戯」の塔内ファイトの映像を自宅で何時でも好きな時に繰り返し観れる時代が本当に来るとは全く想像も出来ませんでした。
もしもこの世の中に“奇跡”があるとしたら、これこそが真の意味での“奇跡”でしょう。
1972年に香港で李小龍によって生み出された「死亡遊戯」の映像は、西本正氏、林正英、洪金寶、ラッセル・カウソン、ベイ・ローガン、ウォルト・ミシンガム、ジョン・リトル、アートポートなど多くの人間の間を巡り巡った果てに、遂に私たち日本の李小龍信者の許に辿り着きました。
繰り返しになりますが、ラフカットが日本に上陸するまでの約30年間の年月の間には幾つもの信じられないような“奇跡”が起きた事で、この“世界遺産的映像素材”が現在まで生き残る事が出来ました。
それは李小龍が急逝した後、嘉禾影業が未完成状態の「死亡遊戯」を完成させる事を最後まで諦めなかった“奇跡”であり、78版「死亡遊戯」が完成した後もラフカットが破棄処分されなかった“奇跡”であり、人知れずメディア・アジアに譲渡されたベータカム・テープに収められたラフカットを再生してみようと試みた人間がいた“奇跡”でした。
それは「死亡遊戯」の制作半ばで天国に旅立たねばならなかった李小龍の深い無念さと強い執念がまるでラフカットに乗り移ったかのような凄まじい生命力という名の“猛龍魂”だったのかも知れません。
そして私の部屋のテープラックに「死亡遊戯ラフカット(96分)」とラベルに書き記されたVHSが納まった事で、私こと龍熱の長きに渡った“死亡遊戯探しの旅”は静かに幕を降ろす事となったのでした。
ところが・・・!?

07年7月。私は都内は六本木で開催されたIUMAのイベント会場にいました。会場での私はゲストとして来日したシャノン・リーとベニー・ユキーデの話をしたり、中村頼永さんと対面を果たしたりと楽しい一時を過ごしていました、
そんな私の横を香港影星で大のリーさん信者のスティーブン・アウこと歐錦棠さんが通りかかり、私はアウさんとは以前にリーさん信者の飲み会で面識があった事もあり、自然とお互いに立ち話になりました。ところが、挨拶もそこそこにアウさんがその場で私に向かって英語で口にした言葉に私は思わず息を呑みました!!

アウさん「I finally found Game of Death missing footages!!」
龍熱「What footages?You mean missing log fight scenes?」
アウさん「Yes log fight scenes.Very good condition!!」
龍熱「Really!? I thought they are lost.How long are they!?」
アウさん「Not so long.Maybe around 10 minutes?」
龍熱「10 minutes....include out-takes right?」
アウさん「Yes include out-takes.Inosanto vs Gai Yuen with log!!」
龍熱「Wow....that`s really great news!!」

アウさんと挨拶を交わし別れてからの私はその後にイベントが終了し、帰途に着くまで周りの友人たちの声が殆ど耳に入らない状態でした。「そうか、そうだったのか!96分のラフカットは78版「死亡遊戯」で編集に使用された後に残っていた編集素材だったんだ。そのラフカットとは別に既に破棄されたと思われていた「死亡遊戯」の丸太戦も含めた完全なマスタープリントがメディア・アジアからフォーチュン・スターに譲渡された映像ライブラリーにシッカリと保管されていたんだ!」
そう、終わったと思っていた私の“死亡遊戯探しの旅”は終わってはいないどころか、まだほんの“旅の途中”だったのです。
それはまるで五重塔での最後の試練である“闇の番人”を倒した主人公ハイ・ティエンが1度は階段を下り地上に降りるも、再び意を決して塔の最上階に隠された“秘宝”を追い求めて五重塔の階段を頂点目指し駆け上がる、まさに終わりなき“エンドレス・デスゲーム”。
さあ、私と一緒にここまで「死亡遊戯之旅・最終章~ラフカット96分の真実」という名の“エンドレス・デスゲーム”を旅して来た皆さん。
何時の日か必ず、今度こそ本当の意味での最強最後の“知識を探求する人間物語”の到達点である「死亡遊戯之旅・最終章~マスタープリント108分の真実」でもう1度お会いしましょう!!
そう、私たちはまだ本当の“死亡遊戯”を知らない!We don`t know the ultimate truth of Game of Death yet !!

最後になりましたが、今回の特集では古山宏明さんに「死亡遊戯特輯」の公開時期、Masa Tanakaさんに「死亡遊戯」ラフカット上映会の開催時期の情報を提供して頂きました。
お2人のご協力に厚く感謝します。ありがとうございました。
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「死亡遊戯之旅・最終章~ラフカット96分の真実」 ④ 1996~2000

2016-07-19 11:17:59 | 闘神伝説~李小龍
1996年にイギリス人のベイ・ローガンがメディア・アジアのフィルム倉庫で長きに渡り眠っていた「死亡遊戯」の約96分のラフカットを発見した事で、その五重塔内の3階から4階までのアクションシーンをテイク順に並べたラッシュ・フィルムの存在が初めて世界中に知られる事となりました。
と同時にメディア・アジア(以下MA社)には日本とアメリカからこの「死亡遊戯」のラフカット映像の使用権利を求めるオファーが次々と舞い込む事となります。
ここでベイ・ローガン自身が過去に海外媒体のインタビューに答える形で「死亡遊戯」のラフカットを発見した際の経緯、その後のこの稀に見る貴重な映像素材を巡る様々な人物とのやり取りを詳細に語っている部分を駆け足で再録してみたいと思います。

ベイ・ローガン「MA社に入社する事で、私は同社が嘉禾影業から譲渡された映像ライブラリーにアクセスする事が可能になったんだ。
これはMA社の重役だけが持つ権利で一般のファンには不可能な事なんだよ。
で、私はMA社が所有する全てのブルース・リーの映像を見せて欲しいと要求したんだ。まあMA社に入ったのはそれが目的ってわけじゃなかったけど、私の上司には「私が探せばもっとブルース・リーの古い映像を見つけられると思うし、それはきっと多大な利益を当社に齎しますよ」と伝えて、上司からは「ならやってみろ」と了解を得たんだ。
で、私がフィルム倉庫に降りていくと待っていた担当者がこう言うんだ。「アンタって面白い事するねえ。もう殆どのフィルムは変換済みだよ。後はそこに何本かあるベータカムのテープだけさ。俺たちもテープの中身は何が入ってるか知らない。観たかったらどうぞお好きに!」ってね。
私は嬉々としてそのベータカムのテープ群をデッキに入れて再生し始めたんだ。最初に観たのが78版「死亡遊戯」関連の古いテイクが入ったテープで、78版のクレジットタイトルとか色々と入っていた。
次に再生したテープ・・・そこには私が観た事も無いジェームス・ティエンがダン・イノサントに棍棒を振り回す映像が映し出されたんだ!
おいおい?これって「死亡遊戯」のラッシュフィルムじゃないか!?
私はそのまま一気にその「死亡遊戯」のラッシュフィルムを最後まで観たよ。映像はおよそ90分ほどあった。私はすぐに上司にこの発見を報告しに駆け上がったんだ。
「私が何を発見したのか判りますか!?ブルース・リーの未完成映画のラッシュフィルムですよ!」ってね。その後、この映像が如何に凄い価値があるか上司に説明するのが大変だったよ」

ベイ・ローガンは「コンバット・マガジン」などの編集に携わる前の経歴が良く判らない人物だったりするんですが、それでもこの「死亡遊戯」のラフカットを発見したという功績は無条件で賞賛されるべきでしょう。何故ならこの96年の大発見までは、私たちは「ラフカット」なる映像素材の存在すら知らなかったわけで、ローガンがMA社のフィルム倉庫に足を運ばなければ、これらのベータカム・テープは遅かれ早かれ破棄処分されてしまった可能性さえあったと思います。
このローガンの証言の注目ポイントですが、まずラフカットを再生する前にローガンが観た1本目のベータカム・テープに入っていた78版「死亡遊戯」のオープニングクレジットなどが入ったテイク集です。
このテープをローガンが最後まで観たのかどうかは不明ですが、恐らく78版「死亡遊戯」制作過程における様々なアウトテイク映像が収録された大変貴重なテープだと思われます。
そしてもう一つのポイントですが、私が以前から触れていた通り「死亡遊戯」の96分のラフカットはフィルム・リールではなく、ベータカム・テープに収録された状態で発見された事です。
だからこそラフカットの映像コンディションがあのように劣化していたわけで、恐らくはフィルムからテープにダビングされた時点でかなり画質が落ちたと思われます。

べイ・ローガン「最初に「死亡遊戯」のラッシュフィルム、つまりラフカットの権利を買いに来たのは日本のアートポートだった。彼らは大変な金額を払って権利を買ったんだ。だって私の上司が「お前は馬鹿か?金額のゼロの桁が違うだろ!」って言って来たけど、私は「いいえ、これが彼らアートポートが我々にオファーして来た金額ですよ」って答えたくらいさ。アートポートが我々に払った金額が幾らだったかは言えない。でも大変な金額だったよ」

言うまでもなく、アートポートがこの「死亡遊戯」のラフカットを基に2000年に制作した作品が「BRUCE LEE in G.O.D/死亡的遊戯」(00)です。公開時は賛否両論を呼んだ作品ではありますが、この「~死亡的遊戯」は世界中の誰よりも李小龍を愛する私たち日本人が初めて制作した李小龍の映画であり、恐らくは“李小龍本人のアクション・シーンが映画のクライマックスに用意された劇場公開作品”としては最後の作品になるでしょう。
胸躍る勇壮なサントラ、美しい高画質の塔内ファイト映像、多くのリーさん信者が熱望した「死亡遊戯」の未公開映像(当時)を劇場公開作品として世に送り出した快挙等々、アートポートがこの「~死亡的遊戯」を制作&公開する事で果たした功績は数多くあります。
またここで触れておかなければならい人物がウォルト・ミシンガムです。オーストラリア出身の武道家で映像プロデューサーのミシンガムは、アートポートよりも早くにMA社とコンタクトを取り「死亡遊戯」のラフカット映像を使用する権利を得ていました。
そのミシンガムが制作した「ブルース・リー最強格闘技ジークンドー2」(98)には、その当時まだ誰も観たことが無い「死亡遊戯」の未公開映像が(ラフカットから)使用されていて、その映像を観た時の私たちの驚きは「ブルース・リーの神話」を観た時と同様の衝撃でした。

ベイ・ローガン「そしてアートポートに続いて「死亡遊戯」のラフカットの権利を買いに来たのがジョン・リトルさ。実はこの時、私とジョンはお互いに対して悪感情を持っていたんだ。ジョンは何冊か良い本も書いてはいるけど、彼が書いた「Bruce Lee's Method Of New Age Hippie Awareness」って本が酷くて、私は「ジョン・リトルが書いたこの本は“糞”だと思う!」って書いたんだよ。まあ、当然それを知ったジョン・リトルは激怒したわけだ。
で、それからジョン・リトルはMA社の私の上司に何度も電話をかけて来て「ベイ・ローガンの野郎に「死亡遊戯」の映像を扱う事は許されないぞ!ベイに絶対それをさせるな!ベイに絶対それをさせるな!」って言い続けたらしいよ。
最後には上司が私に「もうこのリトルって奴の電話にはうんざりだ!ベイ、お前は一体どうしたいんだ?」って言って来た。
私もこのラフカットの新たな使い道を模索していたんだけど、また似たようなブルース・リーのドキュメンタリーは誰も観たくないし利益も出ない。それでもこの映像が少しでも利益を生むならそれも良いし、そうすれば私たちも他の事に手を付けられるだろうと思って、自分からジョン・リトルに電話をかけてこう言ったんだ。
「ジョン、ベイ・ローガンだ。もう下らん事は止めよう。私の上司に電話しまくるのも止めてくれ。話があるなら私に言え。もうこの辺で君に「死亡遊戯」のラフカットの権利を売るのも良いアイディアだと思うよ。さあ、商談に入ろう!」ってね。
それで終わりさ。私自身その後にブルース・リーのビジネスから足を洗ったんだ。で、良かった事は私とジョンがまた良い友人に戻れた事かな」

いや~ベイ・ローガンとジョン・リトルの確執・・・実に生々しいですね。まあこれはローガン側の一方的なコメントなので何とも言えませんが、恐らく実際にこのような激しいやり取りが繰り返された果てにジョン・リトルは「A Warriors Journey(以下WJ)」(00)を制作するに至ったんでしょう。
実はジョン・リトルには私も過去にFacebookを通じて何度か不愉快な経験をさせられています。ただそれにここで触れる事は本企画の趣旨から外れますし、そのような欠席裁判はその辺の輩に任せて、ここでは控えましょう。
で、ジョン・リトルの「WJ」ですが、前半の圧巻のドキュメンタリー部分に加えて、「~死亡的遊戯」には未収録のテイクを使用した田俊vsイノサントのウエポン戦や、主人公ハイ・ティエンの“心の声”の導入など興味深い構成は高く評価出来るものの、それら全てが塔内ファイトの粗雑な怪鳥音のダビング&劣悪な画質によって台無しになってしまっているのが実に残念です。
「WJ」完成前後のジョン・リトルの周辺に何があったのか、それは私には判りませんが、このような中途半端な形で「WJ」を世に出さざるを得なかったリトルには、私も多少なりとも同情を禁じ得ません。

こうして96分のラフカットが発見された事によって日本で「BRUCE LEE in G.O.D/死亡的遊戯」と、アメリカで「A Warriors Journey」という「死亡遊戯」の塔内ファイト映像を使用した待望の2本の作品が誕生した事は、それまで十数年間に渡る「デスゲームの冬の時代」をひたすら耐え忍んで来た私たち「死亡遊戯」信者にとってまさに至福の瞬間でした。
それもその2本の「死亡遊戯」系列作品の元素材となったラフカット自体が、嘉禾影業からメディア・アジア社に全ての李小龍関連映像が譲渡された際、譲渡リストに記載さえされず、またその記載ミスに嘉禾影業は恐らく最後まで気ずく事もなかった経緯を考えれば、この「デスゲームの黄金時代」の到来こそが文字通り奇跡の中の奇跡だったのでしょう。

1972年に李小龍監督によって世に遺された「死亡遊戯」の塔内ファイト映像。その映像はそれから約30年という長い年月をかけて、フィルムからベータカム・テープにダビングされラフカットなる映像素材に姿を変えると、そこからさらに2本の60分テープにダビングされる事で、とうとう我が日本の土を踏む事となります。
そしてそれは“世紀の闘神”が遺した「死亡遊戯」という未完成作品に己の人生を懸けた1人の日本人映画評論家との運命的な邂逅をも意味していたのでした。
さあ、いよいよ大結局の次回は「死亡遊戯」の96分のラフカットと、私こと龍熱が如何にして邂逅を果たしたか、その初めて明かされる道程に迫ります!!
そう、私たちはまだ本当の“死亡遊戯”を知らない!We don`t know the ultimate truth of Game of Death yet !!
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「死亡遊戯之旅・最終章~ラフカット96分の真実」 ③ 1980~1983

2016-07-18 10:16:45 | 闘神伝説~李小龍
「ブルース・リー死亡遊戯」(78)が完成した翌年、既に「死亡遊戯」の未公開映像(当時)を使用目的とした作品が動き出していました。
そう、それが「死亡遊戯Ⅱ」、後の「ブルース・リー死亡の塔」(81)です。この時期母国の韓国に帰国していた金泰靖には、友人の黄正利からこの「死亡遊戯Ⅱ」への出演オファーが来たそうで、金泰靖はそのオファーをチョウ社長への不信感から1度は断ります。
しかし黄師匠からこの「死亡遊戯Ⅱ」の制作がチョウ社長の嘉禾影業ではなく、呉思遠率いる思遠影業公司だと聞いた金泰靖は、最終的に「死亡遊戯Ⅱ」への出演を引き受ける事となります。
その際、呉思遠は金泰靖に「この「死亡遊戯Ⅱ」には李小龍の弟役を登場させるつもりだ。ただその弟役はお前じゃない。そしてこの「死亡遊戯Ⅱ」には李小龍が遺したオリジナルの「死亡遊戯」の完全な映像を使用する事をお前に約束しよう!」との公約を伝えて来たそうです。この呉思遠が語った“李小龍が遺したオリジナルの「死亡遊戯」の完全な映像”がラフカット映像、またはそれに準ずる「死亡遊戯」のアウトテイクである可能性は高いと思われます。
しかし結果として、この呉思遠の金泰靖への2つの公約はどちらも守られる事はありませんでした。
何故なら1979年には撮影をスタートさせるはずだった「死亡遊戯Ⅱ」は、呉思遠が中々「死亡遊戯」の塔内ファイト映像を手にする事が出来ないばかりか、代わりに発見した映像が李小龍の他の出演作品の未使用映像(恐らくは約5分間の「燃えよドラゴン」の映像)のみだったからです。
そのため1980年の2月(撮影開始時期は諸説あり)にやっと撮影がスタートした「死亡遊戯Ⅱ」は、結局「死亡遊戯」の塔内ファイト映像は使用出来ず、それもあってか金泰靖は李小龍の弟役を強いられた上に、李小龍役も同時に演じたため映画の前半ではまともに自分の顔が映らないなど、大幅な軌道修正を余儀なくされる事となり、最終的に作品の題名も「死亡遊戯Ⅱ」から「死亡塔」へと変更されたのでした。
この辺りの「死亡の塔」という作品の運命的な軌道修正の詳細に関しては、昨年に私とのインタビューでロイ・ホラン教授が克明に語っていますので、そちらをご参照下さい。
では一体何故「死亡の塔」に「死亡遊戯」の塔内ファイト映像が使用出来なくなったのか?ここからは私の推測になりますが、この「死亡の塔」が制作に入っていた80年前後には嘉禾影業で1本のドキュメンタリーが企画されていました。
それは嘉禾影業制作による李小龍の十周忌作品として「死亡遊戯」の未公開映像をメインフィーチャーしたドキュメンタリーとして進行していました。
当初、このドキュメンタリー作品では実際に「死亡遊戯」の塔内ファイト映像を30分ほどに編集もしていたそうですが、ここでまたしてもチョウ社長からの横やりが入り、このドキュメンタリーは「死亡遊戯」メインから、李小龍の生涯を取り上げたドキュメンタリーへと作品内容を再度変更する事となります。まさに混乱の極みです。
そして、その幾度にも渡る内容変更の果てに完成したドキュメンタリーこそが「ブルース・リーの神話」(83)でした。
この「~神話」の中盤やエンディングに「死亡遊戯」のアウトテイクが大量に収録されているのは「~神話」初期バージョンの“遺産”だと思われますし、それは「死亡遊戯」のアウトテイクのシーンがより多く収録されている「~神話」の別バージョンしかりです。
要するに「死亡遊戯」の塔内ファイト映像を使用する予定だった「死亡の塔」ですが、塔内ファイト映像は「ブルース・リーの神話」で使用する事となった事でそれを断念。
その代わりに「死亡の塔」には「燃えよドラゴン」の約5分間のアウトテイクと「死亡遊戯」アジア地域公開版に収録された“温室の決闘”をまだ未見の欧米や日本の観客に対して“生前の李小龍が密かに「死亡遊戯」と同時進行で撮っていたファイトシーン”と称して公開する、これがチョウ社長の目論みだったと思いますし、この推論によって「死亡遊戯」の未公開映像(塔内ファイト)の争奪戦を繰り広げた果てにそれぞれ生まれた「死亡の塔」と「~の神話」という2つの作品を繋ぐパズルがシッカリと合わさるのです。

こうして「死亡遊戯」の未公開映像の使用を巡って散々翻弄された「死亡の塔」と「ブルース・リーの神話」ですが、80年代序盤にこれら李小龍を題材とした2作品が公開されると、以後ほぼ10年以上に渡って「死亡遊戯」の未公開映像の動向はピタリと動きを止めます。
この10年近くに渡る期間は、私たち「死亡遊戯」信者にとっては、正しく「デスゲームの冬の時代」と言ってもいい期間で、それは寂しく、また空しい時が過ぎていきました。
そんな時、日本は東京で1人の「死亡遊戯」信者が限られた情報と市販の「死亡遊戯」の映像を駆使して、たった1人の“死亡遊戯探しの旅”を続けていました。
その「死亡遊戯」信者は78版「死亡遊戯」のテレビ放送版、欧米公開版、そして「ブルース・リーの神話」の塔内ファイト映像をダビングしては繋ぎ直すという孤独で気の遠くなるような作業を何度も何度も繰り返す事で、少しずつ、本当に少しずつながら、李小龍が遺した「死亡遊戯」原案の謎を追い求めていました。
そしてこの「死亡遊戯」信者は、やがて「ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!」なる書籍の「闇の中に誰も知らない「死亡遊戯」を見た!」なるタイトルを掲げた検証企画で、それまで誰も迫れなかった「死亡遊戯」の闇の奥に隠された真実に肉薄する事となります。
その頃、同じく香港でも「死亡遊戯」の未公開映像に大きな動きがありました。1996年、嘉禾影業からメディア・アジアに李小龍全作品の権利が譲渡された事で、それまで嘉禾影業のごく限られた人間しか入る事が出来なかったフィルム倉庫に初めて第三者が足を踏み入れる事が許され、あの80年代序盤の「ブルース・リーの神話」の編集作業以来、誰も手を触れずに埃を被っていた1本のベ―タカム・テープがイギリス人男性によって再生される時が来たのです。
そう、この瞬間、このベータカム・テープ、いえ「死亡遊戯」の塔内ファイトを収めた96分間のラフカット映像に再び生命が吹き込まれ、ここに私たち「死亡遊戯」信者が待ちに待った、今だかつてない「デスゲームの黄金時代」が幕を開ける時がやって来たのです!!
そう、私たちはまだ本当の“死亡遊戯”を知らない!We don`t know the ultimate truth of Game of Death yet !!
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「死亡遊戯之旅・最終章~ラフカット96分の真実」 ② 1975~1978

2016-07-17 11:26:05 | 闘神伝説~李小龍
1972年に李小龍が急死した事で1度は全ての制作作業がストップした「死亡遊戯」が1975年前後に制作を再開し、様々な試行錯誤を経て1978年、つまりロバート・クローズ監督作品「ブルース・リー死亡遊戯」(78)として完成に至るまでの出来事に関しては、未だに多くの謎に満ちています。
何故ならレイモンド・チョウ社長がこの件に関しては現在まで沈黙を守り続け、金泰靖の生前のインタビューも肝心の部分は抽象的な回答しか残していない事に加えて、長い年月の経過という大きな障害がこの3年間の空白期間の解明に立ち塞がっているからです。
そこでこの多くの謎を含んだ75年から78年までの期間における「死亡遊戯」完成プロジェクトのプロセスは、敢えて未確認情報も含む形でラフカットの道程を検証していきます。

一説には「死亡遊戯」の完成プロジェクトは1974年の10月に開始され、翌75年の7月に1度終了(または中断)しています。
この時のメインスタッフは後に「ブルース・リー死亡の塔」を監督する呉思遠と某韓国人監督(脚本も担当)で、彼らはその後に金泰靖(即・唐龍)を発掘する事となりますが、金泰靖本人の証言によると、1976年頃に嘉禾影業が韓国の新聞に「李小龍映画出演者募集」の新聞広告を出していたそうです。
そしてこの時期に、彼らメインスタッフに約2時間半の「死亡遊戯」の映像が手渡されたそうです(但し金泰靖はこの映像を見せては貰えなかったとか)。
恐らくこの映像が李小龍監督が撮った塔内ファイト映像を収めたフィルムだと推察出来ますが、その映像が果たして96分のラフカットなのかは断定できません。
そしてこの「死亡遊戯」完成プロジェクト初期の武術指導(一説には監督なども兼任)が林正英でした。
リーさんの死後に人間が変わってしまった(金泰靖:談)と言われる林正英は、呉思遠と再撮影部分のアクションの構成で対立し、呉思遠は「死亡遊戯」の監督を降りてしまいます。
で、注目なのがこの時に林正英は「死亡遊戯」の塔内ファイトのフィルムを個人的に所有(!)していて、勝手に上映会まで行っていたとの驚きのエピソードです。
この林正英が無断で所有していたフィルムが果たしてリーさんが撮影した塔内ファイト映像なのか、それとも林正英自身が撮影した「死亡遊戯」の映像なのかは定かではありませんが、この林正英版「死亡遊戯」は、李小龍監督の原案に最も忠実に撮られていたそうです。
この林正英がプロジェクト・リーダーだったと称される期間が「死亡遊戯」完成プロジェクトにおける最も謎が多く、また最も迷走していた時期だったと思われます。
結局、林正英は持ち出した「死亡遊戯」のフィルムをチョウ社長に返却せず、チョウ社長はすぐに「死亡遊戯」のプロジェクト・リーダー及び武術指導をサモ・ハンこと洪金寶に変更する事を決めます。
そう、このサモ・ハンの登場によって「死亡遊戯」はその完成への道が大きく開けていく事となります。
サモ・ハン版「死亡遊戯」は1976年の8月に撮影が開始され、まずサモ・ハンが手掛けたのが金泰靖vs王虎の“温室の決闘”と、塔の1階を想定したセットでの金泰靖vs黄仁植の対決シーンでした。
この“温室の決闘”こそが96分間のラフカットが誕生した時期を検証する重要な鍵となります。
何故ならラフカットの冒頭に一瞬ですがビリー・ロー(金泰靖)に蹴り負けた劉野川(王虎)が怒りに任せて花瓶を叩き割るテイクが映るからです。
要するに、サモ・ハンがこの“温室の決闘”などを撮影していた1976年の8月から再び撮影が終了した同年の10月までの間には既にマスターフィルムに編集が入り、ラフカットが存在していた可能性が高いと推察されます。
事実、私が05年にサモ・ハンに直接インタビューした時、または他の媒体の取材に対しても、サモ・ハンは「李小龍が撮影した「死亡遊戯」の映像を事前に観ていたかって?勿論観たさ!もう何度も何度も繰り返し観たんで目が飛び出るかと思ったよ!」との証言を残しています。もう一つの重要な事柄として、同じく76年に香港で「燃えよドラゴン」がリバイバル公開された際に「死亡遊戯」の塔内ファイト映像のダイジェストが「死亡遊戯特輯」と題し同時上映され、その余りに素晴らしいアクションに観客が大熱狂している事です。
この「死亡遊戯特輯」こそ、映画評論家の大先輩である日野康一さんが香港で密かに見せて貰ったと私に告白した西本正氏本人(!)が編集した約7分間の塔内ファイト映像であった可能性が高いと思われます。
こうして嘉禾影業が総力を上げて3年間に渡って奮闘し続けた「死亡遊戯」は、林正英版やサモ・ハン版など幾つものバージョンを経て、最終的にはアメリカはコロンビア・ピクチャーズとの共同配給作品として新たに監督にロバート・クローズを迎え、1978年3月に香港でワールド・プレミアを開催するに至り、遂に完成を見る事となります。
恐らくこのクローズ監督版「死亡遊戯」が完成に至るまでは、金泰靖vs黄仁植戦など幾つものバージョンで撮影はされたものの、最終的にはお蔵入りした未使用映像が多数あったと思いますが、それでもサモ・ハンが監督した“温室の決闘”だけは「死亡遊戯」アジア地域公開版に収録される事で私たちの目に触れる事となりました。
そしてこのクローズ版「死亡遊戯」で僅か11分間のみが使用された本物の李小龍出演による塔内ファイト・シーンは、その後22年と言う長い年月を経て、2000年に制作された2本の「死亡遊戯」系列作品に残りの約30分のファイト・シーンも併せて収録された“ほぼ完全版”として公開される事となるのですが、それはまだ後のお話。
それどころか、この78版「死亡遊戯」完成直後から嘉禾影業と思遠影業公司では再び極秘裏に2本の李小龍系列作品が企画されており、その2作品双方で「死亡遊戯」の未発表映像の使用が想定されていたのでした!!
そう、私たちはまだ本当の“死亡遊戯”を知らない!We don`t know the ultimate truth of Game of Death yet !!
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「死亡遊戯之旅・最終章~ラフカット96分の真実」 ① 1972~1973

2016-07-16 10:27:05 | 闘神伝説~李小龍
さあ、始まりました!李小龍が監督、脚本、武術指導、そして主演を兼ねた意欲作「死亡遊戯」の全てが詰まっている96分間の映像、通称ラフカットの長きにわたる道程を追うプロジェクト、「死亡遊戯之旅・最終章~ラフカット96分の真実」です。
「死亡遊戯」。それは1972年の9月に李小龍ことリーさんのアメリカ時代の弟子であるプロバスケットのスター選手カリーム・アブドゥル・ジャバールが1週間だけ香港を訪れる機会を利用して、極秘裏に塔を模したセット内でアクション・シーンを撮る、このリー監督の発想から始まりました。
撮影監督は前作「ドラゴンへの道」に続き日本人名カメラマンの西本正が担当しました。リー監督は本番前に自分、田俊、ジャバールのフォトセッションの様子を実弟の李振輝のビデオカメラで撮影させています。これは約30分(音声入り)ほど撮影されました。
リー監督は9月8日にジャバールvs田俊戦を撮り、そして自分とジャバールのファイト・シーンを9月8日から9月11日の3日間で撮り終わると、アメリカに帰国するジャバールと入れ違いで香港に到着したダン・イノサントを自宅に連れて行き、その場でイノサントと胡奀に自宅の庭で延々とリハーサルを行わせ、その様子をビデオカメラで撮影しています。
そう、これが後に新界で撮影する五重塔を守る番人たちのデモ映像のリハーサルでした。リー監督は9月25日から塔内セットでイノサントvs田俊&解元(洪金寶の代打出演)の闘い、さらに自分とイノサントとのヌンチャク戦を9月30日に撮り終わると、今度は韓国から韓国合気道の大家である池漢載と黄仁植を招聘し、同じく塔内セットで10月22日から池漢載vs田俊&解元の闘い、そして自分と池師父のファイト・シーンを10月24日まで撮り、10月26日には再度池師父と黄師範を連れて新界で五重塔の番人のデモ映像を撮ります。
以上がリー監督が撮影した「死亡遊戯」の全ての映像で、恐らく塔内セットの撮影分が約1時間50分、新界野外ロケの撮影分が約10分あるかないかだと推定されます。
しかし、ここで「死亡遊戯」という作品に大きな変動があります。
そう、ワーナーブラザースとの合作「燃えよドラゴン」のオファーを優先するための「死亡遊戯」撮影中断です。
リーさんは翌年の73年の5月には「燃えよドラゴン」の制作を終え、前年から撮影が中断していた「死亡遊戯」の撮影再開(9月には完成を予定していたとの説あり)に向けて動き出します。それが007スターのジョージ・レイゼンビーの香港への招聘です。
リーさんはレイゼンビーが自分に会いに来ても最初は鼻にも引っ掛けないような態度でしたが、レイゼンビーが哲学者ジッドゥ・クリシュナムルティに傾倒している事を知ると俄然2人は意気投合したとの事です。
そしてここで重要なのが、未確認情報ながら、リーさんが自分で編集(!)した「死亡遊戯」の約27分ほどの塔内ファイト映像をレイゼンビーに見せている事です。
27分と言うとかなりハイピッチの編集になっていると思いますが、この27分間の塔内ファイト映像こそ李小龍監督自らが編集した唯一の「死亡遊戯」の映像であり、それは同時にこの73年の時点で「死亡遊戯」の撮影済みフィルムに既に編集の手が入っていた事の証明にもなるわけです。
しかしその「死亡遊戯」の制作も73年7月20日に全てがストップしてしまいます。そう、監督であり主演者でもあった李小龍が急逝してしまったのです。
この「死亡遊戯」の生みの親にして最高責任者であるリーさんの死は、同時に以後リーさんが構想し生み出そうとしていながら志し半ばで未完成となった「死亡遊戯」という作品世界に第三者が自由に手を加えていくという何とも生々しい現実の始まりでした。
それが証拠にリーさんの死の直後に公開されたドキュメンタリー「ブルース・リーの生と死」(73)には恐らくは嘉禾影業の人間によって編集された「死亡遊戯」の塔内ファイトのハイライトが挿入され、これによって香港など東南アジアの観客は「死亡遊戯」という未完成作品が実際に存在している衝撃の事実を知るのでした。
しかし、その頃既に嘉禾影業は李小龍が残した映像、但しドラマ部分は皆無で塔内のアクションシーンのみ、という難題を抱えた遺作「死亡遊戯」完成に向け、密かに“闘神の影武者”探索のための使者を韓国に送り込んでいたのでした・・・!!
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その時、“死の宮殿”で何が起こっていたのか!?ロイ・ホラン独占インタビューⅡ(後編)

2016-07-15 15:50:18 | 闘神伝説~李小龍
ー「死亡の塔」のクライマックス、つまり“死の宮殿”でのファイト・シーンには金泰靖、その金のスタントダブル役の元彪、そして黄正利がセットに勢揃いしていたわけですが、彼らたちの関係、例えば金泰靖と元彪の間の雰囲気はどうでしたか?

ホラン教授 セットでの彼らのファイトシーンの撮影はスムーズに、プロフェッショナルらしく進行していたよ。ただ金泰靖は彼の能力の限界を超えてまでスタントに挑もうとはしない男だったね。金泰靖は自分自身をスターだと思っている男だった。まあ周囲の人間はそんな彼をサポートしていたわけだけど、中国人スタントマンたちは金泰靖の事を武術家だと思っていた人間は1人もいなくて、全員が金泰靖の事は“見世物芸人”だと思っていたんだよ。

ーええっ!見、見世物芸人ですか?(絶句)。な、なるほど。では黄正利は如何でしたか?

ホラン教授 黄正利は大体はセットではクール然としていたよ。黄正利という男は監督から求められた事は、例えそれがどんなに馬鹿馬鹿しい事でもビシッとやり通す男だった。私も黄正利が自分に課せられたどんな殺陣でもこなす事を見ていたしね。
ただ黄正利は役者たちがいい加減な事をしたり、怠けていたり、集中力を欠いていたりした時は怒っていたね。それに黄正利はどんなシーンでも同じテイクを何度も撮る事を嫌がった。
この「死亡の塔」では殆どの武打星たちが懸命に働いていたし、黄正利は金泰靖の事も良く面倒を見ていたよ。黄正利はセットでは金泰靖には韓国語で指導していたし、金も黄正利の事は心から尊敬していたよ。

ー監督の呉思遠はこの「死亡の塔」では金泰靖に何を求めていて、また金泰靖をどう評価していたんでしょうか?

ホラン教授 NG(呉思遠の愛称)はとにかく金泰靖を撮る際のカメラ・アングルを凄く気にしていたよ。何故ならそうする事で観客にこの「死亡の塔」がブルース・リー“主演”の映画だと信じ込ませるためにね。NGは劇中のアクションは袁家班たち殺陣師に任せていたな。
金泰靖にセットで求められていた事、それは時間通りにセットに来る事、これが大事だったんだよ。何故かってたまに主役級の役者で駄々っ子みたいな真似をする奴もいるからねえ!
金泰靖はそんな事をする男じゃなかった。それに金泰靖は中国語が話せなかっただろ?だから金はセットでは自分のやるべき事に他の人間以上に集中していなければならなかったんだ。

ー改めてお訊きしますが、呉思遠はこの「死亡の塔」を撮っている時は、どんな心境だったんでしょうか?

ホラン教授 NGは当時既に名前の知られた監督だった。NGは「死亡の塔」をブルース・リーの“主演映画”として撮らなければならない事も理解していたんだ。ところが・・・君も監督の立場になって想像して見てくれ。もし君がブルース・リーを主演に映画を撮らなければならないのに、そこに主演であるべきブルース・リーはいない。なのにブルース・リー“主演と称する”映画を撮らなければならなくなったとしたら?それは誰だって憤慨するだろう!?

ーうう~ん!当時の呉思遠監督の苦悩と焦りが目に浮かぶようです・・・。

ホラン教授 それに「死亡の塔」にブルース・リーの(「死亡遊戯」の)未公開映像を使用出来る事、これがNGと嘉禾影業の間で取り交わされた“契約”の一つだったんだよ!

ーああぁ!やはり呉思遠と嘉禾の間にはそのような契約が存在していたんですか!その契約こそが「死亡の塔」という作品が生んだ数々の混乱の根源だったんですね。これで私の中では「死亡の塔」に関する本当に全ての謎が解けました。ホラン教授のおかげです!
ではここでホラン教授自身についてお訊きします。多くの香港クンフー映画に出演されているホラン教授ですが、ご自身の作品で一番のお気に入り作品は何でしょうか?

ホラン教授 もし1本を選ぶとしたら「スネーキーモンキー蛇拳」(78)になるね。この映画の撮影中の私は肩を脱臼してしまっていてね。それもあって自分のアクションが制限されてしまっていたんだけど。映画のストーリーも感動的で面白く仕上がっていると思う。
それと「~蛇拳」はコメディー性を導入する事でそれまでの香港クンフー映画の範例を打ち破った作品だった。私は何時でも創造性に喜びを見出す人間で、特にそこに物事が意味のある形で変化を遂げていく際は尚更だ。

ー「~蛇拳」でホラン教授が演じた殺し屋神父は今では伝説的なキャラクターですからね。では最後に日本の「死亡の塔」&ロイ・ホランのファンにメッセージをお願いします。

ホラン教授 日本の「死亡の塔」ファンの皆さん、私は貴方たちのようなクンフー映画の秀作に興味を持ってくれる人たちがいる事を嬉しく思います。最近のアクション映画は確かに技術的には向上していますが、私たちの時代のクンフー映画は役者やスタッフが時に安全性を抜きにしてでもエキサイティングなアクションを作り上げようと奮闘していました。彼らはそれを自分たちの良き思い出に代えたいがためにその命を敢えて危険に晒すのです。
その古き良き時代の武術指導者たちは既に次々と絶えようとしています。残念なことに彼ら武術指導者たちは自分たちの知識を若い世代に伝える事をしていません。
こうした事から近い将来は、全てのアクション映画がコンピューター処理された安全性に優れた物になっていくでしょう・・・。
私がこれからの若い世代に望みたい事。それは貴方たちが武術の修練に励み、同時に映画としての格闘アクションを学び、そうする事で香港クンフー映画の伝統を守って欲しいのです。
アクション映画の世界、それは素晴らしい世界です。この業界の未来を築いていくためにはその業界がそれまで積み重ねてきた“歴史”についても良く知って欲しいのです。そして私たち自身ももう学ぶ事はないんだ、などとは決して思ってはいけないのです。
もう一つ。私は貴方たちファンが映画の細かい部分に目を向けようとする姿勢を嬉しく思います。それこそが貴方たちの素晴らしい才能なのです。その物事を“識別する精神”が、私たち自身にその真実性をより理解させてくれますし、それは同時に周りの人にとっても喜ばしい事なのです。このファンが持つ情熱こそが素晴らしいのです!
情熱。そう、この熱き心、つまり「enthusiasm」は元々はギリシャ語の「entheos」から来ています。その意味は「神は傍に」です。
つまり私たちはその一瞬一瞬を情熱と共に生きるべきであり、それこそが“天恵”なのです。
最後に、貴方たちファンは自分が愛する映画、役者、監督などに忠誠の心を示しています。この忠誠心こそが全てがアッと言う間に移り過ぎていく世の中において、私たちの心を安定させてくれる鍵なのです。日本の「死亡の塔」ファンの皆さん、本当にありがとう!!

ーいや・・・素晴らしいメッセージです(涙)、ホラン教授、ありがとうございました。

2016年5月9日、及び6月16日に収録。


さて、“死の宮殿”の番人ルイスことロイ・ホラン教授の独占ロング・インタビューを前編&後編としてお届けしましたが如何でしたでしょうか。私は成龍信者ではないんですが、それでも成龍が本当にリーさんの弟役で「死亡の塔」に出演が予定されていたのかどうか、この噂は長年気になっていましたし、さらにはホラン教授が明かす「死亡の塔」韓国バージョンや台湾バージョン「新龍兄虎弟」に関する解答に加えて、“死の宮殿”セットでの金泰靖や黄正利の生々しい素顔、そして監督の呉思遠の苦悩振りはまさに驚きと興奮の連続でした。
恐らくこれで「死亡の塔」というブルース・リー映画史上における“最大の怪作”が私たちに残した全ての謎が解けたと思います。
少なくとも私が知りたかった謎に関して、ホラン教授は全て答えてくれました。本当に・・・ここまで辿り着くまで本当に長かった。
近年、私たちの周辺には酷評作品として知られる「死亡の塔」の表面部分だけを観てこの映画を安易に絶賛するマニアがいるようです。
それはその人たちの自由ですが、99年に拙著「香港功夫映画激闘史」で日本の映画評論家として初めてこの「死亡の塔」に“正当な評価”を与えた私に言わせて貰えば、私がこの「死亡の塔」の謎解明にここまで拘るのには上記のマニアたちとは異なるモチベーションがあったからこそでした。
それはあの1981年に都内は池袋東急で、私こと龍熱青年がBFCの会員たちと一緒に観賞会として初めて観た「死亡の塔」という作品に対する“落胆と失望”から全てが始まりました。
これが私たちリーさん信者が待ち焦がれたブルース・リーの“新作”なのか?「死亡遊戯」の未公開映像は一体どうしたんだ?一体この「死亡の塔」には何の意味があるのか?
私も最初は皆さんと同じように「死亡の塔」を激しく憎みました。その時の私の感情は今でも私の「この「死亡の塔」はブルース・リー映画としてはNG!」との評価部分として残っているのかも知れません。
ただその後、私が香港功夫映画評論家として活動を開始するようになってから、リーさんこと李小龍を“絶対的宇宙の中心”に置きながらも、同時に他のクンフー映画のジャンルも広く深く検証していく過程で、その私の心境に微妙な変化が起きていきました。
それが昨年にロイ・ホラン教授が私とのインタビューで明かしてくれた「死亡遊戯」の塔内ファイト映像を使いたくても使えなくなり、追い詰められた呉思遠&袁和平らが苦肉の策で挑んだ「李小龍のジークンドーの影を残しながらも、広いセットを縦横無尽に駆使して本格的で自由な発想のアクロバット・クンフーアクションを作り上げる!」との崇高かつ勇気あるプロフェッショナリズムが生んだ“死の宮殿”での壮絶なるクンフーファイトを、それこそ何度も何度も繰り返し観続けた果ての私なりのある結論だったのです。
その結論こそがこの「死亡の塔」はブルース・リー映画としてはNGである。しかし「その撮影用セット全体を巧みに利用した斬新なプロット&アクロバティックなアクションにプラスして、正攻法のブルース・リーアクションをもミックスさせた袁和平渾身のクライマックス・ファイト(拙著「龍熱大全」より)」との結論だったのです。
そう、18歳だった龍熱青年の心に激しい怒りと悲しみを刻み込んだ「死亡の塔」は、やがて映画評論家となった私にその優れた香港クンフー映画だけが醸し出す“凄味”と“真髄”を教えてくれたばかりか、私を1人のクンフー映画ファンとしても、より高みへと成長させてくれた作品だったのです。
だからこそ、私はその思い入れ深い「死亡の塔」の周辺に潜む数々の謎を知りたかった。何としても知りたかった。
その「死亡の塔」という謎と混乱に満ちた作品の隠された真実を解き明かす事が出来れば、長年に渡って「死亡の塔」に浴びせられた数々の不名誉な非難を挽回する事が出来る。きっと出来る!
私が「「死亡の塔」弁護士会」を立ち上げた意義は、誰かがブルース・リー映画の“鬼っ子”である「死亡の塔」を弁護しなければとの思いも確かにありましたが、同時に私が「死亡の塔」という作品を通して学び親しんだ香港クンフー映画の本当の“凄味”と“真髄”を皆さんにも同じように“考えずに、感じ取って”欲しいとの思いからでした。
そんな時に私はFacebookを通じてロイ・ホラン教授と出会いました。まさにホラン教授こそがその豊富なキャリアと知識を持って「死亡の塔」の謎を解き明かしてくれる最適にして最強の“番人”でした。
改めてホラン教授のご厚意には本当に感謝の一言です。
“闘神、ラストアクション”「ブルース・リー死亡の塔」。私は1度は私の心に“落胆と失望”という名の傷を刻みながらも、やがては“情熱”と“忠誠”という名の“天恵”へと導いてくれた「死亡の塔」をこれからも正しい評価と深い親愛と共に、正々堂々と弁護していく事を「「死亡の塔」弁護士会“正宗本家”」としてここに誓います。
We are not alone in the night !!

We would like to deeply thank to Mr.Roy Horan for answers us our long time Tower of Death mysteries.
With out your help and kindness,we could not reach these great answers.
Also we`d like to thank Mr.Horan for provided such a wonderful photo of him which took in USA.Yes Roy Horan is the Man !!!
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