徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

江東区×大田区 中央防波堤埋立地帰属問題マップ

2013-11-29 03:56:36 | News Map

■江東区と大田区が帰属を主張している中央防波堤埋立地
<なぜ江東区は五輪前の決着を言い出したのか。区政策経営部の伊藤正勝担当課長は(中略)「メリットを求めているのではなく、埋立地が区民の犠牲の上に成り立っているから」と強調する。犠牲とは、ごみ問題のこと。埋立地はごみの最終処分場で、ごみ運搬車は江東区内の道路や海底トンネルを通る。「悪臭などのごみ問題で区民は長年苦しめられてきた。ずっと決まらずにきた問題を、五輪を機に解決したい」と力を込める。>
<東京ゲートワンブリッジで江東区と、臨海トンネルで大田区とつながる。広さは約500㌶。内側と外側の埋立地があり、北寄りの内側は1996年に完成した。当初は5区が帰属を主張し、内側の完成時に協議する予定だったが、決まらないまま2002年、ほかの3区が主張を取り下げた。現在は5区で締結した覚書に基づき、建物をつくる際の建築確認などの事務処理は、江東区が担当。現地には清掃関連施設があり、その住所は便宜上「江東区青海地先(あおみちさき」となっている。>
(東京新聞2013年9月24日付 江東「五輪前に帰属決着」中央防波堤埋立地争い再燃/大田「あくまでも未定」/ボートなど3競技場建設予定)

東京都不燃化特区マップ2013

2013-11-29 03:49:19 | News Map

■不燃化特区の位置
<山手線の外周部を取り囲む木造住宅密集(木密)地域で、震災時に燃え広がらないよう改善する街づくりが、また一歩進む。東京都は2日、独自に定める「不燃化特区」精度の新たな実施予定地区として、都内16区の27地区、計1400㌶を公表した。(中略)来年度は計50地区を目標に地区を募集する。東京五輪が開かれる2020年度までの事業完了を目指す。>
(東京新聞2013年10月3日付 燃えぬ街 五輪までに/都の特区新たに27地区)

地域別最低賃金額答申状況マップ(2013年度)※関東・甲信越・東海

2013-11-29 02:54:38 | News Map

■2013年度地域別最低賃金額答申状況
<最低賃金は中央と地方にある「最低賃金審議会」が決める。各地の労働局長の任命による学者や弁護士ら中立の公益委員と、推薦で労働局長が任命する労使代表の三者で構成されている。雇用や経済など20の指標をもとに、全国をA~Dに分け、中央の最低賃金審議会から、地域別の引き上げ額の目安が示される。この目安を受け、地方の審議会で「労働者の生活費」「労働者の賃金」「企業の賃金支払い能力」の3項目について、生活費の水準や地域の雇用情勢などの実情に照らして検討。上乗せするかどうかを話し合う。審議会は手続きをする「本審」と、具体的に話し合う「専門部会」がある。専門部会は「率直な意見交換」を理由に非公開の自治体が多い。審議会や専門部会に参加できない労使関係者が発言する「意見陳述」は、全国では21都市で実施されている。>
(東京新聞2013年9月20日付 見通せぬ生活苦の解消「この額では無理」/最低賃金2けた引き上げ 審議会の専門部会大半が非公開)

東京都大地震総合危険度マップ2013

2013-11-29 02:03:14 | News Map

■東京都が公表した地震の総合危険度
<危険度調査は、都が約5年ごとに調査している。今回は東日本大震災後、17年ぶりに改定した液状化予測図なども反映させた。建物倒壊と火災の危険度、活動困難度を加味した総合で最も危険度の高いランク5に分類されたのは、全体の1.6%に当たる84ヵ所の町・丁目。市区町村別では足立区が22ヵ所で、荒川区と墨田区が各15ヵ所、葛飾区7ヵ所、大田区と江東区が各6ヵ所。多摩地区はすべてランク3以下だった。>(東京新聞2013年9月18日付 都が大地震危険度調査/区部東部に「5」集中/5段階評価 倒壊リスクは減)

シリア情勢をめぐるアラブ諸国の立場マップ

2013-11-28 22:15:14 | News Map

■シリア情勢をめぐるアラブ諸国の立場
<アラブ連盟の足並みの乱れは、反米感情の高まりに神経をとがらせる米国の判断にも影響を与えそうだ。地元メディアによると、サウジアラビアのサウド外相は「(アラブへの)介入だからとの理由で国際的な行動に反対すれば、アサド政権の犯罪を勢いづかせる」と延べ、米国の攻撃への支持を強く示唆。(中略)一方サウジと並びアラブ連盟内での影響力が強いエジプトは反対。ファミハ外相は会見で「政治的な解決を目指すべきだ」と真っ向から反論し、米国とロシアが主導していた和平会合を通じて解決を目指すよう求めた。
(東京新聞2013年9月3日付 シリア軍事介入 サウジ賛成、エジプト反対アラブ連盟分裂)

オレンジャーは何処へ/第32節 大宮戦

2013-11-28 02:22:53 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14


順番が逆になってしまったが、土曜日は久しぶりにアウスタで大宮戦
優勝クラブ以上に今シーズン最大の話題といってもいい大宮の転落劇だが、7連敗中の大宮はこの日負けるとシーズン2度目の8連敗という凄まじい記録を打ち立てる(そんな記録があるのか知らん)。東スタンドのオレンジャーたちの姿もあまりにも寂しい。3月のリーグ戦やナビスコカップ予選で観たNACK5でのオレンジャーたちは意気揚々としていたのだが、もはや見る影もない。
しかし、いまだに思い出してしまうのだが、この大宮との開幕戦は勝てたゲームだった。開幕戦で清水が勝っていれば大宮もここまで酷いことにはならなかったかもしれないし、清水も首までどっぷり泥沼に漬かったような春を過さなくてもよかったかもしれないし、そして瀬沼のプレーヤー人生も変わっていたかもしれない。
だからこそホームの大宮戦は何が何でも現場で観たかったのだ。「現在地」を測る意味でも。
たとえ、それがいつもながらの渋いロースコアのゲームになろうとも(その通りになったが)。

清水のスタメンは元紀とトシを強行出場させつつ、CBに平岡と浩太、SBにキャラ、CMFにタクと大輔という、一見ディフェンシブも、かなりアフシンの意図が見える戦術的なフォーメーションで、現時点では個人的にほとんど理想のメンバーだった。開始早々キャラが来日初ゴールを決める展開もあって、前半はそれ以降ゴールは決まらなかったけれども、かなり楽しめる内容を見せた。大宮にミスが見られたとはいえ、とにかくアグレッシヴなボール奪取と流動的なフォーメーションはチームの成長を変化を感じさせる。
後半はさすがに大宮も戦い方を修正してきたこともあり、いつもながらの「前半のうちにもっとゴールを決めておけば」という内容になってしまったのだけれども、大宮の荒っぽさに辟易しつつウノゼロの緊張感をたっぷり味わった。
それにしても櫛引はぐんと安定していて安心した。
この内容ならば今週のアウエイ仙台戦、最終節のホーム柏戦も楽しみだ。つくづく天皇杯で敗退してしまったことが悔やまれる。

ということで、11月のうちに天皇杯を敗退してしまったチームにはもはや目標がない。
他力本願ながらまだ賞金圏内を目指すという目標はあるにはあるが、それが何だってんだという感じである。
中位というのは辛いもんじゃのう…今季のオフは久しぶりに目立った「話題」もなさそうだし(それは朗報か)。
ひとまず、30日はアウエイ仙台戦。ひとまず。

それでも砂漠に種をまき続ける/特定秘密保護法案抗議行動(11.26)

2013-11-27 23:36:23 | News


<もし世界の終りが明日だとしても私は今日林檎の種子(たね)をまくだろう。>

このルターの有名な言葉はさまざまなリミックスを経て、寺山修司は革命家のゲオルグ・ゲオルギウの言葉と紹介し、調べてみたら数年前にテレビドラマの台詞に使用されてそれなりにリバイバルした言葉なのだという(全く知らなかったけど)。勿論、この言葉は寺山修司でもなく、テレビドラマの台詞でもなく、小学生の頃から知っている。
五島勉のノストラダムスの大予言ブームの頃、高木彬光が大人げなく、真剣に書いた反論本で巻末の結論として書いていた(大人気なくと書いたものの、高木自身、易に通じ、成吉思汗や邪馬台国などの“古代ミステリ”に関する著作も多い)。せっかく大推理作家らしく、科学的に、理路整然と反論していたのに、その結論はあんまりじゃないかと子供心には思ったのだけれども、やっぱし子供心にとっても勇気付けられたのは確かだ。
オレは高木彬光を通して、この言葉――種子を受け取ってしまった。
個体としての人間は「種子をまかない」という成熟しきった選択もできるほとんど唯一の生物なのだが、それでも日常生活を送る中で、意識的、無意識的に関わらず、人間は「種子」をまかずにはいられない。
人間が選択肢、行動することは社会という「土壌」に種子をまくことに他ならない。

26日は夕方から特定秘密保護法案の衆院本会議の強行採決が迫る国会周辺に向かった。昨年12月に危惧したとおり、自民党の第二次安倍政権は実に危険な選択をし続けている。前日に福島で地方公聴会が開かれ、すべての意見陳述者が反対もしくは審議の継続を求めたにも関わらず、政府の強行採決は直後から報じられていた。自民党の石破幹事長はこの件に関わらず「すべての可能性は排除しない」と発言するが、そもそも「結論ありき」での発言は詐欺師そのものである。
彼が強行しようとしていることはいわば日本の「土壌」の入れ替えである。もしかしたらそれは「特定の人々」のオアシスを作るだけの砂漠化なのかもしれない。

16時過ぎに国会議事堂前に着くと、まずは事堂裏の議員会館前へ、そして官邸前を回る。
議員会館前は園良太ら「へサヨ」グループが、官邸前はそれに飽きたらしい(もしくは主導権が握れないのがわかったらしい)極左グループが陣取る。議員会館前はそれなりに人が集まり、それなりに熱心なコールが続いていたのだが、官邸前が酷かった。それまで極左グループは気の毒な一般参加者に一瞥することすらなく、自分たちの「儀式」を続けるだけだった。それも18時を過ぎて火炎瓶テツさんたちが準備を始めてひとまず安心した。
18時45分から衆院本会議が始まることがTLに流れてきた。

オレは空、ヤマタクさんと合流してドラム隊が準備しているという国会正門前に向かう。
議事堂前の横断歩道を渡る頃には十数人がコールを始めていた。
オレもいつもはレスポンスで使うことはないトラメガを使う。まだ人数が少ないから仕方がないか…と思いつつ、この夜は「よりデカい声」が必要なのだから使うのは当たり前である。
さらにヤマタクさんやパンチョ君はTwitterでの情報拡散と国会周辺の一般参加者へ国会正門前集結の呼びかけに走る。誰が主催者(団体)ということもなく、事前の告知もせず、準備もしていたわけでもない(コール用のトラメガは合わせて3台)のだが、それでも数百人の人々が集まる。多くの「顔馴染み」が集まり、コーラーは反原連と男組のメンバーが中心になって務めた。20時過ぎ、ジャポニスタン君に状況を訊ねた。携帯で情報確認する余裕もなくコールを続けていた。
そして強行採決を知った。居ても立ってもおられず、コールの爆心地へ向かう。
そのときすでに交差点付近の歩道の規制線は崩れかけていた。bc君や何人もの参加者が歩道のぎりぎりまで立って、警備を挟んで国会議事堂へ向かって怒りを表明する。警備の動きも慌しくなり、警官が隙間なく目の前に並び、規制線はコーンから鉄柵に変わった。
ネトウヨ政権へのカウンターのつもりで向かったオレもヘイトデモのカウンターのような錯覚すら覚えた。
その瞬間から「採決撤回」――ただそれだけのシンプルなコールを抗議参加者はひたすら叫んだ。本当に、それだけが言いたいのだ。「秘密保護法採決撤回」のコールは、それから1時間以上続いた。

特定秘密保護法の審議は参議院に移された。
政権はメディアの世論調査の結果を見て強行採決を決意したという。そして「参院では数の力を使う」と明言している。
調査ではほとんどの世論が賛否については3つにわかれている。賛否はともかく、政府が何をやらかすかわからないから「わからない」と答えてしまう人が少なくないのは当然だ。それでも今回ばかりは識者も含めてメディアも当事者となって法案には反対している(反対しているなら視聴者にしっかり伝えろと思うのだが)。政府はこの「下準備」を強行して何を目論んでいるのか。
12月6日の会期末に向けて、たとえそれが砂漠であろうとも抗議者は種をまき続ける。

知識というパンと貧乏な白人少年たちの未来/「ある黒人奴隷の半生」

2013-11-13 04:15:39 | 世界ノンフィクション全集/Books

フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)「ある黒人奴隷の半生」
刈田元司・訳/『世界ノンフィクション全集』第39巻/筑摩書房1963
※「フレデリック・ダグラス自叙伝 アメリカの奴隷」

<男女の奴隷たちは、毎月の食料の割当てとして、8ポンドの豚肉、またはそれに相当する魚、それと1ブッシェル(36リットル)のひまわり麦をうけとった。一年一回の衣料は、粗いリネンのシャツ2枚、シャツと同じようなリネンのズボン1足、上衣1着、粗布の冬ズボン1足、靴下と靴それぞれ1足ずつで、全体あわせても7ドル以上の値段のものではなかった。(中略)畑で仕事をすることのできない子供たちは、靴も靴下も上着ももらえなかった。一年に粗いリネンのシャツがただ2枚だけだった。この2枚がだめになると、子供たちはつぎの給与の日まではだかですごした。7歳から10歳までの子供たちは、男女とも、一年じゅうほとんどはだかで過したといってもよいだろう。奴隷たちにはベッドはあたえられなかった。粗い毛布をベッドと考えれば別だが、この毛布さえおとなの男女以外にはなかった。しかし、これもさほど大きな特権であるとは思われない。彼らのなやみはベッドの不足よりも睡眠時間の不足である。>

<ボルチモアに暮らすようになってからまもなく、わたしは、奴隷の扱いかたが田舎で目撃したのとはまったくちがっていることに気づいた。都会の奴隷は、農園の奴隷にくらべれば、ほとんど自由人といってもよい。食事も衣服も上だし、農園の奴隷のまったく知らない特権もたのしんでいる。農園ではあたりまえみたいなおそろしい残虐な行為を抑制し阻止するのに役立つ礼儀ただしさと恥を知る意識がある。くるしみさけぶ奴隷の悲鳴で、奴隷をもたぬ近所の人たちの慈悲心にショックを与えるのは、手のつけられぬ奴隷所有者である。残虐な主人であるという評判につきまとう非難を自分からまねきたい人はほとんどいない。ことに、奴隷にたべものをろくに与えていないなどという評判はたてられたくないだろう。(中略)しかし、いたましい例外がいくつかある。わたしたちの真向かいのフィルポット通りに、トマス・ハミルトン氏が住んでいた。彼は二人の奴隷をもっていた。ヘンリエッタとメアリという名で、ヘンリエッタは22歳、メアリは14歳くらいであった。これまで見ためった打ちにされてやせ衰えた奴隷のなかでも、この二人ほどひどいのはなかった。(中略)メアリの頭も首も肩も、文字どおりずたずたに切り傷をうけていた。わたしはときどき彼女の頭にさわってみたことがあったが、残忍な女主人の鞭のためにできたただれ傷、ほとんど一面にあった。(中略)娘たちが彼女の前を通るたびに、「もっと早く動くんだよ、この黒んぼ女め!」とさけんでは、牛皮の鞭を頭といわず肩といわずにふりおろしては、ときに血を流させるのだった。そのとき彼女は「さあ黒んぼ女め、これでもお食らい!」といい、さらに続けて「もっと早く動かないと、わたしが動かしてやるよ!」というのだった。こんなふうにうける残忍な鞭うちにくわえて、この奴隷たちはほとんどいつも半分飢餓の状態におかれた。腹いっぱい食べるといことがどういうことか、彼(女)らはほとんど知らなかった。わたしはメアリが通りに投げ捨てられた残飯を豚どもとあらそって食べているのを見たことがある。あんまり蹴とばされたり切りさいなまれたりしたので、メアリは本名よりも「はじかれ娘」とよばれるほうが多かった。>

<わたしが採用した計画でいちばん成功したのは、通りで会った白人の小さい少年たちと友だちになることだった。出会った少年たちはみな先生にしてしまった。時間や場所はそれぞれちがっても、彼らの親切な助けで、わたしはついに読みかたをおぼえるのに成功した。使いなどにだされると、わたしはいつも本をもって出かけ、用をすばやくすませると、帰る前に時間を見つけて勉強した。わたしはまたよくパンをもっていった。パンはいつも家に十分あったし、わたしがいくら持ちだしても文句はいわれなかった。このパンについてだけはわたしは近所のまずしい白人の子供たちよりもずっと物持ちだったのである。このパンをわたしは腹をすかしている小さい子供たちによくわけてやり、そのお返しとして、もっと貴重な知識のパンをわけてもらった。(中略)わたしは少年たちとよく奴隷制度のことを話した。わたしも彼らと同じように大人になったら自由になりたいものだと、自分の気持ちをときどき口にした。(中略)こういうわたしのことばはいつも彼らをこまらせた。彼らはよくわたしにつよい同情をよせ、わたしを自由にしてくれる何かがおこるであろうという希望で慰めてくれた。わたしは今や12歳くらいで、一生奴隷なのだという考えがおもく心にのしかかりはじめた。>

<奴隷所有者はみな悪い人であるとはいえ、尊敬に値する性格の要素のひとつもない人に出会うことはめったにない。わたしの主人(オールド船長)などはもっとも珍しい例のひとりだった。(中略)彼の性格のなかの主要な特徴は、卑劣さだった。ほかの特徴があったとしても、みなこの性質に準じていた。彼は卑しかった。しかも、たいていのほかの卑しい男たち同様、その卑劣さをかくす器量に欠けていた。(中略)1832年8月、わたしの主人はタルボット郡のベイサイドで開かれたメソジスト集会に出席し、そこで宗教を経験した。この改宗が機縁になって彼が奴隷を解放するのではないか、もしまた開放しないにしても、とにかく今までよりは親切な人間的な主人になるのではないかというかすかな希望を、わたしはいだいた。だがこの両方ともわたしは失望した。(中略)彼の性格になんらかの影響があったとすれば、彼があらゆる点において今まで以上に憎むべき残酷な人間になったということである。わたしは彼が前よりもいっそう残忍になったと思う。改宗以前は、自分自身の性格の汚らしさにたよって、彼のむざんな残虐行為の楯とし遮蔽物としていたのに、改宗後は自分の奴隷所有の残虐な行為にたいして、宗教的な裁可と支持を見いだした。>

<わたしがそこへはいるすこし前までは、船大工は白人も黒人もいっしょに働いていて、ぜんぜん不都合を感じなかったらしい。職人たちはみんな満足していたようだった。(中略)万事うまくいっているようだった。と、とつぜん、白人大工たちが仕事を中止し、自由人の黒人大工とは仕事をしたくないといいだした。理由は、申したてによれば、もし自由黒人大工が奨励されれば、彼らはやがてこの商売を自分たちの手におさめてしまい、白人は気の毒にも失業してしまうだろうというのだった。(中略)仲間の見習いたちはやがてわたしといっしょに仕事をするのは屈辱だと感じはじめた。そして、気どって「黒んぼ」がやがて国を占領するだろうから、皆殺しにしなくちゃいけないなどという話をしはじめるようになった。>

著者のフレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)は1817年(頃)、メリーランド州タルボット郡に奴隷の子として生まれる。1838年に逃亡奴隷としてマサチューセッツ州に逃れる。1841年8月に奴隷廃止集会に参加し初めてのスピーチを行ったあと、マサチューセッツ奴隷制度反対協会の専任弁士となる。またフレデリックも読者となっていた反奴隷制度新聞「リベレーター 」を刊行するジャーナリストで奴隷制度反対運動家のウィリアム・ロイド・ガリソンらと共に各地で演説を行なう。1845年、27歳(頃)のときに『ある黒人奴隷の半生』(フレデリック・ダグラス自叙伝 アメリカの奴隷)を出版。その他に『私の束縛と私の自由(屈従と自由)(My Bondage and my Freedom)』(1855年)『フレデリック・ダグラスの生涯と時代(Life and Times of Frederick Douglass)』(1881年)がある。奴隷廃止運動のための講演や1847年に創刊されその後16年間発行された新聞の編集者として活動のほか、南部の逃亡奴隷を自由州へ救出する秘密ルートである「地下鉄道」運動にも参加し、自らニューヨーク州ロチェスターの「駅長」となる。

フレデリック・ダグラス自身が体験し、見聞きした奴隷生活の描写は淡々としている。少年時代から農場と都市を転々とした奴隷生活の描写とエピソードが並べられる構成、しかも昭和38年の翻訳調は実に平坦である。しかし文字を教えてくれた優しい女主人(文字を教えただけで旦那に叱責され、その後優しい女主人は残酷な所有者に豹変する)、プアホワイトの少年たちとの交流から知識を得て、一度目の逃亡失敗のあたりからは急速に面白い展開になる。「船大工」は一度目の逃亡失敗後のエピソードなのだが、ここで黒人たちを排斥しようとし、ついに「皆殺し」まで口にする白人船大工たちは、12歳の黒人奴隷に同情し、フレデリックからパンを貰い、共に食べながら、「知識というパン」を与えてくれた貧乏な白人少年の将来かもしれない。農場での奴隷生活でも、「より残酷」に描かれているのは「金持ちの白人に雇われた白人」である。
「オールド船長」を語るエピソードは全編奴隷制度への憎悪と奴隷所有者への罵倒の連続。ここでは60年代の黒人解放運動のリーダーたちのスピーチに通じるリズムを感じる(1963年!の日本語訳はさすがに古臭いのだがさすがのリズム感)。

「フェア」であるということ/静岡ダービーでの処分について思うこと

2013-11-08 21:46:58 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
実に気分がどよーんとしている。
静岡ダービーでの出来事について清水ゴール裏の一部サポーターに対する処分について、である。
今季春の大不振では3月から6月にかけてゴール裏のサポーターを中心にフロントへの激烈な抗議と糾弾が続いたわけだが、先月の静岡ダービーでの「事件」に便乗してフロントが意趣返ししたような状況だ。

10月27日ジュビロ磐田戦に関するご報告(清水エスパルス公式)
試合時における横断幕の掲出について(清水エスパルス公式)

「迷惑行為」に及んだ一部サポーターグループには無期限の入場禁止処分、さらに無期限のサポーター活動(横断幕・フラッグ類の掲出や使用、当該グループに所属すると見られる衣服や装飾品を着用しての活動、その他弊クラブが当該グループとしての活動と判断する全ての応援活動)禁止処分』を科す、とある。
マナーやモラルに関する話題については、オレにとってはこれまでの磐田ゴール裏の所業を含めて「ゴトビ核爆弾に比べれば大したことはない」に尽きる。リーグを含めて、あの差別表現をナアナアで見逃しておいてマナーもモラルもあったものではない。
椅子(という名のヤマスタの老朽化したプラスチック板)破壊に関しては、「あれは椅子だ」と主張する以上はやらかした人間が弁済なり処分を受けるべきだろう。それは器物破損という罪なのだから仕方がない。
とにかく問題の当事者(個人)を認定し、しかるべき処分を下すだけならともかく規制が全体に及ぶのはナンセンスと言わざるを得ない。

しかし何よりも問題なのは、もはやトラブルをサポーター間で事を収めることなく、ダイレクトにクラブに対して無責任なクレームを入れ続ける一部のネットサポーターの問題だ。サポーター間のトラブルについてクラブはあくまでも第三者であるべきで、クラブはサポーターの管理者ではないのだ。しかし現場感のない連中は手っ取り早くフロントに処分させようとする。
彼らにとってサポートするということはその程度のことでしかない。
彼らはゴール裏を売った。その程度の価値しかないからだろう。腹立たしくて仕方がない。
降格寸前のストレスを解消して溜飲を下げたキミたち、もしくは同じ清水サポーターでありながら当該の一部サポーターを快く思わなかったために無邪気に規制を喜ぶキミたちは、一体サッカーから何を受け取って、何を学んだのか。

「フェア」を謳うフロントと社長には徹底抗議する。
ロコロコなど自分たちに都合がいいサポーターの熱狂は利用するくせに、都合が悪くなれば切り捨てるのではあまりにも都合がよすぎる。「フェア」であるということは、こういうこと(以下引用)である。

<いきなり大風呂敷を広げるようで恐縮であるが、人間にとって最大の悪は病いと負傷と死に違いない。そこで人間はそういう悪の恐怖から逃れそれらの危険を避けるために、たがいに寄り付き合い結ばれ合って、社会という共同体をつくった。そうしてそれぞれの力をひとつの権威に預け任せることを発明した。つまり人間は社会的な動物になったわけである。
 では、その人間たちの最大の関心事はなんであったか。意見はさまざまに分れるだろうが、私の考えでは、
「正義はきちんと行われているか」
 これにもっとも関心が集まっていたのではないかとおもわれる。そして正義の根本は平等にあった。(中略)実際綱吉という人物は奇妙である。その治世を二つに分ければ、前半期(天和-貞享)の彼は名君だったといってよかろう(中略)重要なのはこの時期の彼が掲げた政治原理で、それは、
「賞罰厳命」
 である。「刑罰の公平な割当て」が政治を刷新し、人心を活気づけたわけだ。(中略)忠臣蔵物語を、今も私たちが愛するのは、やはり不公平な世の中がつづいているからだろうか。>
(井上ひさし『イヌの仇討』文春文庫「日本の仇討」より)

今年の清水を取り巻く事柄について、いまだに公正な処分が行われていないから尚更腹が立つのだ。

カウンター前夜/『奴らを通すな!』

2013-11-08 06:09:07 | Books


山口祐二郎『奴らを通すな!』(ころから)
<これは、俺が反差別運動を「やらなかった」記録と、そして「やったきた」記録だ。>
山口祐二郎は冒頭にそう書く。まったくその通りで「やらなかった」記録は同書のほぼ半分ほどを占める。しかし「やらなかった」とはいえ、レイシストや右翼、新左翼関係者の描写は濃厚で、本人が右翼の運動内部にいながら、在特会をはじめとする<行動する保守>を逡巡しながら見つめ続けてきたのかは充分に伺える。近くにいればいるほど、いかに拳を振り上げ、声を挙げることが困難か、ということである。
しかし反差別運動を「やらなかった」間に、彼が「やってきた」ことはかつての友人への失望と行動する保守に対する怒りに満ちている。そしてレイシストをしばき隊の登場が状況と彼の行動を変える。

今年東京・新大久保で巻き起こったカウンタームーブメントの前夜と現在を理解する上には読むべき一冊。カウンターの現場に顔を見せる警備の方々にも税金で購入するように勧めておいたが、現在の反差別運動の最前線で「何が起こっていたのか」「何が起こっているのか」、そしてオレたちが「何に怒っているのか」を理解するためには是非読んでいただきたい。

『ハイリスク・ノーリターン』にもいえることだが、山口祐二郎は続編を書かなければならない人間である。
彼の「続編」を目の前で期待している。

2.26から3.11へ/『二・二六事件の幻影 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』(2)

2013-11-08 02:59:23 | Books
戦後、青年将校たちの行動は、その若さと共に<純粋や情熱は視野の狭さや思慮の浅さと同義>とされ、多くの批評が加えられた。さらに教養主義の文化人らによって60年代の若者の季節においても、その<行動・理念への情熱>は否定的に語られ続けた。ある意味では当然の帰結だとはいえ、若さに基づいた<行動・理念への情熱>は疲弊し、屈折し、80年代を迎える。
『二・二六事件の幻影 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』で福間氏は終章でこう書いている。

<「二・二六」の戦後史は、「純粋さという浅慮」の論点が後景に退いていく歴史でもあった。(中略)それは、「情熱」「情愛」への陶酔にともない、いかなる思考が停止されるのかを問うものであった。しかし、八〇年代以降にもなると、こうした論点は消え去り、「情愛」のみが前景化するようになった。>(終章 戦後メディア文化の中の「ファシズム」)

その80年代からもすでに20年以上が経った。もはや2.26が語られることもまずない。
しかし<「情愛」のみが前景化>する状況はさらに進行しているといわざるを得ない。<情愛のみが前景化する>ということは、「物語」に陶酔し、思考停止することに他ならない。しかも状況は個人の「情愛」から国家という「情愛」――フィクションに首までどっぷり漬かっている状態というのが現代の日本である。
90年代に日本人が見た「何かの情熱」の典型例はきっと破滅したオウムだっただろう。
そして90年代以降「何かの情熱」すら見失ってしまった日本人が選び、「国家という情愛」を体現しているのがネトウヨ化した現在の自民党だろう。

一方でオレが希望を見出しているのは3.11以降の反原発運動や反レイシズム運動に現れた、もう決して若くはない人たちによる<行動・理念への情熱>の復権、である。
ここにはもはや若さで語られるような「陶酔」はない。若くないんだから当たり前である。
確かに<「純粋さという浅慮」の論点が後景に退いてい>ったのかもしれないけれども、<行動・理念への情熱>に対する日本人のアレルギーはまだ根強い。正義を振りかざすことや主張を押し付けられることへの嫌悪は日常生活レベルで起こる。しかし、残念ながら正義は掲げられなければならないし、まず主張は互いに押し付け合うことから始まる。いくらアンタが嫌だって民主主義のコミュニケーションというのはそういうものなのだ。
本書の冒頭では現代の<変革願望>への疑問が投げかけられる。日本という社会が転換を迫られていることは確かで、日本人の選択は日替わりで迷走を続けている。
そして今「情愛」に浸るか、「情熱」で動くか、それが改めて問われている。

(追記)
ちなみにこれは決してクーデター待望論ではないので、アシカラズ。

情熱の在り処/『二・二六事件の幻影: 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』

2013-11-08 01:04:22 | Books


福間良明『二・二六事件の幻影: 戦後大衆文化とファシズムへの欲望』(筑摩書房)。
2.26事件がいかに小説、舞台、映画、テレビドラマ、漫画などのメディアで「演出」され、どのように大衆に受容されてきたのか。2.26事件にまつわるエンタテインメントメディア通史の一冊。終章の結論は正直未だ途上といった印象でしかないのだが、なかなか読ませる内容ではある。

キーワードとされるのは青年将校たちの「情熱(公)」と彼らの個人的な「情愛(私)」。
敗戦後から60年代にかけて2.26事件という“素材”は、「情熱」の在り処や正当性が問われ続ける。勿論「情熱」の描写も60年代末から70年代初頭の“政治の季節”では公の情熱から個の情熱にフォーカスが移り、時代の空気を反映して過激化していく。本書で60年代(前後)に多くのページが割かれているのも、60年安保闘争や学園紛争を背景に、それに危機感を持った右翼勢力によるクーデター未遂事件である三無事件、さらに自衛隊幹部による三矢計画の露見など、実にキナ臭い公と個のせめぎ合いがこの時代に起こり、2.26事件における<行動・理念への情熱>を想起させたこともある。
50年代から60年代にかけて2.26事件を材に日本のファシズム批判を展開していた丸山眞男が、学園紛争の時代に教え子であるはずの学生から軟禁され、2.26事件の青年将校以上に、熱に浮かされただけの<行動・理念への情熱>を目の当たりにするくだりなどは実に皮肉に映る。

その一方で65年に発表された利根川裕『宴』の登場あたりから青年将校の「情愛」にメディアと大衆のフォーカスは移る。当然のことながら過激な“政治の季節”を経て事件から時に経つごとにメディアの演出と大衆の受容の傾向は、「情熱」から「情愛」へと移って行くわけだ。個人的にリアルタイムで観た映画である『動乱』や『226』では「情愛」=メロドラマこそあれ、「情熱」ではもはや燃やすべき対象は、ない。バブル期に公開された『226』に至っては、プロデューサーの奥山和由は<パワーダウンした現代だからこそ、この題材を提起する>として2.26事件を取り上げたものの、その「情熱」の対象は「何か」でしかない。
これには笑った。
<行動・理念への情熱>をシンプルにストレートに受け取ったとしても、さすがに「何か」はないだろう。しかし燃やすべき「情熱」を価値相対化地獄で失った末の80年代の価値観は最終的に「何か」を求めざるを得なかったのだ。
『226』の主人公には、決起に最後まで迷いながら決起後は最後まで戦い続けた安藤輝三でもなく、声高に維新を叫び続けながら一方では策謀家でもあった磯部浅一でもなく、そして事件後も彼らのように法廷闘争の果てに天皇の軍隊に銃殺されたわけではなく、事件の渦中で唯一拳銃自殺を果たした野中四郎が選ばれた。つまり事件の渦中で命を絶った=自己完結した彼は、具体的で何らかの「情熱」を見出さなければならない政治性を纏うことなく、「何か」の純粋や情熱を、純粋に、そして情熱的に描くために選ばれたのだろう。
映画やエンタテインメントメディアは必ずしも「事件」を正確に、そして政治的メッセージを込めて製作される必要はないとは思うが、あの時代はそういう時代だったのだとしか言いようがない。

しかしエンタテインメント的には見るべきもののないこの時代にも興味深い記述もある。
80年に公開された『動乱』をきっかけに青年将校ではなく、半世紀の時を経て末端の兵士たちの証言、手記の刊行が促されたという。青年将校の命令によって駆り出された兵士は1400余名。そのうち1000名は入隊一ヶ月未満の初年兵で、原隊復帰後は満州の最前線、それも<叛乱軍><国賊>としてあえて激戦地に投入された。しかも復員後も戦友会という名の<証言抑制機能>が働き続け、彼らの声は表に出ることはなかった(これは戦地での虐殺行為などの加害証言の抑制にもつながる)。そしてこの時代、戦友会の世代交代が起こり、兵士たちが声を挙げはじめたわけだ。
青年将校の「行動・理念への情熱」は事件直後から60年代にかけて検証され、描かれ続けてきたわけだが、事件に引きずり込まれ、心ならずも汚名を着せられ、物言うことも許されてこなかった兵士たちが描かれ、報われることはない。
主人公はいつでも青年将校である。事件を取り上げたところでエンタテインメントの世界では、本書でも触れられる50~60年代に製作された<軍神映画>とさほど変わりはしないのだ。

(長くなったので続く)