徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

殴りあわなければ理解できない関係/岡本かの子「越年」

2012-02-27 22:46:13 | Books
録音しておいた岡本かの子の「越年」(NHKラジオ文学館)を聴く。

年末、主人公のOLが突然ひとりの男性社員から平手打ちを喰らう(そのまま彼は退職する)。怒りに燃えた同僚と共に男性社員を犯人捜しをしていたら、年を跨いで銀座で発見。同僚に煽られながら彼女は彼を引っ叩く。

という何てことのない短編なんですが、彼が彼女を殴った理由がまた大した理由じゃない。
しかし最後のワンフレーズで何だかわけのわからない焦燥感に襲われる。
結局そこには取り残された感情だけがあって、あとに何も残らなかった。いや、もしかして最初から何もなかったのかもしれない、という焦燥感。
それはもしかしたら結べたかもしれない人間関係の行き違いという、現代にも十分に通じる関係の問題。
殴り合わなければ理解できない関係というのは不幸なものである。

てか、何も言わずに殴るな。殴ったら逃げるな。

開幕前決起集会、改めローカル飲み会

2012-02-27 14:57:17 | Sports/Football


昨夜は浦和の吉沢さん主催の<祝Jリーグ開幕 吉沢康一の≪春闘≫サッカー好き決起集会!!(サッカー好きでなくてOK)>に参加。@十勝平野北浦和店。イベントのアイコンがアレならば行かないわけにはいかないのである。
昼からアルビレックス新潟とのPSMがあるので観てから行こうと思ったら、スカパーの中継は録画で、しかも16時30分からの放送。仕方がないので前半だけ観て浦和へ出撃。

当然のことながら浦和な方々が多数を占めるわけで、微妙にアウエイな雰囲気ながら、カルキン(カルトキング)こと萩本良博さんも参加されていた。
吉沢さんやカルキンさんはドーハにも参戦した日本のサポーター第一世代とも言える人たちなのだが、カルキンさんはトレーナー業をされていて、かつてはアルビレックス新潟にスタッフとして参加している(彼は現在松本で監督をされている反町さんや京都の大木さんの指導に感銘と影響を受けている模様)。サポーター第一世代の彼らが「サッカーで喰っている」ということは本当に素晴らしいことで、既に代理人として活躍されている方もいるけれども、カルキンさんのように現場に関わっている方々には、是非とも本気でプロコーチを目指していただきたいものである。

で、会の後半は講演会帰りだったカルキンさんのテーピング講座。



この日の参加者の皆さんは職種は別として、サポーター、トレーナー、コーチ、審判、GM(自称)、そしてアナーキーの後輩など等、さまざまな形でサッカーに関わっている。サッカーを語るということはグローバルであると同時にローカルな自分を語ることでもある。
「屋外で1時間しかサッカーできない福島の子供たちを埼玉へ遠征させて思いっきりサッカーさせたい」などという話題は酔っ払っていなければ実に感動的な話である。もちろん酔っ払っていても、それは伝わったんだけれども。改めて、サッカー(Jリーグ)はローカルとローカルを繋ぐものなんだよね。ということで、浦和って良い意味でローカルな街だなァ、と思った。



ちなみに吉沢さんは浦和炎上という、サプリを取り扱うネットショップをスタートさせた。ということで昨夜は酒を飲む前に3カプセル。最近はできるだけサプリを服用してから酒を飲むようにしているのだけれども、今日の寝起きはなかなか快調でありました(しかし浦和炎上、ストレートなショップ名だなあw)。

今度は炎上するほど飲みたいと思います。

ロングラン

2012-02-26 02:08:39 | 素日記
TLで小田嶋隆氏のツイートが流れてきたので、何気なしに渡さん中傷記事を見に行ったら、去年の3月13日にもコメントが入っていた。何でこの人、3.11の2日後にとっくに終わった記事にコメントしてんだろw

てか、この記事ロングランだな…。

場所と想い出

2012-02-22 00:27:34 | Movie/Theater
男3 どうしたんです……?
男1 え……? いや……。
男3 何か、失くしたんですか……?
男1 ええ、たいしたもんじゃないんですがね……靴と、靴下と、ネクタイと……。
男3 何故そんなものを失くしたんです……?
男1 そうなんですよ。私も今、それを考えているんですけどね。何故そんなものを失くしたのか……。私はただ、ここでバスを待っていたんですが……。
男3 バスを待っていた……?
男1 ええ、そうです。
男3 もうここには、バスなんか通っていないんですよ……。
男1 バスが通ってない……?
男3 もちろん、昔は、通っていましたけどね……。
男1 (バス停の標識を指して)でも、それじゃこれは何なのです?
男3 昔、バスが通っていた頃を思い出すために、残してあるんです。いわば、記念品です。ここの連中は、そういうことが好きなんですよ。それ以外にはなんにもないんですからね、ここには……。じゃ、失礼します……。
男1 待って下さい。ここから出てゆくにはどう行けばいいんですか……?
男3 どちらへでも、あなたの好きな方へ歩いていけばいいんです。もっとも、ここの連中の思い出から抜けだすわけにはいかないでしょうけどね……。おやすみなさい。
(別役実『場所と想い出』)

「ホテル・カリフォルニア」か…。

「身体を張って対話する」ということ/2.20経産省前抗議

2012-02-21 23:38:17 | News


昨日は夕方から経産省の保安院で行われたストレステストに対する意見聴取会(第9回)の抗議行動に参加。
この日も寒風が吹き抜ける中、数十人の一般市民が参加した。オレは17時頃に現場に着いたのだけれども、気がつけば周囲に仕事終わり(らしき)の方々が多く集まっていた。

同日には柏崎刈羽村で東京電力による住民説明会も行われた。反対意見が多い中、それでも「体を張って地域と対話し、安全に安全を重ね再稼働してもらいたい」という、地元住民による再稼動賛成の意見も出されたという。
「安全に安全を重ねる」とは一体どういうことなのか。
一方経産省内の保安院では<電力各社に昨年末までに提出するよう求めた2次評価(炉心損傷に至った場合に炉内の蒸気を外部に放出する「ベント」を行う際、放射性物質を除去する設備を設置することなど)の報告書が全く提出されていないことを明らかにした>という。
抗議に集まっている人々は、それなりに「身体を張って対話し」ていると思うのだが、それに対して電力会社は「安全に安全を重ねる」気はないのか。これではまったくお話にならない。

20時を過ぎた頃、傍聴人の報告スピーチを受けて別館に移動した。
しかし保安院の前の方がテンションが上がるのは何故なんだろう(個人的には)。

終了直前に集団から離れた。日比谷公園で聴いた最後のコールは、まるでゴール裏のチャントのように、煌々と明かりが灯り続ける霞ヶ関に大きく響いていた。
あれが聴こえないわけがない。あの声が届かないわけがない、と思った。

のちの時代のひとびとに/「ブレヒト詩集」

2012-02-21 15:37:50 | Books
のちの時代のひとびとに


そうなのだ、ぼくの生きている時代は暗い。
無邪気なことばは間が抜ける。皺をよせぬひたいは
感受性欠乏のしるし。笑える者は
おそろしい事態を
まだ聞いていない者だけだ。

なんという時代――この時代にあっては、
庭がどうの、など言ってるのは、ほとんど犯罪に類する。
なぜなら、それは無数の非行について沈黙している!
平穏に道を歩みゆく者は
苦境にある友人たちと
すでに無縁の存在ではなかろうか?

たしかに、どうやらまだぼくは喰えている。
でも、嘘じゃない、それはただの偶然だ。ぼくのしごとは
どれひとつ、ぼくに飽食をゆるすようなものじゃない。
なんとかなってるなら偶然だ。(運がなくなれば
おしまいだ。)
ひとはいう、飲んで喰え、喰えりゃあ結構だ、と。
だがどうして飲み喰いできるか、もしぼくの
喰うものは、飢えてるひとから掠めたもので
飲む水は、かわいたひとの手の届かぬものだとしたら?
そのくせぼくは喰い、ぼくは飲む。

賢明でありたい、と思わぬこともない。
むかしの本には書いてある、賢明な生きかたが。
たとえば、世俗の争いをはなれて短い生を
平穏に送ること
権力と縁を結ばぬこと
悪には善でむくいること
欲望はみたそうと思わず忘れること
が、賢明なのだとか。
どれひとつ、ぼくにはできぬ。
そうなのだ、ぼくの生きている時代は暗い。


ぼくが都市へ来たのは混乱の時代
飢餓の季節。
ぼくがひとびとに加わったのは暴動の時代、
ぼくは叛逆した、かれらとともに。
こうしてぼくの時がながれた
ぼくにあたえられた時、地上の時。

戦闘のあいまに食事し
ひとごろしにまじって眠った。
愛を育てもしたが、それに専念する余裕もなく、
自然を見ればいらだった。
こうしてぼくの時がながれた。
ぼくにあたえられた時、地上の時。

ぼくの時代、行くてはいずこも沼だった。
ことばのためにぼくは屋どもにつけ狙われた。
無力なぼくだった。しかし支配者どもには
ぼくがいるのが少しは目ざわりだったろう。
こうしてぼくの時がながれた。
ぼくにあたえられた時、地上の時。

ぼくらのちからは乏しかった。目的地はまだまだ遠かった。
でもはっきり見えていた、たとえぼく自身は
行き着けそうもないとしても。
こうしてぼくの時がながれた
ぼくに与えられた時、地上の時。


きみたち、ぼくらが沈没し去る潮流から
いつかうかびあがってくるきみたち、
思え
ぼくらの弱さを言うときに
この時代の暗さをも、
きみらの逃れえた暗さをも。
事実ぼくらは、靴よりもしばしば土地をはきかえて
絶望的に、階級間の戦いをくぐっていったのだ、
不正のみ行われ、反抗が影を没していたときに。

とはいえ、無論ぼくらは知っている。
憎悪は、下劣に対する憎悪すら
顔をゆがめることを、
憤怒は、不正に対する憤怒すら
声をきたなくすることを。ああ、ぼくたちは
友愛の地を準備しようとしたぼくたち自身は
友愛にのみ生きることは不可能だった。
だかきみたち、いつの日かついに
ひととひととがみな手をさしのべあうときに
思え、ぼくたちを
ひろいこころで。(1938)
(野村修・訳「ブレヒト詩集」飯塚書店1971) 

君はすばらしい

2012-02-18 22:14:38 | Music



オレはキリスト教徒でも何でもないんだが、忠さんのオリジナルゴスペルは本当にいい(この動画の「絵」もとてもいい)。
気分的には「勝利者」なんだが、今、そしてこれから戦う人たちへ向けて。

神やイエスの部分は大目に見てください。

IMAGINE FUKUSHIMA

2012-02-18 19:29:23 | News


IMAGINE FUKUSHIMA 展

おおくぼひさこさんも参加し、オリジナルプリントを出品されるそうです(売り上げの一部を支援にあてるという趣旨の模様)。

会期:2012年3月1日(木)-6日(火)11:00~18:00(最終日16:00迄)
会場:コート・ギャラリー国立(ギャラリー2)
   東京都国立市中1-8-32(JR国立駅南口より徒歩1分)TEL:042-573-8282 
   facebook

楽しむとか友だちとか

2012-02-18 18:49:35 | News
「オレは楽しむためにデモ行ってんじゃねぇ」
「コミュニティを求めてデモに行ってんじゃねぇ」

と、思わず書いてしまう気持ちはわからないでもない。
野暮な文句で煽られてしまうと、売り文句に買い文句になってしまうのも仕方がない。

しかし「楽し」んでしまう人がいることも、コミュニティを求めてしまう気持ちを無理やり否定することもない。
反/脱原発を心の中では思っていても表現できない人が大多数の中で、同じ思いを抱いている人たちが集まってしまえば、そこでは互いに友人のような共感を覚える人もいるだろうし、出会ってしまえば楽しくなってしまうのは仕方がない。
そんな気持ちを否定しちゃいけない。
それはオレたちの<本気>や<真剣>を測る尺度ではないのだから。
ましてや、それはコミュニティ内の話であって、外側にいてあわよくば揚げ足を取って文句を言ってやろうと思ってる輩には関係のない話である。「関係ない」のにわざわざ絡んで文句をつけて「関係を強要する」という行為をストーカーと呼ぶのだ。

しかしながら互いに意識を共有している関係ならば、無理に突き放す必要はない。
敵意を剥き出しにしているような連中を相手にしているわけではないのだから、その関係の中でコミュニティを築いたり、個人的な関係を結んでいくのはまったく悪いことじゃない。

てか、どちらにしても問題と対峙していく道のりは長いんだから、「関係」に気負いすぎると疲れちゃうと思うのだ。
疲れるのは問題だけで十分。

さからいさえしなければ/安部公房「友達」

2012-02-18 03:51:54 | Books


「さからいさえしなければ、私たちなんか、ただの世間にしかすぎなかったのに……」

原点なんていう偉そうな背景はないのだけれども、子供の頃からずっとトラウマのように安部公房の戯曲『友達』(1967)の有名なの台詞が頭から離れず、時々思い出す。
有名な作品だし、改めて書くことでもないのだけれども『友達』はそれ以前に書かれた『闖入者』という小説を下敷きにしている。下敷きにしてはいるが、作者曰く、
<テーマもプロットも、まったくちがっている。もし、脚色と原作が同一人物でなかったら、二人は生涯許し合えない敵になってしまうだろう。私が、私自身であったことを感謝する。>(安部公房『友達/榎本武揚』河出書房 あとがき)

タイトルの通り、一人のサラリーマンの部屋に見知らぬ家族が押しかけ住み着いてしまうという悪夢のような物語なのだが、一方が権利を主張する「闖入者」としてが描かれるのに対して、もう一方は(少なくとも一見)悪意のない「友人愛」「隣人愛」を押し付け、部屋に居座り、主人公を死に追いやってしまう。安部公房はさらにこう書いている。
<非常な多数決原理で襲いかかった「闖入者」たちが、こんどは、親愛なる同朋として、「友情」の押し売りをはじめたというわけだ。プロットには共通性があるが、テーマはすっかり変質してしまった。「闖入者」を「友達」という、いささかトボケた題名に変えることによって、私は偽似共同体のシンボル(明治百年、紀元節の復活、等々)に対する、われわれの内部の弱さと盲点を、その内部からあばいてみようと考えたわけである。>(安部公房『安部公房全集』新潮社 「友達―『闖入者』」)

89年だって思い出したし、2012年も思い出している。

ところで、同じようなプロットが藤子不二雄A(安孫子素雄)先生の『笑ゥせぇるすまん』のエピソードとして描かれているそうなのだけれども、オレ、アニメ版の「サザエさん」でも観たような記憶があるのだけれども、これは空脳だろうか…。
一時期そういう悪夢見てたもの。

これでいいのだ

2012-02-17 20:31:53 | Music



戦後日本の批評として青島幸男と植木等の「ニッポン無責任時代」はよく取り上げられるわけなんだけれども、今日、ある人(タレントさん)の原稿を整理していて、この歌も改めて凄い批評的な歌だなあと思った。
やっぱし日本人って何も考えなくても<これでいいのだ>に支配されてんだよね。

1曲目が圧倒的に凄くて2曲目以降は普通のアニソンなんですけどw

4 REAL/一周年に向けて

2012-02-17 20:16:39 | News
この一週間は団体系の幟旗問題から3.11のデモ(福島で行われる「原発いらない!3.11福島県民大集会」や国会を人間の鎖で囲む3.11東京大行進)への批判を巡って、Twitter上でさまざまな意見が交わされた。
幟旗問題はひとまず置いておくとして、3.11問題については、大抵の批判は揶揄や感情論といった、20年数年前にも見たような光景だったので、まあ、オレ自身がそれによって考え方が変わるなんてことはない。ハナからデモに批判的な人間というのはいつだって機会を伺っているもので、一周年だろうが、月命日であろうが、日付などというものはほとんど意味がない。

中には右からデモの針谷さんのように、追悼の日というだけではなく「運動への影響」を懸念するという意見もあった。もちろん、それは理解できる。
しかし、それでも3.11は追悼の日であるというだけではなく、この一年間に行われた政府、霞ヶ関の対応に向けた告発の日であり、抗議の日であると感じている人たちがいる以上、デモは起こって当然なのだ。追悼は人それぞれの心のあり方の問題であり、行動もまた人それぞれの心の発露なのだから、それ自体を批判しようとしても意味がない。

また「楽しいデモ」も問われた。
デモの集団と言っても所詮は「社会」なのだから、真剣に叫び続ける人もいれば、デモが楽しいから参加している人もいる。そんな有象無象の集団に、参加している人間だって全体を把握できるわけがないのに、外から無責任に眺めているだけの人間が全体を理解しようというのが無理な話だ。
だからこそ、最低限のルールとしてシングルイシューであるべきなのだ、ということがいつになったらわかるのだろう。
有象無象の前に、シングルイシューを確認し、行動の前提にしなければ何を訴えたいのかわからなくなってしまう。
マニックスの「4 REAL」事件を思い出した。そういう下らない揶揄を書き続ける連中は、参加者がその言葉を腕に刻んだら納得するのかね?

こんな風に、この一週間は自分(たち)の行動について改めて「真剣」を、「本気」を測られた(測った)。

その週末に杉並で「楽しげ」なデモが行われるというのは実に皮肉なものである。
杉並には脱原発という意味ではもはやホームと言ってもいいコミュニティが形成されている。それは杉並(高円寺)に限らず中央線沿線の古くからのカルチャーだろう。オレも10年以上前は住んでいたので、それは、わかる。
ただ、正直言ってデモンストレーションというのは、アピールする(しなければならない)他人がいる「アウエイ」でこそ意味があると思っている。予定調和とまでは言わないけれども、お互いの意志を確認し合うためだけならば、それはコミュニティ内のイベントなんだろう(もちろん、それはそれでまったく否定するつもりはないけれども)。
おそらくオレは明後日の杉並でのデモには行かない。
しかし、まあ、それでも意志を持って“有象無象”の中で歩き、声を上げる人たちは支持しますが。

とはいえ、その翌日の20日には経産省前で直接抗議行動が予定されている。
また今月25日にはNNMHのデモが渋谷で行われ、3月末には9回目のTwitNoNukesのデモも行われる。
「公」の一周年とは違う、「ひとりひとり」の一周年がそこで問われるはずだ。
「敵」は目の前にいるのだから、まあ、息切れしないように、それなりに楽しく、真剣にやろうぜ。

まあ杉並に行けないのは20日の抗議行動までに、本気で仕事を終わらせておかなければならないって現実があるわけですが。4 REAL.

剥き出しの怒り、Fist of Fury/2.8経産省前抗議

2012-02-09 15:20:48 | News


昨夜は大飯原発のストレステストに対する保安院の妥当発言と再稼動問題について経産省前で抗議行動があったので、急遽行くことにした。まあ仕事の詰まり具合も結構ヤバいんだが仕方がない。今年の最大のテーマは「いかに再稼動を止めさせるか」なのだから、現場に行くしかないのである。

着いたのは「集会」が始まってしばらく経った頃だったと思うけれども、それから1時間程度、時々参加者から起こるコールを交えながら、延々と十数人に渡ってスピーチが行われていた。
この光景は去年、某団体が主催した九電前の行動と同じだったと思う。
もちろんその中には、東電ではなく丸紅から購入した電気で、節電を呼びかけながら煌々と明かりが灯るビルに向かって熱く語りかけたり、ノイホイさんのように厳しく経産省を糾弾する人もいたわけだが、オレたちは抗議をしているのであって、寒空の下、集会をしに行っているのではない。TwitterのTLをチェックすると現場にあった日の丸に対してちょっとしたやり取りもあったようだし、もう、この辺は相変わらずとしか言いようがない。
同調できないスピーチには周囲の声も上がらない。むしろコールでかき消されたりもした。これは左に限らず右に対しても同じことだ。オレも我慢できずに、後半はスピーチの最中に何度かコールの声を上げた。
雪もチラついた寒さの中で延々とスピーチを聞かされる辛さは、ちょっと、今までにない。

だから告知されていた「集会」の後に、有志によって引き続き行われた「抗議」の言葉が荒く、熱くなるのは、ある意味当然なのだ。まず最初にトラメガを持ったbcxxx君のスピーチが笑ってしまうぐらい強烈だった。それは本気の、剥き出しの怒りだ。あのスピーチがその後の流れを作ったのだと思う。皆、寒さに震えながら、その怒りに同調してコールした。
この後半戦のスピーチを批判している人たちもいるようだけれども、オレたちの本気が問われているのに、「本気」を剥き出しにしたら批判されるって何なんだ? と思う。
早い話がオレたちはインチキ、八百長に怒っているのである。
貧乏人は生きるために多少のズルをしたところで、どうしたって結果的に「腹を切る」しかない。抗議に参加している人たちには「止めろ」「いらない」とだけ言っているだけで、何の利益もないわけだが、逃げ切ろうとしている連中は違う。こちらが本気にならなければ、連中は既成事実だけを積み重ね、再稼動を認めさせる。原発問題が決してエネルギー問題だけではないことを、改めてはっきりと認識すべきだ(ノイホイさんはこの点について執拗に糾弾した)。
昨日の夜、オレの頭ん中にはFist of Furyのマイク・レメディオスの声が響いていたよ。
趣味でやってるわけじゃない。怒りの鉄拳だぜ。



まあ、しかし、寒かった。
厚手のスカジャンの下がTシャツ1枚というのはさすがにオレでも寒い(当たり前だ)。