徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

喧嘩両成敗のその先

2018-02-22 11:23:40 | News
TLに流れていた昭恵ツーショット画像集、しっかり見てなかったけど、これネトウヨ桂春蝶だったのか。
今時(というか今だからこそなのか)、低レベルな自己責任論がなぜか関西芸人から連発される。
しかし「世界中が憧れるこの日本」って凄いパワーワードである。ま、こんなものは「日本スゴイ」の言い換えでしかないのだが。



73年前の南米で起きた「勝ち組負け組」の抗争が21世紀に見られる日本は、悪い意味で確かに凄いと思う。
しかし単なる思考停止と、もはや態度を決めなければならない事柄についてまで他人事でしかいられない、日本人の「喧嘩両成敗」(どっちもどっち)のカルチャーは、やはり見直されるべきではないのか。

<「問題を起こしたら双方を処分」するのではなく、「問題を武力で解決(故戦防戦)しようとしたら双方を処分。」である。>(Wikipedia)

移民社会への抑圧や不満があったとはいえ、やはり勝ち組は明らかに間違っていたし、負け組は彼らの暴発を食い止めようとしていたのだ。73年経った今、海の向こうではなく、この国で起きている勝ち組と負け組の抗争について、喧嘩はともかく、やはり問題を見極め、態度を決められない姿勢は問われなければならない(だろう、きっと)。

もうすでにこの国のリーダーが勝ち組ではないか、という絶望は置いておいて、私たちの「抗争」が書店の本棚で起きている程度のうちに。

Be There/映画「STANDARD」公開に向けて その5

2018-02-21 20:26:26 | News
昨日「STANDARD」初上映が無事終了しました。
ツイートでも投稿しましたが、改めて超満員の中、視聴環境もしんどい中で長時間の作品をご覧になって頂いた方々に心より感謝いたします。また野間易通さんをはじめ、出展作家、Galaxy関係者の皆さんもご協力ありがとうございました。ドアを開けた瞬間に湯気が出るような熱い上映会となりました。

「ねえ、これ良いと思わない?」
制作が始まった頃、SNSの会話の中で、いつもの調子で張さん(Akira the Hustler)がリンクを貼り付けたのが、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「スタンダード」 でした。最初に書いた企画書の表紙には「STANDARD」の文字があります。映画のタイトルはこの2年間、ずっと変わらず「STANDARD」だったのです。ではその後、楽曲について詳しく話し合いが行われたのかといえば、そんな記憶はないのですが(ゴッチさんすいません)、間違いなくきっかけはこの会話でした。
確かに、言葉が示す意味があまりにも大きく、広く、どのようにも受け取れる言葉です。あまりにもポピュラーな言葉であるために、 #TNN_STANDARD のタグがなければスタッフが映画の感想を検索するだけでも大変です。
昨日、私は「昔の日本人にはあったはずのSTANDARDを取り戻す」てなことをグダグタと喋りましたが、その答えはその時々で変わるかもしれません。それは今も揺るぎなくあるものなのか、それは失われたものなのか、それを取り戻すのか、それを作るのか、それを真似るのか、そもそもSTANDARDとは何なのか。作品の中で監督は「STANDARD」について、彼自身の答えを出していますが、個人的には作品を観る人がタイトルをどのように解釈するのも構わないと思っています。とにかく、スタッフはリンクに貼られた「STANDARD」という言葉が指し示すものの中に、これから作る映画の核となるものがあるのではないかと思ったのでしょう。

川崎のN君が感想を書いてくれました。私にとってN君という人は同じ場所にいても、直接のやり取りはほとんどないのですが、実は13年か、15年の官邸前抗議の頃に一度だけ接触がありました。彼は覚えていないでしょうが、彼に向かって、私が「トラメガ のコールが混乱していて、これじゃ駄目だろ(このヤロー)!」などということを言ったところ、「うるせー先頭で調整してるよ(このヤロー)!」と返されて以来、悪印象があるのですが(笑)、今回とてもいい感想をツイートしてくれました。

<多くを語らなくても「いるべき場所」を少しでも多く共有したく思う欲求こそが社会運動だとずっと思っている。「あの抗議の場に行って良かった」「仕事で参加できなくて悔しい」「けれど心は現場に」そんな気持ちは震災後に芽生えた特異な感情のように思う。>

だから彼は超満員で、ドアを開けた瞬間に外のガラスドアが曇るほど、熱気が充満した中で、2時間もの間、立ち見のままでも、<いるべき場所>にいたのだと書きます。最高です。こんなに嬉しい反応は、なかなかないだろうと思いました。

この映画は決して行動のための映画ではありません。行動をしろ、という映画でもありません。そこで起きたことを当事者の目線で描いた作品です。そこにいたこと、そこにいたかったこと、そしてそこを作ること、そんな気持ちに溢れた映画です。この映画も観る人にとって、<そこにいたい><そこにいたかった>と思える作品であって欲しいと思います。



今もなお日本を揺るがし続ける「3.11以後」。全国的に拡大した反原発運動に始まり、反レイシズム、反安倍政権にコミットし、路上で行動し続けてきた「普通の人々」の姿を描く。 監督:平野太一/出演:野間易通、ECDほか/製作:TwitNoNukes Project /120分 #TNN_STANDARD

我々の行動は東京の片隅で起きていてもグローバルなコミュニケーションの中にある/映画「STANDARD」公開に向けて その4

2018-02-19 17:57:43 | News
かつて隅田川沿いに存在していた<食糧ビル>の中に「佐賀町エキジビットスペース」というアートスペースがありました。2001年に食糧ビルは取り壊しが決まり、閉鎖することになった佐賀町エキジビットスペースの代表で、クリエイティブディレクターである小池一子さんを取材する機会を得ました。コピーライターでもある小池氏の言葉は実に刺激的だったのですが、この言葉はその中でも今でも心に刻んでいる言葉です。

<我々がする仕事は、東京の片隅で起きていてもグローバルなコミュニケーションの中にある。>

これはすべてのインフォメーションがバイリンガルで行われていることについて話していただいたときの言葉なのですが、それ以前に自分の立ち位置を問われているような気がしてとても感銘を受けました。ほとんどの人々の間でネットが常に接続されている現在では当たり前のような感覚かもしれません。
この年に刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』なるメロドラマは数年後に大ブームを起こし、そして2016年から17年にかけて映画『この世界の片隅に』がロングランで上映されました。<世界>と<中心>と<片隅>はこの15年で大きく変化したのでしょうか。ひとまず<さけぶ>か否かは別としても、中心も、また片隅もなくなった世界で「見られている」感覚を忘れてはならないのだと思います(2011年頃はよく「メタ視点」という言葉をよく使っていました)。

「見られている/見せ(てい)る」というデモ参加者の感覚は、映画の中でも特徴的なテーマになっています。
そこから映画にも登場するようなSAYONARA ATOMの「かわいい」横断幕や、国内メディアだけではなく、世界中のメディアやワールドスタンダードを意識したプラカードやTシャツが生まれてきたのだろうと思います。

ウェブの世界では拡散されるためだけの画像が数多く出回っていますが、「言葉を声にする」作業と同じように、何かを訴えるためにシンプルに、ダイレクトにコピーライティングされ、翻訳され、デザインされた画像(プラカード)は行動する人々の手によって掲げられなければ意味がありません。あの頃は沿道からの飛び入り参加を呼び込んでいただけではなく、プラカードの見せ方さえ気にしていたものです。時に暴力的に見えるかもしれない行動でも、見られていることを意識しつつ「伝える」ということについてはとても真摯であり続けたのだと思います。

公開まで24時間。

それにしても、よくよく考えてみると、日本で一番<中心>でいながら<片隅>を感じさせるのはやはり永田町と霞ヶ関なのかもしれません。



映画「STANDARD 」
http://standard-movie.jp
STREET JUSTICE – ART, SOUND AND POWER
レイシストをしばき隊5周年 特別上映
日時 2018年2月20日(火)19:20(上映開始)
※上映開始予定時間が変更になりました。
出演:平野太一(舞台挨拶)ほか
料金:無料
会場 Galaxy 銀河系
(東京都渋谷区神宮前5-27-7-B1 ※JR、東京メトロ、東急「渋谷駅」徒歩8分 東京メトロ「明治神宮前駅」徒歩5分)
TEL 03-6427-2099
http://www.thegalaxy.jp


大事なことはすべてTL上で話し合われていた/映画「STANDARD」公開に向けて その3

2018-02-18 00:08:54 | News
制作当初、企画や方向性を決めるために対面やSNSで行ったミーティングで、私はあるツイートのことを話しました。
「大事なことはすべてTL上で話し合われている」。
野間さんが書いていたのか、bc君だったか、それとも別の誰かだったか、見つけ出せませんでしたが、このスタンスはTwitNoNukes以降の行動に通底しているテーマだと思ったのです。
それはシングルイシューです。断固として、シングルイシューです。誰もがその一歩を踏み出すことができる「言葉」を見つけ出し、多くの人が共有できた瞬間、その行動は拡散します。しかし2015年以降、そんな「言葉」を私たちは見つけられずにいるのではないか。個人的にはそんな風に思っています。
でも2017年春から夏にかけて、一瞬だけ、そんな奇跡的な瞬間が訪れました。映画はその瞬間を実に熱く捉えています。

あれから7年が経とうとしていて、Twitterとの向き合い方は人それぞれ変わってしまって、離れしまった人も、使い方が変わってしまった人も、飽きた人も、またはネトウヨになってしまった人もいるかもしれないけれども、やはり、この想いは変わらないでいます。行動する個人が増え、活動の幅を拡げるグループが増えたとしても、それぞれのグループのやり方や仕掛け、演出が表で語られることがなくても問題ではありません。手法の違いなどどうでもいいことです。もっといいやり方を思いついたのならば、思いついた人間がやっちまえばいいのです。
そして、いまでもやはり本当に大事なことはすべてTL上で話し合われていると思うのです。

きっとそのことを思い出すことができる作品になっていると思います。



映画「STANDARD 」
http://standard-movie.jp
STREET JUSTICE – ART, SOUND AND POWER
レイシストをしばき隊5周年 特別上映
日時 2018年2月20日(火)19:20(上映開始)
※上映開始予定時間が変更になりました。
出演:平野太一(舞台挨拶)ほか
料金:無料
会場 Galaxy 銀河系
(東京都渋谷区神宮前5-27-7-B1 ※JR、東京メトロ、東急「渋谷駅」徒歩8分 東京メトロ「明治神宮前駅」徒歩5分)
TEL 03-6427-2099
http://www.thegalaxy.jp

声を取り戻す/映画「STANDARD」公開に向けて その2

2018-02-13 22:48:20 | News
言葉は声にされなければならない。
いくら正しい言葉でも、そしてその正しい言葉が文字として残るとしても、今、私たちはそれを声にして現実化、肉体化しなければいけない。そう思います。私たちは「今」に生きているのですから。今、伝える、ということはそういうことです。
今、声を上げなければいつまで経っても、言葉は誰かが書き残したとしても、やはり手遅れです。
以前、特定秘密保護法での闘いのあと、「声が枯れている奴は信用できるぜ」てなことを書いて、少々反発もされたのですが、その気持ちは変わりません。



<3.11以降>というのは、行動する人々にとってはいわば路上で声を上げるトレーニングだったと思っています。
例えばこの作品に登場する建築家の山本匠一郎君が「僕は(この行動を)運動だとは思っていない」と発言する場面があります。それはおそらく登場する人たち全員が思っていることで、実は政治や社会の不正、不公平だけではなく、日常生活の中に蔓延る理不尽や不寛容、そして暴力に対して、そんな場面に遭遇した時にすぐに声を上げることができる、行動することができる反射神経を取り戻す行動でもあったのです。
それは、かつて日本にもあったはずの「スタンダード」を取り戻す闘いだったのだろうと思います。

TwitNoNukesは実に「うるさい」デモでした。ECDさんは初期は「それほどでもなかった」と言っていましたが、参加者一人ひとりが大声を上げるデモだったのです(私自身、ブログで鼓舞していたということもありますが)。それが反レイシズム、反安倍政権の罵声や怒声を含むデカい声の抗議に繋がっていくのは、まあ当然です。
それでもひとりで声を上げるのは心細いですよね。
でも、そんな人にも勇気を与えられる作品になっていると思います。是非観に来て下さい。

映画「STANDARD 」
http://standard-movie.jp
STREET JUSTICE – ART, SOUND AND POWER
レイシストをしばき隊5周年 特別上映
日時 2018年2月20日(火)19:00(上映開始予定)
出演:平野太一(舞台挨拶)ほか
料金:無料
会場 Galaxy 銀河系
(東京都渋谷区神宮前5-27-7-B1 ※JR、東京メトロ、東急「渋谷駅」徒歩8分 東京メトロ「明治神宮前駅」徒歩5分)
TEL 03-6427-2099
http://www.thegalaxy.jp

誰もが TwitNoNukesだった/映画「STANDARD」公開に向けて その1

2018-02-10 12:39:45 | News
平野太一君の初監督作品であるドキュメンタリー映画「STANDARD 」の公開まで10日となりました。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う福島第1原発事故をきっかけに、全国的に拡がった反原発、脱原発ムーブメントを担った数多くのグループの中のひとつであるTwitNoNukesを起点に、現在に至る市民による路上の闘争を、その当事者が語る内容になっています。



今回はC.R.A.C.(Counter-Racist Action Collective 対レイシスト行動集団)主催の<JUSTICE - Art, Sound and Power>の会期中にほぼ連日行われるスペシャルイベントのひとつとして、一回限りの上映となります。この上映をまたひとつの起点として、爆発的に、そして末永く作品の告知を拡げていきたいと思っていますので、上映会にも是非ご参加していただきたいと思います(しかも今回は無料です)。
制作をスタートしたのは2015年、スタッフ内の議論でヴァージョンを重ね、公開版がほぼ固まった中で、急遽決まった上映故に、告知の準備も多少突貫ではありますが、本日、TwitNoNukesの公式Twitterアカウントより今回のイベント用のポスター画像を公開、来週早々には公式サイトもスタートする予定です。なかなか良い感じに仕上がりそうなのでご期待下さい。

制作はTwitNoNukesプロジェクトです。
私、和田がなぜこのプロジェクトに参加しているのか? そしてお前はTwitNoNukesなのかと問われれば、当時言われていた「デモ実行有志」でもなく、参加者の一人でした。と言ってもあの頃はTwitter上の情報交換も今とは比較にならないほど活発でした。顔など知らなくてもダイレクトに実行有志と意見交換もできましたし、何よりも原発事故に対して国民の多くが漠然とではあっても、不安と疑問を抱き、「このままではいけない」「叫ばずにはいられない」切迫した状況ではありました。確かにデモ申請の手続き、プラカードの用意などは「誰か」がやらなければいけないことなのですが、主催と参加者の敷居は実に低かった。またそれまでデモに参加したことが無いような人たちでも、その役割にすぐ手を挙げる人は少なくなかった。誰でも「誰か」になれたわけです(それは今も変わらない)。今回の映画に登場して、語って頂いている方々はそういう人たちです。

所謂、<普通の人々>です。

そんなことを書くと、すぐに<普通とは何か?>などというツッコミが入るものです。実際に当時のTwitter上では激しく討議されていたテーマです。そして実行有志とシンパはそんな連中と連日戦っていました。
この映画で描かれるのは、そんな<普通>との戦いでもあります。映画タイトルの「スタンダード」にはそんな思いも込められています。

続きます。



ひとまず今回の上映まで限られた期間ではありますが、TwitNoNukes公式アカウント、また制作に加わってもらった堕落君のフェイスブック、そして当ブログなどからも続々と情報発信をしていきますので、お付き合い下さい。

ECDは「仕事でロック」したのか

2018-02-01 13:05:05 | News


ECDが亡くなってからTLに彼の画像や動画、そして言葉が途切れることはない。中でもオレが一番共鳴したのはこの言葉だった。

<その仕事をするひとがいなければ世の中が回らない。いやいやでも引き受ければ金銭という報酬を得ることができる。(中略)このことを「つまらない」「悲しい」と嘆く必要はない。なぜならそれがいやいややる仕事であればあるほどそれをいやがってやらないひとを助けることになるからだ。つまりひとの役に立っているのだ。>
<「助け合い」という言葉の響きは美しい。美しすぎて誰にでも簡単にできることとは思えないくらいだ。しかし、仕事をすればそれができる。>
(「仕事はつらいよ」仕事文脈vol.8)



個人がクリエイティブであろうとするためだけに、必ずしもクリエイティブな仕事に就いている必要はない。仕事自体は目的ではなく、手段だ。そしてどれほど赤の他人から見て「つまらない」「悲しい」仕事であっても、クリエイティブな個人によって、その仕事も社会的に開かれた、ポジティブで、クリエイティブなものになる。そしてまた個人は仕事をフィードバックしながらクリエイティブな日常を送る。
これは「仕事でロックする」ということであろう。「ロック」の部分はブルーズでも、パンクでも、ヒップホップでも構わない。
「ラーメン屋でロックする」「パン屋でロックする」ーー「働くことでロックする」は、数多い著作の中で語られるECDの仕事観で使われたフレーズで、青少年時代のエピソードだけれども、松村雄策のバンドであったイターナウの宣伝に記された、岩谷宏の宣言文<あらゆるものがロックであり得る>が元となっている。自称「ロッキングオン信者」であったECDは、この言葉が「人生を変えてしまった」とまで書いていた。

現在、平野太一君やアキラ・ザ・ハスラーさんらと共に製作した「スタンダード」という3.11以降の路上の行動とそれに参加した人々を描いたドキュメンタリー映画が公開間近である。もちろん、その中にECDの姿と言葉か収められている。すでに製作は3年越しで、心ならずも、最晩年の路上での姿までをカメラは捉えることになった。
その取材の中で、「まあ作品には使われないだろうな」と思いつつ(コメントを使うかどうかを決めるのはあくまでも監督は平野君である)、ロッキングオン信者時代の話を聞いた。最後の著作である「他人の始まり、因果の終わり」に至るまで、赤裸々に自分を語り続けてきたECDである。しかしそれほど嫌がる素振りも見せずに答えてくれた。

<自分の中ではロッキングオン、劇団は黒歴史的なもので(笑)。でも最近、山崎春美と話したら「やっぱりあのアジテーションは熱かった」「あれをなかったことにしちゃいけない」って言っていて。それが国会前に立っていることにつながっているんだなと思うと、そんなに捨てたものではないなと。>

特に結婚後のECDが「仕事でロック」を体現したのは間違いがないのだろうと思う。その姿に勇気づけられた若い世代も多いのだろう。そして、この6年ほど、オレは彼の言葉と行動で「いるべき場所」を共有したつもりでいる。
著作では過去を語り続けたECDも、作品では今しか表現しなかったように思う。彼亡き後、彼の今はもうすでに過去のことである。しかしこれからも、彼は今を生きる自分を突き動かすだろう。
そして我々は日々の暮らしのために「仕事」をし続ける。それがロックやヒップホップであればいい。

今日はお通夜、最後のお別れです。