徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

何が大事なことなのか

2015-08-23 16:24:58 | News
抗議行動なんて、言いたいことははっきりしているんだから、集会なんて面倒くないすか。コールだけで押し切った方が迫力出ないすか?
どんな言葉で、何を話すかではなく(勿論それはそれで大事なことなのだけれども)、どれだけ抗議の声をデカく、長く出し続けるか。
正直なところ、オレは今でもそう思っている。

賢い若者たちであるシールズの凄いところは、おっさん連中が面倒がって手を付けなかった「抗議集会」をスマートに、そして丁寧に見せ、やり切っているところにある。
いちゃもんに負けることなく、雪だるま式に彼らの元には著名なスピーカーが集まっていく。

しかし、やはり集会やスピーチの間隙を突いて野暮やバカがやってくる。
今そこで行われている抗議よりも、もっと大事ものがあるような顔をして。

オレたちの未来のために/ガンバ戦に向けて

2015-08-22 12:16:56 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015
新潟戦後の「勝ち点3以外に我々の未来はない」というター坊のコメントは切実なものだった。これはただのコメントではなく、プレーヤー、スタッフ、そしてサポーターに向けられたぎりぎりの決意表明だったと思う。

しかしその言葉を受けながら、なぜか今週木曜に一部のサポーターが社長、監督に説明を求めて話し合いの場を設けた。
“話し合い”を主導した「有志の会」は昨年、実質的にゴトビ監督解任アンケートを強引に実施し、問題視されたグループである。そして、その問題視は今季ここまでの動きで不信に変わっている。昨年、結果責任を強く求めて、多分に恣意的なアンケートを強行するなど、激しい抗議行動をとった彼らが、昨季を圧倒的に下回る成績と内容を残した前体制に対してを頬かむりでスルーしながら、監督交代後、短いスパンでの真夏の連戦が続く最中、フロントに説明を求めるという、自己矛盾を棚に上げた行動は批判されても当然である。また仮にTwitterのTLで見かけた“日曜日のトラブル”に対する意趣返しの意図があるのならば、そしてもっともらしい理由をつけて一般のサポーターに呼びかけて頭数を集めようとしたのならば、スタンドの私物化という意味でもはや論外である。
結果的には予想通り「決起集会」で収まったようで、それはそれで良かったのだが、問題は残る。
オレ自身はサポーターは「黙って応援してろ」とか「フロントに口出しするな」とはまったく思っていない。それはサポーターの否定である。
フロントと過度に馴れ合い、深く内部に入り込む“清水の闇”は論外として、まず批判すべきものは批判すべきだし、申し入れが必要なときはしっかり申し入れすべきだと思うのだ。すでに今季の結果が出たとき、サポーターはフロントに対して猛烈に、そして全力で説明責任を求める必要がある。
しかし今回のような意図とタイミングのよく分からない申し入れをしていてはフロントの不信さえ招きかねない。申し入れの効果すら薄れる。

サポーター論も清水(静岡)論も王国論もレジェンド論も健太時代から散々書いてきたので繰り返さない。
しかしこの一年、有志の会の名前を使った行動は、サポーターであることをあまりにも強権的に利用し、サポーター間に亀裂を招いてきたのは事実だろう。チームだけではなく、一般サポーターの足をも引っ張る行動はいい加減にして欲しいと思うのである。

と一通り吐き出したところで切り換えて、本日はガンバ戦。このタイミングで健太のチームと戦うのはデスティニーであろう。「勝たなければ自分たちの未来はない」をエスパルスに関わるすべての人間で共有して戦いたい。

カウントダウンが始まる/新潟戦に向けて

2015-08-16 09:25:21 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015
4日前の前節湘南戦、結果は残念なものになってしまったけれども、チームの方向性としては闘える姿勢を見せていたと思う。ただしシーズン終了後、ター坊体制そのものを含めた大変動もまた明らかなので、これは希望たり得ない。来季以降のヴィジョンは見えれば、サポーターはいくらだって彼らを支える。
チームの成績はアレだが、営業成績は極めて優秀という意味で、クラブの現状は安保政策やエネルギー政策では異論続出だが、アベノミクスなる経済政策で一応の評価を得ている(取り繕っている)安倍政権と似ている。長年に渡る「失敗」に頬かむりを続ける原靖強化部長を除き、左伴体制は維持されるべきだし、そうなるだろう。サポーターはハードランディングを求めるが、経営はどうしたってソフトランディングを志向する。何てったって、そこのところは静岡である。
しかし来季以降のター坊体制の保証はないのだから、後先考えるまでもなく、目標は完全に目先の1勝、勝ち点3である。

今日、共に残留を賭けて戦っている新潟との対戦で、いよいよカウントダウンが始まる。
倒されても立ち上がり、闘う姿勢を見せ続ける限り、サポーターもまたそれを支持し、鼓舞し続ける。闘わない奴は必要がない。これはスタンドも同様だろう。闘わない奴は闘う連中に席を譲って欲しい。

カウント10を迎えた時にどんな結果になっているのか。倒れたままカウント10を聞くことになるのか、立ち上がりファイティングポーズを取っているのか。それとも途中でTKOを喰らっているのか。ドクターストップがかかる可能性もある。
それは恐ろしくもあり、楽しみでもある。

ともかくオレたちはもうすでにダウンしているのだ。残りのシーズンはそこからしか始められない。
これからの清水エスパルスのゲームは最低で、最高に真剣なエンタテインメントになる。スタンドで闘おう。


本気で信じている人間は誰なのか/湘南戦へ向けて

2015-08-10 19:02:03 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015
評価が拮抗しているのならばともかく、もはや保存会の皆さんを除けば結論は圧倒的であると言わざるを得ない。大榎克己にこれ以上期待するのは彼にとっても酷である。
と書こうと思っていたところで大榎克己辞任である。
この結果では、どう見たって今回の辞任に是非はない。多くのサポーターは遅過ぎたと感じているはすだろう。今シーズンの「結果」がどのような形で終わるにしても、シーズン終了後に徹底的な検証が行われるべきで、「一部サポーター」だけではなく、疑問を抱く全てのサポーターにフロントは答えるべきだ。これは大榎辞任に憤る方々も賛同してもらえると思う。

後任には大方の予想通り、ター坊こと田坂和昭が就任した。プレーヤーとして、そして健太体制時のコーチングスタッフの中心人物として、ずっと清水エスパルスと共に戦っていた人物だ。今春、4年務めていた大分トリニータの監督を解任されているとはいえ、4年にわたるトップチームでの指導経験、健太のイメージとは程遠かった守備構築を共に作り上げた人物として、僅かながら命脈を繋いでいる清水の残留に期待せずにはいられない。
何よりも現場のマネージャーとして必要なマインド、経験、そして表現力は備えているのではないか。それはこんな言葉からも伺える。

<今思えば、この目標を掲げたことで自らの首を絞めました。みんなが目標を実現しなければならないものだと思い込めなかった。思ってくれたのはサポーターでした。だからサポーターからの風当たりは強かったけれど、彼らは心から願ってくれていました。(中略)また高い目標設定は決してマイナスだけではなかった。目標が高ければ、本当の強さを発揮できる人と、尻込みしてしまう人がはっきりするのです。大分というクラブのためには、誰が本気だったのかわかったことで、きっと次に繋がると思います。>(「さらば、愛しの大分トリニータ 田坂和昭監督が語る大分での4年半」『フットボール批評 06』2015年)



大榎辞任に関してどんな話し合いが行われたのかは不明だが、事態は昨シーズンよりも深刻で、ター坊にかかるプレッシャーも大榎の比ではない。
スタート、リセット、リスタートのタイミングはサポーターがゲームに関与できる絶好のタイミングでもある。ピッチ内での戦術、戦略を超えた「雰囲気」作りができるのは、このタイミングしかない。
プレーヤーを走らせ、湘南を圧倒するのはサポーターである。まず勝利と、そしてここから始まる残留への道を「心から願う」のもサポーターである。

地元民のみならず、残留を信じる全世界の清水エスパルスサポーターは日本平に結集されたい。地上波で放送されるテレビで観戦するサポーターも日本平へ本気の魂を送って頂きたい。
勝つのはオレたちである。

怒りの主体として

2015-08-10 17:00:00 | News
2011年、怒らない理由はどこにもなかった。
誰かの代弁ではなく、ひとりひとりが皆、怒りの主体として歩いた。
例えば闘いの踊りのように、ドラムとビートさえあれば良かったのだった。ストイックでプリミティブで、そしてダイレクトな行動と意思表示、それがTwitNoNukesだったのだと思う。
ストイックでプリミティブだったのは理由がある。
怒り方に注文をつける奴がいた。また他人の怒りを疑う奴がいた。デモそのものに偏見を持つ奴がまだいた。また手段であるはずのデモが目的でレジャーだった運動マニアがいた。「集団で声を出して歩くこと」が楽しそうに見えてしまう変態がいた。
2011年、デモがストイックでプリミティブであることは必然だったけれども、そんな変態たちを寄せ付けないためにオレたちは怒りの純度を上げ続けた。
だからあの時点でサウンドカーは必要なかったのだ。
どこの誰であろうが、それが何者であろうが関係ない。徹底したシングルイシューは誤解と反発を呼んだわけだが、だから何だというのだ。面白デモを企画した連中はいくらでもいたが、生き残ったのはTwitNoNukesだったのは間違いない。デモの運営有志や参加者がその後どのように活動を続け、あの経験から思考と手段を現在の活動に展開しているか。
その年の秋、運営有志は「デモのやり方」を記した薄い本を一冊だけ刊行した。

TwitNoNukesのやり方は決してとても実務的ではあったけれども、それほど戦略的ではなかった。それ故に、なのかどうかはわからないけれども、TwitNoNukes以降、デモの参加者の活動は戦略的であることに実に自覚的だと思うのである。
それもこれもTwitNoNukesというベースラインがあったからだろう。

放っておいたらいくらでも冷淡になるクールジャパンにおいて、今でもオレは「熱さ」は一番価値があると思っている。
「熱さ」は最高の評価である。
デモや抗議で「頭数になる」ことは大事だと思うけれども、オレはやはり「その感情を声を出さなければ意味がない」と思っている。皆が口に出せる平易なわかりやすい言葉で、同じリズムで、ずっと声を上げ続けることが大事だと思っている。その時、言葉は力を持ち、頭数は本当の意味で「頭数」として透明な、誰でもない存在になる。

例えば2011年以降の一連の行動は「路上で大きな声を出すための試み」だった。
現在のシールズや高校生デモと比較すれば若干遅めだったかもしれないが、ハイピッチのショートコールのみのシュプレヒコールは一人ひとりが最も声が出しやすいスタイルだった。先導車のトラメガだけが目立つクラシカルなシュプレヒコールにはやはり何の意味もない。
若干こじつけ気味に言うならば、その発展型が路上の野次だ。カウンター行動でも大久保公園包囲などの局面ではショートコールが使われたが、基本は「一人ひとりの野次と罵声」である。一人ひとりが路上で反対の声を上げ、「敵」に直接ぶつけること。その路上カウンターのクライマックスのひとつがアルタ裏での直接抗議であっただろう。一人ひとりが当事者となって、数十人か、数百人か、数千人か、それとも数万人かの人間かはそうやって個人が能動的に路上で声を上げることを実践してきた。

TwitNoNukesという行動は、今や首都圏反原発連合の中に息づき、シールズや高校生たちに隠れてほとんど存在すら語られない。
しかし2011年から約1年間だけ「怒りの主体」として現れた運動のオルタナティブとして記憶は残しておくべきだと思うのである。


…ということを「United In Anger」のレビューと併せて書こうと思っていたのだが、またそれは今度、である。

洗練されないローカリズム/The REAL「NCAAアメフト モーリス・クラレット 誘惑に負けた全米勝者」

2015-08-08 12:36:28 | Documentary
ドキュメンタリー~The REAL~「NCAAアメフト モーリス・クラレット 誘惑に負けた全米勝者」
<スポーツを愛するアメリカ国民にとって最大の興味を抱く競技はアメリカンフットボールである。長きにわたるアメリカンフットボールの歴史の中でNFLとカレッジフットボールは洗練されたシステムを築きあげており、それとともに“伝統”や相互利益による“不文律”も数多く存在するようになっている。今回のドキュメンタリーは、その不文律に意義を唱え、その結果選手としてのキャリアも失ったかつてのNCAAスターランニングバック、モーリス・クラレットのストーリーをお送りする。>
Jsports ドキュメンタリー~The REAL~

Bruce Springsteen - Youngstown


堕ちたスーパースターとして名前を挙げられることも多いカレッジフットボールのスーパースター、モーリス・クラレットを描く本作。原題はYoungstown boysという。
かつて鉄鋼の町として栄えながら70年代には鉄鋼業の衰退とその不況が直撃した町は、スプリングスティーンによってバラッドが歌われ、今なお殺人率ではデトロイトを超えるほど治安は悪い。少年時代のクラレットが育ったのはそういう町で、家の中で玄関から撃ち込まれた銃弾が頭をかすめた経験さえあるという。作品の中に登場するクラレットの兄弟、友人もヤングスタウンの「ストリートライフ」を当然のように語る。
そんな土地をそれでも愛し、そこから這い上がろうとしていたのがクラレットだった。抜け出す手段はご多聞に漏れずスポーツかエンタテイメントの世界しかない。
ハイスクール時代にフットボールで頭角を現したクラレットが進路に選んだ選んだのは、90年代にヤングスタウン州立大学で黄金時代を築いたジム・トレッセルが監督を務めるオハイオ州立大学だった。
NFLがアメリカのスポーツの世界では圧倒的王者であるからして、カレッジフットボールの強豪校もそこら辺のプロチームには敵わないほどの熱狂的な人気を誇る。<洗練されたシステム>というのはプロ組織であるNFLと下部組織、育成組織ともいえるNCAAが一体化した高度な<洗練された>スポーツ興行のシステムを作り上げているということで、スーパースターを目指すクラレットにとって避けては通れない道である。
ここでクラレットは通常ならばゲームに出ることすら難しい1年生からランニングバックとして圧倒的な成績を収める。そして無敗を誇っていたマイアミ大学も撃破して全米王者にまでチームを牽引していく。ヤングスタウンの少年は一気にオハイオのスーパースターに駆け上がり、アイドルとなった。そして少年に多くの「大人」が群がり、彼を祭り上げる。
<誘惑>があったとしたらこの瞬間だろう。しかしクラレットがこの誘惑に<負けた>とはどうも思えない。

全米王者を決めるマイアミ大学戦の直前にヤングスタウンの幼馴染がドラッグに関係した射殺事件で殺される。
クラレットはオハイオ州立大の担当者の手配で決戦翌日には葬式に参列するつもりでいたのだが、体育部長のガイガーは大学の規定と書類提出の不備を盾に参列を認めなかった。担当者を通じて書類提出をしていると主張するクラレットはドラッグに絡む事件にスタープレーヤーが関係することを大学関係者が避けたのではないかと訝しみ、「ガイガーは嘘つきだ」と発言する。
この発言が亀裂と憎悪を生むことになる(オハイオ州立大の体育部長という強力な「権力」を持つガイガー氏が慇懃無礼を絵に描いたような白人の悪役ヅラをしている)。クラレットは優勝決定戦後に発覚した車上荒らし疑惑などと併せて全試合、無期限の出場停止処分を受けてしまう。

この騒動にクラレットの味方として伝説のプレーヤーであるジム・ブラウンが参戦した。
曰く、
「ガイガーはまるで奴隷を扱う主人のように行動した」
「ガイガーは敵だ」
黒人でもあるブラウンの主張はそれはそれで間違っていないと思うのだが、クラレットの兄は言う。
「事態が悪化し、これで後に引けなくなった」
NFLと<洗練されたシステム>の中で、絶大な権力を持つ名門大学の体育部長でプライドの高い白人が、連日に渡ってブラウンから「奴隷の主人」「敵」と名指して攻撃されるのだから、ブラウンの言葉がクラレットへの好意であろうが、それがまったく正論であろうが、後戻りはできないだろうし事態は悪化する。
<負けた>とするならば、きっとこの後からだ。本人に圧倒的な実力と才能があろうとも、勝手に祭り上げられたものは無慈悲に引きずり降ろされる。周囲が負けるように仕向ければ、少年はいくらだって「誘惑」に負け続けてしまう。
選手としてプレイの機会を失ったクラレットは、NFLが2軍を持たず、その代わりカレッジフットボールが“2軍”の役割を果たす(高校卒業後、3シーズンを経過した選手でなければドラフトの資格を得ない)という<洗練されたシステム>に異議を唱えざるを得なくなる。ここから話はガイガーの(矮小な)プライドを巡る話から高度なビジネスシステムとの戦いへ拡大していく。
そして高卒2年目でのNFL入団を希望し、司法に訴えたクラレットがオハイオのユニフォームを脱ぎ捨てる写真を掲載した雑誌が発売されると、オハイオのローカリズムの愛憎は沸騰する。ローカリズムが熱ければ熱いほどヒーローは愛され、そしてローカリズムの期待に応えられなくなったヒーローに冷淡になるものだ。
昨日のヒーローは今日の裏切者になる。
連邦裁判所でクラレットの訴えは一旦認められたものの、<洗練されたシステム>を守ろうとするNFLによる控訴審で判決は覆されてしまう。
2005年にデンバー・ブロンコスから指名を受け、ようやく念願のNFL入りを果たしたものの彼の身体はすでにボロボロだった。そして間もなくブロンコスを退団し、ヤングスタウンの「ストリートライフ」に戻ったかつての少年は警察との派手なカーチェイスの末に逮捕、収監された。
その後の誤解と憎悪の転落劇は罠に嵌められたとしか思えない。ガイガーの策謀とまでは言わないが、彼のような大人たちの憎悪と嫉妬と冷淡なビジネスに付け狙われ、実力と才能でスーパースターの階段を上り始めたばかりの少年はひたすら肉体と精神を消耗し、アルコホリックにまで堕ちていた。

この作品の主要な登場人物で、オハイオ州立大の恩師とも言えるジム・トレッセルもクラレットが堕ちていく間は実に冷淡な印象しか持てなかったが、彼自身もチーム内の醜聞でその座を追われることになる。本作のディレクターは「父と子の物語」をひとつのテーマとして挙げていて、クラレットとトレッセルの関係もその目線で描いているのだが(クラレットの家には父親がいなかった)、監督と選手の関係こそ疑似家族的に語っているものの、トレッセルはあくまでもチームという「家」を守るために立ち回っていた印象が残る。
製作者は、特に終盤は「父親(もしくはそれに値する尊敬できる存在)はいた方がいい」というテーマで描いているのだが、どうもこの辺は消化不足というか、食い足りない。クラレットの母親自身、トレッセルがチームから切り離されたクラレットに対して冷淡だったことを一刀両断しているのが可笑しい。母親としてみればそんな「ストーリー」は鼻で笑いたかったのではないか。
父がいなくても子は育つ。
「町(ヤングスタウン)」というコミュニティ、決して洗練されないローカリズムが良くも悪くも子を育てるのだ。
洗練されないローカリズムは洗練されたビジネスシステムに食い物にされがちなものなのだが。

収監後のクラレットが立ち直っていく姿は熱い。
左の腕には「信」という漢字が大きく刻み込まれている。あまりにも大きくてクールな感じはしないのだが、ヤングスタウンボーイらしいと思った。

30 for 30 I Season 2 Episode 15 I Youngstown Boys

路上の「とりま」

2015-08-04 12:58:27 | News
2日、渋谷で高校生主催による安保法案反対デモが行われた。シールズへの嫌がらせ工作を始めている「賛成派」の問題を含めて、このデモの裏を陰謀論的に勘繰る連中が相変わらずいることに憤りを覚える(しかもその輩の多くが恥知らずな「大人」だ)。
それはとりあえず、まあ稿を改めるとして。

このデモで掲げられた「とりま」はプラカ的には衝撃的なぐらい意味不明だったのだが(ニュアンスで大体の意味はわかるけど)、おっさんであるオレ自身絶対使わないであろう言葉が路上に溢れ出たという意味で衝撃的かつ歴史的デモであります。
思えばシールズの子たちは大学生なりに真面目で、フォーマットに沿って伝えようという姿勢があると思うのだが、この高校生たちはまず同世代に伝わる言葉で状況を突破しようとしている。
それがパンク的でいいのだと思うし、この数ヶ月の動きが腑に落ちた。

<とりまとは、「とりあえず、まあ」の略。【年代】2006年 【種類】コギャル語、略語、ネットスラング>
日本語俗語辞書「とりま」

これ「大人がイラつくゆとり用語」らしいのだが、子供たちが使うのならともかく、お調子者のおっさんが使ってたら確実にイラつきます。