徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

『マンガ哲学辞典』と原っぱ

2019-09-14 18:58:49 | Osamu Hashimoto

到着。橋本治は「30代後半までに自分の思想を作らないと、その後の仕事の時間がなくなる。作っちゃえばそれに寄りかかれるし」と言っていた人で、この本はその「30代後半になるまでに」広告批評に掲載された、一般に言われるところの哲学の辞典ではなく、ここにマンガとして描かれるのは文字通りの「橋本治の哲学」である(「意味と無意味の大戦争」のみ83年、その他はバブルの真っ只中の88年から連載された)。
その直後に昭和の終わりと自民党と55年体制の終焉を書いた大著『89』を出したあたりから、「もう時評はやらない!」と言い続けていたような気がするが、請われるままに、また治ちゃんの一身上の都合で時評は書き続けられた。「自分の思想があれば寄りかかれるし、楽ちんだもの」と言っていた彼はそのまま古典芸能や小説の世界には行けなかった。それは商人の息子として生まれた彼のサービス精神だったのかもしれない。治ちゃんを始めとして、今や少なくない関係者が物故者となってしまったから書くけれども、あるインタビューで会った糸井重里は「広告批評はずるい」と言っていた。毎月、巻頭に治ちゃんのステイトメントが掲載されるのだから、それは、確かに、「ずるい」。
80年代の勢いそのままに猛烈に刊行点数を増やしていた、それなりに元気だった90年代まではともかく、21世紀以降の時評は評価が難しく、痛々しく感じられることすらある。特に新書系は。

オレ自身は86年の橋本治の講演会での体験に今もって多大な影響を受け続けている人間なので、まず「そうか、40歳までにどんな形でもいいから本を出そう」と決めて、41歳で思想とはまるで関係ないけれども本を出した(一年遅れたのは諸般の事情なのでノーカウントである)。そして、その後の行動のベースには、上記の講演会をまとめた『ぼくたちの近代史』がある。橋本治はバブル期に地上げ屋が跋扈する東京に戦後復興期の「原っぱ」を見て、オレは3.11後の路上に「原っぱ」を見たのだ。
だから昨日TwitterのTLに流れてきた韓国人シンガーソングライターのイ・ランのインタビュー記事にあった「人間関係はピラミッドではなく原っぱで考えよう」のフレーズを読んだ時には驚いてしまった。若い韓国人の彼女は確実に橋本治を読んでいないと思うのだが、何で「原っぱ」という言葉が湧き出てくるのだろう(素晴らしい)。たぶんオレがこれから書くテキストもそういう内容になるだろう。

「橋本治の哲学」が凝縮された一冊を手にして胸が熱くなった。

僕等は夏休みの子供だった/「ぼくたちの近代史」

2013-06-09 08:42:02 | Osamu Hashimoto
<そんで、言ってみれば前近代のアナーキズムを体現しているチビッ子ギャングみたいなもんなんだけど、ところがそれがね、生産性を発揮しちゃうってのは、小学校の夏休みてのは、地区でなんとかしてなくちゃいけないっていう地区の教育みたいのあるでしょ。地域教育みたいなの。だから毎日朝起きて掃除しましょうって。横丁の掃除しましょうって、毎日ラジオ体操やって掃除するっていう風に俺等六年生が率先してね、やってんだよね。そんで俺、掃除しろって言われるとやってる方だから。太田さんのミッちゃんてのも掃除しろっていうと、自分の出番が来てるから、なんか張り切っちゃって、目ェ吊り上げて掃除してるって変なことになって、近藤さんのイサムちゃんだって、本当は掃除なんて全然嫌いな子なんだけどね、みんなやってるからやってるっていうのがあるからね。だから夏休みがね、とことん、なんか、突然規則正しくなっちゃうの。誰に言われたわけじゃないけど――誰かに言われたかもしれないけどね、毎朝六時くらいにラジオ体操して、それが終わるとね、掃除してね、打ち水してね、「じゃあね」って言ってご飯食べに帰ってくって、なんであんなに規則正しくしてたんだろって思うんだけど。
 そういう子供達がさ、朝ご飯終わって、そんで、勉強もしたんだかなんだか分かんないけど、ポツッポツッと、昼過ぎんなると原っぱに現れて、突然、全くそういう建設的な行為とは無関係なドタバタやったっていう風になるんだけど、そのドタバタやってく中でやっぱし人間関係って作っちゃうのね。小さい子はかばってやんなきゃとかね。小さい子でも、「やっぱし、ここんとこで跳ばないと強くなれないよ」って、なんか無理矢理跳ばしちゃうとかね。>

<で、それが一方では学校なんですよ。夏休み終わっても学校へ行けば、そういう世界が待ってるわけ。だから別に、その原っぱがなくなったって、寂しがる理由はないのね。でもね、でも違うんだよっていうのはね、原っぱっていうのは序列がないんだよね。でも学校って序列があるんだよね。>

<たとえば『練監ブルース』が歌えてさ、「おー、オサン」って――俺のこと「オサム」って言わないで「オサン」て言うんだけど、のれば平気でバシバシぶってしまうっていう乱暴なイサムちゃんだって、やっぱしその子なりに取り柄はあるんだけど、学校へ行くと、単に成績が悪い子に変わっちゃうんだよね。太田さんのミッちゃんだって学校へ行ってしまうと、なんかやっぱし、普通の家の子よりもちょっと貧乏な子でっていう風に変わっちゃうのね。トウジンバラのテッちゃんなんて、サブリーダーって感じでわりと張り切ってた子なんだけど、学校行ったら下級生なんだよ。だから学校行ったって、昨日の原っぱの友達に次の日新学期で会うと、もうみんな「学校に捕まった」って顔してんの。原っぱの顔じゃないんだよね、全然。>
(橋本治「ぼくたちの近代史」主婦の友社1988)


ぼくたちの近代史
<本書は、橋本治スーパー6時間講演会「ぼくたちの近代史」(於:池袋コミュニティ・カレッジ,1987年11月15日)の内容に補筆したものです。鬼才橋本治が語り尽くした「近代の検証と行方」の感動の書。>

登録情報
単行本:218ページ
出版社:主婦の友社 (1988/09)
ISBN-10:4079275471
ISBN-13:978-4079275477
発売日:1988/09
商品の寸法:19x13.2x1.6cm

参加する真実・仮名手本忠臣蔵/「浄瑠璃を読もう」

2013-02-10 01:01:17 | Osamu Hashimoto
<「赤穂浪士の復讐事件」は、初演時で既に四十数年前の過去のものとして完結してしまっているし、「武士の世界の事件」として、町人たちをシャットアウトしている。しかし、江戸時代の町人たちは、これに参加をしたいのである。だから、その余地を探したのである。(中略)「事実のあら方は知っている。しかし、そんなことはどうでもいい。我々に必要なものは我々のドラマである」として、「関係ない現実」を捨ててしまった。このドラマの作者達の意気込みはがすごいのである。「現実を踏まえて、自分たちに必要なドラマだけを拾い上げる」――江戸時代の浄瑠璃作家は、そういうことをやって、しかもその通りに、この虚構だらけのドラマ『仮名手本忠臣蔵』は「忠臣蔵の最高峰」として残っているのである。その「虚構だらけの最高峰」という矛盾したものに対して、「事実はどうだ?」というリサーチは近代以後盛んに行われるが、結果はたいしたものではない。「虚構から出発して組み立てられた、身にしみる必要な真実」の方が、ずっと重要だというだけのことである。>(橋本治『浄瑠璃を読もう』新潮社2012/「仮名手本忠臣蔵と参加への欲望」より)

「考える人」に2004年から2011年秋まで掲載された連載をまとめた一冊。治ちゃん自身が「私の悪い癖で分かりやすい本ではない」と書くように、ほとんど「音楽」を一から解体して寄り道しながらまた組み立てるするような内容なので、実に難しい…のだが、切れ味というかキレ方というのは相変わらず。巻頭の『仮名手本忠臣蔵』も山場の討ち入りの手前でばさっと章を終えてしまう。それこそ「事実のあら方は知っている」と言わんばかりに、「こっちの方が本当のストーリーだよ」と言わんばかりに、あっさり解説を終える。
それが虚構だらけの最高峰「仮名手本忠臣蔵」なのだから仕方がない。
武士の世界の事件には「参加したくても参加できない」町民は、誰もがご存知の事実によりも、本来のストーリーでは端役に過ぎないモデルを見つけ出し、妄想を膨らませながら「身にしみる必要な真実(ストーリー)」を作り上げる。観客はまた自分たちのための虚構に自らを重ね合わせつつ真実を見出す。
その中(ストーリー)に自分もいる、それこそが生きていく上で重要なことなのだから。
今、現場に行き、参加すること――それはオレにとっても「必要な真実」なんだと思う。ゴール裏だって、路上のデモや抗議だってきっと同じことだよ。
ゴール裏や路上に立つ人たちは、巨大なストーリーに生きている「主役」に対して、何か、やっぱり「オレにも参加させろ」って言っているように感じるんだな…この場合、その「ストーリー」はどちらが虚構なのか真実なのかわからないけれど。


浄瑠璃を読もう
価格:¥2,100
<小説の源流も、わたしたちの心やふるまいの原型も、みんな浄瑠璃のなかにある! 江戸時代に隆盛した一大文学ジャンル浄瑠璃。その登場人物は驚くほど現代人に似ている。『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』から『冥途の飛脚』『妹背山婦女庭訓』まで、最高の案内人とともに「江戸時代的思考」で主要作品を精読。「お軽=都会に憧れてOLになった田舎娘」など、膝を打つ読み解きが満載。浄瑠璃の面白さを再発見!> <わたしたちの心の原型も、小説の源流も、みんな浄瑠璃の中にある。最高の案内人と精読する読み逃せない8作品。>

登録情報
単行本:444ページ
出版社:新潮社(2012/7/27)
言語:日本語
ISBN-10:4104061131
ISBN-13:978-4104061136
発売日:2012/7/27
商品の寸法:19.8x13.6x3.2cm


仮名手本忠臣蔵(橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 (1))
竹田出雲,並木千柳, 橋本治, 三好松洛, 岡田嘉夫
価格:¥1,680
<忠臣蔵は日本でいちばん有名な物語のひとつ。しかし、その原作である「仮名手本忠臣蔵」の内容はあまり知られていない。橋本治と岡田嘉夫が仮名手本忠臣蔵の世界を忠実に描き出す。歌舞伎作品を絵本に再現するシリーズ第1弾。>

登録情報
大型本:52ページ
出版社:ポプラ社 (2003/10)
ISBN-10:4591074455
ISBN-13:978-4591074459
発売日:2003/10
商品の寸法:25.4x24.8x1.2cm

大震災には本を読む/「橋本治という立ち止まり方」

2012-12-24 02:34:30 | Osamu Hashimoto
10月に出た『橋本治という立ち止まり方』(朝日新聞出版)。
2010年9月に東京都指定の難病である顕微鏡的多発血管炎と診断されてから約四ヶ月間の入院生活、退院した途端の東日本大震災、原発事故と自ら“立ち止まる”というよりも“立ち止まらざるを得なかった”橋本治。さらに前半では日本の経済と生業である出版の未来を憂う(まさにこのあたりは『大不況には本を読む』。誰のせいでもない震災と、どうしたって誰かのせいでしかない事故、そして自らの病気と“立ち止まり”の萌芽は気づかぬうちに見え始め、あるとき一気に、そして同時に噴出する。

そして、みんな、立ち止まった。
不安感だろうが、罪悪感だろうが、焦燥感だろうが、ともかく日本人は立ち止まったはずだったのだったのだが、1年9ヶ月経ってその選択が結果的に自民圧勝なのはあんまりというものである。
“立ち止まった”治ちゃんは、3冊の本を取り上げる。
島崎藤村『夜明け前』、与那覇潤『中国化する日本』、そして安富歩『原発危機と東大話法』。
それは、それぞれ「場所」と「状況」と「立場(関係)」を指し示す。
<本というものは「人を動かすもの」で、人を動かしておきながら、本というものはその「答」をくれない。>
巻頭に置かれた「本の未来、人の未来、社会の未来」でそう書く。読んで突き動かされるように行動する人もいれば、読んで“動かされ、ジタバタ”しながらも自分の「答え」を保留状態にする人もいる。立ち止まったのならば、立ち止まったなりに思考しなければ立ち止まった意味がない。まさに「大震災には本を読む」である。まあ、本は「テキスト」や「ツイート」に置き換えてもいいかもしれない。

「そんなの関係ないもんね」と言い続けても、嫌々ながらも(時に嬉々として)社会と関わり、関係を考え、問い続ける人にとっては身体の変化だって、そりゃ社会と無関係ではいられない。人間、そんなに無神経に、エゴイスティックに生きていられないもんね。いつもながらの時評の一方で、「闘病記」と題する極めて個人的な病状の経過報告、四ヶ月近くに及んだ入院体験記はファンにとっては貴重です。


橋本治という立ち止まり方 on the street where you live
価格:¥1,890
<橋本治の時評エッセーが、いよいよ復活! 2009年の政権交代から11年の東日本大震災まで、日本の社会を立ち止まらせている現状と、その理由が一目でわかる。リーダー不在の国、歴代総理の決断力、原発事故がもたらしたもの、中国の民主化など、話題満載の書。><この国の未来を本当に考えるのであれば立ち止まれ、ニッポン!リーマンショック、政権交代、東日本大震災を経てふたたび歩き出すための英知が、ここにあります。>
登録情報
単行本: 248ページ
出版社: 朝日新聞出版 (2012/10/19)
言語 日本語
ISBN-10: 4022510013
ISBN-13: 978-4022510013
発売日: 2012/10/19
商品の寸法: 18.8 x 13.2 x 2 cm

「新しい道路」が必要な理由/「ぼくらの東京物語―貧乏は正しい!」

2012-11-29 21:08:35 | Osamu Hashimoto
<新しい道路が必要なら、その必要を考えて作ればいい。「新しい道路を作る」ということは、「この町をこの先どうしていくか?」ということを考えることなんだから。
 ところが日本の行政は、そういう風には考えない。そういうことを考えようとして、「いやー、地域住民の利害というのはいろいろありませからねー」で、「既にあるもの」に触れようとしない。そして、当然、そんな風に言われてしまう住民たちは、「自分の現在」のことしか考えない。
 そして、「大きなイヴェント」が設定されて、「地域の活性化」というのは、結局のところ、「大きなイヴェントをやれば人が集まるから、それをいい機会にして、地域外の大資本に進出してもらってここら辺をハデにしてもらおう」という金儲けのことだ。(中略)べつに日本人は、今になって急にバカな金の使い方をするようになったんじゃない。それはもう、30年以上も前からのことで、今になってもそのことが分からないオヤジたちはゴマンというという、それだけのことなんだ。
 日本人は、いつまでも大イヴェントの黒船が来るのを待っている。「黒船が来ないんだったら、こちらで黒船を作ってしまおう。そうすれば地域の活性化になる」と言って、本当に自分たちが必要なもののことを考えようとはしない。「自分たちの必要」よりも、「なんだから分からないがスゴイ」と言える黒船の方が大切なんだろう。バブルがはじけるのも当然だし、「バブルがはじけた」ということの意味も分からない人間がゴマンといるのも、これまた当然のことだろうね。>

<さて、日本で政治家は「政策」というものを考えない。しかし、現実問題として、日本には「国の方針」というものがあり、「国の決めた制度」というものがある。こういうものは、「政策の結果」です。一体こういうものがなぜあるのか? 誰がこういうことを考えたのか?
 「政治家が政策を作らない国で、一体誰が“政策”を作るのか?」と言ったら、その答は「官僚」。
 官僚というのは、国家という組織の歯車です。決められた命令に合わせて、それを実行するように動く。官僚は政策に従って動くものであって、政策を決めるものではない。官僚と政治家の関係はコンピューターと人間の関係とおんなじで、コンピューターは人間の指示に合わせて計算をし、官僚も、政治家の出す政策に合わせて動くものだ。ところが、日本の場合はそうじゃない。日本の政治家は、「政策をもって官僚に向かう」のではなくて、「官僚に政策を教えてもらうもの」だからだ。コンピューターが人間を指示している――それが日本。
 データがたりないコンピューターは、分からない質問に対しては「回答不能」と答える。日本の官僚も、おんなじように、分からないことには「無言」で対応する。(中略)これは、データ不足のコンピューターの「回答不能」とおんなじだ。
 コンピューターに回答させたかったら、その分のデータをインプットしてやればいい。「このコンピューターは悪者だ」と言ってぶっ壊したってどうにもならないんだけども、でも「コンピューターを利用する」という発想に慣れていない日本人たちは、どうも、これが理解出来なくて、「コンピューターを壊す」という方向にしか行けなかったみたいだ。そして、そうなっても当然ぐらいに、日本の官僚たちは、「意志を持ったコンピューター」になりかかっていた。(中略)
 新しいデータをインプットされないコンピューターは、新しい事態に対応出来ない。だからどうするか? 対応出来ない「新しい事態」の存在を、認めないようにする。現実はどんどん変わって行っても、それに対応する機構が全然変わらなかったのには、こういう理由があったからだね。>
(橋本治「貧乏は正しい!ぼくらの東京物語」小学館1996)

先週放送されたNHKスペシャルの「シリーズ東日本大震災 追跡復興予算19兆円」の余波が続いている。
動画もまだどこかで観られると思うので探して見て下さい。非常に腹立たしく理不尽な話であることは言うまでもないのだけれども、改めて何が腹立たしいかといえば、霞ヶ関が震災、そしてその復興をイヴェントにしてしまったということだと思う。
一時期、反原発派は主義主張のために原発災害の被害の拡大を待っているかのような誹謗中傷がされていたけれども、まさに霞ヶ関こそ3.11という黒船に便乗して復興を大イヴェント化しているといえる。
地域(経済)振興や復興をイヴェントでしか捉えられない連中にとっては、大震災とその復興は(外圧を除けば)まさに黒船中の黒船、大イヴェント中の超巨大イヴェントだったのだと思う。
これが、本当にこれから25年も続くのだろうか?


ぼくらの東京物語―貧乏は正しい!
<ハシモト式人生の教科書第3弾 --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。><本書では、トーキョーの変貌と地方のトーキョー化の裏に潜む日本の本質を暴き出す。足下の定まらない急激な都市化の過程で、トーキョーは何を失い、日本人は何を捨てたか。そして、ぼくらは何を取り戻すべきか。これを読めば、人生が変わる。 --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。>

登録情報
単行本:318ページ
出版社:小学館 (1996/01)
ISBN-10:4093723133
ISBN-13:978-4093723138
発売日:1996/01
商品の寸法:19.2 x 13.4 x 2.6 cm

出来上がった世界の中で/「恋愛論」

2012-07-15 20:56:36 | Osamu Hashimoto
<エスタブリッシュメントという言葉は〝支配階級〟や〝特権階級〟という風に使われていますけど、僕にしてみればそれは〝既に出来上がっちゃった人達〟というのが正解なように思われます。既に出来上がっちゃってるから、その前提に関しては「もうどうでもいいじゃない」とうそぶいていられる人達がエスタブリッシュメントだと僕は思います。
 有吉さんが言った「私達親子は、もう、一族から、バカにされて、バカにされて」という言葉を説明する時が来たようです。
(中略)有吉さんは文字通り下世話なことを御存知ないお姫様なのですが、実は、その人は下世話なことも御存知の〝作家〟になってしまったのです。
 ジャワの邸宅で幼時を過した有吉さんは、一旦日本へ帰って来ます。ジャワのお屋敷でお姫様暮しをして、そしてそれでも「日本というのはこんなものではない、もっともっと夢のように素晴らしい国だ」と言われ続けていました。でも、そう言われて日本に帰って来た女の子が見るのは、ジャワの最下等の民衆よりももっと貧しく汚い日本の農民の姿でした。そのショックが「こんなことでいい筈はない」という形で彼女の胸に刻みこまれ、後に『複合汚染』の著者という形になって表われます。有吉佐和子という人は、そういう形で社会的関心を持続させた人です。(中略)
 僕は有吉さんに対してドンドン遠慮のない口をきいていったんだけども、それは一番初めに「有吉佐和子をこわがるまい。有吉佐和子に敬語を使うまい」と決めていたからなのだ。僕にとって、〝尊敬した〟という事実は〝対等に向かい合わなければならない〟という義務を生むことだったから。
 有吉さんが怒鳴りまくってたことぐらい僕は知っている。でも、有吉さんが怒鳴るには、ちゃんと理由があったんだ。まともに向かい合えば、有吉さんは怒鳴ることなんてやめてたサ。有吉さんは、「どうして私を一人にするのよ! どうして私を敬遠するのよ!」って、ただそれだけを怒鳴ってただけだから。この、みんなが家の中に引っ込んじゃった、出来上がった世界の中で。>
(橋本治『恋愛論』講談社文庫1986/「誰が彼女を殺したか?」より)


恋愛論 (講談社文庫)
<まだ“常識”っての持ってます?もうメンドクサイから、俺の“初恋”の話しちゃうね。よかったら腰抜かしてね。現実に恋愛って存在しないんだよ。みんなサ、救済の“宗教”と恋愛をゴッチャにしてるんだよね。男って、恋すると“天使”になっちゃうし。それでもまだ、あなたって“常識”を持ってます?><出版社からのコメント:胸に突き刺さる20世紀の名著が復活! 愛というものは一般論で語れるが、恋愛は一般論では語れない。それは、恋愛というものが非常に個人的なことだから――。本書では、著者自身の初恋の体験をつまびらかにしつつ、読み手の心に響く「恋愛論」を展開。恋愛を、哲学を、著者個人の経験と論理で描ききる。幻のマンガ『意味と無意味の大戦争』も収録。><恋愛なんて幻想の最たるものだけど、それを求めざるをえない人間の気持ちだけは本物だ。恋愛を、哲学を、著者個人の経験と論理で描ききる。胸に突き刺さる20世紀の名著が復活!>

登録情報
文庫:299ページ
出版社:講談社 (1986/05)
ISBN-10:4061837907
ISBN-13:978-4061837904
発売日:1986/05
商品の寸法:15 x 11 x 1.4 cm

仏に会ったら仏を殺せ/「橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!」

2012-07-10 13:05:28 | Osamu Hashimoto
<表現というものは、一度「自分」を消して、その後で改めて構築される。だから、古典芸能の中で「自分を生かしたなにか新しいことをやろう」というのは、シロートの発想である。古典芸能で「新しいこと」をやりたかったら、まず「やる側」の主体を消すことから始めるしかない。「新しいこと」は「やる側」にはなくて、「やられる側」の古典芸能が持っているものだからである。(中略)「自分のやるべきこと」は、「自分」なんかよりもずっと寿命が長い。昨日今日のポッと出である自分の主張なんかよりも、自分の前に存在しているものの「あり方」を尊重していた方が、ずっと確実である。だから私は、「自分」よりも「自分の外にある本来」を信用する。信用して、しかし言いなりになるかどうかはまた別の話で、もしかしたら私は一度も「自分の外にある本来性」の言いなりになったことはないのかもしれない。(中略)
本来性というのは支配者ではなくて、存在に関するフレキシビリティである――私はそのようにしか考えないから、本来性というものは、「自分を活かしてくれるもの」である。それの番人になって、ただ「本来性」として守られるためだけに存在している本来性を守ってもしようがない。本来性は「自分」の外側にあり、そうである以上、「自分」というものは、常に本来性から排除されている。だから、一遍は本来性の中に入らなければならない。そのためには、本来性との間で違和を成り立たせる「自分」を、一遍殺さなければならない。そうやって、本来性と「自分」とを同化させて、「自分とは無関係に存在していた本来性」を、「自分を活かすための本来性」に変える――この“変える”プロセスが、「仏に会ったら仏を殺せ」である。私はそのようにしか考えない。(中略)つまりは、「意味を殺す」である。
「自分」の外側には、強大な「立ちはだかる」とも思えるような「意味を発散するもの」がある。つまりは、「幻想」である。「幻想だから壊してしまっていい」と思うと、「すべては幻想である」という接続パイプによって、なんにもなくなってしまう。もう少し冷静になるべきで、それが「幻想」でしかないのは、それが「こちらを排除する形で存在しているから」である。だから「入る」が必要になる。入って、「自分を排除していた要素」を殺す。「それが仏に会ったら仏を殺せ」である。そんなにめんどうなこととも思えない。>
(橋本治「橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO!」朝日新聞社2005/「自分」を消す」より)


橋本治という行き方 WHAT WAY TO GO!
¥1,470
<いま日本を代表する「知識人」となった著者の、もっとも重要なエッセンスが凝縮された一冊。9・11、イラク戦争、北朝鮮問題といったトピックを素材に、教養、批評、文化など、いま私たちがものを考えるためのヒントが、ぎっしり詰まった好著。><この国のあり方を少し考えた。どうにもならない構造を抱えてしまった大学、企業、そして日本という社会。この行きづまりの状況において、私たちが生きて行くためのヒントを、著者自らの立っている場所から提示する本格的なエッセイ集。>

登録情報
単行本:234ページ
出版社:朝日新聞社 (2005/6/16)
ISBN-10:4022500387
ISBN-13:978-4022500380
発売日:2005/6/16
商品の寸法:19.5 x 14 x 2.5 cm

彼等には大人になる必要がなかった/「天使のウインク」

2011-10-05 00:01:32 | Osamu Hashimoto
<バブルの時期に日本人が見失った最大のものは、“人間関係”である。それまでの、貧しさから脱却出来ないでいた日本人を支えていた最大のものは、相互依存の人間関係だった。一億総中流の平均化を生んだもの、この相互依存を可能にする“人間関係”というパイプがあったればこそだろうが、すべて金で処理されるバブルの時期には、これがあっさりとなくなった。既に人間関係を持っていて、それを「煩わしい」と思っていた大人ならそれでもよかっただろう。しかし、これから人間関係を作っていかなければならない若い人間には、この欠落が最悪の方向に機能する。(中略)
 バブルの時期には、孤立した若者が多かった。しかし金だけは世の中に余っていたから、彼等の多くは生活に困らなかった。(中略)彼らは孤立し自己完結して、欲望だけは充足されていた。彼等には大人になる必要がなかった。どうみても不健康だが、生活に困らない以上、この不健康は「不健康」として自覚されない。世の中から金が潮のように引いていって、生活というものが思い通りにならなくなった段階で、やっとこの「不健康」は「不快」として自覚される。
 彼等は不健康で不快である。バブルの時期に「自分は満たされていてしかるべきだ」という状態に慣らされてしまった彼等に、「その責任は自分にある」という発想は生まれにくい。「この不快の責任は他人にある」と考える人間が多く生まれても当然だろう。だからバブル以後は、肥大したエゴの処理に誤った結果の犯罪が続発する。>
(橋本治『天使のウインク』中央公論新社刊2000「神戸自動連続殺傷事件で思うこと」より)

<殺人の理由の多くは、怨恨である。恨んでいるから殺す--この殺人を回避する方法は、ただ一つ、「怨恨を生じさせる相手との関係を絶つ」だけである。その相手を無視する、その相手から離れる、その相手に対する恨みを捨てる。しかし、これがなかなか簡単にはできない。なぜかと言えば、怨恨というのは、「こっちがなにも悪いことをしていないのに、相手が一方的にいやなことを仕掛けてくる」というのが、その前提にあるからだ。(中略)怨恨による殺人事件の裁判では「どちらがどのくらい悪かったのか」が争われるけれど、この殺人の前提に「人間関係の破綻」があるは明らかである。(中略)
 「関係」と言ったっていろいろある。(中略)「自分の外側にいる人間となんらかの関係を持ちたい」という欲望と、まだなんの関係もない他人に対して、「自分とあの人間との間には、もう当然、関係があってしかるべきだ」と思い込む“妄想”とは、明らかに違う。「自分の外側にいる人間となんらかの関係を持ちたい」という欲望が、そのまま“妄想”に変わって、「あの人間と自分との間には関係があってしかるべきなのにない--それが悔しい」になって、「だから殺す」になったらおしまいである。快楽殺人というのは、「他人との関係が持てない人間が、“関係”を暗示するような他人の存在に触発されて起こす、怨恨殺人」なのである。これを防止する方法は、「人と仲良くなれないからといって、それでヤケクソになって人に危害を与えてはいけない。そんなことをしたら、ますます他人と仲良くなれなくなる」と教えることである。(中略)人間関係の重要さを忘れた人間は、その「当たり前の一言」を忘れた。「当たり前の一言」が忘れられたら、事態はとんでもなくいびつで醜悪なものになる--ただそれだけのことだろう。>
(橋本治『天使のウインク』中央公論新社刊2000「それをするのは子供だけだ」より)


天使のウインク
<恐怖を克服しなくてなんの人間か。酒鬼薔薇聖斗から新潟監禁事件まで。世紀末の闇を超ド級のポップセンスで解読し、“天使が目くばせするような”方向へ私たちを導くハシモトの問題作。><恐怖を克服しなくて、なんの人間か。酒鬼薔薇聖斗から新潟監禁事件まで、世紀末の闇を超ド級のポップセンスで解読する。『中央公論』連載エッセイの単行本化。>

登録情報
単行本:302ページ
出版社:中央公論新社 (2000/04)
ISBN-10:4120030008
ISBN-13:978-4120030000
発売日:2000/04
商品の寸法:19.4 x 13.4 x 2.4 cm

“他人”は違う/「ぼくたちの近代史」

2011-09-15 14:36:28 | Osamu Hashimoto
<全共闘の時代が終わって七〇年代になって、誰が口きき始めるかっていうと、最初は『限りなく透明に近いブルー』で、あれは完全に高校生べ平連ですね。で、次が『僕って何』。あれは完全に、自分が一般学生だっていう自覚のない「一般学生」ですね。それが一般学生の最大特徴だけど。
 高校生ベ平連、一般学生と来て、七〇年代の最後はワタシのような類ですよ。アチャラカ色物のセンね。全共闘は出てこない。やっぱりなんか膨大な類の人間は沈んでるんだと思うのね。何故沈んでいるのかっていうんで、自分の言葉がないっていうことにやっと気がついたらしいのね。やっと気がついたというよりも、全共闘が終息していく段階で、みんな「あ、自分の言葉つかまえなくちゃいけない」っていう、そういう入り方をしてったんだと思うんだけどさ。ただ、「自分の言葉ってどういう言葉なんだろう?」って考え始めると自分の言葉がなくなっちゃうっていうぐらいに、言葉って、ある意味で他人の言葉を借用してどんどんどんどん自分で使っていくようなことだからさ、それを使う“自分”ていう位置がはっきりしてないかぎり“自分の言葉”って生まれないのね。
 で、自分の言葉を生み出す為に、自分をはっきりさせる方法っていうのは、「あ、その言葉、面白そ」って、他人の言葉を取り込むことによって、他人になることだと思う。他人になることによって、「“他人になった自分”とやっぱり“他人”は違う」って形で、他人と自分の引き算をすることしかないと思う。>
(橋本治「ぼくたちの近代史」主婦の友社1988)


ぼくたちの近代史
<本書は、橋本治スーパー6時間講演会「ぼくたちの近代史」(於:池袋コミュニティ・カレッジ,1987年11月15日)の内容に補筆したものです。鬼才橋本治が語り尽くした「近代の検証と行方」の感動の書。>

登録情報
単行本:218ページ
出版社:主婦の友社 (1988/09)
ISBN-10:4079275471
ISBN-13:978-4079275477
発売日:1988/09
商品の寸法:19x13.2x1.6cm

“考える”ということ/宗教なんかこわくない!

2011-09-14 03:42:42 | Osamu Hashimoto
<織田信長以来、宗教をこわがらなくなった日本人は、信仰とは別にある“世俗の世界”で、独自の信仰体系を作った。“支配者に対する忠誠”に代表される、個人崇拝である。(中略)そして、この“個人崇拝”は、崇拝する側の人間に、“自分の頭でものを考える”ということを禁じるものである。なぜならば、自分のでものを考え始めたら、「なんであんなオヤジを崇めなきゃならないんだ?」ということになってしまう。つまり、織田信長以来続いている“宗教をこわがらない日本の社会”とは、“会社国家日本”であるためのすべてを備えた社会なのである。だから、この日本は、とっても不思議な形で、恒常的なファシズム状態にある。>

<日本人は、真面目になろうとすると、無意識の内に自分の中に“宗教”を探してしまう。だから、そんな日本人は、自分達とは異質な相手が“宗教”を振りかざしたら、なにも言えなくなってしまう。“違う”と思っていた相手が、実は自分と“同じもの”を持っていたら、もうその“違い”を攻撃の論拠にはできない。だから、「宗教団体を政治団体と同列に扱っていいのか?」などという寝ぼけた議論が起こったりもするのだが、しかし、うっかり真面目になろうとする時に日本人が自分の中に発見してしまうものは、実のところ、“宗教”ではないのである。それは、「自分は当たり前の日本人だ」という、“日本人としての一体感”なのである。それを“宗教”だと錯覚してしまうのだから、日本人は相当に宗教に弱い。がしかし、もしかしたら、そんな日本人は“最高に洗練された宗教の信者”なのかもしれない。>

<日本は、原則として、「自分の頭でものを考えなくてもすんでいる」という国だから、「自分の頭でものを考えるのも自由」だし、「自分の頭でものを考えないのも自由」なのだ。つまり、この国では“考える”ということに関しても対立が、原則として起こらない。起こるとしたら“対立”ではなく、“排除”が起こる。(中略)そして必ず、「思想的に似たような人達の間だけで“対立”が起こる。表面はおだやかで、しかしその内部では激しい対立がある。“派閥”とか“内ゲバ”があって、それが絶対に外には漏れないようになっている。“対立”というのは、その対立を成り立たせるための“共通の地盤”というのが必要だから、日本では、同じ土俵に上がれるような人間の間でしか、対立は起こらないのだ。“違う人間の思想”なんか分からないから、日本の論争は“すれ違い”か“仲間内のもの”にしかならない。日本人は、対立するかわりに、仲間はずれにする。そこで、“自分の頭でものを考えない大人”と“自分の頭でものを考えようとする子供”の間にある“隠された対立”が問題になる。>
(橋本治「宗教なんかこわくない!」マドラ出版1995)


宗教なんかこわくない!
<オウム真理教事件とはなんなのかいや、そもそも宗教とは。緊急出版。悩める若者たちに、会社人間の大人たちに、ワイドショーばかりの主婦たちに。時代を読み解く渾身の書き下ろし440枚。><オウム真理教事件とは、遅れてきた田中角栄信仰とオタク予備軍のしでかした、バブル末期の犯罪である。オウム事件にみる日本のすがた、宗教とは何かを語り、時代を鋭く読み解く。>

登録情報
単行本:307ページ
出版社:マドラ出版 (1995/07)
ISBN-10:4944079052
ISBN-13:978-4944079056
発売日:1995/07
商品の寸法:18.8x12.2x2cm

植物人間型の増大(再掲)/「'89」

2011-07-14 01:54:37 | Osamu Hashimoto
<原発の代替になる「安全でクリーンなエネルギー」なんて、決まってるじゃない。「人力」だよ。そうでしょ? 早くそっちの方へ持っていかないとヤバイよ。(中略)今の若いやつは、「働く」ってことを知らないんだから。その意味を知らないでいやいややってたら、日本の産業が没落するのなんて、当然でしょ。原発作って「エネルギーだけはある」という状況を作り出してしまうってことは、実はそっちの方に日本を持っていってしまうということでもあるんだから。(中略)
「原発がなくなったらだれが一番困るのか?」の答は、病院の植物人間とか、足腰が弱った都市の老人だよね。自分からはなんにもしないで、全部を周りのエネルギーに頼っているんだから。膨大なエネルギーを必要とする人為的な「環境整備」を本当に必要としている人間がどれだけいるのかっていうの。今のエネルギーの「需要予測」っていうのはさ、そういう植物人間型の増大を前提に算出されてるんだよ。「便利」とか「快適」という名のもとにさ、ホントにみんな、植物人間になろうとしてるじゃない。「なるべく働きたくない……」という怠惰を前提にして、「快適」を作ろうとしてるじゃない。エネルギーを持って働いてる人を「キタナイ」「貧しい」「下層」ってことにして切り捨てて、「人間がもっと自力で動いたら、原発がなくてもやっていけるかもしれない」っていう試算は、誰もしようとはしない。人間関係が怖いから、人間に触れないようにして、とんでもなく無駄なエネルギーの使用を平然と「前提」に置いてるね。(中略)
 要するに今みんなが求めているものは「何もしなくてもすむ老人のための快適生活」なんだよ。もっとも、その快適生活を享受しようとしてるのは、引退した老人じゃなくて、働き盛りのサラリーマンだったりはするけどね。なんというメンドクサガリ屋なんだろう。「無能」と「メンドクサイ」が「科学技術」と称するものの上に乗っかって近親相姦やってるだけだぞ。>
(橋本治『89』マドラ出版1990/「人工エネルギーで“快適”生活を」より)

'89〈上〉(河出文庫―橋本治コレクション)
<昭和が終わり、天安門事件が起こり、リクルート事件がピークを迎え、美空ひばりが死亡し、東西の壁が崩壊し、宮崎勤事件が発覚した一九八九年。さまざまな時代の亀裂を見せたこのとんでもない一年に真向からぶつかり、体を張ってラジカルに問いかけ、問題の中心をひっぱり出す。“いま”という歴史をどう読み解くかをすべての人に示してくれる恐るべき89年の総括。>
登録情報
文庫:323ページ
出版社:河出書房新社 (1994/01)
ISBN-10:4309404014
ISBN-13:978-4309404011
発売日:1994/01
商品の寸法:14.7x11.2x1.5cm

'89〈下〉(河出文庫―橋本治コレクション)
<男の子にも女の子にも、僕にも君にもあった1989年を総括し、“今”の生き方を問う。>
登録情報
文庫:391ページ
出版社:河出書房新社 (1994/01)
ISBN-10:4309404022
ISBN-13:978-4309404028
発売日:1994/01
商品の寸法:15.6x11.2x1.8cm

関係ないもの・こわいもの/「秋夜―小論集」「天使のウインク」

2011-07-10 04:26:28 | Osamu Hashimoto
<それでは、どうして私は、そんな「関係ないもの」を、「こわい」と思っていたのでしょうか? それは、その「へんなもの」が崩壊しつつある既成の枠組の中から生まれて来るからです。彼等を支えているものは、もはや正常に機能していない--であるにもかかわらず、愚かな彼等は、そのことを自覚しない。
 世界は崩壊しつつあって、私もその世界の片隅に“一員”として存在していて、そしてその崩壊しつつある世界は、醜悪な狂気のようなものをますます私の周りに生み出して行くだろう--そう思うことが、私の「こわい」の正体でした。それは、「これから自分の周囲には不愉快なこといがますます多く起こって、自分はますます生きにくくなって行くだろうな」と思うことと同じことです。(中略)
「代案のなさが世界を行き詰らせている」と私は思います。「代案がないままに、定員過剰の世界は発狂寸前になっているのかもしれないが、しかしそんなことと、自分の作り出そうとしているものとは、関係がない」と思います。関係がないからこそ、自分はその関係を作り出そうとして“創作”を繰り返して来たのだと思います。そして、その一事を踏まえて、私は、はっきりと、「あんな世界と自分は関係がない!」と思います。>
(橋本治『秋夜―小論集』中央公論社1994/「ある問いに対する答」より)


秋夜―小論集
<琵琶の音はいかが。完璧な歌舞伎役者・六世歌右衛門の絢爛、芥川や三島の作品に漂う大理石の色香を「不思議な作家」が自在に描く。><琵琶の音はいかが。完璧な歌舞伎役者・六世歌右衛門の絢爛、芥川や三島の作品に漂う大理石の色香を「不思議な作家」が自在に描く。秋の夜には古典がにあう。日本の伝統や文化、文学についての小論集。>

登録情報
単行本:285ページ
出版社:中央公論社 (1994/12)
ISBN-10:4120023915
ISBN-13:978-4120023910
発売日:1994/12
商品の寸法:19.8x13.2x2.4cm

<「こわいもの」というのは、まだあるのだろうか? 「幽霊の正体見たり枯尾花」という言葉があって、その事実がはっきりしていたにしても、暗い中で風に揺れるススキの穂を見定める勇気がなければ、まだ“幽霊”は存在する。「注意! 本当に怖い」というコピーのあった『セブン』という映画は、果たして“なに”によってこわくなりうるのか? 既に連続殺人事件というものがどういうものなのかは、『羊たちの沈黙』によって明らかになっている。それを踏まえた『セブン』が二番煎じの駄作にならないのだとしたら、その方向性は一つしかない。「自分達とは関係がない」と思って捜査に当たっていたブラッド・ピットとモーガン・フリーマンの刑事二人が、なんらかの形で“当事者”にさせられてしまうということである。
 それは、安全な境界に立って“恐怖”という刺激を求めるだけの傍観者=観客に対して、「あんただって安全ではいられない、あんただって共犯になりうる」という爆弾を投げることでしかない--「それ以外にはない」と、私は勝手に判断していたのだが、そしたらやっぱりそうだった。(中略)
『セブン』は、「これを“こわい”と言う人間は愚かだ」ということを告げる映画である。既にその輪郭が明らかにされている“恐怖”というものに対して、見世物的な興味で向かうのか。「それをなくしたい」という冷静さで立ち向かうのか、態度はもうはっきりしている。だから私は、「もうこわいものなんてないのに」と思う。>
(橋本治『天使のウインク』中央公論新社2000「まだ『こわいもの』はあるのだろうか」より)


天使のウインク
<恐怖を克服しなくてなんの人間か。酒鬼薔薇聖斗から新潟監禁事件まで。世紀末の闇を超ド級のポップセンスで解読し、“天使が目くばせするような”方向へ私たちを導くハシモトの問題作。><恐怖を克服しなくて、なんの人間か。酒鬼薔薇聖斗から新潟監禁事件まで、世紀末の闇を超ド級のポップセンスで解読する。『中央公論』連載エッセイの単行本化。>

登録情報
単行本:302ページ
出版社:中央公論新社 (2000/04)
ISBN-10:4120030008
ISBN-13:978-4120030000
発売日:2000/04
商品の寸法:19.4x13.4x2.4 cm

躍動美学/「秋夜―小論集」

2011-07-10 04:13:25 | Osamu Hashimoto
<「重要なのはテーマではない。テーマの中から突出して来る、役者というものの見せる肉体的感動だ」と。
 テーマを突き付けられたら、頭で考えなきゃならない。あんまり重いテーマを突き付けられたら、体が動かなくなって、明日の生活に差し支える。だからこそ必要なのは、躍動する肉体だ、という訳。
 こういうことが起こり得るのは、だから、「現実とは常に厄介なテーマを孕んでいるようなもんである。そのことを前提として我々の人生はある」ということ。だから肉体は重要だ--なにしろ、現実は“厄介なテーマ”を孕んでいる。そうであるのなら、その現実に生きる人間は、その厄介なテーマに立ち向かって行かなければならない。それであれば、それが出来るだけの“肉体”というものを持って行かなければならない。
 それであればこそ、生きる=動く=有意味ということが成り立つ。だからこそ、歌舞伎には、“悪の感動”というものが、ちゃんとある。
 善人はおとなしくしていて、おとなしくしている善人だけで出来上がった体制の中から排除されてしまった者は、“悪人”になる。排除された悪人は、日常という“おとなしくしていなければならない世界”の外にいるから、その彼にはもう“おとなしくしていなければならない理由”などというものはない。つまり、悪人になってしまった彼は、いくらでも自由に動ける。「日常は動けない。しかし日常は動きによって成り立っている」という、矛盾を孕んだ現実の中にいて、その為に必要な動きのヒントを得るんだとしたら、それは、躍動する悪人達によってからしか望めない。だから“殺し場”という躍動美学も、歌舞伎にはちゃんと登場する。>
(橋本治『秋夜―小論集』中央公論社1994/「即ち、俳優の肉体は画布である」より)


秋夜―小論集
<琵琶の音はいかが。完璧な歌舞伎役者・六世歌右衛門の絢爛、芥川や三島の作品に漂う大理石の色香を「不思議な作家」が自在に描く。><琵琶の音はいかが。完璧な歌舞伎役者・六世歌右衛門の絢爛、芥川や三島の作品に漂う大理石の色香を「不思議な作家」が自在に描く。秋の夜には古典がにあう。日本の伝統や文化、文学についての小論集。>

登録情報
単行本:285ページ
出版社:中央公論社 (1994/12)
ISBN-10:4120023915
ISBN-13:978-4120023910
発売日:1994/12
商品の寸法:19.8x13.2x2.4cm

行間/「思考論理学 考えるワシ」「大人の学校 卒業編」

2011-05-26 20:34:29 | Osamu Hashimoto
<で、いまっていうのはさ、「自分は絶対だ」と、ものを考える人はみんなどっかでうっかり思ってるからさ、「自分は絶対だ」と思ってしまうと、その周りは具体的なディテールなんか、どうでもよくなっちゃうんだ。自分自身の真実の前に比べりゃ、ごみのようなディテール、ごみのようなリアリティ、と思うんだろうけれども、でも“自分の真実”だって、ごみのようなリアリティの一つかもしれない――はたから見ればね、っていうことってあるわけよ。
 そして、それをそのまんまにしとくと、「向こうもごみ、こっちもごみ、どうせね」ってことになっちゃう。「自分は自分で、なんか確かなものでありたいぞ」と思ったときにどうやるのかっていったら、「自分がいて、周りのディテールがあって、周りのディテールがこんなにでっかく広がるくらいに豊かさを持っているんだとしたら、自分の中にもそれと対応するものはあるだろう。自分の中にも、言葉になってないけれども“具体性”というものがあって、その具体性は、未来で開いていくんだから、それを“行間”という形で保留にしといてもいいな」となるしかないの。>(橋本治『思考論理学 考えるワシ』マドラ出版1992「第二講 行間の読み方」/共著『大人の学校 卒業編』静山社文庫2010)


大人の学校 卒業編 (静山社文庫)
橋本治, 杉浦日向子, 中沢新一, 養老孟司, 天野祐吉
<橋本思考論理学、杉浦江戸学、中沢宗教学、養老生死学、天野社会学を公開。単行本五冊分が一冊に、極上の知のエッセンス。>

登録情報
文庫:368ページ
出版社:静山社;初版(2010/11/9)
ISBN-10:4863890761
ISBN-13:978-4863890763
発売日:2010/11/9
商品の寸法:14.8x10.8x2.6cm

“論理”を生み出せる現実/「江戸にフランス革命を!」

2011-05-10 03:35:16 | Osamu Hashimoto
<歌舞伎に代表される町人娯楽は、時の政府=公儀から見れば“下らないもの”である。それは存在するけれども、それを“下らない”とするものにとってはなんの関係もない。関係ないものが存在することは、ただ「いたしかたない」というようなものであって、それをより「高尚であれ」などという干渉が生まれる訳もない(中略)問題が生まれるとしたら、それはただ一つ、関係ないものが関係を持とうとすること――その一つが批判である。下らない町人の為の娯楽が“現在の日常”に迫ってきてはならない。現在の風俗・事件を、そのままドラマとして脚色することを幕府が禁じたのはその為である。だから歌舞伎は“現在”という時間を中途半端に放棄して、ドラマの背景を“過去”に設定するという特殊な劇作術を持った。“日常”というものは、既に停止しているのである――“平和な現在”という状態の内に。“批判”とは勿論、この停滞を衝いて“未来”を要求することである。>

<演劇というひとつのものを挟んで、明らかに対立するような“論旨”が二つある。あって当然で、総論というものは、その総論を必要とする集団の数だけ存在するのが常識というものです。
 我々は、そこを忘れてしまった。総論といえば「一つですむもの」という考え方自体が“目的”というものを喪失してしまった、行動を喪失してしまった時代の退廃というものなんですね。現実がなければ論理だって存在しない。にもかかわらず我々は、論理だけを先に立てて、その論理を生み出すような現実が、果たして一体存在するのかどうかということを、考えてみようともしない。これは明らかな退歩ですね。
 我々にとって江戸が重要であることの意味は、多分一つしかない。それは“現実が論理を生み出すということが可能だった”ということだけ。
 我々は、単に“生み出された論理のその後”に生きているだけなのであって、果たして我々の生きている現実が、まともな“分担”なり“目的”なりを可能にする、生きて“論理”を生み出せる現実なのかどうかは分からない。>
(橋本治『江戸にフランス革命を!』青土社1990)


江戸にフランス革命を!

登録情報
単行本:458ページ
出版社:青土社 (1990/01)
言語 日本語
ISBN-10:4791750470
ISBN-13:978-4791750474
発売日:1990/01
商品の寸法:19.2x13.6x3.4cm