徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

現場の人

2011-07-23 09:34:02 | Sports/Football
時代の替わり目だった1989年にも時代を象徴する多くの方が亡くなられたものなのだけれども、今年もわずか数日の間にもちょっと驚くような方々が亡くなられてしまった。今年が、ということはないのだけれども…それを言い始めたらここ数年は毎年“そんな年”だったような気がする。そこに象徴的なものの終わりが重なると、それはもうただの偶然とは思えないように感じる。正直、すでにその役割は終えていたという評価もあることはあるのだが、本当に終わっているのに終わってないものと、それが、本当に終わってしまうのとは別だ。
しかし人間はある日、突然幕を降ろしてしまう。
原田芳雄さんの死去や中村とうようさんの自殺はショックだったし、サッカーピープルとしては森孝慈さんの死去もあまりにも急に、そして早く感じた。オレの年代では往年の東京・メキシコ五輪の代表選手というよりも85年のメキシコW杯予選に日本代表監督として闘っていた姿のほうが記憶に残っているかと思うけれども、Jリーグ時代に入ってからはやっぱりレッズの人だったなあ。クラブの創設に尽力した人物だし、初代監督でGMでもあった人なので、サポーターにとっても悲しみは深いことだろうと思う。

しかし森さんの死は悲しいことだけれども、問答無用のレジェンドがいるクラブってのは幸せだと思う。そして森さん自身もレッズというクラブに関わることで(もちろんマリノス、アビスパ時代を通じてだけれども)、60年代から00年代まで「現場」の人であり続けられたことは幸福なことだったんじゃないか。プレーヤーとしても代表監督としても(ワールドカップには出られなかったけれども、あれはあれで80年代の日本サッカーのクライマックスだ)、そして2002年からは創設に関わった(そして残念ながら監督時代は報われなかった)レッズのGMとして一時代を築いた。もちろん70年代の不遇の時代、プロ設立前夜である80年代の雌伏の時代があるとはいえ、文字通り、日本サッカーの黄金時代を生きてきた人物だ。メキシコ五輪世代にとってはJリーグ創設から98年のフランスワールドカップ出場までが世代の役目としてはピークだっただろうけれども、この人にはまだ先があった。それは「現場の人」として求められ、ご本人もあり続けたということに他ならないのだろう。

森孝慈さんのご冥福をお祈りします。

<17日に67歳で死去した68年メキシコ五輪銅メダリストで元日本代表監督の森孝慈氏の葬儀・告別式が22日、東京都世田谷区の公益社用賀会館でしめやかに営まれた。(中略)出棺の際には参列した浦和サポーターから“森コール”が湧き起こり、前日本代表監督の岡田武史氏は涙を見せていた。(スポニチ 7月23日付

<原技術委員長は「『森ファミリー』の代表としてあいさつさせていただく」と述べた上で、「大学、三菱、レッズと、ずっと森さんの背中を見て育ってきた。ダンディで格好よかった。森さんに話を聞いてもらうだけで元気になった。だから、森さんの周りにはいつも人がいっぱいいた」と人柄をしのんだ。>(埼玉新聞 7月23日付

ところで、エスパルスのレジェンドは…書くのはやめておく。

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1 コメント

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まさにその通りです。 (浦和市民)
2011-07-26 08:51:29
レジェンドであり、我々のオヤジでした。いや、僕のオヤジでした。
悲しみの深いところにおります。
新聞記事は埼玉新聞の方がいいので、こちらをどうぞ。
http://www.saitama-np.co.jp/news07/23/07.html
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