徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

その肩に少年は乗っているのか?/「魔王」

2013-03-06 13:09:02 | Movie/Theater
魔王/The Ogre
1996年/フランス=ドイツ=イギリス
監督・共同脚本:フォルカー・シュレンドルフ
原作:ミシェル・トゥルニエ『魔王』(みすず書房)
音楽:マイケル・ナイマン
出演:ジョン・マルコヴィッチ、アーミン・ミューラー・スタール、ゴットフリード・ジョン、マリアンネ・ゼーゲブレヒト、フォルカー・シュペングラー、ディルター・レサー他
<第二次大戦直前のパリ郊外。幼い頃から内向的だったアベル(マルコヴィッチ)は自動車修理工になった今も人付き合いが苦手だったが、唯一、近所の子どもたちとだけはウマが合い楽しく遊ぶことができた。そんなある日、一緒に遊んでいた美少女がついた嘘のため、アベルは強姦罪で摘発され、戦地に送られてしまう。戦地では早々にドイツ軍の捕虜になってしまったアベルだったが、従順な性格からドイツ軍士官学校の雑用係の職を任される。やがて、子どもたちと打ち解ける姿を見た上官から、村々を回って少年兵をスカウトする任務を負わされるのだった……。>

一部軍ヲタの皆さんにはナチスの軍服の再現が評価されている(らしい)が、物語はキリスト教世界の下敷きが極めて色濃いファンタジー(寓話)。第二次世界大戦下のナチス政権末期を舞台にしながら戦闘シーンはラストのクライマックスまでほとんど描かれない。

容易に捕虜収容所を抜け出したり(そしてまた戻る)、「狩猟長官」国家元帥のゲーリングの森の狩猟係としてナチス将校にスカウトされるあたりは、リアリティはともかく、いかにもアベルの役割が物語の狂言回しであることを示している。何てったってアベルは「歴史が自分を救い、自分の人生は進んで行く」という人物なのだから、彼は無邪気な傍観者として目の前で流れて行く「歴史」に身を任せるだけだ。
それでもその無邪気さゆえに子供たちに好かれる(決して「特殊能力」としては描かれません)。最初にスカウトすることになる、森に自転車旅行に来た少年たちとのシーンは美しく描写される。
その後の残酷な運命と対比させるように。

ナチスから少年兵のスカウトを任され、ゲーリングの森を獰猛な犬二頭を連れて黒い馬に跨がるマント姿のアベルは、まさに森の魔王(鬼)そのもので、その「勧誘」はまるで狩猟のように、次第に露骨な子さらいに変わっていく。

しかしナチスの優生思想を体現する軍医から、アベルが連れて来た少年の遺伝子的欠陥をこき下ろされる辺りからストーリーはきな臭くなる。ちなみにいかにもサイコでナチス的な造形がなされているのは彼ぐらいなもので、将校、兵士はいたってフラットに描かれている(少年は、ひとりでも多く少年兵を確保したい「軍服を着て喜ぶ雑貨屋の倅」に採用される)。

戦況は敗戦濃厚でロシア軍が迫る中、寄宿舎である城からは少年兵たちが前線へ送られる。かつてアベルも収容されていた捕虜収容所のフランス人は解放され、強制収容所のユダヤ人は吹雪の中、脱落者は問答無用に撃ち殺される死の行進を強いられる。そしてアベルはユダヤ人の死体の中からひとりの少年を見つける。

ここにきて「歴史」に抗い始めたアベル。しかし子供たちを残して逃げられないアベルは城に残る、まだ幼い少年兵たちに逃げるように訴えるが、逆にナチスの思想を叩き込まれ徹底抗戦を主張する少年兵たちから暴行を受けてしまう。
そして少年兵と軍服を着て喜ぶ雑貨屋の倅だけが残る城はあっさりとロシア軍の総攻撃を受ける。ヒトラー・ユーゲントの少年たちが全滅する中、アベルは黒髪のユダヤ人の少年を肩に乗せ、城から脱出。少年は叫ぶ。
「後ろを振り返らないで!」

そしてアベルは聖クリストフォロス伝説をモノローグしながら、少年を背負い湖を泳ぎ、薄暗い雪原をひたすら歩んで行く。まさに体現。
その姿は歴史に身を任せる傍観者のそれではなく、未来(世界)を肩に乗せ歴史を歩む当事者に見える。
結局、オレも3.11以来、「少年を肩に乗せて」歩いているのか、それをいつも考えているんだよね…などと思ったり。子供いないけれども。

それはともかく、マルコヴィッチ最高ですね。

李さん

2013-02-23 04:42:44 | Movie/Theater


「アイアム ブルース・リー」「李小龍(ブルース・リー) マイブラザー」の試写状到着…と思ったら何のタイミングなのか久しぶりに龍熱王・知野二郎さんから電話。李さんのお導きですな(電話の内容は全然関係ない話だったのだが)。ブルース・リー没後40周年&「燃えドラ」公開40周年記念上映ということで、6月、7月と新宿武蔵野館で連続公開とのこと。楽しみです。
7月20日は生誕73年記念日です。

現実の物語/嘘の物語

2013-01-31 00:27:10 | Movie/Theater
昔は物語を崩していてもお客さんが許してくれる、受け入れてくれる素地がいっぱいあったんだけれど、やっぱりオウムと阪神大震災と、この不況の流れの中でね、初めから壊している物語に対して物凄く拒否反応を持つように皆なってきましたね。
「一回観ただけではわからないような作品をすることを許せない」とかっていう…アンケートが出てくるようになりましたね。観客の側が。それは凄くキャパシティが狭くなっていると凄く思うんですよ。
でも、それは翻って言うと、現実の物語がますます見えにくくなっているんだろうと思うんですね。昔も今も、勿論現実にある物語は嘘なんだけど、昔は、だから長銀が潰れるはずがないとか、都市銀が潰れないとか、大手が絶対にそんなことはないみたいな、勿論年功序列なり終身雇用なんてのは嘘だったんだけれど、嘘なりにその物語が一応機能していた。機能していたからこそ、たまに芝居を観に行くときに、
「テレビじゃないんだから、この空間の中では嘘くさい物語を最初から手放しましょう」。
「嘘くさい物語に収斂することを拒否した物語は、ありです」
という見方があったんだけれども、今はたぶん現実の物語が破綻していくから、ウェルメイドな、ある分かりやすさがあるものじゃないと困るというスタンスに皆なっているんだと思うんです。それは凄く、僕はね、やばいことだなと思うんですよね。
だから自ら真空となる小渕総理によっていろんな法案がなし崩しに…あれ中曽根さんだったら皆拒否したはずなのに全部行くでしょう。だーっと。あれも結局、「とりあえず分かりやすい物語に皆安心しておかない?」という願いだろうと思っていて。やばいなあと思いますね。
だから一応僕らも…「ものがたり降る夜」もそうですけど、99%、95%ぐらいは通常の物語のフリをしますと。残りの5%は悪いですけどジャンプさせて下さいねという。僕の中ではつながってますけど、通常の物語的な収束はしませんということですね。

(「朝日のような夕日をつれて」「宇宙で眠るための方法について」「プラスチックの白夜に眠れば」核戦争三部作から「天使は瞳を閉じて」へ)この網の目のようなうっとおしい、目に見えないこの国の、空虚な中心を抱く、ある圧迫感を全部無しにしないかと。無しにしないかというときに、一番リアリティのある無しの仕方というのは核戦争だろうと思ったんですよね。
それはよくお芝居で言う「夢の国に来ました」とか「森を抜けたら幻の国がありました」とかいう前提をいくら言われても、その前提で、もう僕らは入れないというのがあって。だけど「あるとき、それは起こった」「それが起こってしまったんだよ」と、そこからどう秩序…というか、どう生きていくかという設定なら感情移入はできるというところから始まったんです。
でもそれもやっぱりチェルノブイリ(原発事故)で、ひとつその幻想は終わりましたよね。実際に核戦争、もしくはメルトダウンということが起こったときには、もうちょっと違うんだという時代にもなってきましたよね。
(鴻上尚史×扇田昭彦 NHK-BS 20世紀演劇カーテンコール「第三舞台/天使は瞳を閉じてインターナショナル・ヴァージョン」1999年放送)

魔性の女/「博徒無情」

2012-11-29 19:35:23 | Movie/Theater
博徒無情
1969年/日活
監督:斎藤武市
脚本:星川清司
出演:松原智恵子、露口茂、渡哲也、扇ひろ子、奈良岡朋子、平田重四郎、長門裕之、渋沢詩子、近藤宏、高品格
<若い博徒・村次に惚れた加代だが、村次は親分の仇討ちを失敗して入獄してしまう。残された加代は慣れないヤクザの世界で村次の出所を待つが…。東映における任侠映画の成功は、日活の映画製作にも少なからず影響を与えた。そんな中、清純派の松原智恵子を仁侠映画の柱として売り出そうとしたのが『侠花列伝・襲名賭博』と本作である。>

アクションと言いながら松原智恵子の主演だけあってほぼ全編任侠メロドラマ。冒頭から意味不明なほど、猛烈に、かなり一方的に村次(渡哲也)にヒートアップする加代(松原智恵子)。セットの中で繰り広げられるふたりの出会いは、空間こそ濃密なのだが、加代は村次の何に惹かれたのかよくわからない。まあ、メロドラマのフォーリンラブは理屈じゃないですね。
仇の親分(高品格)への襲撃をしくじった村次は間もなく入獄するも、相手方のヤクザの腕を一本斬り落としただけなので刑期は1年半。思えばこの「1年半」という情念の引き鉄の軽さが、ドラマとしてもかなり軽く感じさせてしまうのかもしれない。この1年半の間に出会った男がことごとく傷つき、恩人の息子さえ岡惚れさせて死に至らしめてしまうファムファタール。当然ながら「女だてら」のパートは扇ひろ子に完全委任で、松原智恵子は“ヤクザのバシタ”にはなり切れず、それでも男たちを振り回す無邪気な魔性の女を演じる(そんな演出意図はなかったと思うけれども)。
ファムファタールの誘惑に引き摺られながらも、踏み止まる、これまた運命の男・露口茂が美味しい役どころ。アクションや任侠の爽快感に欠けるメロドラマなのだから、逆に渡哲也が三角関係で嫉妬に身を焦がすような場面があったらもっと良かったのに、とは思う。ただしこの年、渡哲也は主演、助演合わせて年間12本のフル回転だった模様。

終わりなき思考停止/「村八分」

2012-11-21 21:53:57 | Movie/Theater
村八分
1953年/近代映画協会・現代ぷろだくしよん
監督:今泉善珠
脚本:新藤兼人
音楽:伊福部昭
出演:中原早苗、藤原釜足、英百合子、乙羽信子、山村聡、日高澄子、山田巳之、菅井一郎、殿山泰司、久松保夫、横山運平
<静岡県下上野村村八分事件を取あげたもので「原爆の子」を製作した近代映画協会に現代ぷろだくしよんが協力している。製作は、「原爆の子」の山田典吾に絲屋寿雄の共同。脚本は「千羽鶴(1953)」の新藤兼人、監督は「原爆の子」の第一助手新人の今泉善珠。(中略)静岡県選出参院補欠選挙の発表の日、朝陽新聞静岡支局へ富士山麓の野田村の一少女から、同村で行われた替玉投票の事実を訴えた投書が舞い込んだ。支局長は吉原通信部の本多記者に、早速この事実の調査を命じた。本多は野田村在の吉川一郎の娘、富士原高校に在学する満江がこの投書の主であることを確めたが、これを知った同村ボス山野の手配で厳しく口どめをされた村民たちからは何一つ手がかりを得ることが出来なかった。しかし、根気よくこの村へ通っている間に、本多は一老人の口から竹山集落の違反の端緒をつかみ、村役場で確証を握った上、このことを記事にして支局へ送った。これが朝陽新聞に報道され、司法局がこのため活動を開始したと知って村民は色を失い、その反動が、投書の主満江一家の上にふりそそがれた。>(映画.com

1952年に起こった静岡県上野村村八分事件。この実際の“事件”の翌年に新藤兼人の脚本によって映画化された作品。50年代前半という時代背景もあって左翼を色濃く感じさせる描写になっているものの、これは現代にも通じるホラーでもある。
村役場を巻き込んで投票の棄権防止運動と称して投票に行けない人々の投票券を集め不正投票を行った村の有力者、それを告発するために新聞社に投書する少女、そして不正投票を取材し記事にする新聞記者。現状維持という村の正義、不正を告発するという個人の正義、そして「間違っていないんだからとにかく正義」というメディアの正義。それぞれがそれぞれの“正義”に従って事件は動き始める。何てったって不正投票は悪いのだから、それに関わった弱い、貧乏な村民は“理不尽”に晒されて、糾弾される。罰金も課される。ここで有力者、村役場、村民たちが「ごめんなさい」すれば、この話も終わってしまうわけだが、弱い村民たちの不満と悪意のはけ口は、結局不正の本質ではなく、すぐ隣にいる一番弱い“正義”に向かっていく。村民の“日常”は現状維持と強固な思考停止によって成り立っている。

村民たちによる一家への村八分は新聞記者が全国に報じ、さまざまなメディアが村に集まってくる。
そんな中、取材に訪れたラジオ局のアナウンサーが村民に直接訊く。ここが、ある意味クライマックス。

「この村で起こった村八分について皆さんのご意見を聞かせて頂きたいと思います。お爺さん、あなた吉川満江さんについてどうお考えをお持ちですか?」
「おらっち、何も考えちゃいねえ」
「あなたは吉川さんの家を八分なさらないんですか?」
「何にも考えていねえだ」
「どうもありがとうございました。それではこちらの娘さんにひとつ…」
「嫌だよォ!」

メディアによる「外の目」に晒された村民たちは最初怯え、そして開き直り、最終的にはお互いの意志を確かめ合う(束縛し合う)ように集団の中で囁く。
さらに恐ろしいことに無責任な正義漢である新聞記者は村民たちが囲む中、少女の母親をマイクの前まで引っ張り出す。「みんなに何をされたのか言え」と。今となってみればそもそも投書の少女の所在を村役場に問い合わせたり、この新聞記者の行動は責任重大だと思うのだが、ここまで来ると無邪気な正義のホラーである。

物語は「お姉ちゃんは間違っていなかったんだわ!」ということで実に左翼風に、ポジティブに(一応の)ハッピーエンドを迎えるわけだが、60年経っても問題は投げ出されたままなのではないか。
オレたちの中にも拭い去れないムラ=田舎がある。60年経っても解消されないのか、60年経って蘇ってきたのかはわからない。

運は見えるか/「10億分の1の男」

2012-11-21 13:47:22 | Movie/Theater
10億分の1の男
INTACTO
2001年/スペイン
監督・脚本:フアン・カルロス・フレスナディージョ
脚本:アンドレス・M・コッペル
出演:レオナルド・スバラグリア、ユウセビオ・ポンセラ、マックス・フォン・シドー、モニカ・ロペス、アントニオ・デチェント
<フェデリコは幼い頃、未曾有の大地震で生き埋め状態のところをサムに助けられた。その時サムから“運”を奪う能力を授けられ、以来彼の経営するカジノでお客の運を奪い取ってきた。だがある日、彼はサムのもとから去ろうとしたためその能力をサムに吸い取られてしまう。7年後、銀行強盗で逃走中のトマスは飛行機の墜落事故に見舞われたが、搭乗者237名の中で奇跡的にたった1人生き残った。彼は女刑事サラの監視下で入院していたが、そこへ強運な男を探していたフェデリコが現われる。彼はトマスを連れ出すと、あるゲームへの参加を強引に迫るのだった。>(Yahoo映画

運というのは目に見えず、理不尽なものである。
ただし運が向いてきたときよりも、運を逃してしまった(逃しつつある)ときの方が“目に見える”ことがある(まあ、これは逆にも言えることでもあるけれども)。自分のフォームを崩さない、ということである。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という有名な言葉はまさにそういうことで、負けはたいてい自分のフォームを崩して勝ちに行ったり、取り戻しに行ったりするときに起こる。その意味で運は形のあるもので、運の動きは目に見えるものではある。
いやにクラシカルな“ゲーム”を採用した最終決戦の結末は容易に想像できた。

カジノを舞台にしたストーリーならともかく、人生丸ごと賭けた特殊設定のギャンブルとなると日本には福本伸行先生の「カイジ」シリーズという、その手の金字塔がある。人生と色恋と賭け事をこってり描いた作品ならば塩崎利雄さんの名作「極道記者」がある。ヴィジュアル的には悪くはないとはいえ構成や設定にはどうしたって物足りなさを感じてしまう。
運否天賦に、ここまで“楽天的”に命を賭けられるのは合理主義のファンタジーなのかもしれない。

もう18歳/「ハイティーンやくざ」

2012-11-17 03:24:34 | Movie/Theater
ハイティーンやくざ
1962年/日活
監督:鈴木清順
出演:川地民夫、初井言栄、松本典子、杉山俊夫、松尾嘉代、佐野浅夫、田代みどり、上野山功一
<吉村望と奥園守が共同で脚本を執筆、「百万弗を叩き出せ」の鈴木清順が監督した青春ドラマ。撮影は「事件記者 影なき侵入者」の萩原憲治。>(Goo映画

舞台は東京近郊のある町、チンピラ相手にも一歩も引かずに渡り合う正義漢である高校生・次郎。その腕を見込んで商店街の人々もやくざを追っ払ってもらおうと次郎に金を払い、用心棒代わりに利用する。しかし親友で今はやくざの子分となっていた芳夫に密告され、恐喝容疑で警察に補導されてしまう。そして新聞の見出しに「ハイティーンやくざ」の文字が…。
しかしこの映画、徹頭徹尾、青春映画なのである。何よりも川地民夫の青春アイドル映画である。
主役の“ハイティーンやくざ”次郎も言葉こそハイティーンらしく乱暴で、アルバイトをしている競輪場で車券を買ったりする程度の“悪さ”はするが、詰襟のカラーは上までしっかり止めているし、大学へ進学する夢もある。何よりも、次郎はやくざが嫌いで、この用心棒役にしても正義感からの行動でしかないのだ。
次郎の補導によって家族にまで商店街の人々から白い目が向けられ、家業の喫茶店(ロビン)も閑古鳥が鳴き、母親と姉はこの町から出て行くことになる。警察から釈放され、母を見送る次郎はこう話しかける。

次郎「母ちゃん、町をきれいにしようと思った俺の気持ちは間違っちゃいなかったんだよ。ただやり方を間違えたんだ。俺は俺ひとりの力でできると思っていたんだよ。でも、本当にやくざを追っ払うんなら、町の人の力が合わせなきゃできないんだ。俺はここに残ってそれを町の人にわかってもらうよ。おかげでずいぶんいろんなものを失くしちゃったなァ。ロビン、学校、芳夫…友達まで失くしちゃった…どうしたんだよ、母ちゃん」

たき(母)「次郎、おまえひとりで寂しくないかい?」

次郎「嫌だなァ、俺もう18だぜ」

この後に「手をつなぐ」とかいうやりとりがあるのだが(この辺りが蛇足で、説経臭い所以か)、「嫌だなァ、俺もう18だぜ」の笑顔、爽やかさ、清々しさはどうだ。まさに青春スターの輝き。このとき川地民夫、24歳。
次郎は家族と離れ、ひとり町に残り、やくざに利用されているだけの芳夫を正義の鉄拳と自爆的友情で立ち直らせ、街からやくざを追い出すことに成功する。
清順作品とはいえ主人公がタイトル通り、ハイティーンで詰襟の高校生設定のため(それこそやくざやチンピラならともかく)同時代の青春映画の域は出ていない内容だとは思うが、芳夫との造成地(?)でのアクションシーンの構成に見所あり。造成地(?)を挟んで団地の反対に田んぼが拡がる田舎風景というのがまた昭和30年代。

60年代カバーポップス時代の重要人物である田代みどりがラーメン屋の娘役で出演し、芳夫役の杉山俊夫と共に主題歌「イカレちゃった」をデュエットしている。これがいかにも青春映画らしく、というかいかにも昭和30年代らしく、青春のサムシング(だけ)を謳い上げるなかなかイカした楽曲。この辺は「信じられぬ大人との争いの中で」とか「この支配からの卒業」とかうっかり歌ってしまう80年代の青春とは違う。青春歌謡や後年の橋幸夫のリズム歌謡にも通じるリズムで「何かが欲しくて、何かが燃えててノックアウト」だ。
しかしまあ、やはり60年代とはいえ、半世紀前の映画ともなると風俗の記録映画としても観られます。

サイコと妄執/「ザ・バニシング 消失」(1988)

2012-11-16 20:21:37 | Movie/Theater
ザ・バニシング 消失
Spoorloos/The Vanishing
1988年/オランダ=フランス
監督:ジョルジュ・シュルイツァー
出演:ベルナール=ピエール・ドナドュー、ジューネ・ベルフォーツ、ヨハンナ・テーア・スティーゲ
<オランダ産のサイコ・サスペンス。レックスの恋人サスキアは、三年前に突然の失踪を遂げた。必死で探し続ける彼に、レイモンドという男が近づいてくる。レイモンドは、自分がサスキアを誘拐したのだと言い、犯行を再現するからレックスに同行しろともちかける。レックスは彼と行動をともにし、犯行を検証してゆく。>(Yahoo映画

謎解きよりも人物や心理描写に重きを置いていると見られる演出は、1988年の作品なのに70年代の古いホラー映画を観ているような気分にさせる。

ホラー映画のキャラクターというのはエキセントリック気味に描かれるのは了解している。
犯人役のレイモンドの設定やキャラクター作りはいかにもクラシカルなサイコキラーなのだけれども、何よりもそれに対峙するレックスもサスキアへの妄執では負けず劣らずのサイコに見える。またその他の登場人物もエキセントリックでこってりとしている。オープニングのレックスとサスキアのドライブシーンにしても、ストーリー上は“幸福”とされるレイモンドの家族だって怪しい。
何でこうも揃いも揃ってエキセントリックなのだ。
ダレる展開はまったくなく一気にラストシーンまで見せる展開は悪くないものの、“3年間探し続けた”形跡がエキセントリックにしか表現されないレックスや、サスキアに妄執するレックスの元をあっさり去る次の彼女とか、レイモンドに疑念の目を向ける次女とか、もう少しストーリーを展開できる要素があったと思うんだが…キャラクターの濃さに比べて構成のあっさり感は一体何なんだろう。要するにレックスとレイモンド以外の造形が雑だったんじゃないか。

とにかくまったく救いようのないラストシーン(結末)も含めて観る者を嫌~な感じにさせる映画である。
これ、カルト的に人気があったって解説があるけれども、それは傑作、ヒチコック云々というよりも、あまりにもこってりしたキャラクター造形が突っ込みどころ満載だからという意味なんじゃないだろうか(深夜帯に放送されたら、実況では楽しく盛り上がるタイプの映画だと思う)。エキセントリックな演出は勿論、拉致を失敗し続けるレイモンドなど正直、ほとんど笑いながら観ていたんだけどw ちょっと「傑作」とは言い難い。

それはなぜかと言えば、やっぱしレックスが3年間サスキアを探し続けたという描写にリアリティが欠けているからに他ならない。3年を経てレックスがサイコ(妄執)しているのならわかるけれども、この男、どう観たって最初のドライブシーンからそんなにキャラが変わっていない。
この映画の見所はサイコと執念(妄執)の対決なわけ(になるはず)だから、それは致命的だと思う。

記録に復讐されるとき/「ファイナル・カット」

2012-10-20 04:47:15 | Movie/Theater
ファイナル・カット
The Final Cut
2004年/カナダ・ドイツ
監督・脚本: オマー・ナイーム
出演:ロビン・ウィリアムズ、ミラ・ソルヴィノ、ジェームズ・カヴィーゼル、ミミ・カジク、ステファニー・ロマノフ、トム・ビショップス
<人の一生の記憶が脳に埋め込まれた小さなチップに記録されている近未来の世界を舞台に描くSFスリラー。チップを基に故人のメモリアル映像を製作する編集者が不可解な出来事に遭遇、真相を究明しようと調査を始めるが…。主演はロビン・ウィリアムズ、共演にミラ・ソルヴィノ、ジム・カヴィーゼル。監督は新鋭オマー・ナイーム。人々が“ゾーイ”と呼ばれるマイクロ・チップを脳に移植し、全人生の記憶をそこに記録している社会。死後、ゾーイ・チップは編集者によって再構成され、追悼上映用の美しい記憶を留めた映像として甦る。ある日、一流のゾーイ・チップ編集者、アラン・ハックマンのもとに、ゾーイ・チップを扱う大企業アイテック社の弁護士チャールス・バニスターの未亡人から編集の依頼が舞い込む。ところがそのチップには、アランの心に深い傷となって残っている幼い頃の記憶に関わる驚くべき映像が映っていた。>(allcinema

「Live For Today」
ゾーイチップによる記憶の蓄積と、編集者による編集作業で美しく構成される故人の記憶、その追悼上映会に反対する人々は、この言葉をプラカードに掲げ、口々に叫ぶ。ロビン・ウィリアムズのヒット作「いまを生きる」を思い起こした(もちろん原題は違うけれども、台詞のCarpe Diem=「いまを生きろ」「いまを掴め」ということで…)。あと当然のようにグラスルーツのヒット曲も思い起こしたけれども(Let's Live For Today)。

20人に一人は生まれながらにしてチップを埋め込まれ、その人生の記憶を記録し続けるという近未来。
ロビン・ウイリアムズ演じるアランはそのチップを基に本人の死後、追悼上映会に上映するための映像を編集する編集者(カッター)である。両親が良かれと思って、産まれたばかりの子供に埋め込んだチップは成人になるまで秘密にされ、その事実を告げられたとき、ある人は記憶が記録される事実を受け入れ生活を見直し、ある人は記録されることに耐え切れずに自ら命を絶つ。しかし冷徹で優秀な編集者であるアランに持ち込まれるチップは裏も表もあるエスタブリッシュメントで、彼らは記録されているのがわかっているのかいないのか、浮気やペドロフィリア、インセストを隠そうともしない。
人間ならば表と裏がある、ましてや小市民の表と裏程度ならば笑って済ませられるものもある、ともいえるが、社会的影響の大きいエスタブリッシュメントの記録は、ゾーイ反対派にとっては是が非にも入手したい追及のための「物証」になる。アランが受け取った弁護士バニスターのチップも、その妻が会社との訴訟によって勝ち取ったものだった(何てリスキーな記憶だろう)。ということでアランが巻き込まれるトラブルのひとつが、揺るぎようのない「事実としての記録」である。
一方でアラン自身は少年時代の記憶に今もなお苦悩している。しかし死んだと思い込んでいた人物がバニスターのチップの中で成長した姿で登場し、アランは混乱する。もうひとつのトラブルは、あやふやで容易に「確かめようのない記憶」である。

「編集によって美化される俗物たちの記憶/記録」は映画の中でそれほど大きなテーマには感じられない。
現代だろうが、近未来だろうが、編集という作業はそういうもので、オレたちが目にする「他人の人生」は概ね「編集後の世界」なのだ。記憶/記録される人生というのは間違いなく、すでにオレたちの身近にある。ゾーイチップの世界では否応なしにすべてが記録されてしまうけれども、オレたちは自ら編集(カット)をしながら記憶を蓄積している。足りない場面は親が写真やビデオで補ってくれる、というわけだ。あやふやで確かめようのない記憶を毎日積み重ねながら(Live For Today)、それでも日々を過していく。それが揺るぎようのない事実(記録)の積み重ねならば発狂してもおかしくない。
死後のHDの処分に悩む人がいかに多いことか。

しかし自らに編集権もなく、あやふやで確かめようがない「記憶」が許されず、それが揺るぎようのない事実としての「記録」になるとき、人は記録に支配される。長年悩まされてきた「記憶」から解放され、いかにもロビン・ウィリアムズの映画らしくハッピーエンドで終わるかと思ったとき、アランは「記録」に復讐される。
記憶は個人のものであっても、記録は個人の手を離れていってしまうものである。それは本人が思ってもいないような怪物を生み出してしまう。ドーキンスに言わせれば人間は遺伝子の容れ物なのだろうけれども(それはそれで慰められる部分はあるのだけれども)、そうは言っても個人の人生は記録の容れ物ではないんだよね。ということで…まあSFと言いつつあまり金もかかっていないようだし、寓話的でもあるので設定やセットは突っ込みどころじゃないです。

「ハシシタ」問題を意識して観たわけではないのだけれども、どうしても今観ると通じるものがあるような気がした。

お断り/「ドグマ」

2012-10-11 07:36:21 | Movie/Theater
ドグマ
Dogma
1999年/アメリカ
監督:ケヴィン・スミス
出演:ベン・アフレック、マット・デイモン、リンダ・フィオレンティーノ、サルマ・ハエック、ジェイソン・リー、ジェイソン・ミューズ、アラン・リックマン、クリス・ロック、バッド・コート、ジョージ・カーリン、アラニス・モリセット
<「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」のマット・デイモンとベン・アフレックのコンビが、神に背いて地上界に追放された天使を演じるハチャメチャ・コメディ。デビュー作「クラークス」がサンダンス映画祭で評判となったケヴィン・スミス監督作品で、“キリスト教を冒涜している”として各地で上映禁止運動が起こった問題作。昔、神に背いたことから天界を追放になった2人の天使。1000年も地上で暮らしていた彼らに天界に戻れるチャンスが到来するが……。>(allcinema

しつこい冒頭の「お断り」はそれ自体がジョークになっているわけだが、確かにお断りは必要だろうなというぐらい、ど真ん中に宗教(カトリック)を据えたコミック・ファンタジー。「冒涜している」といえば、確かに冒涜はしているんだろうけれども、そもそもパロディやコメディや批評などというものは、ある程度「冒涜」に踏み込んでいなければ面白くはないもので、その意味ではキリスト教圏の懐の深さを感じられるような内容ではある(いや、もちろん“深くない人たち”もいるから上映禁止運動も起こるんだが)。
キリスト教の知識があった方が笑えるのは当然としても、台詞で「映画を観ないと(宗教や歴史を)勉強しない」と皮肉られているくらいなんだから、それほど詳しくなくても笑える(またアメリカ人は何で映画ばかり観ているんだというくらい、映画を皮肉った台詞も多い…メディアを宗教に喩えているのかもしれない)。まあ“笑い”ほど万国、万人共通に程遠いエンタテインメントもないので、わからないからと言って、無理に笑う必要もない。

天国を追放された堕天使が、ニュージャージーのカトリック教会の“新企画”を伝える新聞記事の切り抜きを何者からか受け取る。“新企画”とは、古臭く、誤解されがちなカトリック教会を“リニューアル”し、親しみやすいカトリック教会に生まれ変わるべく意図された「カトリック・ワォ!」なるイベント。磔された苦悶のキリストの十字架像は、より親しみやすい笑顔のバディ・キリスト像に、そして法王の特別措置として「教会の門(アーチ)をくぐればすべての罪は許される」という“企画”が立てられる。
天国への帰還を願う彼ら堕天使は、これを“抜け穴”に天使の羽を切り落とし、人間として死に、天国へ戻ろうとする。
しかし神により天国を追放された彼らが抜け穴を使って天国に戻ることは、神の過ちを立証すること。真理は崩壊し、世界は消滅してしまう(らしい)。
故にタイトルは内容に反して、重苦しく、「ドグマ(教義)」なのだった。
そして、世界の消滅を阻止する“十字軍”としてキリストの末裔と使徒、そして預言者が動き出す。

しかし、ここでおかしいのは堕天使が天国を追放されたという理由である。
神の怒りを代弁し、ソドムとゴモラで罪深き人々を殺戮し、ノアの方舟以外のものを洪水で押し流したという死の天使は、殺戮を止めた=神の意志に反したという理由で追放された。また彼らを追うキリストの末裔も神の不在=神も仏もありゃしない個人的な事情を抱えている。さらに彼女は「(教義の抜け道を見つけた)彼らは体制に勝った」とまで言う。
殺戮という残虐や個人的な試練よりも、ここでは神の意志=ドグマ(システム)の維持が優先される。
つまり個人的な状況や事情はともあれ、盲目的にシステムを維持する=善、神の意志、システムに反する=悪というアイロニカルな構図の中でストーリーが進行する。上映禁止運動をした方々がどういう意味でこの映画を“冒涜”と判断したのか、わからないのだけれども、むしろこの作品はそのまま観れば宗教賛歌ともいえるのだ。
堕天使をそそのかし、世界の消滅すら願う“悪”の黒幕はこういう。
「エアコン以上の快楽や罪があろうか…これこそ悪の権化」
個人の善悪を超えた、ドグマそのものの矛盾や理不尽をコメディにしているわけだ。

いや、まあ、ストーリーは徹底的に馬鹿馬鹿しくはあるんですが。

主役級に据えられているベン・アフレック、マット・デイモン目当てに、「ビルとテッド」風に想像して観ると、これはちょっとネガティブなコメントになってしまうのは仕方がないところ(このDVDのパッケージデザインはちといただけない。絶対に勘違いしてしまう)。確かにベンとマットの堕天使コンビがストーリーのキーを握っているものの、彼らはどちらかと言えばアラン・リックマン演じる大天使同様、狂言回しに近い役回りで、あくまでも主役はJCの末裔の設定であるリンダ・フィオレンティーノ。彼女を引きずり回す使徒、預言者グループにクリス・ロックが加わると、良くも悪くもドラマが安定するのはさすが。

荒業と感傷/「病院坂の首縊りの家」

2012-10-11 01:48:44 | Movie/Theater
病院坂の首縊りの家
1979年/東宝
監督:市川崑
原作:横溝正史
出演:石坂浩二、佐久間良子、桜田淳子、草刈正雄、あおい輝彦

CMで大野雄二先生の名曲「愛のテーマ」が放送されている。そこで久々に金田一シリーズを観たくなった…と思ったら「犬神家の一族」のソフトは手放してしまっていたので、「病院坂の首縊りの家」を観る。
この作品で市川崑は冒頭とラストシーンに横溝正史夫妻、中井貴恵の素人芝居をそのまんま、かなり長々と見せる、また数十年前の事件の原点を描いた再現シーンをそのまんま、能面のように真っ白に顔を塗りたくった佐久間良子、入江たか子に演じさせるという荒業をやってのける。特に後者などは無理があるのは承知でやっているのだろうけれども芸達者な豪華過ぎるキャストの中でこれは実に際立ってしまう。むしろ舞台劇のようなイメージなのか。

「金田一耕助最後の事件」という原作の設定のみならず、市川&石坂コンビによる金田一シリーズ最後(当時)の作品として、感傷的なシーンが少なくない。金田一による種明かしから犯人の最期までの流れは美しく感動的。シリーズを観続けて、この作品を観ればさらに感動も深まるだろうが、長大な原作を再構成した、尺を感じさせないジャジーな展開はもっと評価されてもいいんじゃないかと思う(個人的には「悪魔の手鞠唄」がシリーズベストだが)。桜田淳子の好演、草刈正雄の怪演、そして佐久間良子の妖艶も絶品。そして、やはりここでも観られる、70年代のピーターの軽やかさというのは素晴らしいです。

全編で流れるジャズ演奏が、「漣流」の取材でお世話になったピアニストの江草啓介さんだったのを改めて知った(本では裏取り取材になってしまって江草さん自身のことはほとんど触れられなかったのだけれども)。



しかし、他のブログでも書かれている方がいるけれども、DVDのパッケージデザインはちょっと酷いなあ(メインヴィジュアルのシーンは超重要シーンではあるのだけれども)…原作である角川文庫版の表紙は相変らず素晴らしいと思うのだが。

場所と想い出

2012-02-22 00:27:34 | Movie/Theater
男3 どうしたんです……?
男1 え……? いや……。
男3 何か、失くしたんですか……?
男1 ええ、たいしたもんじゃないんですがね……靴と、靴下と、ネクタイと……。
男3 何故そんなものを失くしたんです……?
男1 そうなんですよ。私も今、それを考えているんですけどね。何故そんなものを失くしたのか……。私はただ、ここでバスを待っていたんですが……。
男3 バスを待っていた……?
男1 ええ、そうです。
男3 もうここには、バスなんか通っていないんですよ……。
男1 バスが通ってない……?
男3 もちろん、昔は、通っていましたけどね……。
男1 (バス停の標識を指して)でも、それじゃこれは何なのです?
男3 昔、バスが通っていた頃を思い出すために、残してあるんです。いわば、記念品です。ここの連中は、そういうことが好きなんですよ。それ以外にはなんにもないんですからね、ここには……。じゃ、失礼します……。
男1 待って下さい。ここから出てゆくにはどう行けばいいんですか……?
男3 どちらへでも、あなたの好きな方へ歩いていけばいいんです。もっとも、ここの連中の思い出から抜けだすわけにはいかないでしょうけどね……。おやすみなさい。
(別役実『場所と想い出』)

「ホテル・カリフォルニア」か…。

欲求不満のナビゲーター/「ブラインドネス」

2011-01-13 03:32:23 | Movie/Theater
ブラインドネス
Blindness
2008年/カナダ=ブラジル=日本
監督:フェルナンド・メイレ
出演:ジュリアン・ムーア、マーク・ラファロ、伊勢谷友介、木村佳乃
<突然、視界が真っ白になって失明する伝染性の奇病が世界中で蔓延。一切の介護もなく精神病院に強制隔離された患者たちは…。F・メイレレス監督による震撼サバイバル・パニック・サスペンス!ノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの寓意に満ちた傑作小説『白の闇』を「シティ・オブ・ゴッド」「ナイロビの蜂」の俊英監督が映画化、極限状況下に置かれた人間たちが本性をむき出しにする熾烈なサバイバル模様を描いた衝撃作。>(シネフィルイマジカ

と、解説を読んでしまうとパンデミックネタのパニック・エンタテイメントのようにも見える。事実、ネット上のレビューはこの手の宣伝文句に釣られて観てしまったであろうレビュワーの恨み節の嵐。賛否両論は当たり前、それだけ物語の設定がキャッチーなんだと思う。前提として<謎>の解明やヒーロー、ヒロインの活躍で<奇病>が解決するような展開を望んでいると完璧に肩透かしを食らう。
しかしそれは主題ではないので仕方がない。作品では誰もが<謎>から逃れることができないのだ。むしろ、観る者を終始イラつかせる<唯一目が見える主人公>はストーリーを判り易くするためにナビゲーターとして設定されたのかとも思える。彼女は<世界>を救う神ではなく、愛する旦那に寄り添う人間でしかない。ということで、彼女の何がイラつかせるかといえば、<唯一目が見える>くせに、憤りながらも感染者の凌辱や暴力をただ受け入れてしまうから。しかし彼女は結局何もできないのだ。<唯一目が見える>からこそ、彼女はこの暴力に溢れた<世界>では、圧倒的に孤独で、ヒロインにもなれずに、無力感を味わうだけのナビゲーターになるしかない。
それは結局観客と同じ視点なのだ。何もできない彼女は、<目が見えない>感染者だらけの<世界>でイライラし続ける。

前半は理不尽に隔離された施設での陰湿で破滅的、エゴ剥き出しの密室(隔離)劇がこれでもかと描かれる。そして後半、<解放>された感染者は、既に破滅してしまっていた本当の世界でゾンビのように廃墟の町を徘徊する。そのまんま、誰もが思い浮かべるであろうロメロ的なゾンビ描写。
描かれるのは破壊と再生。オレは、解放までぐいぐいストレスを溜めた挙句の、唐突な再生のラストシーンで鳥肌が立ってしまったクチなので全然オッケー。ジュリアン・ムーアと同化しました。
ただし最初に再生するのがあの人というのは何だかなあとは思うがw
あと木村佳乃の脱ぎっぷりの悪さを批判していた人がいたけど、完全に同意です。

原作も読んでみたい。

序曲以前/「ファイナル・カウントダウン」

2011-01-08 08:23:30 | Movie/Theater
ファイナル・カウントダウン
The Final Countdown
1980年/アメリカ
監督:ドン・テイラー
出演:カーク・ダグラス、マーティン・シーン、キャサリン・ロス、チャールズ・ダーニング
<1980年。航行中の原子力空母が突然の嵐に巻き込まれ、1941年12月7日の真珠湾攻撃直前のハワイ沖にタイムスリップ。まさに日本軍が奇襲をかける寸前だと知った乗組員たちは、最新鋭戦闘機F14によるゼロ戦との戦闘に突入するが…。>(シネフィル・イマジカ)

似たような設定の映画や漫画は観たことがあるような…だが、この作品、公開当時は大作扱いだったような気がする。さすがに海軍省とグラマン社の協力を得ただけあって原子力空母<ニミッツ>艦上の描写はかなりの迫力がある。しかしタイムスリップしたニミッツを待ち構えている歴史的事実は重く、深く、アクション満載なエピソードにも関わらず(のはずなのに)、大雑把な艦内ドラマに終始してしまっている観は否めず、結局原子力空母と戦闘機のバトルを描きたかっただけじゃないの?と思えたりして。
しかもマーティン・シーンの設定があまりにも謎すぎる。
こういう作品を観ると思い出すのが、設定は大袈裟なんだけど結局火山が噴火しただけのパニック“巨編”『地球崩壊の序曲』なんだよなァ…。ということで、1980年にはすでにオールスターパニック映画の時代は終わっていたのだった。『ファイナル・カウントダウン』の場合はどっちも中途半端なんだけど。
軍ヲタの皆さんならばそれなりに楽しめると思います。