徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

抗議の場に<声なき声>はあり得るか

2018-03-17 17:03:39 | News
<「激しい口調のコールをできない人も参加している」という反論もありますが、そういう普通の人の声をもっと拾ってほしい。安保反対のデモに囲まれた岸信介が「声なき声」は自分を支持していると言いましたが、その「声なき声」こそが大事なので。@aki21st  #0316官邸前大抗議>
(町山智浩Twitter 2018年3月16日)



昨晩のことは改めて書くとして、町山智浩さんのツイートが話題になったので書いておく。
そもそも、それを<声なき声>と表現して良いものかどうかはとりあえず置いておく(果たして抗議の場で声なき声があり得るのかというのは、よくわからない)。

<声なき声が大事>と書くのと、<その「声なき声」こそが大事>と書くのでは大違いである。岸信介や安倍晋三が言う「声なき声」とは、どう考えたって「自分に都合の良い、声なき声」でしかない。では1960年の岸信介は何と言ったか。
「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りだ。私には声なき声が聞こえる」
である。何故町山智浩が<岸信介が>などという余計なことを書いたのかよくわからないが(好意的に捉えても意味が変わってしまう)、その声なき声は岸の脳内で都合良く解釈した幻聴でしかない。「私たちに問題は任せて国民は楽しんでくれ」というわけだ。安倍も間違いなくそう思っている。
現実には、かつて声なき声であったかもしれないものは、すでに官邸前や国会前ではっきりとした声であろうとしているのだ。

抗議も終盤に差し掛かった国会議事堂駅出入口の攻防のあと、じりじりと警官隊を後退させて官邸前に向かって茱萸坂を上って行った人々は、<声なき声>に甘んじることに耐えきれずに、あの言葉を言いたくて、または自分の声を伝えたくて官邸前にやって来たのだ。
この2018年に、声なき声などという権力者に利用されやすい甘い幻想をもう持つべきではないし、そんなものに加担すべきではないのだ。卑怯者たちと戦っているのに、何故そんなにナイーブでいられるのか。

とはいえ、抗議のあと、オレたちは嫌でも金曜日の夜の電車やバスで家路に着く。そこには岸信介が言うように「いつも通り」の光景が広がっている。つまり声なき声はそこにあるのだ。そして、それは声なき声ではなく、圧倒的無関心というのだ。
言葉は人の口から吐き出されて初めて声になる。その瞬間を目の当たりにしている人間には声なき声などという、使う人間に都合の良い言葉にリアリティーなど感じるわけがない。少なくとも「そこ」にいる人たちは、誰ひとりとして、決して声なき声などではないだろう。

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喧嘩両成敗のその先

2018-02-22 11:23:40 | News
TLに流れていた昭恵ツーショット画像集、しっかり見てなかったけど、これネトウヨ桂春蝶だったのか。
今時(というか今だからこそなのか)、低レベルな自己責任論がなぜか関西芸人から連発される。
しかし「世界中が憧れるこの日本」って凄いパワーワードである。ま、こんなものは「日本スゴイ」の言い換えでしかないのだが。



73年前の南米で起きた「勝ち組負け組」の抗争が21世紀に見られる日本は、悪い意味で確かに凄いと思う。
しかし単なる思考停止と、もはや態度を決めなければならない事柄についてまで他人事でしかいられない、日本人の「喧嘩両成敗」(どっちもどっち)のカルチャーは、やはり見直されるべきではないのか。

<「問題を起こしたら双方を処分」するのではなく、「問題を武力で解決(故戦防戦)しようとしたら双方を処分。」である。>(Wikipedia)

移民社会への抑圧や不満があったとはいえ、やはり勝ち組は明らかに間違っていたし、負け組は彼らの暴発を食い止めようとしていたのだ。73年経った今、海の向こうではなく、この国で起きている勝ち組と負け組の抗争について、喧嘩はともかく、やはり問題を見極め、態度を決められない姿勢は問われなければならない(だろう、きっと)。

もうすでにこの国のリーダーが勝ち組ではないか、という絶望は置いておいて、私たちの「抗争」が書店の本棚で起きている程度のうちに。
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Be There/映画「STANDARD」公開に向けて その5

2018-02-21 20:26:26 | News
昨日「STANDARD」初上映が無事終了しました。
ツイートでも投稿しましたが、改めて超満員の中、視聴環境もしんどい中で長時間の作品をご覧になって頂いた方々に心より感謝いたします。また野間易通さんをはじめ、出展作家、Galaxy関係者の皆さんもご協力ありがとうございました。ドアを開けた瞬間に湯気が出るような熱い上映会となりました。

「ねえ、これ良いと思わない?」
制作が始まった頃、SNSの会話の中で、いつもの調子で張さん(Akira the Hustler)がリンクを貼り付けたのが、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「スタンダード」 でした。最初に書いた企画書の表紙には「STANDARD」の文字があります。映画のタイトルはこの2年間、ずっと変わらず「STANDARD」だったのです。ではその後、楽曲について詳しく話し合いが行われたのかといえば、そんな記憶はないのですが(ゴッチさんすいません)、間違いなくきっかけはこの会話でした。
確かに、言葉が示す意味があまりにも大きく、広く、どのようにも受け取れる言葉です。あまりにもポピュラーな言葉であるために、 #TNN_STANDARD のタグがなければスタッフが映画の感想を検索するだけでも大変です。
昨日、私は「昔の日本人にはあったはずのSTANDARDを取り戻す」てなことをグダグタと喋りましたが、その答えはその時々で変わるかもしれません。それは今も揺るぎなくあるものなのか、それは失われたものなのか、それを取り戻すのか、それを作るのか、それを真似るのか、そもそもSTANDARDとは何なのか。作品の中で監督は「STANDARD」について、彼自身の答えを出していますが、個人的には作品を観る人がタイトルをどのように解釈するのも構わないと思っています。とにかく、スタッフはリンクに貼られた「STANDARD」という言葉が指し示すものの中に、これから作る映画の核となるものがあるのではないかと思ったのでしょう。

川崎のN君が感想を書いてくれました。私にとってN君という人は同じ場所にいても、直接のやり取りはほとんどないのですが、実は13年か、15年の官邸前抗議の頃に一度だけ接触がありました。彼は覚えていないでしょうが、彼に向かって、私が「トラメガ のコールが混乱していて、これじゃ駄目だろ(このヤロー)!」などということを言ったところ、「うるせー先頭で調整してるよ(このヤロー)!」と返されて以来、悪印象があるのですが(笑)、今回とてもいい感想をツイートしてくれました。

<多くを語らなくても「いるべき場所」を少しでも多く共有したく思う欲求こそが社会運動だとずっと思っている。「あの抗議の場に行って良かった」「仕事で参加できなくて悔しい」「けれど心は現場に」そんな気持ちは震災後に芽生えた特異な感情のように思う。>

だから彼は超満員で、ドアを開けた瞬間に外のガラスドアが曇るほど、熱気が充満した中で、2時間もの間、立ち見のままでも、<いるべき場所>にいたのだと書きます。最高です。こんなに嬉しい反応は、なかなかないだろうと思いました。

この映画は決して行動のための映画ではありません。行動をしろ、という映画でもありません。そこで起きたことを当事者の目線で描いた作品です。そこにいたこと、そこにいたかったこと、そしてそこを作ること、そんな気持ちに溢れた映画です。この映画も観る人にとって、<そこにいたい><そこにいたかった>と思える作品であって欲しいと思います。



今もなお日本を揺るがし続ける「3.11以後」。全国的に拡大した反原発運動に始まり、反レイシズム、反安倍政権にコミットし、路上で行動し続けてきた「普通の人々」の姿を描く。 監督:平野太一/出演:野間易通、ECDほか/製作:TwitNoNukes Project /120分 #TNN_STANDARD
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我々の行動は東京の片隅で起きていてもグローバルなコミュニケーションの中にある/映画「STANDARD」公開に向けて その4

2018-02-19 17:57:43 | News
かつて隅田川沿いに存在していた<食糧ビル>の中に「佐賀町エキジビットスペース」というアートスペースがありました。2001年に食糧ビルは取り壊しが決まり、閉鎖することになった佐賀町エキジビットスペースの代表で、クリエイティブディレクターである小池一子さんを取材する機会を得ました。コピーライターでもある小池氏の言葉は実に刺激的だったのですが、この言葉はその中でも今でも心に刻んでいる言葉です。

<我々がする仕事は、東京の片隅で起きていてもグローバルなコミュニケーションの中にある。>

これはすべてのインフォメーションがバイリンガルで行われていることについて話していただいたときの言葉なのですが、それ以前に自分の立ち位置を問われているような気がしてとても感銘を受けました。ほとんどの人々の間でネットが常に接続されている現在では当たり前のような感覚かもしれません。
この年に刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』なるメロドラマは数年後に大ブームを起こし、そして2016年から17年にかけて映画『この世界の片隅に』がロングランで上映されました。<世界>と<中心>と<片隅>はこの15年で大きく変化したのでしょうか。ひとまず<さけぶ>か否かは別としても、中心も、また片隅もなくなった世界で「見られている」感覚を忘れてはならないのだと思います(2011年頃はよく「メタ視点」という言葉をよく使っていました)。

「見られている/見せ(てい)る」というデモ参加者の感覚は、映画の中でも特徴的なテーマになっています。
そこから映画にも登場するようなSAYONARA ATOMの「かわいい」横断幕や、国内メディアだけではなく、世界中のメディアやワールドスタンダードを意識したプラカードやTシャツが生まれてきたのだろうと思います。

ウェブの世界では拡散されるためだけの画像が数多く出回っていますが、「言葉を声にする」作業と同じように、何かを訴えるためにシンプルに、ダイレクトにコピーライティングされ、翻訳され、デザインされた画像(プラカード)は行動する人々の手によって掲げられなければ意味がありません。あの頃は沿道からの飛び入り参加を呼び込んでいただけではなく、プラカードの見せ方さえ気にしていたものです。時に暴力的に見えるかもしれない行動でも、見られていることを意識しつつ「伝える」ということについてはとても真摯であり続けたのだと思います。

公開まで24時間。

それにしても、よくよく考えてみると、日本で一番<中心>でいながら<片隅>を感じさせるのはやはり永田町と霞ヶ関なのかもしれません。



映画「STANDARD 」
http://standard-movie.jp
STREET JUSTICE – ART, SOUND AND POWER
レイシストをしばき隊5周年 特別上映
日時 2018年2月20日(火)19:20(上映開始)
※上映開始予定時間が変更になりました。
出演:平野太一(舞台挨拶)ほか
料金:無料
会場 Galaxy 銀河系
(東京都渋谷区神宮前5-27-7-B1 ※JR、東京メトロ、東急「渋谷駅」徒歩8分 東京メトロ「明治神宮前駅」徒歩5分)
TEL 03-6427-2099
http://www.thegalaxy.jp

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大事なことはすべてTL上で話し合われていた/映画「STANDARD」公開に向けて その3

2018-02-18 00:08:54 | News
制作当初、企画や方向性を決めるために対面やSNSで行ったミーティングで、私はあるツイートのことを話しました。
「大事なことはすべてTL上で話し合われている」。
野間さんが書いていたのか、bc君だったか、それとも別の誰かだったか、見つけ出せませんでしたが、このスタンスはTwitNoNukes以降の行動に通底しているテーマだと思ったのです。
それはシングルイシューです。断固として、シングルイシューです。誰もがその一歩を踏み出すことができる「言葉」を見つけ出し、多くの人が共有できた瞬間、その行動は拡散します。しかし2015年以降、そんな「言葉」を私たちは見つけられずにいるのではないか。個人的にはそんな風に思っています。
でも2017年春から夏にかけて、一瞬だけ、そんな奇跡的な瞬間が訪れました。映画はその瞬間を実に熱く捉えています。

あれから7年が経とうとしていて、Twitterとの向き合い方は人それぞれ変わってしまって、離れしまった人も、使い方が変わってしまった人も、飽きた人も、またはネトウヨになってしまった人もいるかもしれないけれども、やはり、この想いは変わらないでいます。行動する個人が増え、活動の幅を拡げるグループが増えたとしても、それぞれのグループのやり方や仕掛け、演出が表で語られることがなくても問題ではありません。手法の違いなどどうでもいいことです。もっといいやり方を思いついたのならば、思いついた人間がやっちまえばいいのです。
そして、いまでもやはり本当に大事なことはすべてTL上で話し合われていると思うのです。

きっとそのことを思い出すことができる作品になっていると思います。



映画「STANDARD 」
http://standard-movie.jp
STREET JUSTICE – ART, SOUND AND POWER
レイシストをしばき隊5周年 特別上映
日時 2018年2月20日(火)19:20(上映開始)
※上映開始予定時間が変更になりました。
出演:平野太一(舞台挨拶)ほか
料金:無料
会場 Galaxy 銀河系
(東京都渋谷区神宮前5-27-7-B1 ※JR、東京メトロ、東急「渋谷駅」徒歩8分 東京メトロ「明治神宮前駅」徒歩5分)
TEL 03-6427-2099
http://www.thegalaxy.jp
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声を取り戻す/映画「STANDARD」公開に向けて その2

2018-02-13 22:48:20 | News
言葉は声にされなければならない。
いくら正しい言葉でも、そしてその正しい言葉が文字として残るとしても、今、私たちはそれを声にして現実化、肉体化しなければいけない。そう思います。私たちは「今」に生きているのですから。今、伝える、ということはそういうことです。
今、声を上げなければいつまで経っても、言葉は誰かが書き残したとしても、やはり手遅れです。
以前、特定秘密保護法での闘いのあと、「声が枯れている奴は信用できるぜ」てなことを書いて、少々反発もされたのですが、その気持ちは変わりません。



<3.11以降>というのは、行動する人々にとってはいわば路上で声を上げるトレーニングだったと思っています。
例えばこの作品に登場する建築家の山本匠一郎君が「僕は(この行動を)運動だとは思っていない」と発言する場面があります。それはおそらく登場する人たち全員が思っていることで、実は政治や社会の不正、不公平だけではなく、日常生活の中に蔓延る理不尽や不寛容、そして暴力に対して、そんな場面に遭遇した時にすぐに声を上げることができる、行動することができる反射神経を取り戻す行動でもあったのです。
それは、かつて日本にもあったはずの「スタンダード」を取り戻す闘いだったのだろうと思います。

TwitNoNukesは実に「うるさい」デモでした。ECDさんは初期は「それほどでもなかった」と言っていましたが、参加者一人ひとりが大声を上げるデモだったのです(私自身、ブログで鼓舞していたということもありますが)。それが反レイシズム、反安倍政権の罵声や怒声を含むデカい声の抗議に繋がっていくのは、まあ当然です。
それでもひとりで声を上げるのは心細いですよね。
でも、そんな人にも勇気を与えられる作品になっていると思います。是非観に来て下さい。

映画「STANDARD 」
http://standard-movie.jp
STREET JUSTICE – ART, SOUND AND POWER
レイシストをしばき隊5周年 特別上映
日時 2018年2月20日(火)19:00(上映開始予定)
出演:平野太一(舞台挨拶)ほか
料金:無料
会場 Galaxy 銀河系
(東京都渋谷区神宮前5-27-7-B1 ※JR、東京メトロ、東急「渋谷駅」徒歩8分 東京メトロ「明治神宮前駅」徒歩5分)
TEL 03-6427-2099
http://www.thegalaxy.jp
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誰もが TwitNoNukesだった/映画「STANDARD」公開に向けて その1

2018-02-10 12:39:45 | News
平野太一君の初監督作品であるドキュメンタリー映画「STANDARD 」の公開まで10日となりました。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う福島第1原発事故をきっかけに、全国的に拡がった反原発、脱原発ムーブメントを担った数多くのグループの中のひとつであるTwitNoNukesを起点に、現在に至る市民による路上の闘争を、その当事者が語る内容になっています。



今回はC.R.A.C.(Counter-Racist Action Collective 対レイシスト行動集団)主催の<JUSTICE - Art, Sound and Power>の会期中にほぼ連日行われるスペシャルイベントのひとつとして、一回限りの上映となります。この上映をまたひとつの起点として、爆発的に、そして末永く作品の告知を拡げていきたいと思っていますので、上映会にも是非ご参加していただきたいと思います(しかも今回は無料です)。
制作をスタートしたのは2015年、スタッフ内の議論でヴァージョンを重ね、公開版がほぼ固まった中で、急遽決まった上映故に、告知の準備も多少突貫ではありますが、本日、TwitNoNukesの公式Twitterアカウントより今回のイベント用のポスター画像を公開、来週早々には公式サイトもスタートする予定です。なかなか良い感じに仕上がりそうなのでご期待下さい。

制作はTwitNoNukesプロジェクトです。
私、和田がなぜこのプロジェクトに参加しているのか? そしてお前はTwitNoNukesなのかと問われれば、当時言われていた「デモ実行有志」でもなく、参加者の一人でした。と言ってもあの頃はTwitter上の情報交換も今とは比較にならないほど活発でした。顔など知らなくてもダイレクトに実行有志と意見交換もできましたし、何よりも原発事故に対して国民の多くが漠然とではあっても、不安と疑問を抱き、「このままではいけない」「叫ばずにはいられない」切迫した状況ではありました。確かにデモ申請の手続き、プラカードの用意などは「誰か」がやらなければいけないことなのですが、主催と参加者の敷居は実に低かった。またそれまでデモに参加したことが無いような人たちでも、その役割にすぐ手を挙げる人は少なくなかった。誰でも「誰か」になれたわけです(それは今も変わらない)。今回の映画に登場して、語って頂いている方々はそういう人たちです。

所謂、<普通の人々>です。

そんなことを書くと、すぐに<普通とは何か?>などというツッコミが入るものです。実際に当時のTwitter上では激しく討議されていたテーマです。そして実行有志とシンパはそんな連中と連日戦っていました。
この映画で描かれるのは、そんな<普通>との戦いでもあります。映画タイトルの「スタンダード」にはそんな思いも込められています。

続きます。



ひとまず今回の上映まで限られた期間ではありますが、TwitNoNukes公式アカウント、また制作に加わってもらった堕落君のフェイスブック、そして当ブログなどからも続々と情報発信をしていきますので、お付き合い下さい。
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ECDは「仕事でロック」したのか

2018-02-01 13:05:05 | News


ECDが亡くなってからTLに彼の画像や動画、そして言葉が途切れることはない。中でもオレが一番共鳴したのはこの言葉だった。

<その仕事をするひとがいなければ世の中が回らない。いやいやでも引き受ければ金銭という報酬を得ることができる。(中略)このことを「つまらない」「悲しい」と嘆く必要はない。なぜならそれがいやいややる仕事であればあるほどそれをいやがってやらないひとを助けることになるからだ。つまりひとの役に立っているのだ。>
<「助け合い」という言葉の響きは美しい。美しすぎて誰にでも簡単にできることとは思えないくらいだ。しかし、仕事をすればそれができる。>
(「仕事はつらいよ」仕事文脈vol.8)



個人がクリエイティブであろうとするためだけに、必ずしもクリエイティブな仕事に就いている必要はない。仕事自体は目的ではなく、手段だ。そしてどれほど赤の他人から見て「つまらない」「悲しい」仕事であっても、クリエイティブな個人によって、その仕事も社会的に開かれた、ポジティブで、クリエイティブなものになる。そしてまた個人は仕事をフィードバックしながらクリエイティブな日常を送る。
これは「仕事でロックする」ということであろう。「ロック」の部分はブルーズでも、パンクでも、ヒップホップでも構わない。
「ラーメン屋でロックする」「パン屋でロックする」ーー「働くことでロックする」は、数多い著作の中で語られるECDの仕事観で使われたフレーズで、青少年時代のエピソードだけれども、松村雄策のバンドであったイターナウの宣伝に記された、岩谷宏の宣言文<あらゆるものがロックであり得る>が元となっている。自称「ロッキングオン信者」であったECDは、この言葉が「人生を変えてしまった」とまで書いていた。

現在、平野太一君やアキラ・ザ・ハスラーさんらと共に製作した「スタンダード」という3.11以降の路上の行動とそれに参加した人々を描いたドキュメンタリー映画が公開間近である。もちろん、その中にECDの姿と言葉か収められている。すでに製作は3年越しで、心ならずも、最晩年の路上での姿までをカメラは捉えることになった。
その取材の中で、「まあ作品には使われないだろうな」と思いつつ(コメントを使うかどうかを決めるのはあくまでも監督は平野君である)、ロッキングオン信者時代の話を聞いた。最後の著作である「他人の始まり、因果の終わり」に至るまで、赤裸々に自分を語り続けてきたECDである。しかしそれほど嫌がる素振りも見せずに答えてくれた。

<自分の中ではロッキングオン、劇団は黒歴史的なもので(笑)。でも最近、山崎春美と話したら「やっぱりあのアジテーションは熱かった」「あれをなかったことにしちゃいけない」って言っていて。それが国会前に立っていることにつながっているんだなと思うと、そんなに捨てたものではないなと。>

特に結婚後のECDが「仕事でロック」を体現したのは間違いがないのだろうと思う。その姿に勇気づけられた若い世代も多いのだろう。そして、この6年ほど、オレは彼の言葉と行動で「いるべき場所」を共有したつもりでいる。
著作では過去を語り続けたECDも、作品では今しか表現しなかったように思う。彼亡き後、彼の今はもうすでに過去のことである。しかしこれからも、彼は今を生きる自分を突き動かすだろう。
そして我々は日々の暮らしのために「仕事」をし続ける。それがロックやヒップホップであればいい。

今日はお通夜、最後のお別れです。
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It Isn't Nice

2017-03-05 21:42:33 | Music

Barbara Dane and The Chamber Brothers/It Isn't Nice


中川五郎/カッコよくはないけれど

50年前から日本もアメリカも大して変わってないということで、第4回フォークキャンプコンサートでのアプルパミスの演奏はどうもUPされていないようなので、中川五郎さんの12年のライブから。60年代だし、元がフォークなんだからフォークでいいんだが、やっぱりフォーク(貧乏)が悪い。これはパンクで聴きたい。
しかしバーバラ・デインは顔も、声も本当にかっこいい。
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奴らの「ゲーム」に乗らないために

2015-12-16 18:26:54 | Books
<ピストルズ、そしてパンクは、普通の人々に力を与えた。パンクは、人々が音楽をつくる後押しをしただけでなく、自分自身の服をデザインし、ファンジン(同人誌)を始め、ライブを準備し、デモを行い、レコードストアを開店し、レコードレーベルを設立することをも奨励した。ディック・ヘブディジがその著『サブカルチャー――スタイルが意味するもの』で指摘したように、パンクのファンジン『sniffin' glue』には、「おそらくサブカルチャーが生み出したうちで最も見事なプロパガンダ――パンクのDIY哲学の決定的な表現――が含まれている、それは、ギターのネック上におけるスリー・フィンガー・ポジションの図解、そしてそのキャプションにはこうあった」

これがコードの1つ、あと2つ覚えろ。
そして自分のバンドを組め
」>

<「私にとっては、一か所にとどまるのは退屈だ。50過ぎた連中がパンク風のレザージャケットを着てうろうろして、それがなんだっていうんだ。大事なのは、分類不可能なままでいるということだよ。そうすれば、他人がきみを所有するということはない」>(リチャード・ヘル)

(マット・メイソン『海賊のジレンマ ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか』フィルムアート社2012年)
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バーケンの不在とSの極みの罪と罰/清水降格を受け入れるための覚書その4

2015-10-23 18:10:50 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015
「Sの極み」という清水エスパルスのサポーターに向けた会員制の有料情報サイトがある。
2003年、清水エスパルスの低迷期に今は亡きフリーライター大場健司が立ち上げ、彼が亡くなったあとは盟友の下舘浩久氏がサイトを引き継ぎ、今日まで更新を続けている。
毎日の更新では監督・コーチやプレーヤーのインタビューのみならず、クラブが非公開にしない限りは練習メニューとピッチに立ったプレーヤーがレポートされ、アンチからは対戦相手のスカウンティングに協力していると蛇蝎の如く嫌われるサイトである。確かにファンやサポーターにとっては重宝な情報サイトだ。番記者の取材は毎日のように行われ、事あるごとに記事にはなるとはいえ、情報は番記者が抱えるだけでほとんど公開されることはない。ということで、ここでしか得られない情報は少なくない。
大場健司ことバーケンは、健太体制最終年の2010年3月24日に亡くなり、その直後に行われた川崎戦の等々力競技場の清水ゴール裏では、彼に対してサポーターによる黙祷が捧げられたという、清水サポーターに愛された番記者であった。

アレックス移籍、健太退任、そして今回の降格決定と、清水に関して号泣することは何回かあったのだが、バーケンが亡くなったことを知ったときも相当堪えた。彼は2010年シーズンの健太体制後の崩壊を警告していたし、プレーヤー同士の「仲良しクラブ化」を危惧する記事も書いていた。
彼は熱い清水至上主義者であったと同時に、プレーヤーに対しても厳しい目を持っていた(と思う)。
それだけに2010年のシーズン開幕と同時に亡くなってしまったのはショックだった。「Sの極み」を通して低迷期から健太体制を追い続け、書き続けていた彼にこそ、清水エスパルスと長谷川健太の物語は書かれなければならないと直接メールを送ったこともあった。

しかし「Sの極み」は変わってしまった。オレもあれほど熱く支持し、バーケンの死後も存続を願っていたサイトに失望し、2014年の半ばには購読を止めた。
「Sの極み」の役割はアフシン・ゴトビを更迭させるために彼に不満を持つプレーヤーと一部サポーターをつなぎ、ゴトビ更迭後は大榎体制を盲目的に後方(広報)支援するサイトに変わってしまったのだ。それが誰かの意図だったのかはわからないし、サイト運営をする上でコアなユーザーが望むものに応えてしまったこともあるのだろう。
勿論最初から下舘氏にバーケンのようなジャーナリストとしての視点は望むべくもない。しかし根拠の薄い大榎擁護を続けることで事態の深刻化に加担してきたことは紛れもない事実である。
「Sの極み」は御用サイト、第二公式ホームページとして運営されていくのか。

何よりも、オレがたびたび書いている「周囲の大人が悪い」という言葉の中の「大人」は、まず「Sの極み」をはじめとする番記者を指している。
そして、それは何よりも「バーケンの不在」ということである。

今でもオレは清水エスパルスのことを考えるとき、時折「バーケンだったらどう書くだろう」と想像する。
「メシのタネ」にはなかなか逆らえない気持ちはわからないでもない(勿論「メシのタネ」とは決してクラブだけを指すわけではない)。しかし仲良しクラブを強烈に批判したバーケンは、今のエスパルスを認めてくれるだろうか。
番記者が書く、いまだに降格の直接的な要因と問題の本質をあやふやにした検証記事(つまり前々回に書いた「前提」を無視した内容である)をバーケンは望んでいるだろうか。
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失敗は繰り返された/清水降格を受け入れるための覚書その3

2015-10-23 18:02:17 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015
前回、前々回と二度のギャンブルについて書いた。
スポニチの降格検証記事を読んでいて、そのギャンブルの当事者である大榎克己は、やはりもうひとりの当事者、長谷川健太の幻影に振り回されていたのではないかという思いが改めて強くなった。
クラブの設立メンバーというだけでなく、高校時代には清水東高の三羽烏として静岡の高校サッカー黄金時代を築いた生粋の清水オリジナルのふたりである。それは意識しないわけがないだろう。清水での失敗を糧に現在はガンバ大阪でプロ監督としてのキャリアを順調に積んでいる健太と一度たりとも浮上のきっかけをつかむことなく、結果的にクラブを降格させてしまった大榎。
しかし今日の大榎が、勿論健太だった可能性もある。
彼らの起用はギャンブルだったのだから当然だろう。

ふたりのやり方は好対照だった。
ユースの監督を長く務め、トップチームでも積極的にユースのプレーヤーを起用した大榎に対して、健太時代は低迷期の地元中心の路線を改め、静岡にこだわらない選手補強を進めた。これにより久米一正(強化育成本部長)と興津大三(スカウト)の名前が大きくクローズアップされた。有望新人獲得におけるあまりの好成績に興津などは毎年のシーズンオフの話題の中心だった印象さえある。
健太の幸運は、2000年代前半のユース黄金時代を支えていた杉山浩太に加え、枝村、山本真希、山本海人などが大卒、高卒プレーヤーと共に加入してきたことだろう。「静岡からの路線変更」と言いつつ、実際にはユースも厚い選手層に大きく貢献していたのだから、清水に拘る一部サポーターの不平不満も起こるはずがない。
大榎の不幸は、久米も興津も、さらに言えば早川巌もいなかったことにある。勿論監督としての技量の問題もさることながら、彼をサポートすべき強化部を中心とするフロントの問題が大きかったのではないか。それは大榎就任時に遡って検証されるべきで、当時の竹内前社長と原靖強化部長の責任は重大である。

クラブが「レジェンドというギャンブル」を打つとき、2度の「低迷」があり、当然その低迷期に監督に就いていた人物がいる。
石崎信弘(→長谷川健太)とアフシン・ゴトビ(→大榎克己→田坂和昭)である。
共に手腕とマネジメント能力が高く評価される一方で、スタンドの一部サポーターと鋭く対立し、遺恨さえ遺した石崎信弘とアフシン・ゴトビ。そしてその後に、とても「レジェンド」を遇するタイミングとは思えないスクランブルな状況で監督に就任することになる長谷川健太と大榎克己。
健太はそれなりの成績を残しクラブとサポーターに「成功体験」をもたらしたものの、退任時には史上に残るチーム大崩壊をも同時にチームにもたらした。一方の大榎はある意味でプレーヤーに乞われるような形で監督に就任したものの降格の憂き目に遭う。
健太と大榎の「やり方」は好対照で、そして最終的な崩壊は符合している。
このようなスタンドとの対立を繰り返して、そのたびに付け焼刃でレジェンドを使い捨てるやり方を続けて、フロント、そして「一部」サポーターは、このチームに新たな監督が就任できると思うのか。
何を応援し、何のためにサポートしているのか、はっきりと考え直す時期が来ている。

清水エスパルスはこの約10年間で2度、同じような失敗を繰り返している。
クラブが「問題」を把握していないとは思えない。これはやはり事なかれ主義を続けた前フロントと、現場と感情的な対立を繰り返す「一部の」サポーターに問題があるとしか思えない。
3度目の失敗は許されないだろう。
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ゴトビ以後/清水降格を受け入れるための覚書その2

2015-10-23 00:05:47 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015
2010年のシーズンオフが清水エスパルスの大転換期だったことは間違いがない。それはその通りだし、崩壊の起点として論じられるのは仕方がない事だと思う。今更と思わないでもないが。
しかしフットボールは続く。

2011年、web上で「新しい旅立ち」を呼びかけたゴトビに対して、サポーターはどんな思いで彼を迎えたのか。
彼の来日、そして静岡駅到着を少なくないサポーターが迎え、在来線のホームではふたりのサポーターから花束が渡されたという。オレはいつもこのエピソードに胸が熱くなる。あの頃、それぐらいサポーターは精神的に追い詰められていたのだ。

東日本大震災が起こった2011年はエクストラなシーズンだった。ゴトビは震災に対して積極的な発言を行い、オランダでチャリティマッチまで実現した。そんなゴトビのチームがホームで神戸相手に5失点を喰らい惨敗してもサポーターはそれを「途上」として拍手で受け入れた。その後ダービーで起こったゴトビ核爆弾弾幕事件ではスタンド全体が下らない差別とも戦っていた。
ゴトビ自身はビジネスマン臭いが、大人の男で、悪くないチームだと思っていた。
崩壊で負った傷は徐々に癒されようとしていたはずだった。

しかし次の転機は2012年だった。
前半戦を首位で折り返し、若手中心のメンバーでナビスコカップのファイナリストになった2012年である。あのシーズン、そしてゲーム、前半と同じような内容で戦い続けることができていれば、あの年、確実にタイトルを獲ってさえいれば、その後の第二の崩壊は起こらなかったのだと思う。

前回、健太時代を指して「ギャンブルにある程度勝った」と書いたが、実際あの時代はクラブにとっての「成功体験」になっている可能性は高い(最終的には大博打で投資し過ぎて大失敗したわけだが)。
当時の強化部長は健太の清水東時代の同級生で、鈴与の出向社員が務めていたのだが、彼が清水の将来のヴィジョンについてインタビューに答えている。それはこんなものだ。
「数年に一度カップ戦でタイトルを取って、時々優勝争いをする」
あまりの率直なヴィジョンに目眩を起こしそうになった記憶があるが、実際にタイトルは届かなかったものの、それをほとんど実現していたのが健太エスパルスだった。
2012年までのゴトビエスパルスもそれに近いヴィジョンを実現していたと思う。
しかしゴトビにはあまりにも運とサポートがなさ過ぎた。

ゴトビに対して、周囲からそそのかされ反旗を翻したプレーヤーたちはその後、結局自分たちの力を証明することはできなかった。勝つことでしか自分たちを証明することができない世界で、降格とは逆の意味で実力の証明であり、彼らははっきり言って間違っていた。小野伸二が清水の降格に対して「選手の責任」とコメンントしたと意味はそういうことだと思うのだ。
しかしまだ彼らにはゲームが残っている。彼らが残り3ゲームでどう戦い、自分たちを証明するのか、見るべきものに乏しかった「残留争い」のゲーム以上に注目に値する。

しかし、ここまで書いておきながら何なのだが、今回の降格とゴトビはほとんど関係がない。関係があるわけがない。このチームはゴトビのやり方を否定してスタートしたチームなのだから。
それははっきりさせるべきだろう。

他でも散々書いてきたように、今回の降格議論において、まず大榎克己と原靖と竹内前社長の責任を前提としない意見はまったく無意味で、聞く必要がない(何度でも書く)。
田坂監督は昨季以上にスクランブルな状況で、まさに「火中の栗を拾った」人物なわけで、目先の結果に文句はあってもシーズン全体の結果を責める気持ちにはとてもなれない。過去のインタビューやゲーム後のコメントを読む限り、自身の結果責任について、彼は十分理解しているだろう。
また左伴社長に関しても昨季後半の現場の混乱を引き継いだ状態で、自身のミッションである営業面に関しては十分以上の結果を残している以上、過大な結果責任を負わせる必要を感じない。彼に対するイージーな結果責任論はオーナーサイドも許さないのではないか。

取り敢えず原靖強化部長の退任報道が流れている。
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レジェンドというギャンブル/清水降格を受け入れるための覚書その1

2015-10-22 18:52:40 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015
鈴与の鈴木与平会長は、堀池巧がチームを離れる時、「三羽烏がフロントに入る時、クラブはプロになる」と言ったという。
これは初期のS極のレポートでも書かれている有名な話で、実に正しい清水エスパルスの「物語」である。
この物語はある程度はサポーターの間で共有されていたはずだ。そしてこれは一部のサポーターには問答無用(思考停止)の印籠になった。

しかし日韓ワールドカップ以降のエスパルスは試行錯誤とギャンブルの連続だった。勿論大榎克巳の監督就任もギャンブルだった。
彼は大学で、そしてユースで指導歴を重ねてきたのだから反論がある人もいるだろうが、やはり大榎克巳の監督就任はギャンブルだったと思うのだ。
何よりも状況がスクランブル過ぎた。指導力を吟味することなく、キャリアを度外視して、清水ナショナリストの不平不満を抑えるにはこの選択肢かなかったのだろうと思う。健太時代の夢よもう一度といったところだろうか。

そう、清水は同じようなギャンブルを10年前にもしている。
日韓ワールドカップ以降の低迷期に、長谷川健太というもうひとりのレジェンドをスクランブル的に監督起用したのだ。一年目こそ残留争いしたものの、2年目以降は劇的に飛躍した。
そしてそのギャンブルにある程度勝った。健太時代はサポーターの誰にとっても最高に面白い時代だったのだ。
ベテランのノボリや森岡は世代交代を悟り自らチームを去り、有望な若手が毎年台頭する。越えられないハードルはないと誰もが感じた。そして6年間で清水が優勝してもおかしくないという空気が確かに熟成された。
しかし蜜月は長く続かない。その反動が凄まじかった。健太退任と同時に主力の大半が移籍するというチームの大崩壊はギャンブルの反動としてはあまりにも大き過ぎた。

そしてついに今度のギャンブルには負けしまった。
レジェンド起用は不平不満のガス抜きで、付け焼き刃のギャンブルであったこと、そしてそれに負けたこと。それは認めなければならない。ドリーム・イズ・オーバー。
10年ががりの降格というのはそういうことである。その背景には鈴木与平の言葉と物語がある。
オレはまだその物語が間違っているとは思わない。
それでも失敗は認めなければならない。認めないのは欺瞞であり、クラブの歴史への裏切り行為である。
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ネトウヨを抱いて共に地獄へ堕ちる

2015-09-22 09:39:32 | News
ネトウヨ、特に現在の行動保守界隈にしがみついているような、クレイジーを煮染めたようなレイシストと対峙するのはかなり勇気がいる。勿論それまでだってそうだったのだけれども、奴らを相手にするには奴らのレベルに落ちる必要がある。これは余程そのことに対して意識的でいなければ、まともな人間には耐えられないことである。
それはもうミイラ取りの世界だ。
「史上最悪のカウンター」とも言われた昨日の鶯谷での「チン毛コール」などはその最たるもので、笑い話にはなるとはいえ、もはやこれはネトウヨを抱いて一緒に地獄に堕ちるようなものである。

同じレベルと言えば、昨日の警備の中にはレイシストと変わらないような、いじめっ子のような表情や言動でこちらを挑発する者がいた。勿論現場にいる多くの警備はそこまで露骨ではないのだが、まったくあんな喧騒と魑魅魍魎の中にいると警備の中にもネトウヨと共に堕ちる人間がいる。

昨日の銀座での排外デモには年若いレイシストもいた。彼らの同世代の者からカウンターを受ければきっと効き目も違うのだろうが、清廉なイメージを保つなら、シールズはこんな魑魅魍魎には関わらない方がいいよなあ、としみじみ思うのであった。
これは大人の、そしてヨゴレの仕事だ。
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