徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

洗練されないローカリズム/The REAL「NCAAアメフト モーリス・クラレット 誘惑に負けた全米勝者」

2015-08-08 12:36:28 | Documentary
ドキュメンタリー~The REAL~「NCAAアメフト モーリス・クラレット 誘惑に負けた全米勝者」
<スポーツを愛するアメリカ国民にとって最大の興味を抱く競技はアメリカンフットボールである。長きにわたるアメリカンフットボールの歴史の中でNFLとカレッジフットボールは洗練されたシステムを築きあげており、それとともに“伝統”や相互利益による“不文律”も数多く存在するようになっている。今回のドキュメンタリーは、その不文律に意義を唱え、その結果選手としてのキャリアも失ったかつてのNCAAスターランニングバック、モーリス・クラレットのストーリーをお送りする。>
Jsports ドキュメンタリー~The REAL~

Bruce Springsteen - Youngstown


堕ちたスーパースターとして名前を挙げられることも多いカレッジフットボールのスーパースター、モーリス・クラレットを描く本作。原題はYoungstown boysという。
かつて鉄鋼の町として栄えながら70年代には鉄鋼業の衰退とその不況が直撃した町は、スプリングスティーンによってバラッドが歌われ、今なお殺人率ではデトロイトを超えるほど治安は悪い。少年時代のクラレットが育ったのはそういう町で、家の中で玄関から撃ち込まれた銃弾が頭をかすめた経験さえあるという。作品の中に登場するクラレットの兄弟、友人もヤングスタウンの「ストリートライフ」を当然のように語る。
そんな土地をそれでも愛し、そこから這い上がろうとしていたのがクラレットだった。抜け出す手段はご多聞に漏れずスポーツかエンタテイメントの世界しかない。
ハイスクール時代にフットボールで頭角を現したクラレットが進路に選んだ選んだのは、90年代にヤングスタウン州立大学で黄金時代を築いたジム・トレッセルが監督を務めるオハイオ州立大学だった。
NFLがアメリカのスポーツの世界では圧倒的王者であるからして、カレッジフットボールの強豪校もそこら辺のプロチームには敵わないほどの熱狂的な人気を誇る。<洗練されたシステム>というのはプロ組織であるNFLと下部組織、育成組織ともいえるNCAAが一体化した高度な<洗練された>スポーツ興行のシステムを作り上げているということで、スーパースターを目指すクラレットにとって避けては通れない道である。
ここでクラレットは通常ならばゲームに出ることすら難しい1年生からランニングバックとして圧倒的な成績を収める。そして無敗を誇っていたマイアミ大学も撃破して全米王者にまでチームを牽引していく。ヤングスタウンの少年は一気にオハイオのスーパースターに駆け上がり、アイドルとなった。そして少年に多くの「大人」が群がり、彼を祭り上げる。
<誘惑>があったとしたらこの瞬間だろう。しかしクラレットがこの誘惑に<負けた>とはどうも思えない。

全米王者を決めるマイアミ大学戦の直前にヤングスタウンの幼馴染がドラッグに関係した射殺事件で殺される。
クラレットはオハイオ州立大の担当者の手配で決戦翌日には葬式に参列するつもりでいたのだが、体育部長のガイガーは大学の規定と書類提出の不備を盾に参列を認めなかった。担当者を通じて書類提出をしていると主張するクラレットはドラッグに絡む事件にスタープレーヤーが関係することを大学関係者が避けたのではないかと訝しみ、「ガイガーは嘘つきだ」と発言する。
この発言が亀裂と憎悪を生むことになる(オハイオ州立大の体育部長という強力な「権力」を持つガイガー氏が慇懃無礼を絵に描いたような白人の悪役ヅラをしている)。クラレットは優勝決定戦後に発覚した車上荒らし疑惑などと併せて全試合、無期限の出場停止処分を受けてしまう。

この騒動にクラレットの味方として伝説のプレーヤーであるジム・ブラウンが参戦した。
曰く、
「ガイガーはまるで奴隷を扱う主人のように行動した」
「ガイガーは敵だ」
黒人でもあるブラウンの主張はそれはそれで間違っていないと思うのだが、クラレットの兄は言う。
「事態が悪化し、これで後に引けなくなった」
NFLと<洗練されたシステム>の中で、絶大な権力を持つ名門大学の体育部長でプライドの高い白人が、連日に渡ってブラウンから「奴隷の主人」「敵」と名指して攻撃されるのだから、ブラウンの言葉がクラレットへの好意であろうが、それがまったく正論であろうが、後戻りはできないだろうし事態は悪化する。
<負けた>とするならば、きっとこの後からだ。本人に圧倒的な実力と才能があろうとも、勝手に祭り上げられたものは無慈悲に引きずり降ろされる。周囲が負けるように仕向ければ、少年はいくらだって「誘惑」に負け続けてしまう。
選手としてプレイの機会を失ったクラレットは、NFLが2軍を持たず、その代わりカレッジフットボールが“2軍”の役割を果たす(高校卒業後、3シーズンを経過した選手でなければドラフトの資格を得ない)という<洗練されたシステム>に異議を唱えざるを得なくなる。ここから話はガイガーの(矮小な)プライドを巡る話から高度なビジネスシステムとの戦いへ拡大していく。
そして高卒2年目でのNFL入団を希望し、司法に訴えたクラレットがオハイオのユニフォームを脱ぎ捨てる写真を掲載した雑誌が発売されると、オハイオのローカリズムの愛憎は沸騰する。ローカリズムが熱ければ熱いほどヒーローは愛され、そしてローカリズムの期待に応えられなくなったヒーローに冷淡になるものだ。
昨日のヒーローは今日の裏切者になる。
連邦裁判所でクラレットの訴えは一旦認められたものの、<洗練されたシステム>を守ろうとするNFLによる控訴審で判決は覆されてしまう。
2005年にデンバー・ブロンコスから指名を受け、ようやく念願のNFL入りを果たしたものの彼の身体はすでにボロボロだった。そして間もなくブロンコスを退団し、ヤングスタウンの「ストリートライフ」に戻ったかつての少年は警察との派手なカーチェイスの末に逮捕、収監された。
その後の誤解と憎悪の転落劇は罠に嵌められたとしか思えない。ガイガーの策謀とまでは言わないが、彼のような大人たちの憎悪と嫉妬と冷淡なビジネスに付け狙われ、実力と才能でスーパースターの階段を上り始めたばかりの少年はひたすら肉体と精神を消耗し、アルコホリックにまで堕ちていた。

この作品の主要な登場人物で、オハイオ州立大の恩師とも言えるジム・トレッセルもクラレットが堕ちていく間は実に冷淡な印象しか持てなかったが、彼自身もチーム内の醜聞でその座を追われることになる。本作のディレクターは「父と子の物語」をひとつのテーマとして挙げていて、クラレットとトレッセルの関係もその目線で描いているのだが(クラレットの家には父親がいなかった)、監督と選手の関係こそ疑似家族的に語っているものの、トレッセルはあくまでもチームという「家」を守るために立ち回っていた印象が残る。
製作者は、特に終盤は「父親(もしくはそれに値する尊敬できる存在)はいた方がいい」というテーマで描いているのだが、どうもこの辺は消化不足というか、食い足りない。クラレットの母親自身、トレッセルがチームから切り離されたクラレットに対して冷淡だったことを一刀両断しているのが可笑しい。母親としてみればそんな「ストーリー」は鼻で笑いたかったのではないか。
父がいなくても子は育つ。
「町(ヤングスタウン)」というコミュニティ、決して洗練されないローカリズムが良くも悪くも子を育てるのだ。
洗練されないローカリズムは洗練されたビジネスシステムに食い物にされがちなものなのだが。

収監後のクラレットが立ち直っていく姿は熱い。
左の腕には「信」という漢字が大きく刻み込まれている。あまりにも大きくてクールな感じはしないのだが、ヤングスタウンボーイらしいと思った。

30 for 30 I Season 2 Episode 15 I Youngstown Boys

「悪者」は誰か/The REAL「 ヒルズボロの悲劇」

2015-07-30 21:53:14 | Documentary
ドキュメンタリー~The REAL~「サッカー ヒルズボロの悲劇」
<1989年、ヒルズボロスタジアムで開催されたFAカップ「リヴァプール×ノッティンガム・フォレスト」。両チームの熱狂的なサポーターが集うテラス席で96人が犠牲になった痛ましい事件は起こった。>
Jsports ドキュメンタリー~The REAL~
「ヒルズボロの悲劇」の事件の詳細

フィルムに登場する証言者――その多くは被害者家族や関係者だが、その一人ひとりが「真実」という言葉を繰り返す。
作品の中でも言及されるのだが、大衆紙の『ザ・サン』は「The Truth(真実)」と題した記事の中でリバプールサポーターが「警官に向かって排尿した」「救助中の警官を暴行した」と書いたのだ。
時代はプレミアリーグ前夜で、80年代で、フーリガニズムが燻っていた。
作品の前編ではヒルズボロを管轄する南ヨークシャー警察の経験豊富な警備担当者がなぜセミファイナルのゲーム直前に退任することになったのか(これが実に下らない理由だったりする)、新任の現場責任者がいかにサッカーに無知で、スタジアム警備に経験不足であったのかが再現フィルムを交えながら描かれる。
事故直後にまとめられた「テイラー・レポート」では、フーリガニズムの影響を排除し、適切な誘導やスタンドでの危機管理を講じなかった警備体制の問題が指摘された。この時点で「The Truth(真実)」は否定されていたのだが、警察は『ザ・サン』のように「真実」を歪めて、もうひとつのストーリーを作り上げようとする。被害者の血中アルコール濃度、過去の犯罪歴を調べ、まるでチケットを持たず、酒に酔ったリバプールサポーターが入場ゲートを破壊し、狭いテラス席に殺到し、圧死者が続出したかのようなストーリーを展開する(メディアにリークもする)。
挙句の果てにピッチ内外で犠牲者の救助に奔走していた現場の警官たちの証言も都合よく改ざんしていく。
犠牲者とその家族、関係者は20年以上にわたって幻想のフーリガニズムの犠牲者(もしくは当事者)として傷つけられる。被害者、そして関係者でありながら悪者にされた者たちと共に、証言を改ざんされたことを知った現場の警官たちも同じように苦悶し続けた。

そしてフィルムにクライマックスが訪れる。
2009年4月15日、ホームスタジアムであるアンフィールドで、3万1000人のリバプールサポーターが集まり行われた20年目のヒルズボロ追悼式典。文化・メディア・スポーツ省のアンディ・バーナム大臣がブラウン首相のメッセージを読み上げ始める。
その時、誰かが叫ぶ。
「正義を!justice!」
スタンドから拍手が湧き、被害者家族を支援し続けたサポーターの大合唱が巻き起こる。
「96人に正義を!」
そして再び拍手。
リバプールのサポーターだってきっと傷つけられ続けていたのだ。「悪者」として。

それまでフィルムの中で嘆き、悲しみ、怒りをぶちまけていた被害者関係者は口々に「あの時から変わった」という。
スタンドの光景を呆然と見ていたバーナムらによって、公開文書の調査と分析を行うヒルズボロ独立委員会が設立されたのは翌2010年のことだった。96人の犠牲を「事故死」としていた判決は破棄され、警察上層部によって改ざんされた現場の警察官たちの証言は、改ざんの証拠と共に、「元通り」に改めてオンラインで公開された。事態は急速に動き始める。
20年という月日が経ったから動き始めたという老獪な政治家のような言い方もできるのだろうが、いくら時間が経っても「忘れない」ことがやっぱり大事なのだ。

「正義」という言葉だけで拒絶反応を示してしまう人は少なくない。しかし何が正義なのかはともかく、不正義は誰にでも理解できるはずだ。
最初に正義を叫び、不正義を告発するひとりになるのには勇気がいるのかもしれない。でも誰だってスタンドで正義を求める大合唱ぐらいはできるだろう。
スタンドの執念深さと勇気に胸が熱くなった。執念深さってのはいい意味で、だよ。

ESPN 30 for 30: Hillsborough Disaster

ロンドン・コーリング ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー

2011-01-14 05:49:48 | Documentary
ロンドン・コーリング ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー
Joe Strummer: The Future Is Unwritten
2007年/アイルランド・イギリス
監督:ジュリアン・テンプル
出演:ジム・ジャームッシュ、アンソニー・キーディス、ジョン・キューザック、ジョニー・デップ
<伝説のパンクバンド“ザ・クラッシュ”のフロントマン、ジョー・ストラマーの生涯に迫るドキュメンタリー。U2のボノをはじめとするミュージシャン、映画スター、映画監督、ザ・クラッシュの元メンバーらのインタビューと貴重な未発表映像で構成する。>(「キネマ旬報社」データベース)

パンクの代表選手と誰もが認められながらも、当のパンクに対して負い目や暗い過去を持っていた、天才でもスーパーマンでもなかったジョー・ストラマーの魂の道程を辿る音楽ドキュメンタリー。しかしクラッシュという、いろんな意味で騒々しいバンドを知らなくても充分伝わるであろう内容。ただしジュリアン・テンプルの演出は貴重な素材と豪華な証言者を山ほど詰め込んだ上に、かなり演出上のギミックを詰め込んでいる。特に前半。それが彼の作品って言えば作品なんだろうけれども、その辺りはドキュメンタリーとしては観辛い構成になっている。しかも、この手のドキュメンタリーとしてはわりと長尺。まあこれだけ素材があれば、とは思うが。

個人的には女優のカーラ・セイモアと最後に会った時に言ったという言葉が最高す。
もちろん原題の<The Future Is Unwritten>という言葉が、いかにも晩年の…というかパンク以前から死の直前までの彼の魂の変遷に象徴している。ただ<Unwritten>と言いつつ、結局、人間って原体験に戻ってきちゃうものなのかもね、とか。
本当にロックバンドの<フロントマン>の典型を体現した男だと思う。

クワイア

2010-02-24 02:09:30 | Documentary
シリーズ 合唱団(クワイア)を作ろう
響け 町の歌声
<イギリスのカリスマ合唱団指揮者、ギャレス・マローンが、ロンドン郊外の労働者の町サウスオキシーの町おこしのため、コミュニティー合唱団を組織することになった!町の人びとと指揮者ギャレスの挑戦の日々を追う。>(NHKオンライン
原題:The Choir –Unsung town–
制作:Twenty Twenty Television (イギリス 2009年)

クワイア・ボーイズでボーイズラブな一部の日本人女子を熱狂させたギャレス・マローンが労働者の町で合唱団を作る。こういう作品をアホみたいなリアリティショウと並べて語るのは如何なものか。
これは熱くなるし、泣ける。Jのクラブやエスパルスに求められているのはこういうことだろうと思うわけです。
オレたちが歌う意味ってこういうことだよ。

パーソナルとパブリック/血塗られたアフリカのバラ

2010-01-17 13:46:09 | Documentary
<動物ドキュメンタリーの制作者ジョアン・ルート。アフリカの大自然を愛し、ケニアで環境保護活動にも取り組んでいた。2006年、ジョアンは突然何者かによって殺害される。事件の黒幕は、ジョアンの活動に反発していたバラの生産・輸出業者か、それともバラ産業で働く地元の人たちか…?>(NHKネットクラブ

15年前に自分のもとを去っていった旦那とアフリカの土地(自然)に固執するジョアン・ルート。旦那との別れが決定的なものとなり、バランスを喪った彼女はさらに美しい記憶と風景を残すアフリカの大地に固執していく。極めてパーソナルな問題とパブリックな問題が複雑怪奇に絡み合う、このドキュメンタリーがアフリカの開発と環境破壊の問題だけを突いているわけではないのは明らかだろう。
白人と黒人の社会の二重構造、白人の美しい記憶と明日なき現実を生きる黒人の衝突、白人に雇われた黒人と密漁者との攻防、そして土地に固執する白人同士の諍い。結局問題は100%人間、の世界。

だからこそ、最後のアラン・ルートの言葉はあまりにも空虚だ。
無秩序なままで放置され、密漁することで一線を踏み越えていくしかない住民たちは、“泥棒国家”の末裔たちのロマンチシズムに振り回されるのか。

ありのままのボクを受け入れて

2010-01-07 11:33:21 | Documentary
ありのままのボクを受け入れて~父との対話~
原題: Let’s be Together
制作: Bastard Film / Team Productions(デンマーク) 2009年
<デンマークに住む14歳の少年ハイロンは女の子の洋服やハイヒールやお化粧、ネイルに夢中。15歳の誕生日を前に、ブラジルで暮らす実の父親に会いに行く。予想していなかった息子の姿に戸惑う父親マルセロ。そんな父と息子の心の軌跡を追い、思春期の少年とその家族がそれぞれにお互いを理解し、受け入れようとする姿を描く。>(BS世界のドキュメンタリー

ドキュメンタリーの域を超えたラストシーンのカメラ、音楽が実に美しい。
もちろんhappy endingではなくて未来に不安を抱えつつ、今を認め、今を生きるHappy Sadな世界。
<真実は自分の内面にある。それをさらけ出す必要はない>
という父親の言葉はシンプルだが重い。
ただし自意識過剰な思春期の少年でなくとも、さらけ出さずにいられない人間もいるのがこの無情の世界。

ということはおいて置いてもホモとゲイとレズと性同一性障害が歪められた形で認識されてしまっているように思える日本ではこんな作品はなかなかできそうもない。
だってそもそも対話ができないんだもの。

といってもオレは基本的に性同一性障害などという幽霊は存在しないという立場なんですが。

ガマ池

2009-11-14 03:42:18 | Documentary
今日、販売用のナカスをピックアップするために神楽坂の事務所へ行く。
袴田さんと一昨日の「ブラタモリ」で紹介されたガマ池について話す。筋金入りの江戸流散歩者である袴田さんにとっては、テレビを通してであってもマンションのベランダからガマ池が見られたというのがとても大きな驚きだったらしい。特に大使館密集地帯である港区はなかなか見ることができない江戸の史蹟や建造物が結構あるらしい。
てか、そんななかなか見られない場所にもぐいぐいカメラが入っていけるNHKってやっぱりすごいな、と。
確かに、最近NHKが放送した「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡」のような番組もNHKじゃないと作れないだろう(あんなに政治家を引っ張り出せない)。
でも橋本治信者から言わせてもらえば、あの構成なら天皇崩御の89年、良くも悪くもマドンナブームの89年、昭和と平成の裂け目の年から始めなきゃ駄目だろうと思う。いろんな意味で運命の年だったんだから。
つくづく治ちゃんの取材したかったなァ…。

『鴉の肖像』通信販売開始

2008-07-16 02:31:32 | Documentary
ナカス7月号でも紹介した八本正幸さんが企画・制作・撮影・編集・脚本・監督…要するにほとんどひとりで手がけたドキュメンタリー『鴉の肖像~渡辺啓助の世界』が通信販売を開始されたそうです。大正から昭和の<探偵小説>の時代を生き、101歳で亡くなるまで、最後の探偵小説家と呼ばれた渡辺啓助先生の動く姿が観られます。

『鴉の肖像~渡辺啓助の世界』通信販売ページ
(収録時間:約1時間56分/定価:2000円※送料無料)

また八本さんに『鴉の肖像~渡辺啓助の世界』制作エピソードを執筆していただいた中洲通信7月号もまだまだ発売中

傍観者/終わりなき恐怖:ペルー、テロとの戦い

2008-07-16 02:14:24 | Documentary
ナショジオで「終わりなき恐怖:ペルー、テロとの戦い」(原題:No Borders: State Of Fear)
アビマエル・グスマンセンドロ・ルミノソからアルベルト・フジモリの独裁政治まで、リアルなテロ戦争と幻想のテロ戦争の間で朽ちていく20年間に渡るペルーの現代史を描く。貧困と差別が革命の土壌を育み、そして暴力は集団と時間の中で変質し、革命と暴力の記憶が悪党の飯の種になるという恐怖(State Of Fear)の二段ロケット。日本の裏側での出来事とはいえ、歴史は形を替えて繰り返し、程度とテクニックの差こそあれ同じような悪党はどの国にもいる恐怖。
が、しかし。白人のギャングの親玉は登場するけれども、メスティーソ、インディヘナの狂信者たちとアジア系独裁者は、ペルーの黒い歴史の表舞台を祀り上げられるが、傍観者の白人層は結局最後まで傍観者という、どうにもやるせない力作。
やっぱし終わりなき恐怖の根源は、終わりなき差別と貧困と、忘れっぽいだけではなくて、むしろ嫌なことは積極的に忘れたい傍観者。
「あのとき、どこで、何をしていたのか」と自責の念にかられる傍観者の言葉は重いと信じたい。

大いなる結論/ジャーニー・オブ・マン

2008-07-09 06:13:58 | Documentary
ナショジオで「ジャーニー・オブ・マン 人類の軌跡」(2005年)。
人類はアフリカに住む1万人ほどの祖先から始まり、インドを経由してオーストラリアのムンゴ湖周辺でアボリジニとなり、中央アジアで枝分かれした祖先のひとつは厳寒のベーリング海を渡って北アメリカでナバホとなる。そしてカザフスタンではひとりの“純血”の男が登場し、ホスト役の科学者スペンサー・ウェルズ氏から彼の2000世代前の祖先がヨーロッパ人となり、アジア人となっていったことが告げられる。人類の歴史は壮大な旅の歴史である、というロマン溢るる内容。いくら説明しても「アフリカ起源説は認めん!」という立場を貫くアボリジニも清々しい。それが彼の地で過酷な旅路を刻んだ末裔の矜持というものだろう。
そんなこんなでスペンサー氏が最後にカメラに向かって訴える美しい結論も容易に想像できるというものだ。

そして現在もなお進行中のプロジェクトが、<ジェノグラフィック・プロジェクト>オフィシャルサイトのアトラスを見るだけでもひとまず刺激的ではある。

で、美しい理念に対しては、当然のように生臭い批判が元からあったわけで、「われわれは、医療業界の利益につながる遺伝子マーカーを探しているのではない」てな反論はしていたものの、案の定、今年春のレポートでは、イタリアの遺伝学者氏の「この研究成果は今後、疾病の研究を含めた(後略)」云々なるコメントも違和感なく挿入されてしまっている。人間ってヤツァ、一度知っちゃったら行くところまで行かないと止められなくなるもんね。もちろん生々しい話になりかねないのはまだまだ先の話なのだろうけれども、こういう人たちは、誰もが批判や反論できないような“正論”や“正義”を発明してでも、きっと止まらない。理念が反転してしまう瞬間というのは怖いものだ。

そして、参考資料。
「アダムの旅―Y染色体がたどった大いなる旅路」(スペンサー・ウェルズ/和泉裕子・訳)
「イヴの七人の娘たち」(ブライアン・サイクス/大野晶子・訳)

無情の世界/「水俣-患者さんとその世界-」「e-dreams」

2008-07-06 08:44:35 | Documentary
NHK-BSで、土本典昭監督追悼企画『水俣-患者さんとその世界-』。
今回放送されたのは完全版で2時間47分もの長さ。モノクロームの異様な暗さ(光と陰)と、この時代のドキュメンタリー特有の尋常ではない対象への迫り方で3時間近い時間、映像の中へ視聴者をぐいぐい引きずり込んでいく。土本作品はアフガン物しか実際に観たことがなく、水俣はテレビで短い資料映像を見掛けるか、資料でしか読んだことがなかったのだけれども、さすがに傑作に違わないエネルギッシュな映像。こういう作品を観ると、山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局から購入した60年代以降の日本ドキュメンタリー映画史のカタログを引っ張り出してきて、観なきゃいけないニッポンのドキュメンタリーに思いを馳せたりする。

一企業と個人の関係などというものは<水俣>の昔と大して変わったとは思えないし、むしろ状況はますます複雑怪奇に悪化している。
この世はマトリックスの世界なんですよ。

続いてヒストリーチャンネルでアメリカのITバブルの光芒を描いた『e-dreams~IT長者になれなかった男』。
<アメリカのインターネットベンチャー「Kozmo.com」スタートからの急激な成長、そして突然の終焉までをお届けする。(中略)20代半ばにして一流企業を辞職し、わずかな貯えと豊富なアイディアの全てを注いでインターネット企業「Kozmo.com」を創立。2億5000万 ドルもの投資を受け、IPOを目指してビジネスシーンに旋風を巻き起こしたのだが…。>(ヒストリーチャンネル
ネット販売サイト「Kozmo.com」を立ち上げた若き在米韓国人起業家ジョセフ・パークとヤング・カン。立ち上げから驚くべき急成長、IPOを目前にした狂乱のパーティーでの絶叫、そしてあっけない崩壊と、カメラはずっとジョセフに密着する。これが(おそらくジョセフたちと同じアジア系)ディレクターが意図したストーリー……なわけはないのだが、ひとりの青年が体験した、わずか3、4年の、文字通りバブルの光芒を切り取った面白い作品になっている。DVDサイトでホリエモンがこの興亡についてコメントしているのもとっても皮肉。

やっぱし、この世はマトリックスの世界なんですよ。
結局、事業に失敗した彼らは「他人に任せたのが失敗だった。自分がすべて決断すればよかった」と悔やむ。しかしマトリックスの世界に「自分」などあるはずがなく、所詮AIマシン軍団に操られる(飼育される)存在でしかない。もはや20世紀末にいたってマトリックスは完成しているのだ。その残酷で無情の世界(You Can't Always Get What You Want!)で「自分」を保つには、もはやアンダーグラウンドに潜行するか、「自分」の目が行き届く範囲の家内手工業でマトリックスの世界とつきあっていくしかないのよ(以上、『e-dreams』と『マトリックス』と『ザ・コーポレーション』をごっちゃにして書いてますが)。

さて今週から北海道で洞爺湖サミットが始まる。サミットといえば反グローバリゼーション。近年はアンチグローバリゼーション勢力の反対運動が恒例になっている。
あれ、要するにマトリックスと戦ってる人たちなんですよ。

マトリックス話はまた改めて続きます。

心の問題/世界最強の男

2008-07-02 01:47:04 | Documentary
ナショジオで「世界最強の男」(原題:Superhuman)
構成は「ステロイド(Steroids)」「超人(Strongman)」の二部構成。トレーラーを曳いたり、レンガや氷を砕いたり、手錠(ホンモノ)を軽々と引きちぎるストロングマンコンテスト出場者を科学的に分析する「超人(Strongman)」は、エンタテインメントする筋肉をわかりやすく解説する。
一方、どちらかというと本題である「ステロイド(Steroids)」はヘヴィだ。
例えば子ども用の人形。60年代はより普通の人間に近い筋肉を再現していた人形が90年代になると数倍の(つまりストロングマンコンテスト並の)筋肉を持つ人形が目立つようになる。もちろんフランケンシュタインや超人ハルクのようなモンスター級の筋肉を持つアイコンは昔からいたはずなのだが、90年代以降はよりその傾向が顕著になっていると分析する。筋肉にはそれほど興味はないが、漫画やアニメに登場する女の子キャラが揃いも揃ってロリ顔で爆乳なのも、要するにそういうことなのだと思うのだ。
人間は判りやすくないことに耐性を失い続けている。
人間が判りやすかったりした時代などないのだが。
またヒットした新書『人は見た目が9割』を例に引くまでもなく、新書も<タイトルが9割>で売れるわけで、シチメンドクサイ個人の内面よりも見た目一発が推奨される。そういや90年代は「心の時代」とか言われてたような気がするけれども、すっかり今やシチメンドクサイことは何でもかんでも「心の闇」で済まされてしまう。またそれ以上踏み込まないことが暗黙の了解でもあるのだ。これでは、判りにくいこと、それ自体が悪の根源と言わんばかりである。

番組中に登場する医師はステロイド常用者のこんな発言を引く。
「スーパーマンになれるのにクラーク・ケントのままで満足できるはずがない」
ステロイドや薬物にまつわる事柄は、すべてが「心の問題」であるのは言うまでもない。

あ、もはやレーザーレーサーも何となく「心の問題」だと思いますが。

インターネットの夜明け

2008-06-28 01:44:27 | Documentary
ヒストリーチャンネルで「インターネットの夜明け」を観る。プロジェクトⅩ風(あくまでも“風”)に日本のネット黎明期を推し進めた石田晴久さんや村井純さん、その他、陰に日向に日本のネットを育んできた人物たちの証言で構成するドキュメント。正直言ってネットの歴史は疎いので、その歴史や経緯のアウトラインを知る上では格好の内容。2005年にYahoo! JAPANで配信された作品ということで、ネット配信でこれだけのものを配信できたことは評価すべきことなのだろうけれども、しかしドキュメントとしては、内容や意義はともかく、構成が粗かったり、演出が中途半端だったりして、まあそれなりの発展途上の作りかなあという印象は否めない。3年も前の作品だけども。

やっぱし、本を読もう。

今月の朝生のテーマがナカスの次号特集と被ってるよ…。

ドキュメンタリスト 工藤敏樹

2008-06-26 20:35:02 | Documentary
日本映画専門チャンネルで<ドキュメンタリスト 工藤敏樹 戦後日本の素顔に迫ったドキュメンタリー作家>。

<工藤は、隅田川の汚染を訴える役所の係長、スリを尾行するベテラン警部、炭鉱の絵を描き続ける元工夫の画家など様々な人々の歩んできた人生を映し出した短編ドキュメンタリー「ある人生」シリーズで注目され、その後自身の学童疎開の体験が投影された「富谷国民学校」、廃船となった第五福竜丸の保存をめぐる人々の思惑を描いた「廃船」などの長編ドキュメンタリー番組を制作し、高い評価を得た。>(日本映画専門チャンネル

今日は、五福竜丸の流転と当時の原水爆禁止運動を描いた「廃船」(1969)と田子の浦のヘドロによって壊滅状態になったさくらえび、そのさくらえびが生きる駿河湾の豊かな海を取り戻すために闘う由比の漁民を描いた「人間列島 さくらえびの春」(1971)。冷戦真っ只中、高度成長真っ只中(いや、これは末期か)の日本が映し出される。

1967年に一隻の漁船が東京・夢の島で発見される。それが広島、長崎に続く日本の被爆の記憶であり、モニュメントである第五福竜丸だった。政府に買い上げられた第五福竜丸は、その後、東京水産大学の練習船はやぶさ丸となり、<廃船>となった1967年、東京のあるブローカーに買い取られた。そしてブローカーは使用可能なエンジンを取り出し売り払うと、残った船体を夢の島にそのまま放置していたのである。15年ぶりに再発見された第五福竜丸は、その保存運動と原水爆禁止運動をヒートアップさせる。
事件から15年も月日が経つと人は忘れる。いくらショッキングな出来事であろうが、人は忘れる。バブルだって、オウムだって阪神・淡路大震災だって忘れる。で、ある日突きつけられる、まったく一ミリも解決していない事実に、愕然とし、過剰に反応をしてしまう。まあ、まったく党派を超えられない運動の混迷を見ると、忘れちゃいけないという現実すら忘れたいと思わせるけれど。
工藤敏樹は第五福竜丸から取り出されたエンジンの行方と、保存運動の動きと、不毛な闘いを続ける原水爆禁止運動を淡々とクールに描く。
結局、日本人って今も全然変わってないんじゃないかと…。

そういえば24日に、記録映画作家・土本典昭さんが亡くなられた。一度お会いしてみたかったなあ。

<ドキュメンタリスト 工藤敏樹 戦後日本の素顔に迫ったドキュメンタリー作家>
ある人生 北壁にいどむ(1965)
ある人生 すり係警部補(1965)
ある人生 離島新聞20年(1966)
ある人生 メダカ課長(1966)
ある人生 ぼた山よ・・・・(1967)
ある人生 浮かれの蝶(1968)
ドキュメンタリー ある帰郷(1968)
ドキュメンタリー 富谷国民学校(1969)
ドキュメンタリー 廃船(1969)
人間列島 さくらえびの春(1971)
ドキュメンタリー メッシュマップ東京(1974)
祈りの画譜~もう一つの日本~(1972)
監督・構成:工藤敏樹
日本映画専門チャンネル

それがサッカーのほろ苦さ/サッカー選手と美の女王

2008-06-17 19:50:49 | Documentary
ナショジオで「サッカー選手と美の女王」(原題:Footballers & Beauty Queens)

<スポーツ界における人種差別問題をとりあげた映画「The Colour of Football」の映像作家が、違った視点でブラジルサッカーの真髄を紹介する>。
ほとんどプロクラブのようなチームからアマゾン奥地の原住民チームまで、1000チーム以上のアマチュアチームが参加するブラジル最大、つまり世界最大の草サッカー大会「ペラドン」。2005年大会を追ったドキュメンタリー(2年前に観た人も少なくないだろうが)。同時に行われるのがミス・ペラドンコンテストで、1チームに1人、女王候補がいて、彼女がコンテストを勝ち抜けばチームも敗者復活戦に回れるという超変則ルールなのだ。
つまり<サッカーとサンバと男と女>、それがブラジルというわけだ。

しかし大会終了後、原住民チームと原住民の女王は関係者の不正によって敗退したと吐き捨て、ミスコンで白人女性に優勝を奪われた準優勝の女性もコンテストの審査員を罵る。おまけに大会の決勝戦も、表彰式での混乱も、ほろ苦い結末を迎える。
それでもブラジルの人気サッカー解説者である主催者は、誰でも参加できるペラドンをブラジルの自由を象徴するイベントだと誇らしげに語り、ブラジル・サッカーへの限りない愛を語る。
それがサッカー。それがブラジル。でもそれは、いつだって人生のほろ苦さを抱えている。

不正はともかく、<サッカーとサンバと男と女>の美女の部分はエスパルスも見習うべきか。