徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

次は「ホーム」/第30節 鹿島戦

2012-10-29 05:16:35 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
土曜日は鹿島戦
最近、特にアウエイでは意識的に“内容よりも結果”のリアリズムを見せる清水。他サポの皆さんにとっては、90分を通して観れば決して印象はよろしくない場合もあるのだろうけどれども、ぎりぎりの戦いを迫られるシーズン終盤の局面ではどう考えたって、まずは結果が求められる。前節の神戸に倣ったというわけでもないだろうが、勝利のためにはコイントスでコートチェンジだってするのである。
とはいえこのゲームでも先制点までの序盤、同点に追いつかれてから再び勝ち越し弾を決めた前半の終了まで、決めるべき局面では清水らしさを見せながらきっちりと結果を出した。まだフィードやクロスへの対応や露骨にファウルを貰いに行く姿勢に不満が残るもののヒョンソンのプレーは格段に良くなっている。チームに絶対的な安定感を与えていたキャラが腰痛のためにベンチスタートだったにも関わらず、平岡、大輔は鹿島のパワープレーを抑え切った(しかし、あの絵に描いたような、鹿島だからこそできるパワープレーというのは敵ながら見応えがあった)。また途中出場の来季のエース候補である大器・瀬沼も圧され気味の展開の中、チャンスを作り続けた(決定的なチャンスがあっただけに決めて欲しかったところではある)。

昼のゲームで上位3クラブと、勝ち点で並んでいた柏、名古屋が負け、ドローで軒並み勝ち点を落としたので、これで再び単独4位、3位浦和とは勝ち点差1、首位広島とは勝ち点差7まで迫った。残り4節でリーグ優勝のためには他力本願でとんでもない神展開が必要なのだが、これでACL出場権は充分射程圏内に捉えた。シーズン中盤の勝ちなしロードが実に悔やまれるところだけれども、そのシーズン中にチーム構成をドラスティックに改革しながらも、ここまで結果を出したチームに不満はない。こんなにラディカルなチームが一体他にどこにあるってんだ、というほどである。

さて鹿島との戦いは今週末のナビスコカップファイナルにつながる。監督やプレーヤーは「別の大会」とは言うが、前哨戦とも言われる直近の対戦結果が影響しないわけがない。その意味でファイナルに出場できない浩太が、この日も闘将ぶりを発揮して、チームを鼓舞し続けながら「結果」をつないだことは心強いものがあった。

ホームの鹿島戦は今季ベストゲームのひとつである(本物の清水らしさを観たいのならばそちらを観ていただきたい)。そして国立でのファイナルは清水のホームになる。カップ戦の「ホーム」というのは単純にトーナメントの勝ち上がりの区分でしかないのだが、今回ばかりは文字通り、オレたちが国立を「ホーム」にしなければならない。
一旦完売のリリースはあったものの、一般発売から一週間が経ちダフ屋、転売屋が流したチケット販売も徐々に復活している模様。11月3日は国立をオレンジに染めましょう。



今週も必勝祈願行くか…。

理念の在り処/徹底討論!脱原発実現のための脱原発法意見交換会

2012-10-28 03:24:06 | News


金曜日は参議院議員会館で行われた「徹底討論!脱原発実現のための『脱原発法』意見交換会」に参加。
主催である脱原発法制定全国ネットワーク(法制定ネット)首都圏反原発連合(反原連)双方の脱原発基本法案(草案)を照らし合わせながら、リアリティのある脱原発法案を作成するために「意見交換」を行うといった趣旨で会は進行していく。

かたや法制定ネットは8月に設立され、文字通り脱原発法制定を求め、3.11前から活動されている方々を中心に、弁護士(脱原発弁護団全国連絡会)、大学教授、元自治体首長、大作家、大物ジャーナリストといった文化人の名前がずらりと並ぶオールドスクール。こなた首都圏反原発連合は3月末から始まった首相官邸前における大飯原発再稼動反対運動で一躍名を上げた反原発運動行動派のニュースクール。
なぜ「意見交換」なのか?

まず法制定ネットによる脱原発基本法案はすでに<9月7日に102名の国会議員の賛成・賛同を得て、脱原発法が衆議院に提出され、継続審議>が決定、さらに来るべき国政選挙で原発を争点にするための議員(候補者)へのアンケート、マーキングを繰り返し実施(サイトにて公表)している。彼らはすでに「脱原発後」のために具体的に動き出しているロビイ団体なわけである。
一方の6月から7月にかけての運動の高揚、首相との会談を経て反原連も次の一歩を模索している。
法制定ネットの河合さんが言った通り、ロビイ活動とデモ・抗議は脱原発のための両輪であって、どちらも欠かすことのできない「行動」である。その意味で、双方の代表的な団体(集合体)が意見交換をすることで実に有意義な会になったと思う。
あえていえば徹底討論というほど討論に時間が割けなかったことや、“照らし合わせ”が事前に明確に提示されていた方が良かったと思うし、登壇者間の意見交換の時間をもっと取った方が良かったかなあとは思う(一般参加者の意見が前のめりな“意志表明”気味なのは仕方がないとはいえ、これは争点の見えづらさに釣られていた気がする)。

その点で具体的でわかりやすく“争点”になったのは、数少ない報道でも伝えられたように「脱原発の時期」だった。
反原連案の2015年から法制定ネット案、社民党の2020年、さらには民主党の一部議員からは2025年という数字も提案されたという。結果的に議員立法で提出された法案では、
「脱原発は、遅くとも、平成三十二年から平成三十七年までのできる限りはやい三月十一日までに実現されなければならない」(脱原発基本法案 基本理念 第三条)
とある。これを“国民の生活が第一”の松崎さんは「妥協の結果」と言った(良くも悪くも実に率直である)。法制定ネットの只野さんはこの法案を「革命的である」として再稼働を許す可能性はないとしていたけれども、やはり「時間」を先延ばしにすればするほど再稼動の余地(可能性)を残すことは言うまでもない。
やはりあえて「時間」を提示することがむしろ可能性を残すことになり兼ねないのではないか

勿論オレも一応大人の端くれなので、キャリアを積んだ法律家の皆さんが全面的に参加している法制定ネットや松崎さんの言う「妥協」が理解できないわけではない(それは「戦略」と言った方がいいと思うけれども)。政治の世界で「駄目なものは駄目」には限界はある。具体的に年限を区切ることで言質を取る意味はある。“目標”が大好きな役人様にもわかりやすいだろう。もしくは89年の脱原発法全国ネットワークの「即時廃止」法案の“失敗”から学んでいるのかもしれない。この日、講堂に集まった人たちの共通認識はどう考えたって「即時廃止・廃炉」だろう。しかし法案は、ここにはいない、興味すらない分からず屋を分からせるためにある。これは実に悩ましい。

しかし理念というのは「駄目なものは駄目」という明確な意志表示であるべきだとも思うのだ。
「脱原発は可及的速やかに実現されなければならない」
第三条にはそう謳い上げる必要がある。それが理念であり、シングルイシューというものである。理念てのは、やはり、まず入口であり、出口でもあるんだよね(計画、工程表とは別)。
ここでは年限で余地は残さない代わりに、解釈の余地を残している。たぶん日本人の負け方(引き際)を考えると、強い意志表示の反面、こういう曖昧さを含む文言ってのは意外と効くような気がするんだけども。
要するに「九条」みたいなものかな。

次回、があったら期待します。

<徹底討論!脱原発実現のための『脱原発法』意見交換会>(IWJアーカイブ)

そして(いつもの)神戸/第29節 神戸戦

2012-10-24 05:04:01 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
土曜日。熱にうなされながらスカパーで神戸戦

の前に、午前中は後援会先行でもJリーグチケットでも取れなかった鹿島とのナビスコカップ決勝のチケットをゲット。
まあ早く手に入れておくことに越した事はないので…てな程度でひとまず10時から電話してみると10分過ぎからチケットぴあもローソンチケットも徐々に予定枚数終了のアナウンス。あとから情報を遡って見ると早い時間ならば一般の衆と奪い合いしなくとも、公式サイトのチケット申し込みはかなりスムーズだったようだ(気づいたときにはすでにお子様チケットしか残っていなくて、後の祭りだったけれども)。こちらはハナから指定でのんびり観るつもりはなかったのだがさすがに自由席、パノラマサイドまで、そんな状況だとは思わなかったので、近所のファミマへ直行。はっきり言って外出できるような体調ではなかったのだが、こうなると不思議と早足で歩くことができるもんだね(その後、3日は高熱と痛みに苦しみつつ完全な寝たきり状態になったが…)。
なぜか希望の自由席は取れなかったのだが、自由席に極めて近いパノラマサイド指定をひとまず確保。部屋に戻って改めて席を確認して、ここなら立ってチャントを歌ったり、コールしても大丈夫か…と思うが、どうだろう。

そして神戸(戦)。
ゲーム当日までに大久保、伊野波、北本などの大駒が負傷(及びカード累積で)離脱し、誰がどう見たって満身創痍の神戸をホームに迎えた清水。油断するなと言っても、勝てるだろうと思う。正直。しかし結局のところ、今回の神戸戦も「いつも通り」の神戸戦になってしまった。これで数字上の優勝の可能性も、こちらが全勝する前提で広島と仙台が2007年の浦和程度にやらかしてくれない限り、ほぼ、なくなった。
ただし結果的には前節よりも首位との勝ち点差は詰まっているわけだし、同じ勝ち点で名古屋と柏に並ばれたとはいえ、3位との勝ち点差も充分逆転可能ではあるので、ネガティブになる必要はないのだが、しかし、この状況で「いつも通りの神戸戦」というのは、実に、心身にダメージを与えた。

神戸の西日を意識したコートチェンジなども含めて、戦評はJ's GOALの前島さんのレポート参照なのだが、このゲームでの清水のFKは31回の大台に乗った。レフリングの妥当性は抜きにしても、いかに神戸が身体を張ったディフェンスを繰り返していたかというものである。しかしチーム状態が満身創痍のスクランブル状態ということで、それどころではないのだろうけれども、西野朗が監督に就任してもやはり神戸は神戸ということなのだろうか。西野ヴィッセルというよりも、まるでいつもと変わらぬ神戸であった。
後半は概ね清水ペースでゲームが進み、まるで鎌田が退場し、上本が負傷交替したあとの仙台戦の後半のような展開になった時間帯も決して短くはなかった。つまり、“そこ”でゲームを決めることはできたはずなのだ。

まあ天皇杯、ナビスコカップ準決勝という“一発勝負”を経て、リーグ再開の“休み明け”初戦だからという見方もできないことはない。今週、来週はさらに大事な鹿島とのタイトルを賭けた連戦も控えている。プライオリティをどこに置き、モチベーションをいかに保つのか、それは難しい問題だとは思う。
しかし、やはりどうしたってカップ戦の乾坤一擲と同じように、リーグでも“勝てる相手”にはきっちり勝っていかなければタイトルを取れる強さなんてものは見えてこない。(現在の)リーグ1位、2位を相手にダブル喰らわせたところで、それを覚えているのは当事者だけだろう。若さを抜きにしても、本物の強さってのはそういうことだろうと思う。

頭に血が上り、ゲーム終了後から体調はさらに悪化した。

記録に復讐されるとき/「ファイナル・カット」

2012-10-20 04:47:15 | Movie/Theater
ファイナル・カット
The Final Cut
2004年/カナダ・ドイツ
監督・脚本: オマー・ナイーム
出演:ロビン・ウィリアムズ、ミラ・ソルヴィノ、ジェームズ・カヴィーゼル、ミミ・カジク、ステファニー・ロマノフ、トム・ビショップス
<人の一生の記憶が脳に埋め込まれた小さなチップに記録されている近未来の世界を舞台に描くSFスリラー。チップを基に故人のメモリアル映像を製作する編集者が不可解な出来事に遭遇、真相を究明しようと調査を始めるが…。主演はロビン・ウィリアムズ、共演にミラ・ソルヴィノ、ジム・カヴィーゼル。監督は新鋭オマー・ナイーム。人々が“ゾーイ”と呼ばれるマイクロ・チップを脳に移植し、全人生の記憶をそこに記録している社会。死後、ゾーイ・チップは編集者によって再構成され、追悼上映用の美しい記憶を留めた映像として甦る。ある日、一流のゾーイ・チップ編集者、アラン・ハックマンのもとに、ゾーイ・チップを扱う大企業アイテック社の弁護士チャールス・バニスターの未亡人から編集の依頼が舞い込む。ところがそのチップには、アランの心に深い傷となって残っている幼い頃の記憶に関わる驚くべき映像が映っていた。>(allcinema

「Live For Today」
ゾーイチップによる記憶の蓄積と、編集者による編集作業で美しく構成される故人の記憶、その追悼上映会に反対する人々は、この言葉をプラカードに掲げ、口々に叫ぶ。ロビン・ウィリアムズのヒット作「いまを生きる」を思い起こした(もちろん原題は違うけれども、台詞のCarpe Diem=「いまを生きろ」「いまを掴め」ということで…)。あと当然のようにグラスルーツのヒット曲も思い起こしたけれども(Let's Live For Today)。

20人に一人は生まれながらにしてチップを埋め込まれ、その人生の記憶を記録し続けるという近未来。
ロビン・ウイリアムズ演じるアランはそのチップを基に本人の死後、追悼上映会に上映するための映像を編集する編集者(カッター)である。両親が良かれと思って、産まれたばかりの子供に埋め込んだチップは成人になるまで秘密にされ、その事実を告げられたとき、ある人は記憶が記録される事実を受け入れ生活を見直し、ある人は記録されることに耐え切れずに自ら命を絶つ。しかし冷徹で優秀な編集者であるアランに持ち込まれるチップは裏も表もあるエスタブリッシュメントで、彼らは記録されているのがわかっているのかいないのか、浮気やペドロフィリア、インセストを隠そうともしない。
人間ならば表と裏がある、ましてや小市民の表と裏程度ならば笑って済ませられるものもある、ともいえるが、社会的影響の大きいエスタブリッシュメントの記録は、ゾーイ反対派にとっては是が非にも入手したい追及のための「物証」になる。アランが受け取った弁護士バニスターのチップも、その妻が会社との訴訟によって勝ち取ったものだった(何てリスキーな記憶だろう)。ということでアランが巻き込まれるトラブルのひとつが、揺るぎようのない「事実としての記録」である。
一方でアラン自身は少年時代の記憶に今もなお苦悩している。しかし死んだと思い込んでいた人物がバニスターのチップの中で成長した姿で登場し、アランは混乱する。もうひとつのトラブルは、あやふやで容易に「確かめようのない記憶」である。

「編集によって美化される俗物たちの記憶/記録」は映画の中でそれほど大きなテーマには感じられない。
現代だろうが、近未来だろうが、編集という作業はそういうもので、オレたちが目にする「他人の人生」は概ね「編集後の世界」なのだ。記憶/記録される人生というのは間違いなく、すでにオレたちの身近にある。ゾーイチップの世界では否応なしにすべてが記録されてしまうけれども、オレたちは自ら編集(カット)をしながら記憶を蓄積している。足りない場面は親が写真やビデオで補ってくれる、というわけだ。あやふやで確かめようのない記憶を毎日積み重ねながら(Live For Today)、それでも日々を過していく。それが揺るぎようのない事実(記録)の積み重ねならば発狂してもおかしくない。
死後のHDの処分に悩む人がいかに多いことか。

しかし自らに編集権もなく、あやふやで確かめようがない「記憶」が許されず、それが揺るぎようのない事実としての「記録」になるとき、人は記録に支配される。長年悩まされてきた「記憶」から解放され、いかにもロビン・ウィリアムズの映画らしくハッピーエンドで終わるかと思ったとき、アランは「記録」に復讐される。
記憶は個人のものであっても、記録は個人の手を離れていってしまうものである。それは本人が思ってもいないような怪物を生み出してしまう。ドーキンスに言わせれば人間は遺伝子の容れ物なのだろうけれども(それはそれで慰められる部分はあるのだけれども)、そうは言っても個人の人生は記録の容れ物ではないんだよね。ということで…まあSFと言いつつあまり金もかかっていないようだし、寓話的でもあるので設定やセットは突っ込みどころじゃないです。

「ハシシタ」問題を意識して観たわけではないのだけれども、どうしても今観ると通じるものがあるような気がした。

「ファーストネームのアーチスト」

2012-10-16 14:16:29 | Books


<最後に客席に質問が求められた。若い観客が次々と手を挙げる積極性も意外だったが、なにより驚いたのは誰一人「オノさん」と言わなかったことである。男女を問わず全員が「ヨーコさん」と親しげに呼びかけたのだ。(中略)そのとき私は思い出したのである。もう一人、みんなからファーストネームで呼ばれる芸術家がいたことを。ピナ・バウシュである。私の知る限りだれも彼女を「バウシュ」とは言わない。「ピナ」と言う。>

<展覧会のタイトルにもなった「YES」という作品は次のようなものである。天井に額装された紙があり、何か書かれている。その文字は小さ過ぎて床から見上げるだけでは読めない。観客は設置された脚立を登り、吊り下げられた虫眼鏡でやっと読むことができる。するとそこに「YES」という3文字がある。ジョン・レノンがこれに感動して小野洋子と親しくなるきっかけになったというのはよく知られた話だ。この作品の特徴は、観客が作者の指示に従って行動しなければ何も見えないという点にある。(中略)ささやかとはいえ自ら行動を起こし、身体的不安を克服してようやく発見したこの言葉は、観客にとって自分の一切を肯定する天の声のように思えるのだ。それは小野洋子という他人に肯定してもらったというより、内心でうすうす感じていたことが今ここではっきりと確認されたという感覚である。(中略)小野洋子の作品は一般に指示(インストラクション)という手法をとる。指示の内容は不可能なことを想像すること、あるいはささやかな行為を行うこと(中略)要するに観客は自分自身の想像や行為のプロセスの中で、自分が既に知っていた世界を再確認したという気になるのである。そして同時にこの仕掛けを作った小野洋子も同じ世界を見ていることを確信し、他人とは思えなくなるのである。>

<ピナ・バウシュのことを「ピナ」と言い、「ピナさん」と呼びかける理由もたぶんこれに似ているだろう。その作品を見ているとき、他人の思想や感情の表現を見ているという気がせず、むしろ自分自身の思想や感情を確認してしまうのである。たぶんそれは忘れていたもの、見ていながら見ぬふりをしようとしていたものなどを再発見し、再確認することである。>

<たぶん私たちは誰しも世界の変貌を経験している。それは受け入れがたい事件のせいかもしれないし、異常な環境のせいかもしれないし、回想や想像によって一瞬現実を飛び出しただけかもしれない。その後再び、私たちはこの世界で安定した自分を保って生きるために、それらの経験を忘れてしまう。ピナ・バウシュの舞台をそれを思い出させるのである。おそらくピナは何度も世界の終わりを、戦場の恐怖を、壁の中で大空を見る想像を、経験してきたのだろう。ピナの舞台を見るとき、観客は見馴れた社会の姿が消え、まるで戦場のような、あるいは廃墟のような世界が、あるいは薄っぺらな書き割りのような世界が現われるのを目にする。>

<私は、初めてピナ・バウシュの舞台を見た女性の友人の言葉を忘れることができない。彼女はこう言ったのだ。
「明日から私は、生きたいように生きるわ」>
(2004.7『ピナ・バウシュ・ヴッパタール舞踊団日本公演プログラム』/尼ヶ崎彬「ファーストネームのアーチスト―ピナ・バウシュとオノ・ヨーコ」より)

4年ぶり、5回目/ヤマザキナビスコカップ 準決勝 第2戦 FC東京戦

2012-10-14 23:26:22 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14


土曜日はナビスコカップ準決勝第2戦、FC東京戦。久々にアウスタのゴール裏へ行く。どうせほとんど座りゃしないので最上段で声を出す(うろうろしたいのでそっちの方が都合がいいのだ)。
キックオフ直前の「雷神」で喉が開くような感覚があった。ハイテンポのショートコールやチャントをいきなり大声で、思ったようなテンションで歌おうとしてもなかなか声は出ないものだ。ゆったりとしたメロディで長く、太い声を出していると段々声域が拡がって行くのがわかる。いや、声のストレッチは大事ですね。ということでキックオフ直前に戦闘態勢完了。

第1戦の結果が1-2ということで負けているとはいえ、清水にとってもアウエイゴールが利いている状況での第2戦。どちらにとっても先制点が大きく流れを決めるていく。その先制点はFKの流れからトシのクロスは競り合いをすり抜け、フリーの元紀が合わせて大きなバウンドでボールがゴールに吸い込まれていく。
とはいえ「3-0」にならなければまったく気が抜けない状況は変わらない。
ゲームはアディショナルタイム突入までスリリングな展開が続く。特に後半の序盤、東京にCKを立て続けに奪われたときには25節の東京戦の失点が蘇った(正直覚悟した)。それでもディフェンスは緊張感を保ち続け、逆に再びトシからのロングパスを元紀がしっかり受け取り、丸山の股間を抜いてパーフェストカウンター(!)を見せた(これで丸山の呪いは解けたと言っていいんじゃないか)。
とはいえ、まだまだ「3-0」にならなければまったく気が抜けない状況は変わらないのだが。
そしてアディショナルタイム、再びカウンターから抜け出した亜人夢が森重に倒されPK獲得。これでようやく180分に渡るセミファイナルの戦いは趨勢を決した。いや、アウエイゴール2倍等は、あまりサッカーを見ない人にはわかりにくいシステムではあるのだけれども、これがあるからリーグカップは面白い。
FC東京の連中にも「アウエイ」を感じさせることができたのではないだろうか。

これで4年ぶり、5度目のナビスコカップ決勝進出。20回目の記念大会で、2年前の天皇杯決勝以来の鹿島との戦いとなる。マッチメイクに新鮮味がないと言っても、残念ながらこれがクラブの格というものである
(新鮮味がないと言えば、決勝の一週間前にリーグでの鹿島戦があるという方が新鮮味がなさ過ぎるだろう)。



決勝ではこれまで伸二に替わってチームを牽引してきた浩太が出場停止となる。

浩太「一番良いところのカップを掲げるところだけやらせてもらえれば(一同笑)」(Sの極み 10月14日付)

また元紀のハットトリックのうち、トシが2アシストを決めたとはいえ、全体的にはまだ消え気味でやはりまだ物足りない。

トシ「ハッハッハッ、そうっすね(笑)でもチームが勝てば良いっすけど……『誰か、良いボールちょうだい!』って感じです(一同笑)」(Sの極み 10月14日付)

しかし、ふたりのこのコメントから感じられる雰囲気は、前回ファイナルの大分戦とは違う「若さと緊張感」があって、やはり期待してしまう。今回こそ優勝しましょう。それでまたオレたちの若きチームは大きく成長するはずだ。

そして本日、後援会先行の決勝戦チケット発売日。
まあ、発売初日はイベントみたいなものだし、相手は関東圏のチームといってもファイナル常連の鹿島で、浦和や東京、川崎とは違うので焦って入手する必要もないとは思ったけれども(そもそも自由席のゴール裏のつもりだし)、20分で完売しちゃったら後援会先行の意味ないよなあ…。



今週土曜日はリーグ再開。再びアウスタで神戸戦。こちらも勝ち切っていきたい。

希望と道具/アキラ・ザ・ハスラー「ふつうにくらす」

2012-10-13 08:44:50 | News


昨日は官邸前抗議の前に六本木へ行った。オオタファインアーツで行われているアキラ・ザ・ハスラー「ふつうにくらす」
<赤い糸>と題された、石粉粘土とアクリルで作られた人形が並ぶ。それぞれの人形の手のついている「赤」は糸のようであり、手の先から流れた血のようでもある。人形の「糸」はつながっているわけではなく、その糸の先を小鳥がついばむ。
決して突飛な抽象でもなく、アキラ・ザ・ハスラーが3.11以降に見たもの、感じたものをありのままに表現していることがわかる。どれもこれも具体的な「ふつう(リアリティ)」である。

会場では去年の秋、水戸の公園で100個の白い風船(!)を配りながら歩くアキラ・ザ・ハスラーのビデオ映像も流される。そのビデオにはこんな言葉が添えられている。
「僕らは希望を語るための道具を探している」
プラカードもTシャツもトラメガも「白い風船」も、そして性器までもが、3.11以降の希望を語るための「道具」だったのかもしれない。道具は決して誰かの占有物ではなく、誰もが使えるからものでなければならない。

その夜、いつものように官邸前抗議に出かけた。官邸前の最後列付近、コールをしようとしている人たちの真後ろでアンプを使って歌い続けているフォークソングのグループとちょっと口論になってしまった(おばさん、申し訳ない)。勿論共有できる目的さえあれば、どんな「道具」を使っても、どんな「表現」があっても構わない。
彼らはギターを使う。オレらは声とクラップを使う。それぞれの道具と表現で「希望(共存していく方法)を探している」のだ。

一方で路上や公園で生まれた熱はそれぞれが持ち帰って、それぞれが表現しなくちゃいけない。自己表現を必要とされない集団の抗議行動の熱や思いは、集団を離れて個人に戻ったときに、どこかで、何らかの形でやっぱり自己表現されるべきなのだと思う(「現場」で自己表現するのは正直勘弁して欲しいけれども、それぞれの、個人の「現場」で自己表現して欲しいと思う)。それはアーティストだけの仕事ではなくて、ひとりひとりの表現衝動だ。オレは文章、チョーさんはアートという「道具」でそれを表現する。

3.11に起こったことは文字通り、問答無用の無慈悲なリアル(事実)だけれども、オレは3.11以降のリアリティ(表現)をもっと見て、聴いて、感じていきたいと思う。それが「3.11以降を、ふつうにくらす」ってことだよ、たぶん。
アキラ・ザ・ハスラー「ふつうにくらす」、今日までです。

ダービーの意味

2012-10-12 07:28:34 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14


<長谷川 本当に<静岡ダービー>を意識し始めたのは、監督になってからなんです。就任1年目の鹿児島キャンプでジュビロと練習試合をやって、2-7でボロボロに負けたんですよ。その時の印象が強くてですね。そこで改めて「ジュビロだけには」と思いましたね。
山本 やったなあ、そう言えば(笑)。
長谷川 そのあと各方面から散々たたかれて、「ダービーだけには負けられないぞ」と強く思うようになりました」>
(Jリーグサッカーキング 2012年11月号 激闘静岡ダービー「特別対談 長谷川健太×山本昌邦 静岡ダービーを再び日本の頂上決戦に」より)


遅まきながら「Jリーグサッカーキング」の静岡ダービー特集を読む。
対談での健太のこの発言を改めて読んでうすうす感じていたことがはっきりと見えてきた。90年代(というか第一次健太体制以前)のエスパルスに物足りなさを感じていたのはプレーヤー(クラブ)とサポーターとの距離感だった。
健太やノボリ世代の静岡のサッカー選手というのは、もうそれだけで圧倒的に日本のサッカーエリートで、それでいながらも身近な存在でもあった。静岡、特に清水在住者は、そもそも“サポーター”になる以前に健太やテル、ノボリのように小学生レベルから注目される“近所のスター”が存在していたわけだ。
Jリーグ以前から、静岡にはすべての“システム”が出来上がっていて、後援会というファンの視点はあったとしても、サポーターという思考、視点が入り込む余地はなかったのではないか(エスラップの件はひとまず置いておくとして)。何てったって、リーグ設立当初からビルバオ化していた清水は、他の地域ではあり得ないほど地元に根付いて、地域で支えられて、すでに自己完結していた。まあ、サポーター(ファン)は黙って見とけ、と。
だからと言って健太の発言の良し悪しを言っているわけではない。それがサッカー王国というものである。

99年前後から日韓ワールドカップ前までの短い黄金時代、そして2、3年の低迷期を経て、健太はクラブ、サポーターからかなり切迫感を持って監督に迎えられた。それは期待感というよりも「もう健太が監督ならJ2に落ちても諦める」「落ちるなら健太が落とせ」といった類の悲痛なもので、そこで初めて健太が「ダービー」を意識したというのは合点がいく。
ダービーを意識するということは、サポーターを意識するということでもある。ダービーというのはピッチ内で完結するものではなく、サポーターの戦いでもあるのだから。
特集では最近のダービーはかつてと比較してあまり盛り上がっていないような発言が見られるが、そんなことはないだろう。特集でもたびたび挙げられる、伝説的な99年のチャンピオンシップは静岡サッカーのひとつの総決算であったがためにあそこまで感動的になったわけだが、2005年以降のダービーだって、それまでよりもずっと素晴らしい盛り上がりを見せていると思う。そこにはチームとサポーターの一体感があるから、である。

まあ、静岡の場合、中部と西部の諍いというのはサッカーでなくとも熱くなるものだけども。

お断り/「ドグマ」

2012-10-11 07:36:21 | Movie/Theater
ドグマ
Dogma
1999年/アメリカ
監督:ケヴィン・スミス
出演:ベン・アフレック、マット・デイモン、リンダ・フィオレンティーノ、サルマ・ハエック、ジェイソン・リー、ジェイソン・ミューズ、アラン・リックマン、クリス・ロック、バッド・コート、ジョージ・カーリン、アラニス・モリセット
<「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」のマット・デイモンとベン・アフレックのコンビが、神に背いて地上界に追放された天使を演じるハチャメチャ・コメディ。デビュー作「クラークス」がサンダンス映画祭で評判となったケヴィン・スミス監督作品で、“キリスト教を冒涜している”として各地で上映禁止運動が起こった問題作。昔、神に背いたことから天界を追放になった2人の天使。1000年も地上で暮らしていた彼らに天界に戻れるチャンスが到来するが……。>(allcinema

しつこい冒頭の「お断り」はそれ自体がジョークになっているわけだが、確かにお断りは必要だろうなというぐらい、ど真ん中に宗教(カトリック)を据えたコミック・ファンタジー。「冒涜している」といえば、確かに冒涜はしているんだろうけれども、そもそもパロディやコメディや批評などというものは、ある程度「冒涜」に踏み込んでいなければ面白くはないもので、その意味ではキリスト教圏の懐の深さを感じられるような内容ではある(いや、もちろん“深くない人たち”もいるから上映禁止運動も起こるんだが)。
キリスト教の知識があった方が笑えるのは当然としても、台詞で「映画を観ないと(宗教や歴史を)勉強しない」と皮肉られているくらいなんだから、それほど詳しくなくても笑える(またアメリカ人は何で映画ばかり観ているんだというくらい、映画を皮肉った台詞も多い…メディアを宗教に喩えているのかもしれない)。まあ“笑い”ほど万国、万人共通に程遠いエンタテインメントもないので、わからないからと言って、無理に笑う必要もない。

天国を追放された堕天使が、ニュージャージーのカトリック教会の“新企画”を伝える新聞記事の切り抜きを何者からか受け取る。“新企画”とは、古臭く、誤解されがちなカトリック教会を“リニューアル”し、親しみやすいカトリック教会に生まれ変わるべく意図された「カトリック・ワォ!」なるイベント。磔された苦悶のキリストの十字架像は、より親しみやすい笑顔のバディ・キリスト像に、そして法王の特別措置として「教会の門(アーチ)をくぐればすべての罪は許される」という“企画”が立てられる。
天国への帰還を願う彼ら堕天使は、これを“抜け穴”に天使の羽を切り落とし、人間として死に、天国へ戻ろうとする。
しかし神により天国を追放された彼らが抜け穴を使って天国に戻ることは、神の過ちを立証すること。真理は崩壊し、世界は消滅してしまう(らしい)。
故にタイトルは内容に反して、重苦しく、「ドグマ(教義)」なのだった。
そして、世界の消滅を阻止する“十字軍”としてキリストの末裔と使徒、そして預言者が動き出す。

しかし、ここでおかしいのは堕天使が天国を追放されたという理由である。
神の怒りを代弁し、ソドムとゴモラで罪深き人々を殺戮し、ノアの方舟以外のものを洪水で押し流したという死の天使は、殺戮を止めた=神の意志に反したという理由で追放された。また彼らを追うキリストの末裔も神の不在=神も仏もありゃしない個人的な事情を抱えている。さらに彼女は「(教義の抜け道を見つけた)彼らは体制に勝った」とまで言う。
殺戮という残虐や個人的な試練よりも、ここでは神の意志=ドグマ(システム)の維持が優先される。
つまり個人的な状況や事情はともあれ、盲目的にシステムを維持する=善、神の意志、システムに反する=悪というアイロニカルな構図の中でストーリーが進行する。上映禁止運動をした方々がどういう意味でこの映画を“冒涜”と判断したのか、わからないのだけれども、むしろこの作品はそのまま観れば宗教賛歌ともいえるのだ。
堕天使をそそのかし、世界の消滅すら願う“悪”の黒幕はこういう。
「エアコン以上の快楽や罪があろうか…これこそ悪の権化」
個人の善悪を超えた、ドグマそのものの矛盾や理不尽をコメディにしているわけだ。

いや、まあ、ストーリーは徹底的に馬鹿馬鹿しくはあるんですが。

主役級に据えられているベン・アフレック、マット・デイモン目当てに、「ビルとテッド」風に想像して観ると、これはちょっとネガティブなコメントになってしまうのは仕方がないところ(このDVDのパッケージデザインはちといただけない。絶対に勘違いしてしまう)。確かにベンとマットの堕天使コンビがストーリーのキーを握っているものの、彼らはどちらかと言えばアラン・リックマン演じる大天使同様、狂言回しに近い役回りで、あくまでも主役はJCの末裔の設定であるリンダ・フィオレンティーノ。彼女を引きずり回す使徒、預言者グループにクリス・ロックが加わると、良くも悪くもドラマが安定するのはさすが。

荒業と感傷/「病院坂の首縊りの家」

2012-10-11 01:48:44 | Movie/Theater
病院坂の首縊りの家
1979年/東宝
監督:市川崑
原作:横溝正史
出演:石坂浩二、佐久間良子、桜田淳子、草刈正雄、あおい輝彦

CMで大野雄二先生の名曲「愛のテーマ」が放送されている。そこで久々に金田一シリーズを観たくなった…と思ったら「犬神家の一族」のソフトは手放してしまっていたので、「病院坂の首縊りの家」を観る。
この作品で市川崑は冒頭とラストシーンに横溝正史夫妻、中井貴恵の素人芝居をそのまんま、かなり長々と見せる、また数十年前の事件の原点を描いた再現シーンをそのまんま、能面のように真っ白に顔を塗りたくった佐久間良子、入江たか子に演じさせるという荒業をやってのける。特に後者などは無理があるのは承知でやっているのだろうけれども芸達者な豪華過ぎるキャストの中でこれは実に際立ってしまう。むしろ舞台劇のようなイメージなのか。

「金田一耕助最後の事件」という原作の設定のみならず、市川&石坂コンビによる金田一シリーズ最後(当時)の作品として、感傷的なシーンが少なくない。金田一による種明かしから犯人の最期までの流れは美しく感動的。シリーズを観続けて、この作品を観ればさらに感動も深まるだろうが、長大な原作を再構成した、尺を感じさせないジャジーな展開はもっと評価されてもいいんじゃないかと思う(個人的には「悪魔の手鞠唄」がシリーズベストだが)。桜田淳子の好演、草刈正雄の怪演、そして佐久間良子の妖艶も絶品。そして、やはりここでも観られる、70年代のピーターの軽やかさというのは素晴らしいです。

全編で流れるジャズ演奏が、「漣流」の取材でお世話になったピアニストの江草啓介さんだったのを改めて知った(本では裏取り取材になってしまって江草さん自身のことはほとんど触れられなかったのだけれども)。



しかし、他のブログでも書かれている方がいるけれども、DVDのパッケージデザインはちょっと酷いなあ(メインヴィジュアルのシーンは超重要シーンではあるのだけれども)…原作である角川文庫版の表紙は相変らず素晴らしいと思うのだが。

いまだ、ハーフタイム

2012-10-10 23:08:00 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
くだらないものを見せられた!もう十分だ!
・エネルギー、魂が出ていない!汗かいているのか?
・2連勝で周りの期待値は上がっているんだぞ。みんな仕事が終わってから観に来ているんだ。プロの試合を見せろ!誇りを見せろ!
J's GOAL 10月10日付 【第92回天皇杯 3回戦 清水 vs 東京V】ハーフタイムコメント


まだゲーム終了後のコメントも出ていないし、ゲーム映像も観ていないわけだが、このアフシンのハーフタイムコメントだけで充分なような気がする。今週土曜日まで続く連戦の中で、最低限のスコアで、90分間で、最低限の結果は出した。これがすべてである。ここで負けでもしたら、優勝しない限りは12月第一週のリーグ終了と共に今シーズンは終了なのだ。
ひとまず、これでリーグが終了しても12月半ばまで戦う権利は得た。
これから週末に向けて、天皇杯2回戦負けのFC東京戦とのナビスコカップ準決勝に全力を傾けたい。

準決勝もまだ“ハーフタイム”中である。
必ず行く。

自分語り

2012-10-08 11:58:58 | twitter
音楽誌「ERIS」創刊について高橋健太郎氏と竹場元彦氏の論争のまとめ

音楽誌を巡る論争というよりも「現場」に対するスタンスを巡る言い合いとして読んだ。読んだけど、途中でわけがわからなくなってしまった。どう読んでも噛み合っていないからだ。
しかし、だからといって「いつもの、ロキノンの自分語りでしょ?」で切り捨ててしまうのはあまりにも乱暴すぎると思うのだ。
竹場さんの書く(そして健太郎氏が皮肉を込めていう)「昔話」は、昔話であったとしても、それが確かに有効だった時代があったわけで。いや、もしかしたら今でも(こそ)有効かもしれないわけで。それは昔話として切り捨ててしまっていいものかどうかとも思う。
そもそも竹場さんは「ロキノン」や「自分語り」の時代の人ではない。

ロッキング・オンがロキノンになり、「自分語り」がその代名詞になったのは、それこそ「現場」のリアリティを失ったからに他ならない。自分語りの性質の悪いところは、対象や音楽を通して主観(自分)を語るならまだしも、いつもの間にか対象の代弁者になってしまうことであって、その代弁者が対象を追い越したときに、小山田圭吾のいじめ武勇伝発言を引き出したり(雑談インタビュで虎の衣を借るパターン)、ベンジーとその一派に襲撃を受けたりする(さらに虎の尾を踏むパターン)のだと思う。まあ音楽系(…に限らすスポーツでも露骨だけれども)ライターやカメラマン及び周辺の業界人にとって、所謂番記者、番カメラマン、スポークスマンになることが業界での立場を作る手っ取り早い手段なのだろうけれども、ロキノンの自分語りは「それが現場のリアリティ」だと言わんばかりに露骨に、派手にやり過ぎた。
ま、そんな自分語り批判はともかく。

ツイートの拙さもあってまったく噛み合わない発言の応酬の最後に竹場さんが、
<Misao Redwolfよ、知っているのか?>
と、この一連の論争で最後のツイートを書く。ここで反原連を持ち出すのはいかにも唐突なのだけれども(そしてかつてのROらしい)、これで竹場さんが言いたかったのであろう「リアリティ」が明らかになったような気がした。ツイート内容についてはとても丸々了承できるようなものではないけれども、これは別に原稿内容云々、ライター云々のいちゃもんではなくて(別にライターに自分語りさせろというわけではなくて)、現場感の欠如を指摘したいんだろうと思った。
それは「評論家の書いた文章よりもリスナー(当事者)の文章の方がリアリティがある」というRO創刊当初のコンセプトじゃないかと思う。

まあ「ERIS」の編集方針については「やりたいことをやるだけ」と言う通りだとは思うけれども。
雑誌は編集長のものなんだから。

あと「自分語り」の原点は、やっぱし松村雄策先生だろう。おそらく渋谷陽一はそれ――評論家よりもリアリティのあるリスナー(当事者)の文章――を松村さんの文章に托していたんだろうし。ただし松村さんのは芸の域に達していたと思うけれども。

(追記10月9日)
リアリティが争点にすらならなかったのは行動に対する健太郎さんの消費者的態度、竹場さんの当事者的態度の違いでもあるんじゃないかなあ。と適当に書いてみる。音楽というより原発を巡る態度か。
あと篠原章さんの労作「日本ロック雑誌クロニクル」(太田出版)を再読し、「原点」は松村さんに加えて理論的支柱の岩谷宏さんだと再確認。

2005年から継続中

2012-10-07 06:27:09 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
<監督ではなくて去年まではやはりブラジル人の問題があったんじゃないでしょうか、このチーム(エスパルス)は。でまあすごく有名な選手とかがいて、周りの期待が大きかったんじゃないでしょうか。清水は今回監督が決めて、若い選手を多用しているということで、そういう意味では優勝するとかそういうことじゃなくて、やはり清水のクラブとしてのプランによって、そういう風に若い選手を使い続けることによって、今シーズンが終った頃には若い選手が一人前の選手になっているんじゃないでしょうか。そういう意味では「清水というのは若い選手がたくさんいるよ」という一つの方向性が生まれるということでも良いことではないでしょうか。あとはまあそれで、どうゆう結果になるかっていうことですけど。まあただ、やはりこの自分たちの地方の選手が良いプレーをしたときにはやはり良いものですよね。>(Sの極みより 2005年4月23日ジェフ対エスパルス戦後、オシムのコメント)

過去記事をチェックしていたら…確かにこういうこと言ってましたね、オシム。<「清水というのは若い選手がたくさんいるよ」という一つの方向性>というクラブのコンセプトは、健太時代からやはり今もなお継続中ということか。
まあ、健太時代の強化部長も言っていたように「時々はタイトル」も真剣に実現してくれないと困るわけだが。
やっぱり2005年から始まっているんだよ、オレたちの永久革命。

「舞台」の話/第28節 磐田戦

2012-10-07 05:57:57 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
アフシン「まず『ファンタジーなサッカー』という話しをされましたが、それにはまず良いピッチが必要だということです。エコパは申し訳ありませんが、少しコブがあります。そして芝も長いこともあり、ボールがそれほど速く動きません。良いピッチの上で戦うことができれば我々はそういったファンタジーなサッカーというものができると思います」(Sの極み 10月6日付)

スカパーで静岡ダービー。5位以下(から2桁順位まで)とは勝ち点差はほとんどないとは言え、今日の勝利で単独4位に上昇。ここ1、2ヶ月前から伸二、アレックスの移籍まで煮詰まった雰囲気もあったのだけれども、これで8月以来の連勝。ダービーなんだから、内容は置いておいても、まずは結果である(とはいえ大輔のゴールは実に素晴らしい展開と内容だったけれども)。

しかし「自分たちのサッカー」を表現するには「舞台」の状態にも影響される。
中継でも言及していたのだけれども、現在エコパのピッチは芝が長いそうなのだが、これはピッチ状態の悪さを(ある意味)誤魔化すための方策なんじゃないかと、中継を観ながら思っていた。やはりアフシンや浩太のコメントを読む限り状態は悪かったようだし、一方で、芝の長さも含めて、このピッチをジュビロが得意としていたのならば話もわかるが、どうもジュビロ側のコメントを読んでもそんな気配は覗えない。いくら動員とエコパ稼動のためとはいえ、そんなものは本末転倒でそれで負けていたら洒落にもならない。そもそも、一体何のための「ホーム」なのか。まあ、勿論、どんな舞台でも、どんな状態でも「自分たちのサッカー」ができるのであれば、それ以上のものはないと思うけれども。

最近はあまり聞かなくなったけれども、以前は「日本にホーム&アウエイはない」などという妄言を吐く人間が少なからずいた(自称サッカー好きの芸能人、SさんとかSさんとか)。それは欧州贔屓であるがために、Jリーグのサポーターを含めたスタジアムの雰囲気をdisっていると思われるわけだが、アウエイというのは、そういう主観的な「雰囲気」の話ばかりではなく、当然、舞台――ピッチそのものも指す。
スカパーの中継だったか、仙台対ガンバのコメントでも状態の悪いピッチに対する言及があった。
「ガンバさんには申し訳ないが我々はこのピッチに対応して勝ってきた」みたいな。
それはプロの舞台として決して褒められるものではないと思うけれども、しかし、それが彼らの「ホーム」なのだから仕方がない。仙台があのピッチで勝利を重ねて優勝争いしているように、やっぱし、ホームで圧倒的に強い清水のサッカーを表現するには日本一の日本平のピッチが必要なのだよね。逆に今シーズンの清水はアウエイで実に成績が出ていない。それだけに今回アウエイでも「内容はともかく結果」が出たことはまったく悪いことじゃない(日本平ではちと許されないことだが)。

リーグは残り6ゲーム。来週の天皇杯3回戦、ナビスコカップ準決勝を含めて、ホームでの戦いが続く(残りのアウエイも鹿島、川崎と比較的近場の関東圏である)。もはや上位との対戦は残されておらず、今季不得意としている、さらには終盤に対戦するには実に面倒な降格圏内の相手と、今季(も)得意なホームで対戦する。日本にも、というか日本平(アウスタ)にはホーム&アウエイがある、ということを見せつけるにはうってつけの展開じゃないかと思う。

大輔「この時期にまたJリーグの順位も上がりますし、それがいちばん大きいと思っています。優勝もまだわからない状態なので、まずは優勝を狙って、一戦一戦大事に勝っていきたいと思います」

河井「そうですね。また上を狙えるポジションに来たので、モチベーション高くやっていけると思います」
(以上J's GOAL 10月6日付