徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

「悪者」は誰か/The REAL「 ヒルズボロの悲劇」

2015-07-30 21:53:14 | Documentary
ドキュメンタリー~The REAL~「サッカー ヒルズボロの悲劇」
<1989年、ヒルズボロスタジアムで開催されたFAカップ「リヴァプール×ノッティンガム・フォレスト」。両チームの熱狂的なサポーターが集うテラス席で96人が犠牲になった痛ましい事件は起こった。>
Jsports ドキュメンタリー~The REAL~
「ヒルズボロの悲劇」の事件の詳細

フィルムに登場する証言者――その多くは被害者家族や関係者だが、その一人ひとりが「真実」という言葉を繰り返す。
作品の中でも言及されるのだが、大衆紙の『ザ・サン』は「The Truth(真実)」と題した記事の中でリバプールサポーターが「警官に向かって排尿した」「救助中の警官を暴行した」と書いたのだ。
時代はプレミアリーグ前夜で、80年代で、フーリガニズムが燻っていた。
作品の前編ではヒルズボロを管轄する南ヨークシャー警察の経験豊富な警備担当者がなぜセミファイナルのゲーム直前に退任することになったのか(これが実に下らない理由だったりする)、新任の現場責任者がいかにサッカーに無知で、スタジアム警備に経験不足であったのかが再現フィルムを交えながら描かれる。
事故直後にまとめられた「テイラー・レポート」では、フーリガニズムの影響を排除し、適切な誘導やスタンドでの危機管理を講じなかった警備体制の問題が指摘された。この時点で「The Truth(真実)」は否定されていたのだが、警察は『ザ・サン』のように「真実」を歪めて、もうひとつのストーリーを作り上げようとする。被害者の血中アルコール濃度、過去の犯罪歴を調べ、まるでチケットを持たず、酒に酔ったリバプールサポーターが入場ゲートを破壊し、狭いテラス席に殺到し、圧死者が続出したかのようなストーリーを展開する(メディアにリークもする)。
挙句の果てにピッチ内外で犠牲者の救助に奔走していた現場の警官たちの証言も都合よく改ざんしていく。
犠牲者とその家族、関係者は20年以上にわたって幻想のフーリガニズムの犠牲者(もしくは当事者)として傷つけられる。被害者、そして関係者でありながら悪者にされた者たちと共に、証言を改ざんされたことを知った現場の警官たちも同じように苦悶し続けた。

そしてフィルムにクライマックスが訪れる。
2009年4月15日、ホームスタジアムであるアンフィールドで、3万1000人のリバプールサポーターが集まり行われた20年目のヒルズボロ追悼式典。文化・メディア・スポーツ省のアンディ・バーナム大臣がブラウン首相のメッセージを読み上げ始める。
その時、誰かが叫ぶ。
「正義を!justice!」
スタンドから拍手が湧き、被害者家族を支援し続けたサポーターの大合唱が巻き起こる。
「96人に正義を!」
そして再び拍手。
リバプールのサポーターだってきっと傷つけられ続けていたのだ。「悪者」として。

それまでフィルムの中で嘆き、悲しみ、怒りをぶちまけていた被害者関係者は口々に「あの時から変わった」という。
スタンドの光景を呆然と見ていたバーナムらによって、公開文書の調査と分析を行うヒルズボロ独立委員会が設立されたのは翌2010年のことだった。96人の犠牲を「事故死」としていた判決は破棄され、警察上層部によって改ざんされた現場の警察官たちの証言は、改ざんの証拠と共に、「元通り」に改めてオンラインで公開された。事態は急速に動き始める。
20年という月日が経ったから動き始めたという老獪な政治家のような言い方もできるのだろうが、いくら時間が経っても「忘れない」ことがやっぱり大事なのだ。

「正義」という言葉だけで拒絶反応を示してしまう人は少なくない。しかし何が正義なのかはともかく、不正義は誰にでも理解できるはずだ。
最初に正義を叫び、不正義を告発するひとりになるのには勇気がいるのかもしれない。でも誰だってスタンドで正義を求める大合唱ぐらいはできるだろう。
スタンドの執念深さと勇気に胸が熱くなった。執念深さってのはいい意味で、だよ。

ESPN 30 for 30: Hillsborough Disaster

戦争ごっこはなぜ嫌われるのか/安倍政権NO!☆首相官邸包囲7.24

2015-07-26 15:08:40 | News

金曜日は安倍政権NO!☆首相官邸包囲に参加。ネット上でも当日の過剰警備や、「賛成派」としてメディアでも紹介され、在特会やヘイトデモ関係者との関係も濃い政治団体「頑張れ日本」の妨害行為が問題になっている。
それはまた稿を改めるとして、今話題になっているのは官邸前・国会前の現場での極左・ヘサヨ排除である。
簡単に言ってしまえば、まだこの国の民主主義は「手段としての殺人を容認する集団」を容認しない。

最近再び話題の酒鬼薔薇事件が起きた頃、子供たちの「なぜ人を殺してはいけないか」という質問に大人はどう答えるのかがちょっとしたメディアのテーマになっていたことがある。
深遠な回答から感情的な回答まで様々な回答が紹介されていた記憶がある。勿論殺人そのものが人間関係の破綻ではあるのだけれども、その後、殺人者が味わうのは人間関係の集積地である社会からの排除である。最終的に殺人という形でしか人間関係を築けなかった人間に対して社会と個人は容易に関係を結ばない。いざとなったら殺しちゃうような人間では危なっかしくて関係を持とうなど、なかなか思わないだろう。
殺人に限らず、トラブルの多くはイージーな関係性の中で起こる。だからといって田舎の濃厚な関係性の中でも陰惨な事件は起こるのだから、「イージー」というのは関係の距離や重さを測っているのではなく強さを測っている。要するに簡単に言ってしまえば時間や場所に依らない信頼である。
この4年間、路上で多くの信頼に足る人たちに出会ってきた。オレが音楽家だったらDJ TASAKAのようにCDを作りたいと思うだろうし、カメラマンならろでぃのような写真を撮りたいと思うし、bc君や斧君のようなデザイナーならプラカードやTシャツを作っただろう。彼らは「強い関係性」の中から自分たちの表現を生み出している。そしてその表現がまた今の路上の運動で共有されている。まさにコール&レスポンスである。

話を戻す。
同じ場所に存在しているからといって、また同じ時間を共有しているからといって、それだけが「関係」を示すものではない。場合によっては殺人も厭わないと公言する(また公言するのが実に頭が悪いのだが)、中核派及びヘサヨを含むそのシンパが路上の運動の場から排除されるのは当然のことだ。関係の破綻を殺人という形で実行する、しかねない、そのことを否定しない連中とどうやって関係を持てというのだ。いくら抗議しても官邸前、国会前周辺でビラ配りを止めず、不必要なほど巨大な団体旗を掲げで運動にただ乗りしようとする極左はもはやストーカーであり、はっきりと妨害者になっている。
ストーカーに対してしなければならないことは、自分たちとは「関係がない関係」である事実と意志をきっちり突きつけることである。つまり排除しかない。

個人の諍いならともかく、オレたちの行動に勝ち負けという価値観は相応しくない。なぜなら「問題」はひとつの答えや行動で解消するわけもなく、おそらく生きている限りつきまとい続けるのだから。
解決とは勝ち負けのことではない。妄執のように目先の勝ち負けにこだわるのはネトウヨの習い性だが、そんなものに乗る必要はない。

現政権との戦いは確かに「倒すか倒されるか」なのかもしれないが、こちらはそう簡単に倒されるわけにはいかない。なぜならそれでもオレたちは生きていかなければならないからだ。
中核派の女がテレビで言うように「倒すか倒されるか」ではなく、「倒したり倒されたり」する戦いがずっと続くのだ。
すっと続く以上、無駄な乾坤一擲や勇ましいだけの決戦を叫ぶ輩は、やっぱりお引き取り願うしかない。

安倍政権が「手段としての殺人」を容認しようとしている今、イージーな戦争ごっこはお断りだ。

生き残るためにすべきこと/2nd第3節 名古屋戦

2015-07-20 12:32:14 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015

昨夜は日本平で名古屋戦。
テレビで中継を観ているとストレスだけが溜まっていただろうけども、多くの観戦者が抱いているストレス込みで、実は熱くて面白かった。鹿島戦に続いて、やはりゲームはスタンドで観るべきだと実感したわけだ。わすか勝ち点1しか取れず、またもや最下位に沈んでしまったとはいえ。

久しぶりにいつものシートに座ると、車椅子スペースで付き添いの男が名古屋のゲーフラを上げていた。さすがにそりゃねえだろ(メインスタンド最前列のど真ん中である)と思ったので抗議。自分とこのスタジアムのど真ん中で相手チームのデカいゲーフラを掲げられて黙っていられるのか。そこまでお人好しでいいわけがない。まあメイン(バック)スタンドでの段幕問題は以前浦和戦で炎上した。名古屋の彼には気の毒だし、心の狭い奴と思われるかもしれないが、これもあの時と同じように手続きとしてはクラブのアナウンス不足の問題で、清水エスパルスの「ホームの真剣」が問われているわけだ。

喫煙所に行くと、下の階にある関係者用の喫煙所に竹内前社長が現れた。当然黙ってるわけにはいかないので大声で原強化部長の責任を問う。この辺、個人的に訊いても仕方がないし、竹内さんだっていちいち付き合っていられないのは、それはそれなりに理解できるので、公式にメディアがきっちり突っ込んでもらえんかのう…。竹内さんは正面玄関へは戻らず、別の入口に姿を消したようだ。
ホームは本当に気が休まらない。何しに来ているのかわからんが。

しかしゲームは久々に熱くて「面白かった」。カッコ付きにしたのは、当然これはポジティブな意味を持っていないからである。
なぜ交替が後手後手を踏み続けるのか。10人相手のゲームマネジメントは徹底されていたのか。枝村、犬飼の守備の「軽さ」に危機感を持たなかったのか。大榎克己の問題はいつまで経っても解消されない。
ピーターの突破力と決定力、デュークの推進力、そして鹿島戦に続いて孤軍奮闘としか言いようがないほど身体を張ってゴールを守り続けた杉山。光明、というべきか、反転の萌芽は見えてきた。闘う姿勢が見えればスタンドは熱くなる。
野次でも怒号でも悲鳴でも構わない。「面白かった」というのは、ひとつひとつのプレイに真剣に反応する、ゲーム中のスタンドの熱さに救われたことにある。
何てったって生き残るためには何が何でも勝ち点を稼がなければならない。そのためにはスタンドだって真剣に、必死になる姿を全身で表現すべきだ。

勿論ゲーム後(そして次のゲームまで)の批評は必要だ。激烈な大榎批判やフロント、チーム批判は続けられるべきだろうと思う。今シーズンの結果がどのようなものになろうとも、去年のゴトビ更迭に遡って「結果責任」は問われなければならない。それは絶対、である。
今必要なのは清水に関わる人たちが全力で大騒ぎすることで、注目を集め、フロントにプレッシャーをかけることである。スタンドだけでなく、ブログやSNSを使っている人は積極的に「清水のこと」を発信して欲しいと思う。その時のためにも戦術系ブロガーの皆さんにも徹底的な批評を続けて欲しい。
それだけして、ゲーム中は勝利だけを祈り、全力で後押しするのだ。
いい歳したおっさんである大榎をマネージャーとして「成長」させるにはとんでもない労力が必要だが、若いプレーヤーはどんな奴だって可能性だけはある。大榎よりも若いプレーヤーをスタンドから「成長」させる方が手っ取り早い。そのための後押しである。

メインスタンドのシーズンシートのご近所さんも自らゲーフラを作り、選手入場時に掲げていた。本気で喜んでいること、本気で怒っていること、本気で願っていること、それをそれぞれのやり方で表現していこう。
清水エスパルスは生き残るためにもはや総力戦の状況になっているし、その覚悟をすべきだろうと思う。

「居場所」と男組について

2015-07-19 14:04:39 | News
居場所系というのは、端的に書いてしまえば手段の目的化を指す。
何らかの活動を続けていれば顔見知りが増えてくるし、普段接点がなくても、顔を合わせなくたって本当に信頼が置ける人間もそれなりに増えてくる。
「現場」で顔を合わせれば食事や飲みに行くこともあるだろう。懇親という意味もあるだろうし、情報交換という意味もあるだろう。
中には行動が目的なのか、その後の飲み会が目的なのかわからないような奴もいる。これも手段の目的化のひとつだと言える。

男組の凄かったところは「手段の目的化」どころか、あまりにも頻繁に飲みに行くため、いつしかカウンターの後に飲みに行くというよりも、飲み仲間が連れ立ってカウンターへ行くというような雰囲気さえあったのではないかと思う。しかもかなり初期からである。
オレたちはカウンターであると同時に飲み仲間だった。

これは見る人が見ればかなり不真面目である。しかし本人たちは至って真剣なのだから仕方がない。
飲み会のために「現場」があるのではない。「現場」のために飲み会があったのだ。
居場所系を突き抜けたところにオレたちはいた。だから男組は強かったし、優しかったのだ。

最近童貞野郎が寂しいことを書いていやがったので、ふとそう思った。

何が何でも/2nd第2節 鹿島戦

2015-07-19 01:54:38 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス2015


鹿島のアウェイというのは、アクセスの悪さを除けば浦和アウェイぐらい大好物なゲームである。しかし、勿論負けたくはないが簡単に勝てるとも思えない、こんな微妙な心境で鹿島に乗り込んだことはない。
セカンドステージ開幕のタイミングで再開しようと思っていたこのブログも、前節の神戸戦は書く気が失せた大惨敗だった。ポジティブなこともネガティブなことも、何十枚もメモを書いて、やはり捨ててしまった。

このゲームでも実際数度のゴールチャンスはあったものの、ゴール裏が熱くなったのは杉山のPKストップ以降、身体を張ったディフェンスが増えてからだろうか。チームと同じように、スタンドにも何が何でも勝ち点を取るという雰囲気が生まれた。やはりター坊の参加は好材料だったか。
鹿島サポにはかなりつまらなかったゲームであっただろうが、残り10数分はチームの熱さを感じたゲームだった。

今日の名古屋戦。勝ち点を取ることができればスタンドの雰囲気は確実に変わってくるのではないかと思う。
勿論現在のエスパルスの「問題」が明らかになっている以上、フロントや清水の闇批判を止める必要はないと思うが、やはりスタンドでは何が何でも、の体勢でいたいと思う。

期待しているし、これからの戦いは記していきたいと思う。

もう一度、BLEND is beautiful/戦争法案国会前抗議(7.18)

2015-07-19 01:15:54 | News


現場にいるからこそ見えてくるものは多い…なんてことを今更書くのも恥ずかしくなるほど当たり前のことなのだが、それを忘れたり、時間がなくて見過ごしてしまうことは少なくない。楽チンな方がいい、何てったって人間は怠惰である。

例えばスタジアムへ行く。ピッチ上で繰り広げられるゲームは勿論、スタンドの反応、息づかい、声援と野次、スタジアムで渦巻く膨大な「情報」をテレビカメラは決して捉えきれない。中継は伝えきれない。
中継は視聴者を扇情し、感情をブーストさせる。嫉妬、悪罵、そして憎悪、ネガティブな感情が噴出する。それはニコ生のコメントや2ちゃんねるの実況板を見ると実感できる。
そしてきっとSNSの空間でも同じことが繰り返されている。
現場には行くべきだ。そしてそこで考えるべきだとつくづく思ったわけだ。

安倍政権の安保法案強行採決に対する抗議行動に参加するために、遅まきながら金曜日は国会前に向かった。久々の「現場」である。
そしてSEALDs(シールズ)の「現場」に参加した。そこでわかってしまった。
何がわかったかって、「もう同じことをする必要はない」ということである。

現場では高橋若木さんと少し立ち話をした。主催に近い若木さんに「やはり英語のコールはどうかと思う」と話しかけた。コーラー周辺の爆心地はともかく、明らかに特定のコールでテンションは下がる。確かにコールのループを2、3回聞けばわかる程度の英語だとは思うが、オレはわかる/わからない以前に、伝える/伝わる方が大事なことだと思うのだ。
チャントの多くがポルトガル語のエスパルスサポが何言ってんだとは思うが、2000年代のエスパルスのゴール裏の改革は「日本語のチャントの増加」だったのだから、伝える/伝わる=容易に歌える、口づさめることはオレにとっては大事なことなのだ。

若木さんは苦笑しながら「確かにおじさんおばさんの中にはついて行けていない人もいる」とした上で、「でも彼らは外に向かっている」というような言葉を返してきた。
つまり「発信力」ということだろう。

若さというのは何はともあれ可能性だけはあるということで、可能性があるということは変化(成長)するということだろう。良くも悪くも変化するのだから、最も価値があるのは可能性を秘めた「今」である。だからこそ「若者」というのはキャッチーで、メジャーで、赤丸急上昇なのだ。
注目度は高い。道すがらに耳に入る若者の話でも同世代への波及も凄いものがあるのだろう。
彼らの行動は秘密保護法反対から始まっているわけだが、選挙権の18歳への引き下げが決まった直後に一気に注目を集めている「若者の行動」に安倍政権が警戒するのもまた当然だろう。これまでの票読みでは計算できない「可能性」が生まれてしまったのだ(当然すでに選挙権を得ている20代の「若者」への影響も考えられる)。
彼らは彼らにしかできない「今」で安倍政権を突いている。
もうこの流れは止まらないし、オレたちおっさん連中も守っていくべきだと思うのだ。

そして、だからこそ「同じことをする必要はない」と思ったわけだ(できるわけもないが)。問題はいつだって自分が何をするかに関わっている。それが世代を越えた、重層的で広がりのある行動に繋がっていく。

今日、喫煙所で煙草を吸っていたら、鏡に映った自分が着ていたteeにいい言葉が書いてあった。
「BLEND is beautiful」
去年随分見て、考えた言葉だけれども、結局大事なのはこういうことさ。
今週24日の大行動はそんな気持ちで参加したいし、多くの人に行動して欲しいと思う。

<安倍政権NO! ☆ 0724 首相官邸包囲 ー民主主義を取り戻せ!戦争させるな!>
2015年7月24日(金)
18:30~日比谷野音集会
19:00~首相官邸包囲 
主催:安倍政権NO! ☆ 実行委員会

最初はtwitnonukesと絡めて書くつもりだったのだけれども長くなりそうなので、それはまた稿を改める。