銀河後悔日誌、つぶやき

2017年10月22日より新発足しました。よろしくおねがいします。

生きているということ

2007-07-06 23:32:00 | 常用平易な日々
 たとえば、生まれ出でる時には母親に多大な負担を掛ける。

 たとえば、普通に道を歩いていても、向こうからやって来る人に迷惑を掛けているかも知れないし、こちらも、前に進もうとするとぶつかることだってある。

 仕事だって、自分の知らないところで、何かやらかしているかも知れない。


 さて、祖父の容態は、まあ、今日も生きている…ということだ。
 こういう場合、親戚がお見舞いに来ることがある。祖父は昔の人なので、兄弟も多いし、それに伴なって、親戚も多くなる。

 我が家は諸事情により、ほとんど親戚づきあいはない。一昨日病室へ行くと、親戚の方がいた。
 「はじめまして」という。どこかで会ったことがあるかも知れないし、そうでないかも知れない。わたしは知らない人だった(と思う)。

 普段あまり交流のない人が、まあ、集まって来るわけだ。逆に、親戚の方が入院などをした場合は、「お見舞い」に父母や祖父母が行っていたわけだ。
 心配なのは事実であるが、まあ、面倒なことだろう。

 それは、付き添っている父母や祖母らにも言える。
 こういう状況は、早く終わって欲しいものである。しかし、「終わる」ということは、「回復」ということではなく、つまり、そういうことになる。

 終わってしまえば、1週間なり、7日×7週間、1年…といった周忌があるわけだが、現在の状況からは、まず解放されるわけだ。


 そう考えると、「生きる」というのはどういうことなのだろうか。
 別に、迷惑を掛けるために、日々わたしたちは生きているわけではない…と思う。

 なぜだろう。

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