銀河後悔日誌、つぶやき

2017年10月22日より新発足しました。よろしくおねがいします。

今、そこにある「死」

2007-07-07 23:55:36 | 常用平易な日々
 7月1日に突如倒れ、岩見沢市立病院に救急搬送された(母方の)祖父。
 結論から言うと、朝、「千の風」になってしまった。享年85。


 昨日は弟が付き添い、今日の4時ごろ、タクシー乗務を終えた父と交代した。明日はわたしも休みなので、4日の水曜日に続いて、またわたしも病院に行こう。そう思っていた。

 なぜか、今日は眠れなかった。2時を過ぎても眠れず、寝たような気がすると、5時前に目が覚める。6時過ぎには起きた。これはいつも通り。

 6:51、通常どおり家を出る。7:25の電車に乗り、8:13札幌駅着。書店に立ち寄り、コンビニで弁当を買い、会社へ。
 出勤の前、休憩室にある冷蔵庫に弁当を入れる。すると、社員さんが来られ、「祖父が亡くなったので、すぐに帰るように」と父から電話があった、という。

 急いで…と言っても列車は時間が決まっているので、とりあえず札幌駅に戻ったのは9:03。9:06の旭川行き普通列車がある(掲示板を見ても最初は気付かず、時刻表を見て分かった)。
 電車は711系で、非冷房。今時珍しい扇風機付きであるが、誰も動かしていない。窓の風は強いので、空いている向かいにあるスイッチを押し、扇風機を入れる。

 移動中は、たいてい寝ていることが多いが、行きも含めて、なぜか眠れない。今日は厚別で臨時列車待ち合わせもあり、多分通常は幌向で特急待ち合わせがあるが、臨時列車待ちで時刻が変わっているらしく、江別で待ち合わせ。かなりゆっくりである。岩見沢到着は10:06、札幌1分遅れなので59分もかかっていることになる。

 「早く帰るように」とは言うものの、家に戻ればよいのかどうか分からない。家に電話を掛けると、弟は「病院に行ってみれば?」という。
 10:15(2分遅れ)のバス「高速みかさ号」で、10分ほどで、2つ目の停留所「市立病院前」降車。
 病院に着くと、ちょうど父が車に乗って家に戻るところだった。遺体は、既に霊柩車で自宅のある美唄へ向かい、母も親戚の車で一緒に向かったという。
 もう少し早ければ父を見つけられなかったかも知れないし、遅ければ誰もいないところであった。


 祖父は、昨日は文字が書けなくなるといった“衰え”はあったが、容態はそれほど変わらず。朝には医師から「回復しつつある」と言われていたという。
 それが8:46頃心臓が止まり、その時父が会社に電話を掛けたようだ。臨終時間は「午前8時55分」ということだった。


 家に戻り、親しい方々にメールにて“ご報告”。


 すぐに再び家を出て、美唄の祖父母宅へ。遺体が帰っており、親戚(らしき人たち)が集まっている。
 遺体には、当然白い布が顔に掛けられている。顔を見るのが普通だが、わたしはみていない。いや、見られなかった。4日前には、病床とは言え笑顔も見せたし、握手もした。今日、家を出るまで、それから二度と目を覚まさない事態になろうとは、まあ、思わなかったわけだ。

 祖父が目を開けることは、永遠にない。それは分かっているはずだが、すぐ目の前に祖父がいる。なぜだろう。
 その後もチラチラ祖父を見ていたが、当然ながら、ピクリとも動かなかった。当然ながら、本当に当然であるが。


 お坊さんを呼んでいるが、忙しいらしく、なかなか来ない。ようやく来られ、枕もとでお経を上げる。その後も忙しいということで、そのまま「仮通夜」となった。


 病院からは、「死亡届」付きの「死亡診断書」が発行されていた。病名は「急性膵炎」。膵臓の病気であった。
 以前から「背中が痛い」と言っていた。7月1日、急に血を吐いて倒れた。「肺炎」ということで搬送されたが、実際には膵臓炎だった。今から考えると、背中の痛みはそれによるものだったが、なかなか膵臓の病気は分かりにくいのだという。無念である。

 「死亡届」に必要事項を記入。わたしは、まあ“事務方”なので、記入を担当。住所や亡くなった時間など、このあと何度も書くことになるが…。


 「仮通夜」も済んだので、市役所に出しにいく。土曜日だが、こういう時に備えて当直がいるので、「出生」や「死亡」・「婚姻」等の諸届を出すことができる。
 美唄駅近くを通る時、789系「スーパーカムイ」用電車の試運転列車が走っていたのを見た。秋以降は珍しくもなくなるだろうが、始めてみる電車はかっこいいなあ…。


 さて、書いてはみたものの、「届出人」は祖母の名前にした方が良いのかどうか、分からない。空欄にして聞いてみた。あくまでも届け出る人、ということで、わたしは「孫」で親族。記入は可能らしい。ちょうどハンコもカバンに持って歩いているので、届出人として提出。
 さらに「火葬場使用許可書」などの書類記入が待っていた。すでに手際良く準備に来ていた葬儀屋の「役所に持っていくもの」にお金が書いてあったので、1万円もらって行ったが、火葬場使用料として支払ったのは1万5千円。高いなあ…。


 これで「死亡」の届出は終わった。念のため記入後にコピーを取っておく。それにしても、朝まで生きていた人間が、こんな紙切れ一枚で…。


 祖父母宅には、岩見沢市内の「本家」や、祖父の妹夫婦や弟夫婦らが次々と焼香に訪れた。しかし、親戚づきあいの薄いわたしには、初めて見る顔ばかり。もう一度見ても分かるまい。しかし、弟(大叔父に当たる)は祖父と良く似ているので分かった。

 大叔父や祖母に、祖父の経歴を聞く。
 青年師範学校を卒業し、青年学校に指導員として「奉職」。すぐに応召され、終戦後間もなく復員。再び教職に就き、任地で祖母と結婚。そして地元近くに戻り、我が母校の教職も短期間務め、市役所へ。定年退職後は、自宅で過ごしていた。

 毎年お正月には、お年始に行っていた。最後に話しをしたのは、1月3日であった。6月末、というか1週間前まで、背中を痛めたりして歩くのが困難であったりもした(それが病気の発見を遅くした)が、まあまあ元気に過ごし、歩けるようになって来た、という。父が庭の手入れをしに行き、祖父から指図を受けていたのが、つい先週の話である。


 明日は仏滅ということで、告別式が行なわれない。なので、明日18時より祖父母宅すぐ近くの会館で通夜、明後日10時から同所で告別式。11時には出棺し、14時には骨上げ。その時には、もう祖父の体はなくなっている。なんと人生というのは儚いものだろうか…。


 夜、いったん家に戻って来て本日誌を書いている。明日の記事は、2度目の休止予定。


 我が祖父のご冥福をお祈りし、本日より49日間服喪期間とする。

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