地区の人たちによって良福寺跡地に建立された三間四方の文殊堂がある大和郡山市の西町。
堂内には平成4年に奈良県の文化財に指定された木造文殊菩薩騎獅像が安置されている。
13世紀前半、鎌倉時代に製作された像は寄木造りだそうだ。
解体修理の折りに発見された印仏<いんぶつ>。
裏面には一紙一名ごとに造像にかかわった結縁者<けちえんしゃ>の名前が記されていると話す当屋頭のIさんとT自治会長。
それは671枚にもおよぶ文殊菩薩の刷り仏であった。
大切な文殊菩薩を慕って毎年この日に文殊会を営んでいる。
それぞれの家が供えるゴクモチがある。
緑、黄、赤の色粉で染めたゴクモチ。カラフルで実に美しいモチだ。
コジュウタや丸盆などに納めて祭壇に供える。
誰が供えたものか記名された札も見られる。
もう一つはゴゼン(御膳)とよばれる膳だ。
これには大御膳と小御膳がある。
お椀に盛ったセキハン(赤飯)と土台のダイコンに串で挿したニンジン、コンブ、シイタケ、コーヤなど。
盛る量によって大、小がある御膳はいわゆる生御膳だ。
「仏さんに食べてもらうのだ」と話すTさん夫妻。
供える家は少なくなったが今でもこうしているという。
さて、文殊会に供える大きなモチがある。
大きなモチといってもそれは多数のモチを串にさしたもの。
壺、或いは甕(カメ)のようなもので高さは1mを越える巨大な形だ。
かつては5日間もかけて作ったという。
集会所で2石のモチゴメを洗って搗いた。
数が多いだけに日数がそれほど要ったそうだ。
搗いたモチは丸餅。
ゴクモチと同様に色粉を塗った。
それをワラ束で作った土台に串で挿していた。
手間がかかる作業はたいそうだったという。
若い人が村をでていき地区は高齢化世帯になっていった。
60歳以上の家が4割にも達したという。
続けることが困難になり、毎年同じものを作るのが難しくなったから「いっそのことレプリカでしてはどうか」と10年ほど前にはプラスチック製にしたそうだ。
見かけだけになった御供モチは正面だけ。
裏半分は空洞だが壺首に紅白の太い綱を巻いている。
その美しい姿に感動を覚える。
御供モチを作ることはなくなったが文殊会を務めるのは4人の当屋。
西町は48戸。新興住宅の10軒を除けば38戸。
家の順にある4軒がその年の当屋(当家)を務める。
体力的にも当屋がこなせない年寄りは従事できないが、およそ8年ごとの回りである。
なお、服忌でれば決まっている次年度の当屋に替るそうだ。
当屋は地区の年中行事を担っていることから戎子神社や地蔵尊、お釈迦さんの行事も含まれる。
4人の当屋はそれぞれの行事に当屋頭を交替して務められる旧村の営み。
昨年の大晦日に拝見した神社拝殿前の桶。
大正八年に寄進された桶について尋ねてみた。
それは「お神酒を入れて注いだ」という人もおれば「賽銭入れかもしれん」という人も。
用途は判らないが秋のマツリにも掲げているという。
その様子は実際に拝見しなければならないと思った。
文殊会が営まれるお堂には車輪と思える紋がはいった大きな幕を張る。
菊の文様が描かれた提灯を掲げる。
それを見たとき思った。
幕の文様は白地が反転していたのでそう思ったのだが、まぎれもない菊の文様だった。
本尊の文殊菩薩の前には2基の燭台がある。
円形の燭台の数はいずれも13個だ。
十三仏を現しているのだろうか。
それはともかく、その前の敷物には多数の祝儀袋が寄せられている。
「十二燈」と「宮入料」の文字が見える。
賽銭も撒かれている場だ。
「十二燈」は一年間の月の数。
毎月あげられる燈明代であろうか。
村人に尋ねても明快な答えはないが、おそらくそうであろう。
もう一つの「宮入料」は10月に行われる宮入り料だという。
戎子神社の秋のマツリに際しての祝儀であろうか。
「十二燈」はすべての祝儀袋に書かれているが、稀に「宮入料」の文字も連記している袋もある。
その数はほぼ半数だった。
この件についてもマツリを実見しなければ・・と思った。
文殊会は同町の光専寺を兼任される南井町の順教寺住職が勤められる。
お経が唱えられる文殊会の法要。
お供えといい、まさしく会式である。
お堂に上がることもできなくて、回廊に座らなければならないほどにお堂は狭い。
お経が唱えられる間にローソクを燈す当屋。
これが「十二燈」の一つに数えられるのだろうか。
その様相は荘厳な灯りでお堂を包んでいる。
降っている外の雨がお堂の屋根をしっとりと塗らす。
こうして会式の法要はおよそ30分で終えた。
この後は集会所でミニ講演会が催された。
それを終えたときだ。
次年度の当屋にあたる4人が集まってクジを引いた。
3月のお釈迦さん、7月の地蔵盆、10月の秋のマツリ、2月の文殊会式の4行事にあたる当屋頭を決めるクジである。
4人は西町の年中行事を務める当屋たち。
それぞれの代表者になるわけだが、会計報告を纏めなければならない最終の文殊会式が大役になるという。
そういうわけで当屋が務める期間は2月27日から翌年の2月25日までとなる。
(H24. 2.25 EOS40D撮影)
堂内には平成4年に奈良県の文化財に指定された木造文殊菩薩騎獅像が安置されている。
13世紀前半、鎌倉時代に製作された像は寄木造りだそうだ。
解体修理の折りに発見された印仏<いんぶつ>。
裏面には一紙一名ごとに造像にかかわった結縁者<けちえんしゃ>の名前が記されていると話す当屋頭のIさんとT自治会長。
それは671枚にもおよぶ文殊菩薩の刷り仏であった。
大切な文殊菩薩を慕って毎年この日に文殊会を営んでいる。
それぞれの家が供えるゴクモチがある。
緑、黄、赤の色粉で染めたゴクモチ。カラフルで実に美しいモチだ。
コジュウタや丸盆などに納めて祭壇に供える。
誰が供えたものか記名された札も見られる。
もう一つはゴゼン(御膳)とよばれる膳だ。
これには大御膳と小御膳がある。
お椀に盛ったセキハン(赤飯)と土台のダイコンに串で挿したニンジン、コンブ、シイタケ、コーヤなど。
盛る量によって大、小がある御膳はいわゆる生御膳だ。
「仏さんに食べてもらうのだ」と話すTさん夫妻。
供える家は少なくなったが今でもこうしているという。
さて、文殊会に供える大きなモチがある。
大きなモチといってもそれは多数のモチを串にさしたもの。
壺、或いは甕(カメ)のようなもので高さは1mを越える巨大な形だ。
かつては5日間もかけて作ったという。
集会所で2石のモチゴメを洗って搗いた。
数が多いだけに日数がそれほど要ったそうだ。
搗いたモチは丸餅。
ゴクモチと同様に色粉を塗った。
それをワラ束で作った土台に串で挿していた。
手間がかかる作業はたいそうだったという。
若い人が村をでていき地区は高齢化世帯になっていった。
60歳以上の家が4割にも達したという。
続けることが困難になり、毎年同じものを作るのが難しくなったから「いっそのことレプリカでしてはどうか」と10年ほど前にはプラスチック製にしたそうだ。
見かけだけになった御供モチは正面だけ。
裏半分は空洞だが壺首に紅白の太い綱を巻いている。
その美しい姿に感動を覚える。
御供モチを作ることはなくなったが文殊会を務めるのは4人の当屋。
西町は48戸。新興住宅の10軒を除けば38戸。
家の順にある4軒がその年の当屋(当家)を務める。
体力的にも当屋がこなせない年寄りは従事できないが、およそ8年ごとの回りである。
なお、服忌でれば決まっている次年度の当屋に替るそうだ。
当屋は地区の年中行事を担っていることから戎子神社や地蔵尊、お釈迦さんの行事も含まれる。
4人の当屋はそれぞれの行事に当屋頭を交替して務められる旧村の営み。
昨年の大晦日に拝見した神社拝殿前の桶。
大正八年に寄進された桶について尋ねてみた。
それは「お神酒を入れて注いだ」という人もおれば「賽銭入れかもしれん」という人も。
用途は判らないが秋のマツリにも掲げているという。
その様子は実際に拝見しなければならないと思った。
文殊会が営まれるお堂には車輪と思える紋がはいった大きな幕を張る。
菊の文様が描かれた提灯を掲げる。
それを見たとき思った。
幕の文様は白地が反転していたのでそう思ったのだが、まぎれもない菊の文様だった。
本尊の文殊菩薩の前には2基の燭台がある。
円形の燭台の数はいずれも13個だ。
十三仏を現しているのだろうか。
それはともかく、その前の敷物には多数の祝儀袋が寄せられている。
「十二燈」と「宮入料」の文字が見える。
賽銭も撒かれている場だ。
「十二燈」は一年間の月の数。
毎月あげられる燈明代であろうか。
村人に尋ねても明快な答えはないが、おそらくそうであろう。
もう一つの「宮入料」は10月に行われる宮入り料だという。
戎子神社の秋のマツリに際しての祝儀であろうか。
「十二燈」はすべての祝儀袋に書かれているが、稀に「宮入料」の文字も連記している袋もある。
その数はほぼ半数だった。
この件についてもマツリを実見しなければ・・と思った。
文殊会は同町の光専寺を兼任される南井町の順教寺住職が勤められる。
お経が唱えられる文殊会の法要。
お供えといい、まさしく会式である。
お堂に上がることもできなくて、回廊に座らなければならないほどにお堂は狭い。
お経が唱えられる間にローソクを燈す当屋。
これが「十二燈」の一つに数えられるのだろうか。
その様相は荘厳な灯りでお堂を包んでいる。
降っている外の雨がお堂の屋根をしっとりと塗らす。
こうして会式の法要はおよそ30分で終えた。
この後は集会所でミニ講演会が催された。
それを終えたときだ。
次年度の当屋にあたる4人が集まってクジを引いた。
3月のお釈迦さん、7月の地蔵盆、10月の秋のマツリ、2月の文殊会式の4行事にあたる当屋頭を決めるクジである。
4人は西町の年中行事を務める当屋たち。
それぞれの代表者になるわけだが、会計報告を纏めなければならない最終の文殊会式が大役になるという。
そういうわけで当屋が務める期間は2月27日から翌年の2月25日までとなる。
(H24. 2.25 EOS40D撮影)