マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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桐山のねはんこ

2016年01月07日 09時34分15秒 | 山添村へ
山添村桐山で「ねはんこ」が行われると知ったのは3年前。

仕事や行事取材が重なって取材ができていなかった。

子供たちが「ネハンコンジ アズキナナショウ」を囃して村を巡ってお米貰いをすると聞いていた。

5歳ぐらいから小学6年生までの年長の男の子が対象だと話していたN婦人。

70年前のことを思い出した。

当番のヤド家でゲントウ(幻燈)をしていた。

夜遅くまでみんなが見ていたと話す。

今ではヤド家の営みから場を公民館や観音寺に移った。

観音寺の堂内に大きな涅槃図を掲げているのは檀家総代や観音講の人たち。

いずれも高齢者である。

かつては男の子だけで行われていた桐山の「ねはんこ」。

行事は「ねはんこ」の呼び名であるが、本来は涅槃講の営みである。



村全戸の27戸が講中であった涅槃講の始まりは宝永七年(1710)二月十五日であったと藤堂藩藩士の日記に書いてあるそうだ。

少子化に伴って男の子は少なくなり、やむなく女の子も加わるようにした。

いつしか村の子供も少なくなり今では大字北野にある頼みの保育園児が観音堂にやってくる。

お米貰いの本来の唱文は「ねはんコンジ、コンジ ねはんコンジ、コンジ 米なら一升 小豆なら五合 銭なら五十銭(または豆なら一荷)」であった。

「コンジ」は「献じ」或は「顕示」であるかも知れない。

今でも「ねはんコンジ コンジ ねはんコンジ コンジ」を繰り返していたことを覚えている長老は91歳。

集落1戸ずつ巡って野菜とかを貰っていたのは男の子だけだった。

当番の家に貰ったものを持っていってご馳走を作ってもらった。

長老は続けて話す思い出話。

桐山には水車があった。

そこでコメツキをしていた。

搗いた米は一斗缶に入れて運んだ。

運ぶ道具はオーコだったから何人かが居たのだろう。

運んでは戻ってしていたコメツキだった。

長老が住む垣内は山の上のほうにある大久保。

荷車をこしらえて牛に引っ張ってもらっていた。

荷車にソリが付いていた。

昔のことである。

下り坂はソリで下った。

勢いがあるのでブレーキ付きのソリだったという。

垣内に電気は通っていなかった。

吉田という電気屋が村にあった。

動力がたいへんやろ、と云って山の上まで電気を繋げてくれた。

それからソリは使わなくなったと話す。

昨年まではお米貰いをしていた。

お米貰いはお菓子貰いになっていた。

いつしかお米もお菓子でもないお金貰いになった。

集落を一戸ずつ巡っていくお金貰い。

細くて急な角度がある山道を園児が歩くには無理な山道。

崖から落ちて怪我でもされたら・・と判断されて中断を決断された。



時間ともなれば集まった園児たちがお堂にあがって円座になる。

涅槃図を掲げたお堂で数珠繰りをする園児たち。



保育園の先生も一緒になって数珠を繰る。

「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」を唱えながら数珠を繰る回数は8回だ。



保育園児とともに数珠を繰る高齢の観音講の人たちは「膝が悪いので失礼します」と申し訳なさそうに云っていた。

園児たちが立ち去った観音堂は観音講の人たちの例月営みの場になる。



導師を務める檀家総代がご本尊に向かって般若心経を唱える。

それからよばれるカレーライス。

かつてはヤド家でよばれていたが、今では公民館である。



桐山の子供たちは「いただきます」と手を合わせてからカレーライスを食べる。



子供が食べやすいあまーいカレー味が懐かしい。

(H27. 3.27 EOS40D撮影)


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