
奈良から桜井へ行き交う上街道。
京都から奈良街道を経て古都奈良から桜井間を結ぶ初瀬参拝の道として江戸時代に発展した街道である。
南北を貫く街道沿いに天理市櫟本町・町屋商店街が立ち並ぶ高品(たかしな)地区。
隣町の楢(なら)町に鎮座する楢神社をわずかに南下した辻に観音さんを安置する法蔵山長林寺がある。
毎月の17日は町内観音講の婦人たちが集まって般若心経や西国三十三番ご詠歌を唱えている。
平成25年7月の観音夏祭りに訪れたときは11人が営んでいた。
かつては17人もおられたがその年は12人になると云っていた。
2年ぶりに訪れた観音講は15人に増えていた。
99歳の女性は元気だったが引退されたが、あらたに講中入りされた若い婦人もあって逆に増えたと云う。

それを記念して平成27年2月に新しい幕を作った。
高品長林寺の大祭は夏と春に行われている。
蔵之庄の蔵福寺の先々代のお弟子さんになる安寿さんがおられた時代に始めたようだ。
亡くなられたあとは櫟本町の三寺(浄土宗極楽寺、融通念仏宗大興寺、浄土真宗覚王寺)住職が一年交替で法要をされる。
本尊よこに高く積み上げられた御供がある。
新地西町、新地北町、新地南町、長林寺北町、長林寺南町、本町北に観音寺講世話人らが供えた箱入りのお菓子などだ。
御供に大きな鏡餅や御供料もある。
夏の大祭には多くの住民が参られるが春はごくごくわずか。
例月集まる観音講の婦人たちだけだ。
当番の人が朱塗りの膳に朱塗り御膳を供える。

モチゴメのセキハン、シイタケ・ニンジン・コーヤ・ガンモの煮もの、ゴマドーフ、吸い物、香物を盛った椀も朱塗りだ。
本尊さんに食べていただくお箸は紙を巻いて水引で括っていた。
本尊は聖観音菩薩立像。
周囲に千手、如意輪観音などの観音像が処狭しに積みあげられている。
このような光景は未だかって見たことがない。
台座と思われるような箱には西国三十三番札所の各寺が記されていた。
ご本尊周りに並べられた観音さんを数えてみた。
左は17体で右が14体。
合計で33体だった。
この日の法要は大興寺住職。

本日お参りの身体健勝を願って「なーむあみだー なむあみだー なーむかんぜのんぼさつ なーむあみだ なーむあみだぶつ。
融通念仏勤行を唱えられた。

杖をついて歩いてきた大正10年生まれの婦人は94歳。
耳も遠くなく、すこぶる元気。
最高年齢者の講中が拝む姿にいつまでも元気でいてくださいと声をかけた。
法要を終えれば櫟本観音講の婦人たちが西国三十三番ご詠歌を唱える。
伏せ鉦を打つ音色は甲高いキーン、キーン。
安寿さんがおられた時代から導師を勤めてきた婦人はご詠歌の調子をとる。
始めに「ありがたや かれたる木にも 花さける このみほとけの いのりのめぐみ」の和讃。
続けて「十句観音経」を唱えてご詠歌に移る。

ゆったりとしたリズムで前半は二十三番まで。
普段ならここでお茶をいただく小休止をされるが、この日は続けて三十三番から「ばんがい」まで。

「同じくたにぐみ」に続けて「くわざんのいん(まののみょうほう山さん)」、「ならこぐあつだう(かうや山こうぼう大し)」、「やなぎ谷くわんぜおん」、「ぜんくわうじ」、「やたのじぞうさん」、「おとわのくわんぜおん」・・・。
一挙に唱えたお勤めだった。
春の大祭には町内の人たちが祈願する健康祈願、家内安全、交通安全、商売繁盛や金運アップも願った十二支干支の絵馬(この年は未)を奉納する。
安寿さんがおられたときは護摩木を燃やして祈祷されていたが今は見られない。

ご詠歌を終えれば世話方の男性たちが絵馬を繋げて本堂前に吊るしていく。
5枚ずつ経紐に通してお堂の壁に吊り下げる。

壁一面にに吊った絵馬の数はおよそ150枚にもなった。
男性たちも観音講。
婦人も入れて総勢で50人ぐらいであるが、男性は唱えることなく、世話方を勤める。
町内から寄せられた御供は町内ごとに下げられる。

それら御供下げを配るのも世話方の役目だと云う。
(H27. 2.17 EOS40D撮影)
京都から奈良街道を経て古都奈良から桜井間を結ぶ初瀬参拝の道として江戸時代に発展した街道である。
南北を貫く街道沿いに天理市櫟本町・町屋商店街が立ち並ぶ高品(たかしな)地区。
隣町の楢(なら)町に鎮座する楢神社をわずかに南下した辻に観音さんを安置する法蔵山長林寺がある。
毎月の17日は町内観音講の婦人たちが集まって般若心経や西国三十三番ご詠歌を唱えている。
平成25年7月の観音夏祭りに訪れたときは11人が営んでいた。
かつては17人もおられたがその年は12人になると云っていた。
2年ぶりに訪れた観音講は15人に増えていた。
99歳の女性は元気だったが引退されたが、あらたに講中入りされた若い婦人もあって逆に増えたと云う。

それを記念して平成27年2月に新しい幕を作った。
高品長林寺の大祭は夏と春に行われている。
蔵之庄の蔵福寺の先々代のお弟子さんになる安寿さんがおられた時代に始めたようだ。
亡くなられたあとは櫟本町の三寺(浄土宗極楽寺、融通念仏宗大興寺、浄土真宗覚王寺)住職が一年交替で法要をされる。
本尊よこに高く積み上げられた御供がある。
新地西町、新地北町、新地南町、長林寺北町、長林寺南町、本町北に観音寺講世話人らが供えた箱入りのお菓子などだ。
御供に大きな鏡餅や御供料もある。
夏の大祭には多くの住民が参られるが春はごくごくわずか。
例月集まる観音講の婦人たちだけだ。
当番の人が朱塗りの膳に朱塗り御膳を供える。

モチゴメのセキハン、シイタケ・ニンジン・コーヤ・ガンモの煮もの、ゴマドーフ、吸い物、香物を盛った椀も朱塗りだ。
本尊さんに食べていただくお箸は紙を巻いて水引で括っていた。
本尊は聖観音菩薩立像。
周囲に千手、如意輪観音などの観音像が処狭しに積みあげられている。
このような光景は未だかって見たことがない。
台座と思われるような箱には西国三十三番札所の各寺が記されていた。
ご本尊周りに並べられた観音さんを数えてみた。
左は17体で右が14体。
合計で33体だった。
この日の法要は大興寺住職。

本日お参りの身体健勝を願って「なーむあみだー なむあみだー なーむかんぜのんぼさつ なーむあみだ なーむあみだぶつ。
融通念仏勤行を唱えられた。

杖をついて歩いてきた大正10年生まれの婦人は94歳。
耳も遠くなく、すこぶる元気。
最高年齢者の講中が拝む姿にいつまでも元気でいてくださいと声をかけた。
法要を終えれば櫟本観音講の婦人たちが西国三十三番ご詠歌を唱える。
伏せ鉦を打つ音色は甲高いキーン、キーン。
安寿さんがおられた時代から導師を勤めてきた婦人はご詠歌の調子をとる。
始めに「ありがたや かれたる木にも 花さける このみほとけの いのりのめぐみ」の和讃。
続けて「十句観音経」を唱えてご詠歌に移る。

ゆったりとしたリズムで前半は二十三番まで。
普段ならここでお茶をいただく小休止をされるが、この日は続けて三十三番から「ばんがい」まで。

「同じくたにぐみ」に続けて「くわざんのいん(まののみょうほう山さん)」、「ならこぐあつだう(かうや山こうぼう大し)」、「やなぎ谷くわんぜおん」、「ぜんくわうじ」、「やたのじぞうさん」、「おとわのくわんぜおん」・・・。
一挙に唱えたお勤めだった。
春の大祭には町内の人たちが祈願する健康祈願、家内安全、交通安全、商売繁盛や金運アップも願った十二支干支の絵馬(この年は未)を奉納する。
安寿さんがおられたときは護摩木を燃やして祈祷されていたが今は見られない。

ご詠歌を終えれば世話方の男性たちが絵馬を繋げて本堂前に吊るしていく。
5枚ずつ経紐に通してお堂の壁に吊り下げる。

壁一面にに吊った絵馬の数はおよそ150枚にもなった。
男性たちも観音講。
婦人も入れて総勢で50人ぐらいであるが、男性は唱えることなく、世話方を勤める。
町内から寄せられた御供は町内ごとに下げられる。

それら御供下げを配るのも世話方の役目だと云う。
(H27. 2.17 EOS40D撮影)