マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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榛原萩原小鹿野・不動明王の大祭

2020年03月06日 09時44分36秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
巷では桜があちこちで咲き出したという今日この頃。

春の兆しどころか一挙にやってきた春の目覚め。この日はすごく温かくなった。

気温もおそらく20度くらいになったと思われるが、朝晩はまだまだ厳しい気温だ。

この日に不動明王の大祭行事を行う宇陀市榛原萩原小鹿野。

住民の何人かは雨戸が凍って扉が開けにくかったという。

朝の気温は5度であっても山間部であればもっと寒く感じる。

小鹿野・不動明王の大祭の元々の実施日は3月28日。

現在はより近い日曜日に行われている。

予め聞いていた不動の滝の場。

そこへ向かう村の公道であるが、前年に発生した10月の台風の影響は大きかった。

あちこちとは言い難いが、公道の陥没もあって4輪駆動の軽トラでさえ登れなくなった。

急な公道の勾配はどれくらいであるのか存じないが、歩いてみれば心臓が破裂しそうな急坂である。

尤も私にとっては心不全に対するリハビリ運動だと思っているが・・。この坂道はとてもきつい。

大祭をするにあたって役員さんらは忙しい。

赤い幟を何本も立てて、この日に行われる祭りの印しを明示する。

下の会所から1本ずつ立てていく。

その幟は道先案内。

山へ、山へと登っていく。

車は到底上がれない山道。

その恐ろしさは当月初めに体験した。

おっとろしかった体験は今でも思い出す危険な地。

乗って来た愛車は会所横に置かせてもらって歩き出す。

会所に来るまでに遭遇した村の婦人たち。

頭を下げて挨拶。婦人たちは歩きで不動の滝を目指して山に向かう。



集落から離れて田畑が広がる地。

後ろから足音が聞こえてきたと思っていたら、いつのまにか追い越された。



先に行っているよと伝えられて見送った男性の足は強靭。速さがすごい。

しばらくしたらまた一人に追いつかれた。

どうぞ、と云ったが、一緒に登りましょうと云ってくれる。

その男性は桜井市内から越してきた人。

当初はきつかったが、慣れてきたのはそれから。

何度も何度も歩いているうちに身体が自然と応えるようになった、という。

山道の幅は2m少し。

軽トラの車幅基準は1.48m以下。

リッターカーというか普通自動車のコンパクトカー。

車種にもよるが、たいがい車が1.5m~1.6m程度。

車長の関係もあって急なカーブは無理がある。

狭くて勾配がきつい山道を走るには車体が軽い4輪駆動。

それでも無理な処はいくらでもある。



不動の滝まで歩いてみれば、ここは無理。

歩き以外の動力車は単車かキャタピラ駆動の運搬車が望ましい。

そう思った山道に婦人たちもすたこらさっさと登っていく。

小鹿野の人たちの脚の凄さを知ったこの日。

以前、聞いていた婦人の足。

不動の滝までは20分ぐらいと云っていたことが実感した。

私自身はどうであるのか。

安静状態時の心拍数は40拍前後。

普段の脈拍数である。

心不全に陥ってからはずっとこの調子の徐脈が普段の状態。

運動をすればあっという間に60拍どころか70拍にも上昇する。

そんな状態で太鼓判を押してくれた医師の診断は、無理をしない範囲で、ということだった。

会所を出ていきなりの急勾配。

その時点で脈拍は急上昇。

尤も足の動きは悪い。

しばらくすれば少しはマシになる勾配。

しかし、またもや急勾配。

それからはずっと急勾配。

山に入っても急勾配がずっと続く。

心臓がバクバクする。

休憩をとりたいが、そういうわけにもいかない。

大祭の時間が迫ってくる。

道が崩れたところの状態も見ておきたい。

なんどか停止して山道の状態を撮っていた。

そのときが心臓を少し休めるとき。

そのうち後方からバイク音が聞こえてきた。

1台、2台と追い越していく。どうぞ、と云って先に行っていただく。

そのうち少し広い地に着いた。

先ほど追い越したバイクの男性は持ってきた折りたたみ杖を伸ばして山に入った。

そこから数百メートル。

不動の滝はもうすぐだ、と案内してくれる水の神不動明王「小鹿野(おがの)のお不動さん」。



「不動滝の横に建つお堂には、不動明王を祀られており、もとは修験者の修行の場でした。滝よりそそぐ、清水は大地に潤いを与え、そして健康や災害除けなど、いろいろな願いを叶えてくださる、といわれています。歩むにつれて、滝の音がどんどん近づき、お堂と滝を前委にすると清い空気に心が洗われます。小鹿野では、今なお信仰が深く「お不動さん」として親しまれており、毎年の3月28日(※現在はより近い日曜日に)は大祭行事が行われ、地域の歴史伝承と世代交流をはかっています(※若干補正)」

話し声が聞こえてきた。

その場はとんどの煙も上っていた。

ようやく辿り着いた不動の滝。

出発地の会所から歩いた所要時間は25分だった。



お堂下では先に来ていた人たちがとんどの火で暖をとっていた。

参道にお堂、境内の清掃を済ませて落ち着いた時間帯である。

お堂の左に見える滝が不動の滝。

シキビを供えて線香を灯した八大龍王の碑があるこの場は修行の地。

囲いを仕掛けている場に扉がある。

この日は、解放されていたから清い流れがほとばしる滝を拝見するとともに健康祈願に災害除け。



崖崩れに遭遇しても、なおこうして参拝できました、と手を合わせた。

不動の滝の前に建つ石碑は「南無供養云々」とある。



“ざざんだ石“とも呼ぶ六字名号の碑に花を添えてローソク、線香に火を点ける。

山道を登ってきた参拝者のみなは線香をくゆらしていた。



ちなみに花立は「昭和二十八年十一月」に建てたようだ。

不動の滝にときおり青龍寺住職のKさんが拝みにきてくれる、という。



実は不動の滝の水の源流は、小鹿野のすぐ隣村になる榛原・萩原玉立(とうだち)。

平成30年1月3日に行われた村行事。

難除(なんじょ)とも呼ばれる初祈祷行事を取材したことがある青龍寺。

小鹿野も玉立も水の恩恵を受けている。

尤も、小鹿野の不動明王の大祭に住職の登場はない。

村の人たちだけで営まれる大祭である。

さて、大祭である。

不動明王堂は、それほど広くない。

この年の1月3日に拝見した会所こと地蔵堂で行われた初祈祷と同じ位置に座った。

導師の区長や拍子木を打つ役の人たちは祭壇下。

両脇に座ったのは女性陣。

後方に就いたDさん。



次期区長を務めるだけにそのあり方も見ておられたのだろう。

堂外には入り切れなかった人たちでいっぱいになった。



ローソクを灯して線香をくゆらす。

お神酒の口開けもして唱えるお念仏は般若心経。

通しの十巻を唱える。

その間に打ち鳴らす拍子木の音色。

杉や桧木立が植わる谷間に広がる。



立ち上がる煙は暖を取っていたとんど焼きだ。

台風の影響で大きな被害が出た山崩れ。

40年、いやもっと前になるな、という大災害。

8月1日にやってきた台風だった。

けっこうな風量。

きつい風に煽られたその日は出かけていたが、急遽、村に戻ることにしたが・・と話すO区長。



大和川も溢れて、各地区では冠水が酷かった年だった、という。

心経を唱えている不動明王堂は、小鹿野の所有。

村人の寄進だけでなく村外の人たちも多い。

遠くは和歌山県かつらぎ町・葛城妙宣寺の関係者もあれば、橿原市・新ノ口町日宝寺関係者、榛原・墨坂、大和高田市、大阪市に大阪府交野市までも。

寄進者の名を連ねる不動明王堂側面の板書に「瀧堂 不動明王本堂再建浄財御芳名」とあった。

また、道内に安置する不動明王石仏など一切が小鹿野の所有物である。

不動明王本堂は再建だった。

その印しは祭壇に置いてあった板書で判明した「維持 昭和四十年七月廿八日 不動堂落成砌(※みぎり) 青龍寺 小西日(※街)」。

現住職の先代名であろう。



もう一枚の板書に念仏らしき書がある。

日蓮法華宗青龍寺で祈祷された護符と同じ書体である。

祭壇に供えていた御供がある。



村の法会を終えてから拝見したおむすび型のおにぎり。

白胡麻をパラパラ振りかけたおにぎりは5個。

以前はもっと多くあったおにぎり。

法会を終えて配られていたおにぎりの個数は、手間のかかる負担を軽減。

区長家が作るおにぎりは、一昨年から5個にしたそうだ。

ちなみに小鹿野の行事に十夜がある。

11月22日ころに行われる十夜の場合は、アズキご飯がある。

会所にある大きな釜で当番の炊き番が炊いていたアズキご飯。

かつてはあずき粥であったが、作り方に手間がかかることから小豆の赤飯に切り替えた。

小豆粥のころは各家がもってくる漬物で食べていた。

また、逮夜のときも大釜で炊いた。

そのときのご飯は「よりつけめし」。

油揚げとかナマブシ(生節)などを混ぜて炊く、いわゆるイロゴハンもしていたそうだ。



大祭を終えた村の人たちとともに下る山道。

しばらくすると膝ががくがくしてきた。

腰に張りが見られなくなり痛みさえも・・。



随分昔のこと。

二十歳代は山登りもしていた。

ぼっちらぼっちら登っていくアルプスの山々。

途中で戻りたい気持ちは生まれなかったが、帰路はそれどころじゃなかった下り道の膝がくがく。

痛みで下りるのが苦痛。

といっても戻るわけにはいかない。

山に戻ってどうすんの、である。

とにかく下りの方がキツかったことを身体が覚えている。

そのときの体験を思い出したくらいの急勾配。

会所に戻ってもがくがくだった。

その腰の痛さは翌日になっても解消しなかった。

翌々日まで尾を引いたのはふくらはぎだったことも付け加えておこう。

(H30. 3.25 EOS40D撮影)


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