帰路に立ち寄った御所の名所。
私なりの名所であるが、どこか懐かしさを覚える田園風景。
今日の天候は、コントラストが激しい空間になったが、稲作の季節が待ち遠しい御所・池之内に買い物した玉手。
時間は、まだまだ余裕がある。
そうだ。今日は3月3日のひな祭り。
ただ今、県立民俗博物館・古民家活用の写真展開催中。
明日、明後日に予定があるから、その日に顔出ししたい。
実は、3月3日に寺行事のおこない(※修正会)をしている地区がある。
県内、盆地平坦地に、おおかた320年以上も続けてきたおこない。
連綿と続く、歴史、文化が深い地。
もし、よろしければと、写真家のKさんを誘った。
行先は、大和郡山市の小林町。
おこない(※修正会)を行う場は、真言宗豊山派寺院の南照山新福寺。
旧くは、元禄九年(1696)に本堂の落慶法要が営まれた、と考えられている。
と、いうのも、庫材を駆使した形跡、また現存する仏像の古さから推定し、再建された新福寺。
また、昭和43年(1968)に、本堂の屋根瓦を葺き替えなど改修した際に発見された棟札から、本堂の建之時期が判明したそうだ。
そして、平成28年(2016)、320年ぶりに行われた本堂の建替え、落慶法要に記念式典を挙行された。
実は、毎年の3月3日におこないをされているから、一度伺ったらどうか、と背中を押してくださったのは上田清市長だった。
当時の私は、市民であり、市の臨時職員であった。
勤務先は、市の施設の大和郡山市市民交流館。
平成15年(2003)7月にオープンした大和郡山市市民交流館。
採用面接に出かけてから、一週間後だったか・・・
当時、面接してくださったY人事課長から電話があった。
「今も、空いてますか・・」の問いに、「もちろん」、といったかどうか、覚えてないが、やっと就職先が決まって大喜びしていた。
「市政案内・観光案内などの情報を提供する“インフォメーション”、貸会議室の2つの機能を持つ公共施設」の大和郡山市市民交流館に、7年半も勤続していた臨時職員。
ある日のこと。たまたま市長がぶらり、と来られて、小林町に”おこない”がある、と教えてくださった。
新福寺本堂で行われるその”おこない”取材は、平成22年を皮切りに、2年後の平成24年も伺った。
本堂は、前述したように元禄九年(1696)に創建。
屋根の葺き替えなどで再建した年は昭和43年。
本堂内部は、昔の様相そのまま、風情を遺した風格があった。
内陣周りに座った座中が、左座に一老、二老、三老。
右座も同様に一老、二老、三老がそろっていた。
そう、併設する杵築神社の座中である。
2度目の小林町入りは平成22年の11月。
大阪・平野の大念仏から如来さんがやってくる。
町民は、融通念仏宗徒であるが、新福寺は真言宗豊山派。
大和ご回在にお家を一軒、一軒巡って、最後にお寺となるのだが、ここ小林町では公民館をあてがっていた。
さて、小林町・新福寺のおこないである。
平成27年が最後のお勤めにおこない。
新福寺本堂・観音堂は新しく生まれ変わる新築化。
これまでの再建ではなく、320年の時代を経て新しき本堂に建て替える。
だから、旧き新福寺の最後の営み。
おこないにランジョーの叩き納めの年。
歴史を刻む記念日は、平成27年の3月3日。
平成27年の4月のころ、320年もがんばっていた新福寺本堂・観音堂は、解体工事に入っていた。
しかし、解体中の本堂では3月3日のおこないは、どこでされるのか。
予め聞いていた場は、新築された藍染会館に移し、畳部屋で行うことになった。
これを機会に、おこないの道具は、一挙に代わった。
内陣の縁をたたくフジの木は真竹に代わった。
祈祷を済ませたごーさんの護符は、ヤナギの枝。
割れない程度に、二つに割いたヤナギの枝に護符を差し込む。
ただ、ヤナギの枝は長いので、バキバキと三つに折る。
そのヤナギの枝の束が崩れないように、フジの木の皮を使用する。
フジの木の皮は柔らかく、剥がしやすい。
子どもでも剥がしやすいフジの木の皮をヤナギの束にくるくる巻いて括っていたが、これらすべてまとめて真竹に代わった。
新築中の新福寺本堂・観音堂は、工事中。
落慶するまでは、一時的に利用した平成27年4月29日に落成式をされた壇信徒会館「藍染会館」だった。
仮の場を借りて、はじめて青竹で打つランジョウ所作を拝見したのは、翌年の平成28年3月3日。
仮の場の藍染会館の部屋は畳座敷。
長い板を据える考えもあったそうだが、半切した青竹内部に空間があるから、打つ音は、とてもなく甲高く反響するから、と採用に至った。
ご住職が、唱えるご真言。
そのとき、突然に発声された「ランジョー」に合わせて・・・青竹をもって竹を打ち叩く。
けたたましく、カタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・・が、室内空間が全域にわたって響き渡る青竹ランジョウの音色感。
ランジョウの目的は、激しく打ち、激しい音を発生させることによって、悪霊を村から追い出す作法。
フジの枝に内陣の縁は木材。
旧き新福寺の本堂内陣は、300年以上も叩きつけたことによって、深い黒色が、打ちすれて白くなっていた記憶が蘇る。
その年、平成10月10月29日に落慶法要された南照山新福寺本堂は、その後も3月3日におこないをしている、と聞いている。
その証が見つかった。
所用で市内南部に向かって走っていた大和中央道。
国道25号線と交わる今国府町信号から数キロメートル手前にも信号がある。
西に折れたらJR大和路線・大和小泉駅。
左折れなら北西町に入る。
その信号は小林町西1。
その北側、数百メートルの地に、毎年、苗床をつくり、苗箱を広げている小林の男性。
苗代田に水を入れる水口に、例年立てていたおこないの印し。
そう、これまでは前述したとおり、折ったヤナギの枝に挟んだ護符。
おこない法会に祈祷したごーさん札(※牛玉宝印の書)。
三角折りの護符は珍しいから、すぐわかる。
令和2年5月19日のこの日に見つけた護符。
ランジョー所作に用いた青竹に挟んでいた。
所用だけに撮影機器は、携帯電話しかない。
その機器であっても、これも記録。
実は、この苗代田に苗床を調え、躑躅のイロバナとともにヤナギの枝に挟んだ護符を立ててから、ロールに巻いた新聞紙を丁寧に広げていた。
実弟とともに苗代つくりの作業をしていた状況を撮らせていただいた平成22年の5月4日。
そのときの写真を、後日にさしあげたら、すごく喜んでくださった座中の一人。
当時、74歳だったKさん。
ここ、最近は苗代もされていない。
あれから12年も経っている。
ここを走るたびに、次第に雑草化に移っているのが、気がかりだ。
走馬灯のように蘇ってきた「新福寺のおこないの縁たたきランジョウ」と「苗代に立てる護符」。
大淀町・大岩から御所市・池之内に玉手から駆け付けた。
前置きが長くなってしまった。
午後3時40分。
表敬訪問にようやく着いたここは、大和郡山市・小林町。
おこないは、午後4時よりはじめられる。
まずは、参拝。
手を合わせきっちり拝んでいた男性がおられた。
後姿でわかった男性。
たしか伊豆七条町に住む男性だ。
お名前は覚えてないが、伊豆七条町(※地元ではいずひっちょう、と呼ぶ)の大晦日行事。
「ふくまるこっこ」を、今もされているのか、尋ねた男性だ。
下見に来ていた平成19年の12月23日だった。
畑におられた男性は、以前勤務していた大和郡山市市民交流館時代に出逢った方。
たしか会議に来られていた人だった。
子どものころに体験していた伊豆七条町の福丸迎えだけに、その対象となるお家を案内してくださった。
奈良県内に福丸迎えの行事のほとんどが山添村である。
奈良市東部や天理市の山間地にも継承されているが、平坦盆地では、ここ伊豆七条町しかみられない。
史料によれば、ごく近いところの天理・森本町も行われていたが、途絶えたようだ。
ご縁があった男性が、なぜにここ小林町・新福寺に参拝を・・・
おこない行事が、終わってから聞いてみた。
ここ、小林町にはご縁があるのですか、と聞けば、なんと・・・
男性が住んでいる伊豆七条町に勝福寺がある。
おばあちゃん講とも呼ばれている尼講が、毎月に営まれるお念仏。
毎月の1日に参ることから朔日参りとも・・
施餓鬼もされていた勝福寺。
現在は、天理市・南六条町の西福寺僧侶であるが、かつては小林町・新福寺の僧侶であった。
その僧侶とは、新福寺の現住職を務める佐々木章の先代の父親。
先代の住所は、伊豆七条町・勝福寺だった。
その後に、先代の父親は小林町の新福寺に。
そして、代替わりに就いた佐々木章住職。
そのような関係に、伊豆七条町の男性はことあるごとに、新福寺にやってきて参拝している、という。
表敬訪問に、出会ったご縁。
参拝していた私たち3人は、今からはじまりますから、どうぞ本堂にあがってください、と・・・
その場には、存じている人たちが多い。
ひさしぶりやね、といわれる方たち。
直近であれば、令和3年の1月1日。
正月に行われる天理の行事取材にハンドルを握っていたとき。
電話が鳴った。住民のSさんからの電話は、修復していた神輿が氏神社の杵築神社に戻ってきた。
小林町の元日の朝。
村の人たちが寄り合う元日参拝に神輿のお披露目。
是非、と伝えられて、急行。
天理までの道中にあった小林町。
短時間ではあるが、有意義だった神輿のお披露目を見届けて、再出発したその日以来、足は遠のいていた。
さて、小林町・新福寺のおこないである。
本尊前にそろえた青竹。
先を割いた竹に挟んだ護符。
墨書された「牛頭天王 寶印 新福寺」。
一般的には、ごーさんこと、牛玉寶印を押印した護符を正面に据え、その前に護符を挟んだ青竹が8本か。
かつては、もっと多くあったような気がする。
おこないの作法において祈祷される。
ご住職の立ち位置。
内陣との境目に厚めの赤いシートを敷き詰め。
半切した長い一本の青竹に、ランジョーの発声と同時に打つ青竹も用意された。
以前は、内陣を囲むように、それぞれが座ってフジの枝木で叩いていたが、大幅に削減したようだ。
と、いうのも、昨年より土地改良区が主宰としたおこない行事に移した、という。
少子化の時代に、将来を見据えて主宰を土地改良区に移したのである。
午後4時15分ころからはじめたおこない。
まずは、ご真言である。
正面立ち位置ではなく、右手の脇に座って唱えるご真言。
次はご真言に続いて拍子木打つ、般若心経。
そして座を前にすすめたランジョー叩きは3人。
右に男性一人と左に二人の女性は、手に青竹をもつ。
ご住職が座る位置は明るいが、ランジョー叩きの場は、消灯していた。
暗くなったランジョー叩きの場。
雰囲気は、より近くなったような気がする。
ご真言に、あるとき、突如発した「ランジョー」。
カタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・甲高い音色が本堂内に広がり、響いた。
激しく叩きつける音は魔除け。
村から悪霊を追い払う意味もあるが、世界平和・村民安全、五穀豊穣をも願う所作である。
そのことを願った表白を唱える住職は、何度も何度も「ランジョー」を発せられる。
おリンを鳴らせば打ち止める。
表白の次は神名帳を詠みあげる。
「・・・春日大明神、大和、広瀬、龍田、大神、・・・ダイミョウジュン、ダイミョウジュン・・・・ランジョー」。
カーンと鉦を打てば、けたたましくカタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・・
悪霊はこれでもか、これでもかと追い払う。
十数回、いやそれよりもっと多く数えきれないほどの「ランジョー」を発せられる。
住民が平和に暮らし、繁栄、五穀豊穣を願うためにある、というランジョーであった。
祈りが終われば、身体堅固。
諸願成就、三界万霊、功徳などの念仏を唱えて最後に身体堅固。
古くから伝わる本尊、観音さまの牛玉寶印を参列者の頭に押す真似事をする。
「オンソワカ」、手を合わせて身体堅固のご加持をありがたく受ける。
本日のおこないの縁たたきランジョウに、参列合わせて撮影もさせていただき、御礼申し上げお堂を出た。
合わせて、参拝した杵築神社。
かつて、牛頭天王社とされていた神社に参拝。
そこにちょこんとあったコレは何?
初のテレビアニメに映し出されたまんが日本昔ばなし・・・に流れた音源を思い出した。
「・・ぼうやー よい子だ ねんねしな いーまも かわりなく はーはーの めーぐみの こもりうたー とおいー むかしの もーのーがたり~いぃ・・」
今日のおこないに、子どもたちの顔は見なかった。
その代わりか、どうか知らないが・・・ ぼうやー よい子だ ねんねしなー
※ ※ ネットで探した正体は、結局見つからず、「獅子(猪)の背にまたがる童」の人形かな・・・
(R4. 3. 3 SB805SH 撮影)
私なりの名所であるが、どこか懐かしさを覚える田園風景。
今日の天候は、コントラストが激しい空間になったが、稲作の季節が待ち遠しい御所・池之内に買い物した玉手。
時間は、まだまだ余裕がある。
そうだ。今日は3月3日のひな祭り。
ただ今、県立民俗博物館・古民家活用の写真展開催中。
明日、明後日に予定があるから、その日に顔出ししたい。
実は、3月3日に寺行事のおこない(※修正会)をしている地区がある。
県内、盆地平坦地に、おおかた320年以上も続けてきたおこない。
連綿と続く、歴史、文化が深い地。
もし、よろしければと、写真家のKさんを誘った。
行先は、大和郡山市の小林町。
おこない(※修正会)を行う場は、真言宗豊山派寺院の南照山新福寺。
旧くは、元禄九年(1696)に本堂の落慶法要が営まれた、と考えられている。
と、いうのも、庫材を駆使した形跡、また現存する仏像の古さから推定し、再建された新福寺。
また、昭和43年(1968)に、本堂の屋根瓦を葺き替えなど改修した際に発見された棟札から、本堂の建之時期が判明したそうだ。
そして、平成28年(2016)、320年ぶりに行われた本堂の建替え、落慶法要に記念式典を挙行された。
実は、毎年の3月3日におこないをされているから、一度伺ったらどうか、と背中を押してくださったのは上田清市長だった。
当時の私は、市民であり、市の臨時職員であった。
勤務先は、市の施設の大和郡山市市民交流館。
平成15年(2003)7月にオープンした大和郡山市市民交流館。
採用面接に出かけてから、一週間後だったか・・・
当時、面接してくださったY人事課長から電話があった。
「今も、空いてますか・・」の問いに、「もちろん」、といったかどうか、覚えてないが、やっと就職先が決まって大喜びしていた。
「市政案内・観光案内などの情報を提供する“インフォメーション”、貸会議室の2つの機能を持つ公共施設」の大和郡山市市民交流館に、7年半も勤続していた臨時職員。
ある日のこと。たまたま市長がぶらり、と来られて、小林町に”おこない”がある、と教えてくださった。
新福寺本堂で行われるその”おこない”取材は、平成22年を皮切りに、2年後の平成24年も伺った。
本堂は、前述したように元禄九年(1696)に創建。
屋根の葺き替えなどで再建した年は昭和43年。
本堂内部は、昔の様相そのまま、風情を遺した風格があった。
内陣周りに座った座中が、左座に一老、二老、三老。
右座も同様に一老、二老、三老がそろっていた。
そう、併設する杵築神社の座中である。
2度目の小林町入りは平成22年の11月。
大阪・平野の大念仏から如来さんがやってくる。
町民は、融通念仏宗徒であるが、新福寺は真言宗豊山派。
大和ご回在にお家を一軒、一軒巡って、最後にお寺となるのだが、ここ小林町では公民館をあてがっていた。
さて、小林町・新福寺のおこないである。
平成27年が最後のお勤めにおこない。
新福寺本堂・観音堂は新しく生まれ変わる新築化。
これまでの再建ではなく、320年の時代を経て新しき本堂に建て替える。
だから、旧き新福寺の最後の営み。
おこないにランジョーの叩き納めの年。
歴史を刻む記念日は、平成27年の3月3日。
平成27年の4月のころ、320年もがんばっていた新福寺本堂・観音堂は、解体工事に入っていた。
しかし、解体中の本堂では3月3日のおこないは、どこでされるのか。
予め聞いていた場は、新築された藍染会館に移し、畳部屋で行うことになった。
これを機会に、おこないの道具は、一挙に代わった。
内陣の縁をたたくフジの木は真竹に代わった。
祈祷を済ませたごーさんの護符は、ヤナギの枝。
割れない程度に、二つに割いたヤナギの枝に護符を差し込む。
ただ、ヤナギの枝は長いので、バキバキと三つに折る。
そのヤナギの枝の束が崩れないように、フジの木の皮を使用する。
フジの木の皮は柔らかく、剥がしやすい。
子どもでも剥がしやすいフジの木の皮をヤナギの束にくるくる巻いて括っていたが、これらすべてまとめて真竹に代わった。
新築中の新福寺本堂・観音堂は、工事中。
落慶するまでは、一時的に利用した平成27年4月29日に落成式をされた壇信徒会館「藍染会館」だった。
仮の場を借りて、はじめて青竹で打つランジョウ所作を拝見したのは、翌年の平成28年3月3日。
仮の場の藍染会館の部屋は畳座敷。
長い板を据える考えもあったそうだが、半切した青竹内部に空間があるから、打つ音は、とてもなく甲高く反響するから、と採用に至った。
ご住職が、唱えるご真言。
そのとき、突然に発声された「ランジョー」に合わせて・・・青竹をもって竹を打ち叩く。
けたたましく、カタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・・が、室内空間が全域にわたって響き渡る青竹ランジョウの音色感。
ランジョウの目的は、激しく打ち、激しい音を発生させることによって、悪霊を村から追い出す作法。
フジの枝に内陣の縁は木材。
旧き新福寺の本堂内陣は、300年以上も叩きつけたことによって、深い黒色が、打ちすれて白くなっていた記憶が蘇る。
その年、平成10月10月29日に落慶法要された南照山新福寺本堂は、その後も3月3日におこないをしている、と聞いている。
その証が見つかった。
所用で市内南部に向かって走っていた大和中央道。
国道25号線と交わる今国府町信号から数キロメートル手前にも信号がある。
西に折れたらJR大和路線・大和小泉駅。
左折れなら北西町に入る。
その信号は小林町西1。
その北側、数百メートルの地に、毎年、苗床をつくり、苗箱を広げている小林の男性。
苗代田に水を入れる水口に、例年立てていたおこないの印し。
そう、これまでは前述したとおり、折ったヤナギの枝に挟んだ護符。
おこない法会に祈祷したごーさん札(※牛玉宝印の書)。
三角折りの護符は珍しいから、すぐわかる。
令和2年5月19日のこの日に見つけた護符。
ランジョー所作に用いた青竹に挟んでいた。
所用だけに撮影機器は、携帯電話しかない。
その機器であっても、これも記録。
実は、この苗代田に苗床を調え、躑躅のイロバナとともにヤナギの枝に挟んだ護符を立ててから、ロールに巻いた新聞紙を丁寧に広げていた。
実弟とともに苗代つくりの作業をしていた状況を撮らせていただいた平成22年の5月4日。
そのときの写真を、後日にさしあげたら、すごく喜んでくださった座中の一人。
当時、74歳だったKさん。
ここ、最近は苗代もされていない。
あれから12年も経っている。
ここを走るたびに、次第に雑草化に移っているのが、気がかりだ。
走馬灯のように蘇ってきた「新福寺のおこないの縁たたきランジョウ」と「苗代に立てる護符」。
大淀町・大岩から御所市・池之内に玉手から駆け付けた。
前置きが長くなってしまった。
午後3時40分。
表敬訪問にようやく着いたここは、大和郡山市・小林町。
おこないは、午後4時よりはじめられる。
まずは、参拝。
手を合わせきっちり拝んでいた男性がおられた。
後姿でわかった男性。
たしか伊豆七条町に住む男性だ。
お名前は覚えてないが、伊豆七条町(※地元ではいずひっちょう、と呼ぶ)の大晦日行事。
「ふくまるこっこ」を、今もされているのか、尋ねた男性だ。
下見に来ていた平成19年の12月23日だった。
畑におられた男性は、以前勤務していた大和郡山市市民交流館時代に出逢った方。
たしか会議に来られていた人だった。
子どものころに体験していた伊豆七条町の福丸迎えだけに、その対象となるお家を案内してくださった。
奈良県内に福丸迎えの行事のほとんどが山添村である。
奈良市東部や天理市の山間地にも継承されているが、平坦盆地では、ここ伊豆七条町しかみられない。
史料によれば、ごく近いところの天理・森本町も行われていたが、途絶えたようだ。
ご縁があった男性が、なぜにここ小林町・新福寺に参拝を・・・
おこない行事が、終わってから聞いてみた。
ここ、小林町にはご縁があるのですか、と聞けば、なんと・・・
男性が住んでいる伊豆七条町に勝福寺がある。
おばあちゃん講とも呼ばれている尼講が、毎月に営まれるお念仏。
毎月の1日に参ることから朔日参りとも・・
施餓鬼もされていた勝福寺。
現在は、天理市・南六条町の西福寺僧侶であるが、かつては小林町・新福寺の僧侶であった。
その僧侶とは、新福寺の現住職を務める佐々木章の先代の父親。
先代の住所は、伊豆七条町・勝福寺だった。
その後に、先代の父親は小林町の新福寺に。
そして、代替わりに就いた佐々木章住職。
そのような関係に、伊豆七条町の男性はことあるごとに、新福寺にやってきて参拝している、という。
表敬訪問に、出会ったご縁。
参拝していた私たち3人は、今からはじまりますから、どうぞ本堂にあがってください、と・・・
その場には、存じている人たちが多い。
ひさしぶりやね、といわれる方たち。
直近であれば、令和3年の1月1日。
正月に行われる天理の行事取材にハンドルを握っていたとき。
電話が鳴った。住民のSさんからの電話は、修復していた神輿が氏神社の杵築神社に戻ってきた。
小林町の元日の朝。
村の人たちが寄り合う元日参拝に神輿のお披露目。
是非、と伝えられて、急行。
天理までの道中にあった小林町。
短時間ではあるが、有意義だった神輿のお披露目を見届けて、再出発したその日以来、足は遠のいていた。
さて、小林町・新福寺のおこないである。
本尊前にそろえた青竹。
先を割いた竹に挟んだ護符。
墨書された「牛頭天王 寶印 新福寺」。
一般的には、ごーさんこと、牛玉寶印を押印した護符を正面に据え、その前に護符を挟んだ青竹が8本か。
かつては、もっと多くあったような気がする。
おこないの作法において祈祷される。
ご住職の立ち位置。
内陣との境目に厚めの赤いシートを敷き詰め。
半切した長い一本の青竹に、ランジョーの発声と同時に打つ青竹も用意された。
以前は、内陣を囲むように、それぞれが座ってフジの枝木で叩いていたが、大幅に削減したようだ。
と、いうのも、昨年より土地改良区が主宰としたおこない行事に移した、という。
少子化の時代に、将来を見据えて主宰を土地改良区に移したのである。
午後4時15分ころからはじめたおこない。
まずは、ご真言である。
正面立ち位置ではなく、右手の脇に座って唱えるご真言。
次はご真言に続いて拍子木打つ、般若心経。
そして座を前にすすめたランジョー叩きは3人。
右に男性一人と左に二人の女性は、手に青竹をもつ。
ご住職が座る位置は明るいが、ランジョー叩きの場は、消灯していた。
暗くなったランジョー叩きの場。
雰囲気は、より近くなったような気がする。
ご真言に、あるとき、突如発した「ランジョー」。
カタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・甲高い音色が本堂内に広がり、響いた。
激しく叩きつける音は魔除け。
村から悪霊を追い払う意味もあるが、世界平和・村民安全、五穀豊穣をも願う所作である。
そのことを願った表白を唱える住職は、何度も何度も「ランジョー」を発せられる。
おリンを鳴らせば打ち止める。
表白の次は神名帳を詠みあげる。
「・・・春日大明神、大和、広瀬、龍田、大神、・・・ダイミョウジュン、ダイミョウジュン・・・・ランジョー」。
カーンと鉦を打てば、けたたましくカタ、カタ、カタ、カタ、カタ・・・・・
悪霊はこれでもか、これでもかと追い払う。
十数回、いやそれよりもっと多く数えきれないほどの「ランジョー」を発せられる。
住民が平和に暮らし、繁栄、五穀豊穣を願うためにある、というランジョーであった。
祈りが終われば、身体堅固。
諸願成就、三界万霊、功徳などの念仏を唱えて最後に身体堅固。
古くから伝わる本尊、観音さまの牛玉寶印を参列者の頭に押す真似事をする。
「オンソワカ」、手を合わせて身体堅固のご加持をありがたく受ける。
本日のおこないの縁たたきランジョウに、参列合わせて撮影もさせていただき、御礼申し上げお堂を出た。
合わせて、参拝した杵築神社。
かつて、牛頭天王社とされていた神社に参拝。
そこにちょこんとあったコレは何?
初のテレビアニメに映し出されたまんが日本昔ばなし・・・に流れた音源を思い出した。
「・・ぼうやー よい子だ ねんねしな いーまも かわりなく はーはーの めーぐみの こもりうたー とおいー むかしの もーのーがたり~いぃ・・」
今日のおこないに、子どもたちの顔は見なかった。
その代わりか、どうか知らないが・・・ ぼうやー よい子だ ねんねしなー
※ ※ ネットで探した正体は、結局見つからず、「獅子(猪)の背にまたがる童」の人形かな・・・
(R4. 3. 3 SB805SH 撮影)