存在確信(信憑)の構成場としてのBackstage。
世界を開示し、生の第一の地平をつくる〝場〟として、
それぞれの生の固有のBackstageの作動がある。
ここを超えるように、先回りするように、あるいは裏側に回り込むように、
世界開示の固有性、私性を超えた全体(普遍性)を手にしたいという欲望。
この不可能な欲望は、関係世界においては必然的な出来事として現象する。
せめぎあう関係、削りあう関係、融和する関係、それらいずれにおいても、
関係企投の正当性を調達するように「普遍項」をみずからに要請し、
〝本体〟(超越項)の観念をみずからに処方する。
───竹田青嗣「本質学研究」
「われわれは他者の〝行動〟の内的意味を、ただわれわれの内的経験から、
われわれがすでに内的に把持している経験的諸分節から直観し、
この直観から本質洞察することしかできない。
この本質洞察は、ただ間主観的な洞察となりうるか否かであって、
他者の内的真実とはかかわらない。
他者の内的真実とは超越であり「本体」だからである」(「本質学研究」2・55)
「科学的認識においては本体との一致が問題なのではなく、
どのような認識が強固で広範な間主観的認識を形成するかが問題だからである。
科学的認識においては、現象学的な信憑構造の理論が不可欠であり、
本体の想定が残されているかぎり、
いまやスコラ議論化した客観認識についての水かけ論はどこまでも延長されるであろう」
「物理学的認識の体系の妥当性、客観性は、主観-客観一致の構図によっては決して説明されえない。
物理学的認識は「客観それ自体」の認識ではない。
それはただ、対象認識の間主観的一致の可能性の条件を満たすことによって、
客観認識として承認されるのである。」(本質学4・136)