'(細田守監督『時をかける少女』)
https://www.youtube.com/watch?v=vC0Qt1lvLq8
現在が考える「過去」、現在が考える「現在」、現在が考える「未来」
すべての時制は「いま、ここ」において現象している。
われわれのうちなるBackstageは、時制を分泌し
世界を時間化することでみずからの経験を構成している。
願っても願わなくても「時間」は構成される。
そしてすべての時制は〝情動に濡れている〟。
後悔、希望、なつかしさ、よろこび、いかり、かなしみ。
多色の情動と溶け合うように時間は経験を彩り、変移していく。
われわれが生きる時間には、もう一つの位相がある。
「客観的時間」、すなわち多重の時間記述から生成する関係項としての時間。
線形的に単位化され、配列され、情動とリンクを外れ、
無機的に、デジタルに、「過去-現在-未来」を刻む〝時〟。
実存における時間、客観としての時間──人間的時間は、かくして二重化され、
ふたつの時間の共同、せめぎあい、弁証法的展開として動いていく。
固有の生という人間的実存のあり方が必然的に生成する時間。
そして、集合的営みが要請し、共同化された二次的生成としての時間。
集合的営みを可能にする二次的生成物としての「客観的時間」。
客観的時間を参照項として、その規定性を受け入れることで、
集合的ゲームのプレーヤーとなること。
みずからの生の主体性を失わないでいるためには、
つねに、「客観的時間」の規定性をいったん解除して、
時間の生成的本質を捉える視線、原理的思考を確保しておく必要がある。
なんのためにか?
客観的時間が人間的生の全域を埋め尽くすとき、
われわれは時間のみならず、世界経験の本質から外れ、
「個」としての独立性を見失うことになる。