「エピソードのクラスを相手にするためには、
この小さなパターンへのとらわれを打ち破らなければならない」
──G・ベイトソン『精神と自然』佐藤訳
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「泳げないからだ」から「泳げるからだ」になる──
このとき、泳げないからだはみずからを時間化し、
泳げるからだとの関係において泳げないからだを解体し、
「いま、ここ」を刷新するプロセスを生きることになる。
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小さなエピソードに波立つ感情のまま突き進めば、
〝関係〟はバインドされ、一つの関係構造の外に出ることができない。
ある〝関係〟、そしてそこに埋め込まれたからだの刷新をねがうかぎり、
どこかに〝関係〟を解除する位相を見出さなければならない。
変化へ向かうには確定項としての〝関係〟をいったん解除すること。
そのためには一つの包括的なまなざしを必要とする。
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ある固定された関係が指定する「関係域」は必然的に限界値をもち、
そのことで関係企投の可動域、可能範囲も限定されたものになる。
包括的まなざしは、生きられる「関係域」の外を含むスコープを
みずからに要求する。
関係という個と個、個と世界を結び合わせるパターンの創発可能性──
それが編みかえ、つくり変えることが可能であることの了解。
この了解は、経験的な累積を通してだれもが手にすることができる。
包括的まなざしはこの了解とともにあり、
「よりましな関係」の探索に踏み出す思考の拠点をつくる。
この包括的まなざしを手にすること、
それはそのまま関係世界を生きる〝人間的身体〟の創発的特性を知ることでもある。