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「可能-不可能」という問いに〝判定〟を下す。
この問いと判定には、つねに生きられる前段がある。
〝客観的〟に審議に付され評価され判定される「世界」は、
いつもすでに、先行して「私」において経験され生きられている。
知覚は動き、情動は走り、世界は開かれ、
心はさまざまに色めき立ち、思考はめぐり
知(言葉)はおくれてカタチをむすぶ。
現象する世界のただ一つの場所、「個」(実存)。
問うより先に、問いを生み出すように。
そのつど、意識に火を点すように世界は現出する。
世界を経験するということ──世界の訪れ、その現象の本質。
すなわち世界が現象するただ一つの場所、意識の水面(実存)。
明るく。暗く。浮かれ。沈み。沸き立つ。
さまざまな波立ちとともに世界の色合いも感触も変化する。
経験される世界は、つねに「私」の欲望の姿を映している。
欲望──次の「ありうる(存在可能)」をめがける「私」の根源的な願い。
このことが固有の姿として世界を現出させるただ一つの動因を意味する。
欲望が変化すれば世界の姿も同時に変化する。
そのつどの現われとしての世界の姿は、
そのまま、そのつどのみずからの欲望の鏡である。
ただ一つの、どんな存在にとっても、どんな欲望にとっても同じ世界、
絶対的な同一性を維持する客観世界というものは存在しない。
それはただ想定としてのみ可能な世界にすぎない。
にもかかわらず、この想定が共同化され共有されることで関係世界は成立する。
われわれは同じ世界に生きている──この想定をいったん外すこと。
なんのために。みずからの欲望(世界)の現われに直面するために。
みずからの生成の始原の場所を照らすように、想定のベールを外す。
なんのために。世界の現われが現象するただ一つの場所、
すなわち「私の意識」の水面にとどまり、
世界の生成から共同化のプロセスと展開の本質を目撃するために。
なんのために。「私」の外に存在する客観世界という想定によって、
われわれのあらゆる経験がゆがむことを回避するために。
想定された客観世界から逆算して「私」の経験を照らすのではなく、
「私」の生から客観世界を照らすために。
個に先行する世界の実在という想定がみちびく、
「この世界」というものの誤認と誤用、
個の制圧と支配にいたる恣意的乱用の根拠を壊しておくために。
すなわち──
「子は母を生むことができない」という原理を胸に刻むこと。
そのことで「子」(客観世界)という想定を健全に育めるように。