ルール(法)はその妥当性を判定可能にする〝外の視線〟を必要とする。
ルール(法)の外から向けられる、たとえば「悪法は法に値しない」という視線。
この法を修正へ向かわせるまなざしは法そのものには内在しない。
個(実存)がみずからの内的ルールを修正に向かわせるとき、
内在する外部(他者)の存在、まなざしがその契機となる。
他者の存在とまなざしをみずからに迎え入れておくためには、
異質な価値や生き方、関係の可能性に開かれていなければならない。
空気を読むことでも、そんたくすることでもない。
単にそれは特定の共同体的ルールにみずからすり寄り帰属することを意味する。
(確定記述への従属。自明性への埋め込まれ)
自己と他者の対等な対話をみちびく相互的な信頼をベースとして、
相互の自由の展開を拡張可能にする新たな関係の創出へ向かう意志。
そこにはつねにルール(法)に先行する「存在可能」(関係可能)への予期と、
ルール(法)の書き換え可能性に開かれた関係のゲームの探究、
それを担うプレーヤーとしての主体的な関与性がある。
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――ポール・ワツラウィック他『変化の原理 CHANGE』長谷川啓三訳
「システムそのものの変化すなわち第二次変化を伴わないようなシステムを、
終わりのないゲームに陥ったシステムと呼ぶ。
それはそれ自体からはそれ自身の変化のための条件を生み出さない。
またそれ自身の変化のためのルールを生み出さないのである。」
「同じことを今少し哲学的にいうと、
我々自身を現実と呼ばれるルールに従うコマと考えるのか、
我々自身がそれを作り、受け入れている限りの「現実的な」ルールに従って
ゲームをやっているプレイヤーと考えるかの違いなのだ。
後者はしたがってルールの改変はいつだって可能なのだ。」