ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「世界経験」 20200219

2020-02-19 | Weblog

 


すべては「非知的な訪れ」から始まっている──
いいかえると、われわれの一切の経験は、意識が関与しない、
いわば〝襲撃〟としての世界の訪れを始発点とする。

知ることより早く駆けている作動があり
知ることに先行して
知ることを促す生成的な触発がある

知ることの手前で
知ることに火を灯す
由来をたどれない始原の発火
すなわち「世界の訪れ」がある

つねに、すでに
いま、ここに

知として関係するよりまえに
理として解釈するよりまえに
知と理を走らせることをうながす
意識の水面で現象する
すでに色づいた〈世界〉との出会いがある

知覚は動き
情動は走り
世界は開かれ
心は泡立ち

言葉はおくれて形を結ぶ

意識の水面に現象するものとしての〈世界〉。
この原理が示すのは、事実(実体)としてではなく、
つねに意識において現象し、そのつど生成的に像を結ぶ世界である。

主観のうちにおいて現象する〈世界〉。
主観が経験する世界とは、この〈世界〉以外にはありえない。

世界を主観から切り離された絶対的外部と捉えること──
すなわち世界を一つの実体(客観)、動かしようのない自明なものとして捉えると、
世界の生成的本質が見失われ、
認識はつねに実体(客観)をめぐる「正-誤」を問うものになる。
あるいは実体(客観)を捉えることの「可能-不可能」をめぐって展開する。

「正-誤」「可能-不可能」を問うことが妥当性をもつためには、
主観はあらかじめ主観の外で出て「客観」と出会っていなければならない。
しかし主観は主観の外に出ることはできない。
     *
この原理から導かれる「客観」の本質──

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