![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/75/ec07807452768d454f4919be74614512.jpg)
https://www.youtube.com/watch?v=9jYDtBgJ6PQ
なぜ、ある音楽がじぶんの感性に触れてくるのか。
その理由、ほんとうの由来は、本質的には明らかにすることができない。
それはつねにどんな問いにも先行する感性的な直観としてのみやってくる。
「ああ」
ある音楽を聴いているとき、なんらかの情動、感応が現象する。
心が動く、色めき立つ、揺さぶられる、涙する、あるいは不快になる。
それは論理的思考が始動するまえに、〝端的な訪れ〟として体験される。
それは言葉で明示されるかたちを取らず、
むしろ言葉がそこから生成していく世界体験という〝原的資源〟として訪れる。
〝その音楽〟について、言葉を尽して語ることはできる。
その感銘について解釈し、評価し、賛美し、あるいは罵倒することができる。
しかし言葉はつねに音楽という体験の事後に動きだす。
それがなければ何もはじまらない、
はじまりのはじまりを告げる〝原データ〟。
この音楽、この事象、この人間、この関係、この場所、この世界。
最初にその色あい、感触、意味と価値を直観し感じとるのは、
〝このわたし(感受性、feel)〟以外には存在しない。
<世界>は意識の発動に先行して〝わたしの意識〟に訪れ、
この〝原データ〟の入力を待ってはじめて意識は駆動を開始し、言葉をむすぶ。
このことからどんな「認識上のボーナス」を得ることができるか。
一次過程から二次過程へ──
客観。真理。正義。善。美。(という概念の生成)
これらはすべて、「他者」という固有の「世界の訪れ」を体験している存在、
〝わたし〟とは別に〝わたし〟と同じ原理でこの<世界>を体験している存在がいる、
という確信が〝わたし〟の内部にいつも訪れていることを出発点にしている。
そこには、〝わたし〟の<世界>体験と〝あなた〟の<世界>体験との「交換式」を要請する、
〝わたし〟に内在する本源的な「欲望」をみることができる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます