ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「一次過程/二次過程」 20190519

2019-05-19 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=f99mfQOldx0

 

〈世界〉との遭遇のたびに透明な無数の切れ込みが入れられ、ただちに「意味」と「価値」のランドスケープが開かれる。その告知はつねに情動の作動と連れ立っている。

「よい/わるい」「きれい/きたない」「うそ/ほんとう」

 一定のパターンをもって世界に切れ込みを入れるコードの集体──、それは「個性」あるいは「人格」と呼ばれている。考えるより先に世界は自明性と非自明性の織物として開かれ、意味と価値の配列、その明証性のグラデーションがおのれの「欲望」と「関心」の本質と形式を写像している。

この一次過程はつねに、すでに、あらゆる局面で作動している。

「世界の到来」としての一次過程を消去することはできない── 一切は「世界経験」の原的な所与性としての一次過程からはじまり、はじまりつづけている。

われわれは世界を知的に経験するより先に、価値的意味的に(エロス的)に経験する。原的な直観は意識の経験に先行して、意識に〈世界〉というランドスケープを与える。 

世界経験の根源的な装置としての「身体」──感じる身体、欲望する身体。感情、情動という身体が発するメッセージは、世界経験をめぐるあらゆる思考の原的リソースであることを意味する。どんな意匠、真理や正義をまとった言葉であっても、つねに価値的エロス的に文節された固有の〈世界〉=マトリクスから生成している。

言語的に一般化された〈世界〉記述をめぐる経験を「二次過程」と呼べば、「二次過程」は「一次過程」に原理的に先行することができない。

どんなにそれが醜く嫌悪すべきものであるようにみえても、心的体験として現象する情動の到来を、第一次の世界経験までさかのぼって消去するすることはできない。たとえば、自己あるいは他者に対する批判・否定は、自己あるいは他者が経験している第一次の原理自体に向けられても何の意味もない。

しかしここには循環する回路がある。一次から二次へ。二次から一次へ。その絶えざるリカーシブな展開において、回路全体には質的に遷移していく契機が内在している。 

一次過程は意識に対して「自律的に」作動している。意識の関与できる可能性はつねに二次過程として展開する。たとえば、なんらかの合意あるいは相互的な了解(納得)をみちびくには、相互の一次過程を受けとめながら、自と他が構成する「メタ回路」、二次過程の探索へと突き進む以外のルートはない。

   *

二次過程──いいかえると、関係世界。関係のゲームにおけるプレーヤーとしての関係存在としての「私」。

われわれは関係世界を生きる関係存在として、関係世界の秩序を成り立たせている関係項(言葉の一般意味やルールの総体)をみずからの確信の意識の根拠として生きている。そうでなければ、われわれは関係のゲームのプレーヤーとして生きることができない。

二次過程の展開──その本質的展開は、つねに相互的他者関係において現象する二重記述、多重記述によるさまざまな関係項の生成に担われている。

この生成という根本的原理性からけっして視線を外してはならないこと。一切は生成として現象している。この生成という根本原理が見失われるとき、関係世界は実体化され、そこに含まれる記述命題の一切が超越性を帯びはじめることになる。

 

 

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