(ズボンずり下ろして突っ立ったパンツ姿のこども)
「うんこ?」
「ううん」
「おしっこ?」
「うん」
「どうぞ、どうぞ」
「見ないで」
「見ないよ」
(パンツずり下ろして)
「見ないで」
「見ませんよ。ごゆっくり」
(振り向きながら)
「見ないで」
「だいじょうぶ。幼稚園?」
「うん」
「じゃあね(頭ポン)」
「うん」
(ズボンずり下ろして突っ立ったパンツ姿のこども)
「うんこ?」
「ううん」
「おしっこ?」
「うん」
「どうぞ、どうぞ」
「見ないで」
「見ないよ」
(パンツずり下ろして)
「見ないで」
「見ませんよ。ごゆっくり」
(振り向きながら)
「見ないで」
「だいじょうぶ。幼稚園?」
「うん」
「じゃあね(頭ポン)」
「うん」
本体化した、実体化した「理想理念」から逆算するように世界をとらえると、
世界は矛盾と欠陥だらけの〝クソ世界〟に見えてくる。
この世の無知、愚昧、抑圧、搾取、惨劇と、それを微細に照らす「理想理念」という構図。
この構図は「究極解」(神)を戴く一神教的世界像に酷似している。
この構図と一体化して世界を〝クソ世界〟としてとらえる視線は、
「究極解」の現実化のありえなさの感知から、
必然的に、ロマン主義的かつ倫理主義的な「イロニー」の視線となる。
──竹田青嗣『欲望論』第二巻、252
近代社会がその成員たる人間にいかに巨大な抑圧を押しつけてきたかを
刻明に描き続けること、これがフーコーの主要戦略であったが、
ローティはその中間の立場をとる。
ハーバーマスの「基礎づけ」(カント的コスモポリタン的民主制度)主義には
同意しないが、同時に、ポストモダン思想のイロニー的立場もまた不可能である
ことが示唆される。
《ニーチェ、デリダ、あるいはフーコーのような自己創造のアイロニストが求める類の
自律とは、社会制度のなかにそもそも具体化できる種類のものではない。
自律とは、すべての人間存在がその内部にもっていて、社会が人間存在を
抑圧することをやめれば解放することができるような何か、ではないのだ》
(『偶然・アイロニー・連帯』)……
少なくともローティは、……結局のところ「絶対自由」(絶対的自律)という
素朴な理念の先へは一歩も踏み出すことができないことを理解している。
相対主義-懐疑主義の思想が、その内的矛盾を自覚した後にとる態度を「イロニー」
と呼んだのはヘーゲルである。
イロニーの出所は、第一にフィヒテ的な絶対的「自我」の観念であり、
第二に、概念の弁証法的否定力によって一切を相対化するスケプチシズムの観点である。
……根拠の絶対的否定は、現実に対する根深い無力と挫折をもたらすことになり、
そこからイロニーの立場、つまり「ロマン的イロニー」へと身を移す。