──G・ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳
そして関係とは常に、二重記述の産物である。
And relationship is always a product of double description.
相互作用に関わる二者は、いわば左右の眼だと言ってよい。
それぞれが単眼視覚を持ち寄って、奥行きのある両眼視覚を作る。
この両眼視覚こそが関係なのである。
この発想に立つことは、大きな進歩である。
関係とは、一個の人間の中に内在するものではない。
一個の人間を取り出して、その人間の〝依存〟だとか〝攻撃性〟だとか
〝プライド〟だとか云々しても、なんの意味もない
これらの語はみな人間同士で起こることに根ざしているものであって、
何か個人が内にもっているものに根ざしているのではない。
──H・S・サリヴァン『個性という幻想』阿部大樹編訳
いずれにせよ生命体とその周囲環境には片時も止むことなく相互交流があって、
これがなくてはどのような生命も生きられません。
この意味で、私たちは交流的存在 communal existence であります。
生きることの困難が何であるかを知るためには、そして自分たちが
何について語っているかを見失わないでいるためには、
人間同士の相互作用を探索することこそ必要であります。
すでに述べたように、人格それ自体は単独で取り出すことが不可能です。
対人関係を記述することに重きを置けば、新しい医学の進歩にとって
最大の障害であるものを取り除くことができます。
もっとも高い壁、すなわち個々独立した、ひとり立ちする、
確固不変でシンプルな「自己」があるのだという妄想です。
その時々によって「あなた」とか「ぼく」などと様々に呼ばれる、
摩訶不思議な「自己」が、まるで私有不動産のようにどこかに建っているという幻想です。