一つの始発点が漱石の「坊ちゃん」だった
15歳、決定的だったかもしれない
(もちろんそれだけではない)
この風景も連結している
たどればそうなる
経験の連結連鎖──そう言える個人史がある
おそらくだれもがそうした途上にある
一つの始発点が漱石の「坊ちゃん」だった
15歳、決定的だったかもしれない
(もちろんそれだけではない)
この風景も連結している
たどればそうなる
経験の連結連鎖──そう言える個人史がある
おそらくだれもがそうした途上にある
「超越」とは、事実の確定ではない。
あるいはどんな判断や認識も「超越」であって、絶対的な最終項となりえない。
一切の判断・認識は、たえず変化し流れゆく「体験流」(内在)から
《構成》されつづける対象存在についての「確信」、すなわち「超越」であるから
「内在」における連続的な統一の変様に応じて、その確信様相は変化しうる。
「超越」は絶対的なものを与えず、たえず本質的な可疑性をもつ、
という定義の最も核心をなすのは、それがつねに「内在」から《構成》されつつある
諸存在についての確信である、ということなのである。
──竹田青嗣『欲望論』
You live in your description of reality.
──Gregory Bateson
すべてはいまここに
いまここの出来事として
世界の姿はしたためられ
かつて いま これから
すべての時制を引き連れ
光も影もひとしく
うちなる水面に現象している
したため照らすのは
この世にただ一つの光源
(この一人称を見失わないように)
気づくより早く光は動き
ピックアップするまえに
ことばを配置するまえに
世界をしたため火を灯す
水面に走る波紋が教える
求めるもの求めないもの
ここにこうして呼ばれる
かつて いま これから
すべての構成はただ一つ
波紋のゆらめきに溶けて
輪郭のない光源が告げる
(この一人称を失わないように)