風もなく、穏やかな春の一日。
3月なのに、4月の気温。季節が、先走りしているここ数年。
午後から、市役所の出張所へ。
月曜日に市役所に行ったら、物凄く混雑していて、しかも、外国人ばかりで、職員の対応も・・・投げやりな感じだったので、殆ど進捗しなかったので、今日は、自宅近所の市役所の出張所を訪れた。
訪れる市民は、誰もおらず・・・。私のあと、3人来ただけだったし。
出張所で受付してもらえるなら、こちらの方が、早いし、丁寧だし。
国民健康保険、身体障碍者手帳の返却処理、年金関係で必要な住民票の取得など、30分くらいで、済んだ。
同じお給料なら、出張所の方が、仕事は、ラクかもしれない。
言葉の通じぬ外国人相手で、身振り手振りの対応で、一日、消耗するのは、パート職員なのだろう(たぶん)。
私は、生まれから、ずっと母と暮らしていた。
離れていたのは、どちらかが、旅行などに行った時くらいで。長くてもせいぜい5日間後くらいには、帰宅していた。
ずっとずっと一緒だったんだな。
2007年の市政50周年のイベントで、10年後に届く手紙というのあって、2017年に私に届いた10年前の母からの手紙に、
2017年には、生きて此の世にはいないだろうから、先に(あの世に)行って待っているよ。
家で、死にたいと思うけれど、きっと病院か、施設で、死ぬことになるだろうね・・・。
・・・と書かれていて、そんな手紙が見つかって、自宅で、苦しむ様子もなく、眠るように亡くなったのは、母最後の望みが叶ったのだと思う。
最後の願いが、叶ったのは祝着なこと。
そして、10年後迄、生きていて、それから更に、4年も生きた。凄いコトだと思う。
日本人女性の平均寿命を越えたことは、身体がいつも不調だった母にとっては、望外のことだったのだろう。
私は、人間関係が、異常なほど希薄で、親しい人との死に別れというものを経験したことがなかった。
30年前に亡くなった父とは、全くうまくいかなかったし、他人さまとの交友関係も深いものがなかったので、今回の母との別れが、一番最初で、一番親しいひととの別れとなった訳で。
ずっと一緒で、予期せぬ別れだったかと思うと、そうでもなくて、なんとなくシュミュレーションしていた感もあり、毎朝毎晩、母の部屋を覗いては、死んでないか生存確認をしていたし、眠っていても呼吸を確かめ、安堵していた。
そう・・・毎日。毎日。
そんな死の確認の練習と、ひとりで、食事をすることも、いづれ来るであろう別れに備えて・・・と言う気持ちもあったかもしれない。
もっとも・・・母と食事をしなくなったのは、難聴だった母が、テレビを大音量にして、食事をするので、気がヘンになるから、ひとりで、食べて・・・と言ったのがきっかけで、そんなふうになった。
母の食事が終わるころを見計らって、粉薬やサプリメントをオブラートに包んだり、液体プロポリスを食品用カプセルに入れて飲ませたりするから、私自身の食事は、母の食事が済んでから摂ることが多かった。
年々、歯が悪くなり、噛むチカラもなくなり、すり下ろしたり、潰したりと食材調理に、手間ばかりかかるようになって、おろし金の高額なヤツを買ったばかりだったけれど、一度も使うことなく、母は、逝ってしまった。
大根や生姜が、こんなにもストレスなくすりおろせるなら、もっと早く買えばヨカッタ・・・と今更ながらに後悔している。