未熟なカメラマン さてものひとりごと

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遊女たちの悲しい物語があった

2009-09-27 00:18:40 | 歴史



 先日、広島県は大崎下島の御手洗(みたらい)を訪ねました。ここは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。今までは三原か竹原からフェリーを利用するしかなかったのですが、橋が架って車で直接行くことができるようになりました。そのせいか、当日は多くの観光客で賑わっていました。
 ところで写真の年配の方、名前を宮本さんとおっしゃるのですが、ミニおちょろ舟の実演販売をされています。ところでこのおちょろ舟というのは何でしょう!少し調べてみることにしました。

 おちょろ舟とは、風待ち・潮待ちのために停泊している船の乗組員を相手にする女たちを乗せた小舟だそうです。名前の由来は船の間をちょろちょろ行く舟から、とか、お女郎舟がなまってできたともいわれています。

 近世中期以降の瀬戸内海は、北国の物資を大坂へと輸送する際の、物流の大動脈にあたっていました(西回り航路)。造船・航海技術の進展によって大型化した輸送用の帆船(北前船)は、日数をかけて海岸沿いを航行する「地乗り」ではなく、瀬戸内海の中央を倍近い速さで走り抜ける「沖乗り」の航路を次第に取るようになりました。このような時代の流れのなかで御手洗(大崎下島)や木江など、沖乗り航路にとって便利な地点に新たに港湾が整備されたのです。

 御手洗には、1600年の中ごろ人家が建ち始め、1700年代に入ると、若胡屋などが次々と茶屋として公認になりました。(若胡屋だけで多い時は100人も遊女がいたそうです)四国、九州の大名の参勤交代、北前船の寄港などで湊がますます繁盛しました。この頃から格式と教養を身につけた遊女「おいらん」が必要になり、おいらんとおちょろ舟の娼妓へ分化したようです。すなわち、おちょろ舟に乗るのは器量のない女たち。でもおちょろ舟の娼妓はよくつくしたそうです。顔なじみになると煮炊き、洗濯から次の寄港までに必要なものを用意してやったとか。

 しかしながら、明治中期以降の機械船普及に伴い、停泊地とされなくなったこれらの港は次第に衰退への道を歩みますが、このおちょろ舟も1958年の売春防止法施行とともに消滅したそうです。早く家に帰れという島の巡査に「だんなさん、そんなこと言われても、私には帰るところがないんです。」「家が貧乏で仕方なしにこういうところに売られてきたんですけん、家へ帰ってもどうしようもないんです。めしはくえんのです。」
 当時の日本の貧しさ、政治の貧困、親の哀しみを背負って、身を捨てて懸命に生きた遊女たちの物語がありました。

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