探し物をしていていたら古い絵日記が出てきまして。
そうそう、あったあった。
なにか探し物をしている時に数年ぶりに見つけて開くパターンってありません?
この絵日記、普段は存在さえ忘れています。
最後にこれを開いたのはいつだったでしょ。
娘が爆笑していたのは覚えているので、やっぱり10年は前でしょか。
これです。
私と年代世代が近い方、こんな文房具使ってませんでした?
極東っ。
なんかすっごい名前。おまけに「りか」。
開けば納得なんですけど(観察用のノートのようですわ)、
理科の学習帳に絵日記なんて、私の母ってナイスだったのね。
なかなかシックでモダンな色と柄。
男の子の太腿に何か尖ったもので刺したとみられる傷がありまして、
きっと当時、机とかに傷をつけないためにこのノートの上で作業?工作したんでしょけど、
この太腿の傷が私の骨挫傷の位置と同じなのよね。予言ノートっ。違うって。
では、このブログの原点?いや、ルーツ?なんだ?
まぁいい。
すっごいですから(笑)。
これってね、読めます?
文体というか、もう既に私の文になっているのよ(笑)。
何歳なんだろ。すっごいなぁ。通訳します?
3月?ままと町へいい物を買いに行きました。
そして帰りに空にカラスが飛んでいました。
私はお土産を開けてみました。そして
いい物を買いにってのがおかしい。はたし(私)になってるし。
うちの娘も「いい物」って言葉を使います。遺伝だったのね。受け継がれ語られる「いい物」っ。
まだママって呼んでるから就学前でしょか。
で、次のページを開くと、あれ?
兄の絵日記というか観察日記になっているっ。
左が樹の兄で横にいるのが葉っぱのみどりね。
今この歳になって気がついたのですが、
この絵日記というか「極東の学習帳 りか」は、母が兄のモンシロチョウの観察用に買い与えたノートだったのかな。
2冊あるんです。
私も欲しがるに決まってるから、あらかじめみどりにも1冊与えておいた。
なのに、兄の晴れの栄えある観察ノートの1ページめに私がしっかり書き込んでいるっ。
この天下無敵というか、恐れをしらない無遠慮な性格っ。
でも、疑問もあるんですわ。
もう1冊の同じ学習帳、同時期に買い与えたと仮定すると、
どうもこちらのわたし専用のほうが字も文もわやでもっと幼い時期なんです。
私専用の学習帳の1ページめは母がお手本を書いてくれてまして、
2ページめから強烈にスタートするのですが。
読めないでしょ、これはかなりの上級者むけ(笑)。
ママがそんなに美人だからびっくりしてしまいました。
43歳で母は他界しましたが、生粋の秋田美人でした。
(私は父似で兄は母似です。くっそぉ←失礼)
絵は当時の「しぇ~~っ」よ。
にしても記念すべき初絵日記がこれ(笑)。
で、毎日書いていたわけでもなく、突然不意打ちのように数枚空白のページのあと次の日記が現れまして。
絵も字もしっかりしてきています。
この絵の私、ちゃんと台に乗って書いてあるところがすごいでしょ。
芸が細かいというか、こだわるっ?(笑)。
左上にページも(2)と書き込んであるのに、
このあと数枚めくると突然、
力強い字だわっ。
私一人でお留守番できたんだっ。きっと自慢だったから誇らしげに書いたんでしょね。
母のことはママ、自分のことはみどりって呼んでたんだ。
小学校に入学してから、おかあさん、私、と替えたのかなぁ。
そういえば兄のこともおにいちゃんだし。
いつからだろ、私は兄のことはにいちゃんと呼んでます。
兄は一貫して私のことをちびと呼びます。ごめん、デカいし、ひどい妹だわ。
最近はさすがにみどりと呼ぶことも多いかも。でもいつしか「ちび」 になる。
兄しかいませんわ。世界中で私のことをちびと呼んでくれる人は。
これって何を書きたかったんでしょ。
書き直したのか、なんなのか。文はきうで終了。
そう、お手本の母の絵日記なのですが、
家の前の坂でスキーやソリで遊んでいる様子が書いてありますわ。
みさきちゃんとさとしくんと遊んでいたんですって。
この家の前の坂でよくドブに落ちたのよ、私。側溝っていうの?
冬は手袋にいっぱい雪玉がついた(笑)。今みたいな素材じゃないものね。
指もほっぺも真っ赤で、家に帰ると母が両手で優しくみ込んであたためてくれた。
しっかしドブにはよく落ちましたわ。
今さらながら自分のニブさと母の愛を感じますわ。
ね、早くに亡くなってしまいましたけど、何十年たっても心があったかくなることをたくさん残してくれている。
私は娘に残せているのかな。
…この絵日記一冊兄に返すべきでしょか(笑)。
いらんと言われそうな(笑)。
ほんとう、ひっどい子供でしたわ。