毎日が夏休み

LEAVES THAT ARE GREEN TURN TO BROWN

大倉山ジャンプ競技場 ジャンプ台スタート地点を観に行く

2015-05-08 21:30:30 | ジャンプ台放浪記関連

 

ゴールデンウィークに合わせ、

大倉山ジャンプ競技場でジャンプ台スタート地点を10日まで一般開放しているとのこと、

やっと今日行ってきました。

これって毎年やっているのかな?

何度か展望台に寄ったことはあるけれど、

あの、あの、あの(しつこいですな)、あのジャンプ台のスタート地点ですよ、まさにあのあそこ。

 

 

 

 

ひゃぁぁぁ!!

 

どういう状況かといいますと、

 

 

 

このレールの先というか、ちょうど観光している人の足が写ってしまいましたが、

ここから先左手が、ストーンっと、もうもう転がり落ちちゃうほどの急勾配、いったい何度なんだ?

その転がり落ちる手前に鉄パイプとネットで柵が作ってあり、

そこまで私のような一般人でも入っていくことができるという、

興味のない人には「だから?」と言われそうですが、

ジャンプ台に親しみをもつ私としては、このチャンスを逃してなるものかと(笑)。

 

で、どれぐらい急なのかといいますと、

 

 

これよりもっと急すぎて伝えられないのが残念なのですが、

もう滑るというより、かろうじてスキー板がアプローチ面に接しているというか、

転がり始める一歩手前という感じ。

 

 

 

後ろに見える藻岩山や、リフトそばにある「柱」の位置がまっすぐになっているでしょ、

で、対して、この傾斜、どうしてここを滑るというか飛ぶというか人間業ではないって。

もう、すっげぇーとしかいいようがない。

 

 

 

三角山と並走というか並滑り落ち。

 

 

 

スタートゲートからカンテまで幅2.5メートル、長さ101メートル、

おお、カンテ(ジャンプ台先端の踏み切り台)に達したときは時速約90㎞まで加速しているんですって。

で、アプローチを挟み左手が遊歩道になっているのは知っているけれど、

右手のリフトとの間に木道というか細い階段があり、下でジャンプ台をくぐる形になっていて、

いったいこれは何なんだろう、困ったことに素朴な疑問がこの場で浮かんでしまいまして。

運よく係の人がいたので(私一人だけだったし)、あの階段は何ですかと質問をしてしまったのですが、

さすが大倉山競技場、素朴な疑問に答えて下さりました。

昔の、古い作業用の階段だそうで、今は使われていないとのこと。

昔のって、いつごろまでの昔ですかとまではさすがに訊けませんでした。

 

生憎黄砂&曇り空でぼんわり景色が霞んでいましたが、

滅多に立てない場所に立つことができ、これ冬場もやってくれないでしょかね。


シルバーシャンツェ 2014年秋

2015-01-06 23:57:57 | ジャンプ台放浪記関連

 

延び延びになってしまっていたシルバーシャンツェ遺構を見つけてきた話の続きです。

前回の、予告のような記事はこちら 

 

大正11年(1922)1月6日、ちょうど今日は2015年1月6日。

テレビ番組のように「今日は何の日だったでしょう」なんて問題があるとすれば、

答えは今から93年前の今日はシルバーシャンツェの杮落しの日、きっとだれも答えられないのでは。

そう、2026年冬季オリンピック招致に札幌が名乗り出ていますけど、

日本初の固定ジャンプ台が札幌の小さな三角山にあったことなんて、

きっと上田市長も市の関係者も北海道知事も知ってはいないと思います。

 

そのシルバーシャンツェはいったい三角山のどこにあったのか。

土と木造建築の櫓で造られたジャンプ台は90年以上たった今どこまで形跡が残っていて、

それを見つけだし、そこに実在した確証を得ることができるのか。

 

2014年秋、シルバーシャンツェになんだか惹かれる、縁のあるメンバーが集まり尾根を下りて行きました。

 

ジャンプ台といわれてもピンとこないかたがほとんどかと。

昔でいえば「日の丸飛行隊」、あるいはあの「船木~」、最近では「レジェンド葛西」に「沙羅ちゃん」が飛ぶ、

あの巨大な滑り台のような飛躍台。

 

 

 

 これがその三角山にあったシルバーシャンツェの櫓です。

木造建築物ですので、これがそのまま残っているとは思えない。

 実際取り壊したという話も残っています。

 

現地に立ってみると、私個人の感想ですが、浮かんだ言葉は「え?」でした。

他のメンバーはどう感じていたのかは知りません。

もっと遺構、あるいは廃墟的雰囲気が残っているかと想像してきたのですが、

目の前にあるその空間はほとんど「自然」な状態で、

そこだけ植物樹木の生え方が少し違う広場が残っているだけという印象でした。

期待度が高すぎて気持ちだけ先行してしまっていたのかもしれません。

あるいは、廃墟的形で残っていて欲しいという想いが強すぎたのか。

その場に立ったら泣いてしまうのではないかと心配していたのに、取り越し苦労のようでした。

でも、これがおかしなもので、後からじわじわと愛着というか親愛感というかやっぱり愛でしょか、

じゅわ~っとにじんでカラダ全体をしっぽり包み込むこの気持ちは何?

 

記録では、「踏切地点から10メートルほど下に岩盤が出ていて、

工事をするのが大変だった」という内容のことが書いてありますが、

 

 

 

ここのことかもしれません。

踏切地点よりちょうど10メートルほど下左側(高い地点から低い地点を見下ろして)に、

岩盤らしきものが現れていました。

 

 

 

 

踏切地点近く。

 

 

これだけでは「ここにシルバーシャンツェがあったんじゃないか?」と疑問が残る形にしかなりませんが、

この後決定打といえる遺構を見つけることができました。

遺構とは前にも書きましたが、失われた建造物の配置や構造を知る手がかりとなる残存物のことをいいますが、

この踏切地点手前に自然の物とは思われない、明らかに人の手が加えられた、

人工的に造成したしか考えられない、階段状になった斜面を見つけ出したんです。

あ、あまり期待を大きくもたずに見ていただきたいのですが、

 

 

 

わけのわからぬ写真なのがとっても悔しい。

 

 

石を積んで土を押さえているのがわかるでしょか。

階段、石と土の段、段々畑、どう表現したら通じるのか、

平らな面が2メートル弱(測ったのですが忘れてしまいました)、

石の土留め、その下にまた平らな面と、数え間違いがなければ6段、この斜面に造成されてありました。

 

 

 

笹に埋もれていますが、こんな山奥の斜面に6段にもなる階段があるわけない。

ということは、やはりここに93年前にシルバーシャンツェがあったということになるのでは。

斜めに線が走っていますが、これは持ち込み計測したスケールです。

 

 

 

 

これはシルバーシャンツェの設計図です。

人工的造成階段はC地点~B地点間のC地点寄り。

踏切地点近くの写真はほぼC地点。

一期工事では盛り土でアプローチ30メートル造成。

現地でも周りよりも高くなっている「小山」のような部分があり、その地点までスケールで測ってみると、

 

 

 

ほぼ等しい値が。

ちなみに先ほどの笹の写真に斜めに走るスケールが写っていましたが、これがそれで、

C地点より下踏切地点と思われる場所から盛り上がった地点Bまでの長さです。

 

二期工事ではB地点から上に櫓を組みアプローチを20メートル延長。

 

 

これまたA地点と思われる20メートル先にも盛り上がりができていて、

合わせて記録通りアプローチ50メートルとなりました。

 

 

盛り上がった部分の幅もほぼ5メートルで記録と合致する。

 

 

 

全景とまではいきませんが、ここがシルバーシャンツェの跡地に違いありません。

(看板と短冊のようになってしまいましたが、はっきり姿が写っているので…)

 

もう一度シルバーシャンツェの写真を。

 

 

重ねてみると、こんな感じであったのかもしれません。

 

この斜面の土の硬さも調べてみたのですが、まるで杵で突いたような硬さで、90年以上たった今でも、

枝の先で掘ってもびくともしない硬さだったのには驚きました。

全部人力での工事だったでしょうに。

 

その後、資料を調べてゆくにつれいろいろな疑問点が出てきましたが、

今となってはしっかりとした細かい信頼できる記録が出てこない限り、

シルバーシャンツェの最終的な形は調べようがないのではと。

たしかにここにあったんだということがわかっただけで私は満足しています。

それが大きな事実なのですから。

今回私たちが調べに下りていき遺構を見つけたことにより、

これで別の意味でシルバーシャンツェはこの三角山の尾根に固定されたことになり、

シルバーシャンツェとともに放浪してきた私(あるいは私たち?)も放浪者ではなくなるわけです。

楽しかったなぁ。

93年前の今日は杮落し。

目の前にある三角山の斜面を北大生たちが転げ落ちて、いや飛んでいたのかと思うと感慨もひとしおです。

転げ落ちと書きましたが、これはわざとふざけて書いたのではなく、

ランディングバーンの平均傾斜30度、

80メートルという大規模なシャンツェにこの日の杮落しはほとんどの人が転倒し、

転ばなかったのはたったの一人だったそうです。

記念に私たちも「千仞の谷底へ落ち込む感があり、腹の中が皆其の侭もって行かれるような気がした」

とのちに語られたランディングバーンを果敢にもアタック、

転げ落ちそうになりながらも無事下界?に戻ってきました。

 

いやぁ、しかしだね、誰も私のこと女性扱いしてくれてなかったな(笑)。

初め私がビビりまくっていた時は声をかけてくれたけど、

そのあと「あいつはいける」とハンコ押されたのか、藪だろうが転げ落ちそうな急斜面だろうが関係なし(笑)。

これって私としては嬉しく、誇ってもいいことなんだろうけれど、でもやっぱり可笑しくてちょっと哀愁か(笑)。

といいつつ、本当いいメンバーでした。

一人一人名前をあげて感謝の気持ちを伝えたいです。

今回かなり私は物忘れと頓珍な問答を繰り返していたように思えます。

4年間まるっきり離れていたし、専門的知識もなければ立体視もできない。

それでも今でも時々あの時の風景がよみがえり、胸のあたりがじゅわっとなります。

 

 

 

なんだか最後はナウシカっぽい(笑)。

シルバーシャンツェ跡地で見つけたラン科と思われる植物。サイハイランかな?

今年の春にはシャンツェの片隅で静かに咲いていることでしょう。

ノバラの細い木も、ナニワズも育っていた。

あの階段のような造成斜面、90年以上経っているのによく残っていたものだと思います。

あれが見つからなかったら、怪しい場所レベルで終わるしかなかったかも。

アプローチ部分の斜面の形状も確かに自然っぽくないようにも見えるけど、

切り盛りだけでは決定打には至らなかったかも。

この先シルバーシャンツェはどうなってゆくのでしょう。

日本最初の固定式ジャンプ台遺構が90年以上経った今でも残っているというのは凄いことだと思うのですが。

でもこのまま静かに静かに何十年もかけて周りに飲み込まれてゆくのかな。

まぁ私が生きているうちは、思いを馳せる人間がまだいるということだな。

そう、やっぱり私の窓はシルバーシャンツェの特等席でした(笑)。

シルバーシャンツェの踏切地点から我が家が見えたのには喜び笑いました。

私の窓からじゃなくても、シルバーシャンツェ跡地はしっかり姿を現し見えているんですよ。

どうぞ見上げてみてください。

以上、シルバーシャンツェ2014年秋の報告でした。


書かなくてはならぬことがあるのになかなか書けないこの日々に

2014-12-30 01:07:07 | ジャンプ台放浪記関連

 

「ジャンプ台放浪記」にまた戻ってくるとは思ってもいませんでした。

 

あれから4年。

 

結果をまず最初に書いてしまいます。

シルバーシャンツェを見つけました。

シルバーシャンツェはそこにあり、現場に立ち、その遺構をこの手で確かめてきました。

 

遺構とは。

【遺構】①今も残っている古代の建造物。

        ②失われた建造物の配置や構造を知る手がかりとなる残存物。   

                                   新選国語辞典第七版より

 

シルバーシャンツェの遺構を確認しに行ったのは今年の秋。

そして今はもう雪が積もった12月。

何故間が空いたのか。

…書けませんでした。

いろいろなことを考えてしまって。

でも、大袈裟な話になってしまいますが、

もし私がいなくなったら今後誰かに書かれることはないだろうと思い、

(同行者も書きのこしてくれているはずですが)

このままシルバーシャンツェの存在が人々の記憶から消えてしまうより、

あるいは私たちがしてきたように、またシルバーシャンツェを探し歩く放浪者がでないためにも、

さらに大きくなりますが、今後のジャンプ界の歴史のためにも書いておいたほうがいいのではと、

2014年が終わってしまう前に、駆け込みですがこうやってパソコンに向かっています。

 

ジャンプ台を探し始めたきっかけは単純明快でした。

私の窓から三角山がよく見えるのです。

ほぼ対面してますね(笑)。三角山にも頻繁に登っていますし。

その三角山にジャンプ台があったと知った時、「うわっ!」と驚きまして。

目の前にある山にジャンプ台があったなんて信じられない。「うっそー!」状態。

(大倉シャンツェ級の大きさを想像していましたので)

それも、日本で初めてつくられた固定シャンツェだなんて。日本初!

さらにそのシャンツェをつくったのは北大のスキー部、学生さんたちの熱い想い。

じゃあその熱き想いの結晶のジャンプ台はどこの斜面にあったのかとなると、

これが全然わからない。

いまでは調べる気になれば検索ででてきますけど、

当時は地道にひとつひとつあらゆる可能性を調べ、読み、聞き、歩き、

やっと道新本社にて大正時代の北海タイムスの過去記事から一枚の地図を見つけ、

そこに描きこまれていたジャンプ台の印からシルバーシャンツェの位置をほぼ確定とみなし、

一連のことをまとめて書いたのがジャンプ台放浪記です。

(今では恥ずかしくて恥ずかしくて、その後読み返すことは一度もしていません。若かったな)

アルファシャンツェ、札幌シャンツェよりもシルバーシャンツェへの思い入れというか、

シルバーシャンツェだけは私にとって別格、特別な存在でした。

だって三角山ですから。札幌シャンツェも三角山ですけどね、ちょっと私の中で温度差ありすぎです。

 

ざっと簡単にシルバーシャンツェについて説明しますと、

1921年(大正10)12月に着工、翌年1月6日に杮落しされた日本初の固定式ジャンプ台。

以後数回工事で手直しするものの、あまりにも規模が大きすぎたのか数年で姿を消すことになった。

今年が2014年ですので93年前ということになります。

当時はコンクリートなどなく、土と木造の櫓で造られたジャンプ台。

 

93年前の木造建設のジャンプ台がいったいどういう姿で残っていたのか。

 

ここから先は、協力してくれた大切な方々の名前(ハンドルネーム)は出しません。

なんだかシルバーシャンツェに惹かれる者どもが集まりまして(笑)。

いいメンバーでした。最強だったんじゃないかい?

 

2014年秋。

三角山にある尾根を私たちは下りて行きました。

 

勿体ぶるわけではないのですが、もうこんなに遅い時間なので続きは後日にします。

明日書けるかどうかも時間的に不安ですが。


第38回HTBカップ国際スキージャンプ競技大会

2011-01-10 22:38:38 | ジャンプ台放浪記関連

 

 

 

ジャンプ台放浪記で何度もジャンプ台のことは書きましたが。

どうでしょ、札幌在住のかたで実際に飛んでるところといいますか、

ナマでジャンプを観たことのある方は少ないのでは。

ありません。

あんなに書いたのに、こんなに近くなのに、

私はナマで現地でリアルタイムで観たことも観に行こうとしたこともありません。

まぁ、他のお山からだったり大倉山のベンチの道すがら、

ちら見したことならありますけれど。

 

 

 

おっ、でしょ(笑)。

 招待券もらいまして。

大雪の翌日の1月8日、

意外と晴れていたので、大倉山にジャンプ初観戦に行ってきました。

 

 

 

 

 

 おぉっ。

試技後の準備&調整です。

誰か一人ぐらいずずずと滑り流れるのでは、

人間流し素麺が見られるのではなんていけない期待が広がったのですが、

さすがプロっ。←きっと。

誰一人体勢を崩す人はおりませんでした。

 

 

 

 

 

防寒腰にブランケット巻きジャンパーと、←一応娘は飛んでるマネをしています(笑)。見えんっ。

 

 

 

 おばさん陸ジャンパーっ。

 

 

 

 作業を横目に撮って遊んでるうちに、

 

 

 出来上がり。

さきほどはなかったK点の赤ラインが入っております。

 

 

それと、

 

 

 

着地地点や斜面にササが規則正しくぶすっと刺さっておりまして。   ほら、下に抜け落ちて散らばってる。

これってきっと着地時の減速用と、ジャンパーさん目線の飛距離確認?道しるべ?の役目なんでしょね。

 

 

 

1本目開始。赤いラインは画像でもわかりますが、

ササを刺したラインもうっすらわかるでしょか。

 

でね、

ほら、よくTVで『鳴り物』を使って応援している音が入っているの、わかります?記憶にあるでしょ?

太鼓や笛?ぷっぷこぷ~ってやつ。

あれがね、やってるのよ。ブブセラはいませんでしたが(笑)。

応援団さんが来ていて一生懸命応援しているっ。

臨場感もりもりアップっ。

で、おかしかったのが、

応援団の人がまだ空中を飛んでいるジャンパーさんに聞こえるよう大声で、

『いい感じっ、いい感じできてるよ-ーーーーーっ!!』と叫んでいるのですが、

ドイツ人ジャンパーさんよ。日本語OK?通じてる?通じない?

いや、熱い気持ちは伝わっていることでしょう。

 

 

 

 

 私たちの位置からだと、空を飛んでる状態で視界に入ってくるのよ。

本当、空を飛んでるのよ、ふわーーーっとね。

すっごいですわ。降ってくるのよ、人が。

 

 

 

 これは船木選手。

 

 

 

手袋で切り替えしているううちに変なことしちゃったようで、

ここからタウシュベツの時のような色になってしまってます。あしからず。

 

なんとかジャンプ姿勢を写そうと高速連写で写し続けたのですが、

やっぱり私のデジカメでは無理でしたわ。

映ってはいるんですけど、位置的にも後ろの木の枝と同化しちゃってね。

取り込んで見てみると、なんだかパラパラ漫画みたいになってて面白いですわ(笑)。

 

 

 

 

1本目終了。

 

で。

 

HTBといえば、

 

 

 ONちゃんっ。  ジャンプ観戦中。

 

娘、必死でONちゃんに熱いコールを送り始めまして。

 

 

 

ONちゃん、気がついてくれたっ!!

 

となると、

 

 

 

 こうなりますだ(笑)。

HTBの綺麗なアナウンサーのおねえさんが写してくれました。

曰く、『黄金色のONちゃんに触ると縁起が良く、一年間無事に過ごせるんですよ』

娘と二人で触りまくり(笑)。腕ぶんぶん振って握手握手っ。

さすがにハグはしませんでしたけど。

ONちゃん、おケツぶるぶる振動してましたわ。ヒーター内臓だったのでしょか?

 

 

 

今度はスキーを履いて点検中。誰も流れてきませんでしたわ。

 

 

ここで帰ることに。

満足、満足っ。

選手のみなさん、大会関係者のみなさん、ありがとうございました。

 

 

ジャンプ台の歴史に関してはいろいろ調べ、縁がありましたが、

実際この場で飛んでいる姿をみて感じたことは、

意外に淡々と、

目の前で今飛んでいる。

うん、飛んでいる。今、飛んでいる。 飾り無い素直な感想がこれでした。

 

 

 

 

ここにも「さんかく」がつく公園があるっ。

いったいこの界隈にいくつあるんでしょね、さんかくのつく公園は。

 

 

 

 

 

 大なまこ山(宮の森4条緑地)。踏み跡、なし。

 

 

 帰宅後、会場で渡されたONちゃん袋を開けてみますと、

 

 

 こういうのってなんだかもったいなくて使えない性格です、私は。

 

さらに、

 

 

 

ONちゃんからのお手紙がっ。違うって。

 

 

 当たったみたい(笑)。どうしましょ。

娘のには入ってなかったから、やはり全てってわけでもなさそう。

ちなみに選手サイン会にも当選しておりました。

って帰ってきてしまいましたけど。

 

近いのに、なかなか見る機会の無かったジャンプ大会。

迫力ありましたわ。

行って良かった。

ね、機会があったらぜひ1度。

独特の空間でしたね、開放感と迫力と。ONちゃんにも会えたし(笑)。

今日のHBCカップのチケットも何故かあったのですが、

こちらは娘の帰る時間もあり行けませんでした。

青空の日にもう一度観に行きたいですわ。

 

 

 


昭和33年第13回冬季国体札幌  荒井山ジャンプ台動画

2010-08-24 20:56:56 | ジャンプ台放浪記関連



凄いっ。
凄いですっ。





昭和33年第13回冬季国体札幌
 




コメントを寄せてくださるytさんがこの動画を教えてくださいまして。
いやぁ、胸にぐんときちゃいます。
リフトが動いている。
大勢の人たちが荒井山のあの斜面を歩いている。
そしてジャンプ台と飛ぶ人の姿。


いやぁ、大倉山で宮本スロープの映像を見せてもらったときもずんときましたが、
この映像も確かな記録ですわ。


これはまた荒井山行かなくちゃ。
行って立ってみなければ。
いやぁ、感激というか感慨というか。
なんだか興奮して細部はきっと見落としているはず。
じっくりポーズかけてみたらいろんな発見がありそう。


ytさん、ytさんの友人のかた、そして動画の投稿者さん。
ありがとうございました。







上を向いて歩こう 3

2010-04-20 22:07:07 | ジャンプ台放浪記関連





電信柱は語る。上野さん?


あ。
先ほど気がついたのですが。
私言葉というか説明足りませんでした。
私の頭の中だけで理解と進行していたようで。


北5条手稲通からこちら(三角山)のエリアの通りの名前と電信柱を追っていました。


使用する画像も3月から今日までと季節感も色もごっちゃですが。










お世話になった山の手図書館。
この図書館の入り口が中学校のグラウンドに隣してありまして。








いい眺めでしょ?
この角度の三角山は綺麗だなと。
西、あるいは東に移動すると、
1丁ごとにカタチが変わってゆきます。
…しかしヒドい色だわ。


で。
面白いのですが。
この図書館入り口の角がちょうど電信柱標識の境?となっておりまして。
上の画像右端、
グラウンドの緑のフェンスにある電信柱は「本通幹」。
画像手前突き当りの角にある電信柱は、









かっちょこいい、
いえ、






水上幹なのですわ。
…水上通幹ではないのね。



さて。
この水上通り。みずかみともみなかみとも出てきます。
さっぽろ文庫1 札幌地名考ではみずがみどおりで載っています。
現在の山の手4条と5条の間ね。








はい、これが現在の水上通り。
昔は病院がふたつぽつんとあるだけだったそうな。
離れた場所に建てられた病院=何を意味するか。
今はかつて流れていた小川の形跡もありません。


…この通りはいろいろ調べて探せばいろいろなことがでてきそうなんですけど。
防火用水路とか池とか神社とか。







こういうのもあるっ(笑)。
いえね、
話それますけどね、この飲み屋さんの集合体の会館ってね、
私かなり興味あるんですけど。
もちろん潜入しませんけど、
建物の前を通るとびりりとくるんですわ(笑)。
オンナが一人で行きたいけど行けないエリア。
ここの会館前ぐらいなら問題ないですけど。









こんな建物も。






もっさもさ~。









キャラメルハウス。

あまりよそ様のお家じろじろはいけないわと思いつつ、
歩いていると味のあるお家を見つけちゃってどうしようと葛藤いたします。








これは北1条宮の沢通りに近いエリアの水上幹。
縦のラインと横のラインと幅でのライン。








香蘭幹ラインで思わず写してしまったお家。







バスから見ていて、
実際に歩くとなかなか写せる場所がなかった山の手幹。


ご近所生活エリアですから(笑)。
札幌全域とか大通りは大通幹かとか、
有名な通りはどうなのよと思ったりしますけどね。
そこまではなかなか出来ませんわ。
まぁね、
ジャンプ台調べているときに出てきた通りだけは探してみようかなとね。


みなさんもたまには上を向いて電信柱チェケラッチョ(笑)。


…実はおまけというか、あぁ…というか。
もうひとつばかちんこなことしてました私。









数字です、
必ずついている識別というかこの数字。
語呂遊びというかなんか面白いのラッキーそうなの当たりはないのかなとね(爆)。
これは7979泣く泣くね。







5234。
なんか惜しいようでいい流れだと思いません?
リズム感あるでしょ?5234。









9669。







4669。






1144。







5511。



1192作ろう鎌倉幕府とか、
0794ウグイス平安京とか期待してたんですけど(笑)。
誕生日とか電話番号とかもね。
さすが中央区は5桁でしたっ。


でもどこかに1000とか1234もあるんでしょね。
いえいえ探しませんから。
「おぉっ」と感嘆の一本がありましたら提供してください(笑)。
画像を適度な大きさに縮小して送ってくだされば、
電信柱の殿堂入りとなるでしょう。


とまぁ、
ジャンプ台からここまで発展してしまっていたのでした。





上を向いて歩こう 2

2010-04-19 20:59:59 | ジャンプ台放浪記関連




電信柱放浪記?(笑)。
やりませんから。もう彷徨いませんから。


昨日ちらりと書きましたが「琴似墓地通り」。
これ聞いたこと私ないんです。
でもしっかり本に書き残されているので、
昔はこう呼ばれていたのでしょうか。


現在の山の手2条と3条の間の通称「琴似墓地通り」。
~略~「琴似墓地通り」は、かつて琴似に入植した人々の埋葬地が近くにあったことからその名がつけられたもので、
村人に大変親しまれていました。   わが街 札幌の「三角山」より


山の手南小学校には墓地跡の碑がありますし。

都通りって?
都通りは??


で。


見上げてごらん、通りの電柱をなんですけど。


私ね、期待していたんです。
電信柱に「琴似墓地通幹」って名前がついていることを。


あれ?








香蘭幹??


え…?










ここが琴似墓地通り。










二十四軒からお山の麓まで香蘭幹でして…


そうか。
墓地通幹なんて縁起悪そうだしね。
香る蘭。
これってお葬式・仏前・お墓のイメージあるわよね。
香る蘭。墓地。
そうか、昔の人は奥ゆかしいのよね。


なんて真面目に数日間一人で肯いておりました(爆)。


が。


とんでもない間違いに気がつきまして。
エラい私は自ら過ちに気がつきまして。


確か山の手高校って昔は女子校で名前が違っていたような…
ざわわ…
調べてみましたら、

昭和27年 4 月
札幌市琴似町山の手に移転し、校名を「札幌香蘭女子学園高等学校」と改称
昭和63年 4 月 男女共学に移行し校名を「札幌山の手高等学校」と改称


ブログに載せる前にシナプス繋がってよかったなと。
コーランも考えましたから(爆)。


おそらくこの高校の名前を取って香蘭幹になったのではと。
これみどちゃん説ね(笑)。


ならばっ。


香蘭(高校)幹があるのなら、
西高幹もあるに違いないっ。










あったっ(笑)。










琴似川。昔の呼び名は十二軒川。


西高幹は宮の森北24条通りにありました。

…あのね、
片側2車線以上になると危険でね(笑)。
この名札というか標識は必ず中央に向いて貼ってありまして。
車道に出ないと見えない撮影できないでして。
どうしようなんて悩んだりしてね(笑)。
メインの大きな通りだけではなく、
横の路地なんかにも同じのがついているのを発見して安堵しましたけど(笑)。



となりますと。
本通りはどうなのよ?と思うでしょ。
昨日も書きましたけど、この本通り影薄いんですわ。





大正5年




昭和25年


ね、
本通り意外にも大きな通りでないでしょ。
両脇の水上通り、琴似墓地通りのほうが使われていたような。
この わが街 札幌の「三角山」にも本通り栄町通りは出てきません。








本通幹。










同じく青空バージョン。
かっちょこいいっ。


結構上を向いて歩くのも楽しいでしょ?(笑)。
移動速度が速いとこれは出来ない技でしょか。
でもかなり怪しい不思議な光景でしたわ。
私が恥ずかしいけどくっと真上の電柱目掛けてデジカメ向けるでしょ。
必ず周りの人も上を見ますねっ(笑)。
で、何?この人何写してるの?何が面白いの?仕事?ってね。
?が飛んでるんですわ(笑)。
写したら足早にその場を去るっ。
撮り直し不可。


明日は水上通りとおまけの電信柱を。



上を向いて歩こう  

2010-04-18 23:20:20 | ジャンプ台放浪記関連




深みにはまっております…




さて。
ジャンプ台調べで通りを歩くことが多かったのですが。
意外というか、
意外では全然ないんでしょけど面白いことに気がつきまして。
何他に考えて歩いていたんだこのおばはんはなんですけど…


これです。








北大シャンツェ跡を調べに歩いたときに見つけた電信柱。
それがどうしたって?
一二軒。一二軒っ!
それがどうしたって?(笑)。
あなた一二軒じゃないですかっ。


宮の森は十二軒という名前でした。


それで閃いたのですが、
電信柱には誰もが使っていた地名・呼び名が刻まれているに違いないっと。
工事作業事務全ての人たちに通じて間違えることのない代表的な名前がついているに違いないと思いません?
なにかヒントになる古い地名や名前が刻まれているかもしれないと。



…ここまで読んで既に数名あきれてお口ぽかんでしょ。
そんなこと考えているヒマがあったら何か他の善行をいたせとな。




この電信柱を発見する前に、








これです、
私が週に数回通っていた図書館途中の中学校フェンス脇の電信柱。
今時珍しい木製でして。
電信柱→古い→昔からある→何かきっとある。
以来電信柱に注目していたのです。





で。




ここからなんですけど。



ジャンプ台探しでいろいろな本を読みまして。
特に札幌、西区、以前の琴似村、
まずは地域関連から読み始めたのです。
そこで見つけたのが通りの名前でして。


・十二軒通り
・文化通り
・琴似墓地通り
・水上通り

栄町通りor本通りがないって?
その通り。
まぁこれは置いておきまして。


十二軒通りは現在の宮の森2条と3条の間の道だそうです。
ここ私のテリトリーではないので語れませんが、
最初の電柱の撮影場所は宮の森4条12丁目。
十二軒といわれた地域、十二軒川のそば、十二軒幹。


ね?面白いと思いません?
興味がうずうずわくわくでしょ?(笑)。



で。
私の仮説、
【呼ばれていた通りにはその名のついた電信柱があるに違いないっ。】
これを心とアタマに旗揚げいたしまして(爆)。



まずは文化通りを確かめてみましょうと。
文化通りはジャンプ台探しで何度も目にした名前です。
現在の宮の森(中央区)と山の手(西区)を分ける道です。
その先に札幌シャンツェとアルファシャンツェが鎮座していた。







西高校舎横から。
宮の森病院のところに札幌シャンツェ、大なまこにアルファシャンツェ。
あったら絶景だったでしょね。
そしてここの道が文化通りで、
私の仮説が正しければ電信柱には何か文化の香りがしてるはずっ。






きたっ!
してるっ、くんくんしてるっ!




となると、
以前から不思議な変なわからんちんだなと思っていたこの名前の看板、








何故お風呂やさんが文化湯?
これも文化通りにあるお風呂屋さんなら文化湯よねと。


いえね、
ここに移り住んでからずっと変な名前よ何故に文化?と思っていたわけです。
神宮温泉とか西野湯とかならわかるけど、
どうしてお風呂が文化なの?お鍋?あ、古すぎて通じない?(笑)。


まぁこの日はこの後用事がありまして。


後日再調査というか、
文化通りを奥まで歩きにぽこぽこと。






完璧ヘンな目で見られます。
あるいは何か鳥でもいるのかとね。


で、
二十四軒方向に歩いていっても電信柱は文化通幹でしたわ、やっぱり。
あ、それと、
このとき初めて気がついたのですが。
電信柱と一口に言っても、
北電のとNTTのがあるみたいで。
ただ共通していたのはどちらも文化通幹。



歩きながらね、
これって問い合わせしたら名前と区画、
管轄の部なら一発でわかるってね。
そのほうが早いしいろいろ調べれる、教えてもらえるかなと。
でも。
この状況を説明するのってすっごく恥ずかしいよな。
なんて問い合わせする?
…自分の足で歩くのが楽しいかもとね(笑)。







結構奥まで歩いてきたでしょ?


進行方向左手に看板発見。
左折。








おっ、






文化湯っ。









電信柱は文化通幹。
いいぞいいぞ。



でね、






仏壇仏具店が目に付くようになりまして。
これも歴史に結びつくのかもしれませんけど、
ここいら辺はお寺や宗教関係の建物も目につく地域でして。


といいつつ。





私を呼んでいたのはこちらでしたけど(笑)。
この日は心の準備不足で立ち寄らなかったのはご存知かと。
ここは文化通りと交差する二十四軒の大きな通りです。
交差ではないか。
先は歩きませんでしたけど文化通りの終点起点T字通りでしょね。
…うまく説明できないなぁ。








ね、
これは琴似墓地通りに関係ありだと思いません?
でも私、
琴似墓地通りって初めて聞く名前なんですわ。
この琴似墓地通りの近辺に住んでますけど初耳。







墓地通幹ではなく昭和通幹。
これどこで写したか覚えてないのです。
通りを曲がって、






山手湯っ!知らなかった。







この山手湯の小路にさきほどの電信柱があったのかな?
近所だったのは間違いないはず。


戻って、
あ、
私の弱点なんですけど車運転しないので道路の名前にとても弱いのです。
ここは宮の沢北1条線?旧国道5号?あそこの通りです。







またでしょ。







昭和通幹。
そういえば都通も聞いたことがある。


あまり深追しても身の破滅ですので。
帰りは琴似墓地通り。
これは明日にでも。



ジャンプ台放浪記

2010-04-17 23:06:06 | ジャンプ台放浪記関連





さぁ今日で仕上げましょ。









いつから始めたのでしょ。
私が三角山に行くようになってから?
2年前にはもう探しに歩いているし。


単純にね、
すっごく単純にシンプルに、
私の窓から三角山のジャンプ台が見えていたのか。
もしそうだとしたらどんなに素敵でしょうと。
歴史を知りたいとかよりも、
毎日眺めているこの景色のなかにジャンプ台があったのかなと。


時代も規模も何で出来ていたのかも分からなくて。
勝手に、
30メートル級ぐらいの木材&鉄骨&コンクリートの土台がアタマに浮かんでいたのです。
このお山の片隅にその廃墟が眠っているとね。
それを見つけに行かなくちゃと。


ところが、
時代は大正、素材は木。
日本で最初かもしれない固定シャンツェだとわかりまして。
そのもとは北大生が板を担いで作った飛躍台だと知りまして。


今みたいな高機能のウエアも肌着も手袋もブーツもない時代。
どんなに寒くて冷たくて痛かったでしょうと。
熱い想いだけでユキマミレになって飛んでいたのかなと。
これは私だけの夢とロマンのジャンプ台ではないんだとね。
まぁやってしまったわけです。


自分でもここまで調べれるとは思っていませんでした。
不思議なことに、
本当不思議なんですけど、
必ずポイントポイントで誰かの助けを得られるのです。
これからどこをどう探せばいいのか、
必ずヒントを与えられ、
私はそれをかき集めたにすぎないのです。


…タウシュベツ橋梁見に行った先の露天風呂で、
ジャンプ台の話になること自体方向付けされていたのかも(笑)。



実際ジャンプ台はいくつあったのか。
わかりません。
かなりの数のジャンプ台、簡易飛躍台があったのではと。
板製、スコップで雪を固めた製、櫓製。




端から始まりから。



大正7年 琴似ツツジ山の丘に木造の仮設飛躍台。
これが北大生が板を担いでスタートしたあの端っこの記号だと。
そうそうオペッカウシ。
アイヌ語の「尻・川・上・につけている・所」で
川岸が高い丘になっていることを意味しているそうな。





どんぴしゃっ。


ちなみにあまり良い画像ではないのですが、
私が2008年03月09日にここの住宅地奥からinしまして、
寺口山シルバースロープを歩いていた?画像が出てきましたので載せます。








高っ。怖っ。
画像手前下の柵から崖、すと~ん。
道路があって発寒川。












このときは『シルバースロープ』を狙ったのではなく、
あくまでも寺口山から尾根伝いに三角山まで歩くのがメインでしたので、
スロープは意識して写していないのですわ…



ジャンプの友が現地で撮影した画像、
載せちゃっても良いでしょか?
まずけりゃ即削除いたしますので。






私この画像大好きなんです。
きません?胸にくっときません?
勝手に共有共感できるというか、
私の目でもあるんです、ヘンな表現ですけど。
何故か私がそこに立って見ている感覚・錯覚に陥ってしまう。


三角山北尾根が正面に。
きっとその昔寺口山、
シルバースロープで滑っていた人がこの画像見たら泣けちゃうのではと。






さっぽろ文庫69 大倉山物語


開きで字が消えているとこ読み難い部分を書き足しました。
ここに寺口山シャンツェと出ているでしょ?

いつの時代なのか不明なので憶測ですけれど、
学校用のジャンプ台もあったという話を聞きましたし、
タウシュベツ、糠平温泉でお会いした元ジャンパーIさんは、
『あの頃は娯楽がなくスコップと板で作った台で飛んでいた』と話してくれました。
上の図イコールではないですけど、
ここいら辺にはジャンプ台が消えては現れてを繰り返していたのではと。








こちらは元ジャンパーのKさんが送ってくださった地図です。
ここで、雪をスコップで固めて造ったジャンプ台で一度飛んだことがあると。
Kさんからいただいた情報を元に(上の地図とは別の)北大シャンツェを探して歩きましたが、
そのときに思ったことは、
この記憶は確かだと。
こちらの記憶も間違いないのでは。
この三角山山の手側登山口に向かう(勝手にゼロの坂と呼んでますが)坂、
その石垣が組まれた右手のエリア。






昭和4年1月18日北海タイムス




これはくまぼうさんが現在の地図に書き込んでくださったジャンプ台3つ。
上からシルバーシャンツェ 大正11年こけら落とし
札幌シャンツェ 昭和3年
アルファシャンツェ 大正13年おけら落とし


このシルバーシャンツェには何度泣かされたことか(笑)。
北海タイムスの記事が出てくるまで足生えて歩く移動するでして(笑)。
私の理解力読解力のなさがさらに加わりわやな展開でしたわ。
仮設・新設と場所が大きく移動したこと、
数回に渡り改修工事をしていること、
シルバーシャンツェと命名されるのが遅かったこと。
これが私の混乱の大きな原因だったのでは。


必ず大混乱が起こりヘタれ崩れ、
助けてくれる人がいて、
立ち上がるときには何か必ず別のブツを手に掴んでいる(笑)。








大なまこ山。
年代はわかりませんが、
後ろが立派な街になってますし西高校舎らしきものも写っている。
木の生え具合もなかなか。
…これ何処から写した?
札幌シャンツェ付近?
でもこの頃にはもう無くなっていたのではと思われますけど。







宮の森病院開院が昭和58年。
その前はわかりませんけど採石の道路ありますからね。



【シルバーシャンツェは、台そのものはいまからみると幼稚きわまりないもので、
 またスケールも当時の技量にマッチしないものがあった。
 だからシルバー時代は案外短く、その後三角山のふもとに札幌山岳会がつくったアルファ・シャンツェ、
 市の力でできた札幌シャンツェが多く利用されジャンパー揺らんの地になった。
 しかし、外国書を翻訳し、写真をながめながら、未知のシャンツェと取り組んで、
 とにもかくにもシャンツェというものを築き上げた盛んな研究心、
 先覚者としての自負心は高く評価されなければならない。】 北海道大学スキー部七十年史より


【幾多の涙ぐましい努力がはらわれたが、このシャンツェには欠陥も多かった。
 ~略~昭和8年(1933)に部練習用「宮の森シャンツェ」がつくられるまで、
 北大スキー部員に愛用され、伴をはじめ神澤謙三、村本金彌などの名選手を生み出したのである。】
                                    さっぽろ文庫69 大倉山物語より

シルバーシャンツェは短い運命だったようです。



で。



これってびっくりというかやっぱりというか、
シルバーシャンツェは私の窓の真正面なんです。
我が家に向かって飛んでいた(笑)。
笑い事ではないってね。
ね?、やっぱり私は三角山とジャンプ台と縁があったと思いません?。



難航したシルバーシャンツェの場所特定。
巻き戻していけば、
北海タイムスにたどり着くきっかけを与えてくれたのが元ジャンパーのKさんと義理の娘さん(お嫁さん)。
3月30日の記事に写真や詳細を載せてあります。






これが送ってくださった地図です。
右側の○がジャンプ台のあった位置。
後日分かったことですが、
ここら辺は北大と縁のある土地で合宿所もあったそうです。
この合宿所=大野精七さんの本の琴似の合宿所とはわかりませんけど。


ここを調べに行って、
資料のコピーをいただいて(公開禁止)、
そのコピーに乗っていた北海タイムスの地図の一部分、
そこに書いてあるシルバースロープとツツジ山を見つけ、
(くまぼうさんには本当に感謝です)
それを拡大してみたらジャンプ台と思われる書き込みを発見した…
北海タイムス自体は非公開ではありませんので、
この新聞記事を調べに行って手に入れたのがあの汚いけど手ごたえのある地図でした。


さらにこの地図には盤渓小学校手前にも同じジャンプ台と見られる書き込みがあります。








これは昭和4年、シャンツェ建設の適地(大倉山に決定)を探しに来たときに、
大倉山裏側に位置する小別沢(現在の西区小別沢)の西南西斜面で雪のジャンプ台を造り、
試験飛躍をした時の写真です。


スコップと人の力が集まればジャンプ台って意外と造れたのかも。
我が家の裏の公園にも必ず冬にはわずかな段差のジャンプ台は現れますし。



ここで原点ともいえる私の窓からジャンプ台が見えていたかですけれど(笑)。
見えていたってものじゃないってね(笑)。
シルバー、アルファ、札幌、荒井山、宮の森。
これは確実。
大倉山は角度で隠れてしまうけど、
夜ならライトアップの光りは見えてるわ(笑)。
荒井山の横に北大シャンツェ、大なまこの腰にもひとつ、
寺口山赤坂山でも飛んでいた。
時代年代ごちゃまぜですけど(笑)、
なんだかジャンプ台の特等席というかスタンド席。
ありえないんですけどね、一同揃い踏みはね。
でも夢とロマンが目の前で繰り広げられていたとね。



なんでしょね、
本当不思議なチカラというか縁というか。
私一人ではとてもここまで出来ませんでした。


ジャンプがきっかけで知り合った、あれ?いつから?「ジャンプの友」、
ただの同期というだけなのに親身になって手伝ってくれたくまぼうさん。
元ジャンパーのKさんとその義理の娘さん、
元ジャンパーのIさん夫妻、
参加して下さったTammyさんヒデさんNoridearさん。
大倉山の学芸員さん、
道新のお姉さんに山の手博物館のお姉さん。
通い詰めた図書館(笑)。
コピーに埋もれ異世界突入する妻を温かく無視してくれた夫、
つまり好きなようにやらせてくれたってことね、
なんだか触らぬ神に祟りなし?(笑)。
うちのやつはヘンだけど何処行ってもいいからちゃんと帰って来なさいでして(笑)。
それから多くの方々が、
いったいどうなるんだと興味を持ち読んでくださっていた。
ありがとうございます。
ジャンプ台の他にあたたかいものを得られたような。
おかげさまでなんとかここまでわかりました。


でもね、
本当にこれは「みどちゃん説」ですから。


私は住んでいる家のこの窓から見える?ということで場所にこだわりましたが、
大事なことは細かい場所よりもっと他にあるわけでして。
それを時の流れと共に簡単に忘れてしまってはいけないよなとね。
知らなくたって生きてゆけるけど、
知っていたほうが断然いい。
そう思いません??









間違いのないように気をつけて気をつけて書いたつもりですが、
なんといってもそれが才能のような持ち主ですので…
何か新たなことが分かったり間違いが判明したらその都度訂正を入れます。


カテゴリーを新たに作りまとめようと。
整理整頓物事順序だてが苦手ですので…
どうしましょなんですけど…


枝分かれというか関連でその他いろいろ横で待機しております(笑)。
まだ当分この深みから逃れられない?(爆)。


ジャンプ台に関してはこれでおそらく「完」っ。
長い間お付き合いくださりありがとうございました。
深く深く感謝いたします。




ジャンプ台放浪記 琴似ツツジ山の丘

2010-04-15 21:06:06 | ジャンプ台放浪記関連


本日二本差にございます。
お、鬼奴か…?



…ぁぁ。
私ってどうしてこうなんでしょ…。


ツツジ山が気になっていることはしつこく書きました。
体当たりすれば出るかも知れないのが4つあるんです。
その4つとも私には酷だなと。
もういい加減知らない人に突撃は…キツいよなと。


それで。
夫もいないし意を決して中央図書館に長居で踏ん張ってみようかと。
朝から閉館まで悶々とね(笑)。


その準備として、
私の手書きの年表(これは一応丁寧な字です)をごそごそとね。
コピーの大群に埋もれておりまして。


で。


その手書きの年表に私赤ペンチェック入れてる一文がありまして。


どれどれ、何引いてるんだとね。


で。


あ。


私とんでもない一文に線を入れているっ。


琴似のツツジ山の丘に…


オーマイガーっ。


ごそごそごそ。








元文はこれです。
北海道のスキーと共に 大野精七著

P21 スキー駅伝競走(大正9年)

二月二十三日 一月下旬に琴似ツツジ山の丘に、幅四十センチ、
長さ四メートルの板三枚を使って造った仮設シャンツェで部内大会を開き、
十二メートルを記録する。


私が前に書いた記憶の文とは違います、これ。
あの文はこの「北海道のスキーと共に」を参考にして書いたのか、
それともその人の記憶で書いたのか。
まぁわかりませんけど、
確かにあの大野さんがこうやって書き残している。
これはやっぱり仮設ジャンプ台がツツジ山にあって、
ツツジ山があの地図の場所なら。

大野精七さんってね、
大倉山シャンツェに顕彰碑が建っていることから想像できると思いますが、
功労者?まず出てくる人なんです。


なんだか少し安心しました。
ツツジ山はもっときっちり知りたいけれど、
大野さんもツツジ山と言っていたっ。


…しっかし私っていったい。
もう一度振り出しに戻って読み返したら、
もっともっと分かることが出てきそう。



発寒川の昔の写真です。






いつ頃、どこら辺なんでしょね、これ。
川幅は結構ある。
石は角があまりなく平べったい。
そう深そうにも見えない。


これ、
ツツジ山のあそこらへんだったらなんて考えたら楽しくありません?



あ~本当肩の荷が下りたといったら大袈裟ですけど、
少しツツジ山に関して気が楽になりました。
あとは何故その呼び名が今は無いのか、
ツツジ山は本当にあそこだったのか。


きっといつか分かるのでは。
忘れずにさえいれば。
その前にもう一度見直しなさいってね…(汗)。



追記。
【幅四十センチ、
 長さ四メートルの板三枚を使って造った仮設シャンツェで】
これって縦に3枚並べて、
つまり幅40センチの長さ12メートル?
それとも横に3枚並べて、
幅120センチの長さ4メートル??

どっちなんでしょ?
幅40センチを12メートル滑るなんて絶対外れて落ちると思いません?
すっごくデンジャラスで、
一歩間違えば男子たるもの悲惨な運命が待ち構えていると思いません??

でも幅120の長さ4メートルなら加速も足りない?
やはり幅40の12メートルデンジャラスキラージャンピングだったのでしょか?
すっごいなぁ、北大生。




ジャンプ台放浪記 番外編~ 叫び

2010-04-15 18:49:49 | ジャンプ台放浪記関連


…。


























…失礼いたしました。



わかっていることだけ書けばいいのか。
わからない部分はわからない。
知ったかぶりも出来ないし、
あとからぽっこり見つかるかもね。


今日は息抜き&どんぐりパン祭りをと狙っていたのに、
これダメになったんですわ。
どんぐり悔しぃ。
どんぐりのパンむしゃむしゃ食べたら叫ばずに済んだかも(笑)。


よし、
本日2本立てを目指して頑張りましょかっ。
だって同じスペースに載せるのはちょいと恥ずかしいかも(汗)。
ならやるななんですけど。
まぁ息抜き、息抜きねっ。




ジャンプ台放浪記 リフト&ツツジ山

2010-04-14 22:35:35 | ジャンプ台放浪記関連



ダメだ、ツツジ山がすっごく気になる引っかかる。
新設のシルバーシャンツェより、
仮設の古いほうの飛躍台、
何か見落としている、
まだ何かある気がしてならないのですわ。


仮設の飛躍台というよりツツジ山。
ここでなにか大きなミスをやらかしている気がして落ち着かないのです。
この勘。
当たりなのかハズレなのか。



さて。
脳がギブアップと叫んでおりまして。
たまには違うものを食べさせろと。
え?食べ物?違うってね…

ジャンプではなくリフトを。

…ってしょう油味とソース味の違いじゃない?
もっとパフェとかケーキとか大福さまとかまったく違う味を食べたいんですけど。
あ、アルコールってのも要求大かも。
最近叫んでいなかったな…酒持って恋っ。
いや、これは瞬殺なりそうだな…


↑すでにお疲れちゃんなのは隠せないってね。


リフトよね、リフト。


コメント欄で登場したリフトですが。
リフトは要チェックから外していたのですわ。
だから慌てて本をごそごそと。
本ももうほとんど図書館に返しちゃいましたので、
詳しくは分からないのですが。
三角山スキー&ジャンプ衰退にも繋がりますので。


昭和3年 秩父宮さまの提案によって流れはどどどっと大倉山へと向かいまして。
当時は大倉山という名前は存在せずただの丘、斜面だったそうです。
ここに大シャンツェの白羽の矢がばきゅ~んと。
大倉男爵がぽいと私費を投じてできたのが大倉シャンツェ。
開場式は昭和7年1月16日午後1時っ。


あ、すっごく雑に簡単に書いておりますし、
勉強不足ですので流れの把握程度におさめてください。











下はスタンド席。
これ見て鈴鹿のF1思い出しましたわ。
鉄パイプの櫓ででら怖かった。

あ、じゃなくて、
注目はこのスタンド席後ろの景色。
…何にもない。
ぽちんぽちんと建物らしきものは見えますけど。


何もなかったとは聞いてましたけど、
何もないっ。はぁ~すごい。







大倉山は何度も改修工事を繰り返してきたそうで、
よく聞く雪印シャンツェってこれだったのね。
大倉山にも大倉山のロマンがあったのね。


で。


何故大倉山を説明しなければならなかったのか。
ちゃんとこれがリフトへと行くんですわ(笑)。


いきなりこんなデカいジャンプ台で飛べったってね。
三角山にあるシルバー・アルファ・札幌。
これでは大倉山に挑戦するには小さすぎたようで。
大倉山シャンツェ完成までの練習台として、
荒井山に40㍍級の『記念シャンツェ』が昭和4年に建設されたのです。










記念シャンツェ、森永シャンツェ、荒井山シャンツェと名前が変わったそうな。


で、リフトね。
待ってね。


幻となった昭和15年の札幌オリンピック。
ざっとね。
1、開、閉会式は円山陸上競技場
2、ジャンプは大倉山シャンツェ
  観覧席は4万人収容のものとする。
  練習用に二飛躍台を新設する
3、回転競技は三角山を伐開し、観覧席2千人収容のものを新設する
4、滑降競技は手稲山にコースを策定する。
5、スケート競技場は中島公園に一万人収容のものを新設
6、ボブスレーは神社山

さっぽろ文庫16 冬のスポーツから抜粋しました。

この冬季五輪は返上、幻となったんですけどね、
このとき三角山にリフトを造る予定があったかなかったか。
私はどこかで読んだような気がしてますが、
反射板を勝手に思い込んでいただけなのかもしれません。
はっきりとしたことは今手許にないんです。
その後三角山にリフトが造られたか。
これは目にしてないですね。




年代に表記にズレがありますが、
『冬のスポーツ』では昭和31年、
『大倉山物語』では昭和28年、私の見方が間違ってるのか??
まぁ、その頃荒井山に北海道第一号のスキーリフトが設置されたようです。
以来藻岩山市民スキー場、テイネオリンピアスキー場、定山渓三笠山スキー場、
ふじのヘルスランドスキー場などが整備されていったと。
…ヘルスランド。懐かしくて哀愁漂う響きだわ。
リフト&スキー場の料金までは…ちょっと…







荒井山スキー場。


で、
もうこのころには三角山、なまこ山、馬場牧場周辺は宅地化の波がどどどどどっと。
採石も始まるとこれ危なかったそうな。
今でも危ないですけどね。
今回のジャンプ台を調べていて読んだ三角山関連の本の中に、
山頂から採石方面の崖は下りるなと書いてありました。
突然落ちると。



そう、
宅地化の波と採石。立地条件。交通の便。
スキーのメッカは三角山から荒井山へとなったのでしょね。



さてツツジ山。
今日また赤坂山・寺口山の文が出てきまして。
ここにもツツジ山は出てこない。
ちょいと頑張って潜りましたら、
脱出口に繋がるかもしれない糸口見つけました。

ただね…
昨日ジャンプの友に愚痴ったのですが、
そこも今日のこことここも←何じゃ?ですみません。、
図書館行くみたいに行ける場所ではありませんで。
行き難い…すっごいプレッシャー…
でもツツジ山は引っかかるっ。


ツツジ山は寺口山に吸収された?買われた?
戦後の農地改革も関係する?
もうアタマがぎゅうぎゅうなんですけど。
何かがある気がしてならないんですわ。


あぁ息抜きしたい…
散財の虫がっ。
散財っ。こういう時ってすっごく魅力的な響きなのよね、散財。


明日散財報告がくるか(笑)、
ツツジ山進展が載るか。
まぁね、
ご褒美にどんぐりのパンでしょか(肥)。



ジャンプ台放浪記 シルバーシャンツェ編~3

2010-04-13 23:43:43 | ジャンプ台放浪記関連



本題に入る前に。
ぷっと笑えるか、
くっ、お気の毒と涙を誘うか。



見て、この山っ。







まさに、さっぽろ文庫タワーっ。


どうしたって?
どうしてこんなにあるのかいでしょ。


夫の叔母が田舎で書店経営しておりまして。
お店の棚にさっぽろ文庫数冊あるのは知っていたのです。
前から譲ってとお願いしていたのですが。


先週の親戚の葬儀のとき、
どどぉぉんと渡されたのがこれでして…
こんなにあったとは知らなかったわ…
それもなんだか興味湧かないのも多々ありじゃない…


そりゃそうよね、
超田舎の本屋さんにさっぽろ文庫ってこと自体奇妙だってね。
ほらね、
ちゃんと私の手許にくることになってるでしょ。
それも上手い具合に電子本化されてないやつばかり。
70以降飛びで20数冊。
帯やカバーが破れていたり日焼けしてたりはあるけれど、
中はサラですわ。


でね。


連日の脳ぎゅうぎゅうジャンプでお疲れ気味。
ちょいとダンボール箱から出して、
ぺらぺら捲ってみましたら…


あ、あった…





赤坂山・寺口山 さっぽろ文庫74 わが街新風景より


この山とは三角山のことね。
もっと詳しく具体的な年代もツツジ山も書いてくださいなんですけど。
ほんと何もなかったみたいです。


もう一冊 さっぽろ文庫73 昭和の話。
ここにもスキー関連で少し載っておりました。
電子本にもちらちら出てますけど、
分散して情報がいろいろな本に載っている…
私のこのさっぽろ文庫タワーから新たなうぉぉが飛び出すかも知れません(笑)。


なんだか漬物になっちゃいそうですわ、私…。


ちなみに。
さっぽろ文庫93 北の本三00
これ使えるか使えないか両極端ですけど本の手引書です。



あぁ。シルバーシャンツェと関係ない話で時間とスペースを使ってしまいました。


よしっ。
気合だ、気合っ。



昨日の現地入りした画像です。
あのシルバーシャンツェの尾根・斜面と似た場所、
撮影地点が分かるかどうか。


あぁパワフルな私っ(爆)。


でね。


これはどうしようもないのですけどね。
近いと全体が見えないし、
離れると家と重なって見えないのですわ。
おまけに家はぎゅうぎゅう。


まぁ我が家を出る前に地図上で押さえていた地点、
あの尾根に近づいていきますと。


ぽっかりと空白地帯、土地が視界が開けまして。
尾根麓に児童公園が。
近いけど、尾根に近すぎて画面に入りきらないだろうけど、
まぁ行って写してこようとね。


で。


その公園の名前を見たとき鳥肌がざわわとね。









三角山公園。
こっちは山の手がつくけれど、
アルファシャンツェと同じ三角山公園じゃない。


おまけに待ってましたとばかりに、








ジャンプ台的滑り台っ。
ぅぉぉぉぉぉぉっ…
何故こんなカタチにしたんだい?
札幌市の洒落?全て知っていた?偶然??


ひとり鳥肌浮かべながらひきつり笑ったのでした。







逆光で見えないし。


もう不審者ですわ、侵入者。
顔見知りしか歩かないような道。
必要以上に地図とコピーを見えるように持ち、
いかにも探し物です私を装いまして。

…ってその探してるものって何ってのがさらに怪しいんですけどね。








公園と民家のおそらく居間が向かい合っていまして、
さすがこの裏山尾根探索は諦めました。







尾根下部。
この道を左に折れると、







大なまこの背が真正面に。
当たり前ですけど意外と近いっ。
アルファシャンツェはもう少し上だけど、
確かにT字形な配置になる。








見えそうで見えないこのもどかしさっ。
おいおい…









もっと探せば、
あるいはどこか高いところに上れれば、
もっとすっきりこんな画像を得られたかもしれませんが…
どうも小心者の度胸なしでして…
愛嬌も色気もございやせんが…


本当、
ここがシルバーシャンツェ跡地だとしたら、
あの山の手三角山公園に何かプレート欲しいと思いません?
これって札幌市か北大スキー部の世界?
私が杭打ってもダメよね(笑)。当たり前だってね。




移動。



次はツツジ山近辺探索。







 





これはなかなか見やすくなったでしょ。
拡大すればいいってモノでもないと今悟りました(笑)。
等高線の数値は変わらないので書き込んでおきました。
お手持ちの現代版の地図と比較が楽でしょ?
なんて親切な私。うん。いえ。←どっちよ?


これを現在の地図と比較してう~んう~んなのですが。
一時仮設ジャンプ台らしき記号が現在の川にカブりまして(汗)。


で。
また間違いの思い込みかもなのですが、
ツツジ山の文字上の○。
これが等高線50の上に書き込んであるようで。
スキーコースの線と重なっていて見難いですけど。

これを今の地図に当てはめると、
ありゃっ。
偶然なんですけど昨日写した位置っ?。







○印が坂の真ん中より少し手前というか、
まさに私が立っている場所?足元になるってかっ??
うぇぇぇぇ。
削られた斜面元ツツジ山を写したつもりだったのですが…



でもね、
正直私この仮設ジャンプ台は自信ないのです。


当時はまずここいら辺に道路は一本も無かった。
川の流れ、位置も太さも違っていたでしょし、
今のように護岸工事もしていなかったはず。
橋は木の富茂登橋ですから。
(今の山の手橋はまだありません)









「きのこの里」ビルの裏の建物の下が先ほどの私が写した道と斜面です。







道路はなく、
斜面はどんなだったんでしょ。






河畔にはネコヤナギ







こんな感じ。








ざっぶ~んっ。








昨日ツツジ山はもうないって書きましたけど、
つい先ほどまでそう思ってましたけど、
確かに斜面は削られて宅地化はしてますけど全て平らになっているわけではないなと。
一度このシルバースロープを歩いたことがありますが、
手前の住宅地はえらい坂だった…
山っぽい面影はないけれど、
ここがツツジ山なのかもしれません。
三角山の下には優しい斜面がのぞいているし。









ここで、あそこで飛んでいたのかなぁ(笑)。
もうすっかり上を向いて歩くのが習慣化しております(笑)。
このジャンプ台シリーズが終わったら、
上を向いた集大成?
ばっかばかしいオマケが始まりますから(笑)。
おいおいってね。



ジャンプ台放浪記 シルバーシャンツェ編~2

2010-04-12 22:55:55 | ジャンプ台放浪記関連



よしっ。
こうなりゃガツンといきましょうや、
がっつりこんとっ。



これが私が握っている最強の地図・アイテム・ブツです。






昭和4年1月18日 北海タイムス


前にも出しましたでしょ。
4月2日のジャンプ台放浪記 なんちゃって編
このとき道新閲覧室でコピー(許可済み)してきた昭和4年1月18日の記事。
これをパソコンに取り込み拡大してみると。


これぞまさに最強の強運の持ち主のおっばはぁ~んでして。
え、
最強の勘違い&思い込みの激しいおっばはぁ~んになってたらどうしましょなんですけど。


拡大したらすっごく汚いんです。
画像が荒いってもんじゃないんですけど、
まぁ我慢して耐えて見てください。










ピンク部分。
上から「ツツジ山」「シルバースロープ」「三角山」「札幌シャンツェ」
これ全図をコピーしたくて道新に行ったのです。
(一部分だけ入手済みでしたので)
ツツジ山とシルバースロープ、
これに関しては3月29日既に解明しておりました。


ところが。
強運なおまけがつきまして。



次にブルグレ色部分をご覧くだされ。









これが全てです。
これを見つけたとき涙出ましたわ。


早くに、
すぐに出したかったのですが、
ウラをとらないと、とんでもないデマを流してしまったらとね。
自信がなくてね、
本当にこれでいいのかよとね。
いろいろ調べていて今日までかかってしまったわけです。


でも今日までかかってもね、
ここです、決定っとは残念ながら言えないんですわ…

ただ昭和4年1月の新聞ですから、
昭和8年までシルバーシャンツェは北大スキー部員に愛用されていたと資料がありますので、
この三角山北尾根より下東側のこのコブ斜面にある記号、印、
これはジャンプ台・シルバーシャンツェを表記していると思うのです。
当時の新聞記者はジャンプ台を見ていたと信じたいのですが。
いかがでしょ?



・何故ツツジ山にこだわっていたか。

以前何処かで何かで読んだことがあるのです。
赤坂山、寺口山、ツツジ山とありツツジ山にシルバーシャンツェができたと。
結局どこで読んだのか思い出せなくて私の記憶を信じるしかないのですが、
それでツツジ山を特定しようと。


これがまた見つからないんですわ。
見つからないはずです。
今はもうない。


赤坂山に関してはスキー場があってリンゴ園があったというのを、
これも読んだ記憶が…記憶で申し訳ないのですが…



私の大胆な予想なのですが。





大正5年地図



1は三角山北尾根。
これもそうですけど、
発寒川まで舌状の尾根というか緩やかな傾斜の小山群がありますでしょ。
矢印短いって?まぁまぁ。
2の今は緑化会のあたりを赤坂山、
3のエリアを寺口山、
4はツツジ山と呼ばれていたのではと。
その小山群の絶好なスロープをシルバースロープと呼んだのではと。

上の汚い地図のアルファベットを結ぶラインの内側、
【ABC方面にシルバースロープを廻り…】と書いてあります。
ここがシルバースロープエリアで、
東側に新設シルバーシャンツェがくる。



私の予想ですからね。みどちゃん説ね、あくまでも。



・シルバースロープの北側
・20㍍級
・ツツジ山


この三つがちょうどタイムス地図ブルグレ一番上記号と合致いたしまして。


ここが大正7年に北大スキー部員の熱い熱い学生さんが、
約66㌢X約160㌢の板を3枚、
部員総出で運搬して作った木造の仮設飛躍台(20㍍級)なのではと思うのです。
ここから始まって物足りなくなって、
ヨーロッパの記録に追いつくため30㍍は飛べる台が欲しいということとなる。うん。


で、ここで場所選びが始まるわけです。
仮設ジャンプ台の場所は地形的にダメだったようでして。


ここに条件が書き記してあります。
1・市街地に近い
2・冬季間風あたりが少ない、
3・工事費が少ない、
4・スロープが南向きではない、
5・全長140㍍内外ある、
6・加工できる土地である、などの条件があった。

…これらの条件にもっとも近い場所が三角山の北側シルバースロープの東側斜面であることがわかった。
                       ~さっぽろ文庫96大倉山物語より


ちょいと上の表現がずぅっと気になっておりまして。
他の本を読んでもこれといった決定打はなく、
今までより三角山に近づいた場所ぐらいでして。


ここで頼りたいのが画像かなと。










ね、立派でしょっ。
びっくりするぐらい立派でデカい。


アプローチ50㍍、スタート地点が3ヶ所設けてあり~略~頂点の所は丘陵の地点から4㍍の高さがあり、
アプローチの最大傾斜は33度、斜面になる部分は板張りしてある。
80㍍のランディングバーン。


こんなにデカいのが人目につかないはずはなく、
かつスキーのスロープの邪魔になっても困るわけでして。



考えてみたら、
この北海タイムスの新設シルバーシャンツェと思われる印の場所、
ここまだ現地入りしていなかったと気がつきまして。
ここの路地は歩いてないなと。


早速写真と地図を片手に出かけてきたのですが…


想像はしてましたけどね、
家ありすぎ。
いい線いってても必ず何か邪魔が入るっ。
もうお庭入れてください、屋根に上ってもいいですか?でして。
そりゃ出来ませんって。
それにここらへんって、
地域の人しか通らないぞっていう道でして。
もうモロ不審者ですわ…よそ者じゃクセ者じゃっ。


あ、すみません、つい横道に話が熱中…









確かにこの場所?尾根?コブ?小山だと、
後ろに三角山や周りの山が写りこまないかも。
もう少し何とかしたいけど困ったな、住居侵入するわけいかんしのぅ。
そして何より、
こういうラインってどこでも当てはまりやすい…



もう一方の仮設ジャンプ台のあったツツジ山。
もちろんここはもうないのですけどね。
私が早い時期から古い地図地図と騒いで探していたのはこれなんです。
ツツジ山とはわかっていませんでしたけど、
採石場にしても大なまこ山にしても寺口山にしても。
今の地形で考え見ては見えてこないはずだなと。






私に画像を、大正5年の地図と現在の地図を重ねる技術があったら、
一目瞭然地形の変化が手に取るようにわかったのに。
あぁ悔しいっ。


こちらもしっかり撮り直してきました。
何回か行って唸ってきているのですわ。
寒さと風と残雪でいい画像少なくてね。


明日は今日撮ってきたやつを整理して載せる予定です。


あぁ疲れました…アタマが脳がギブアップですわ(笑)。


ここの場所が正しいのか違うのか。
まぁわかりませんけど、
ここまで根性でやってきたことは私としてはよくやったぞと(笑)。

どこだったのかな?あそこかな?なんて考えるのは楽しいんです。
そう、
自分の中で無責任に考えてるうちは楽しいのです。
夢とロマンのジャンプ台なのですわ。

これを口に出す、文字にする、記事にする。
そうするとヘタなことは書けないなと。
いえヘタなんですけど、
あまりにも勝手にここよと決め付けることはできないなとね。

後半は正直投げ出したくなりました。
時間はあっても考えるチカラが足りないぞとね。
運で北海タイムスを見つけ、
これを信じるしかないのかなと。


とりあえず今宵はここまで。

なんだか尻切れトンボな切りですが、
もう私今日は5時間近くこれやっておりまして…
早く遊びに行きたいぞっとね。
あぁ何かご褒美ごっこしなくちゃ、マイセルフご褒美ごっこ(笑)。
そっちの妄想の世界に突入いたします(笑)。

では明日は画像を整理して載せる予定です。







ジャンプ台放浪記 シルバーシャンツェ編~1

2010-04-11 22:39:39 | ジャンプ台放浪記関連




こ、この日が来るのが怖かった…







で、出来るのなら、
『本当シルバーシャンツェって何処だったのでしょね?』で済ませてしまいたかった…


見つけたのかって?
はい…おそらく・きっと・maybe・perhaps…
自信あるのかって?
ないないナッシングでして…


でもね、
もうこれ以上は当分出てこないのではと。
出てくるとすれば2年後の北大スキー部創立100年記念誌ではと。
あるいは中央図書館、道立図書館で痒さと戦うしかない…


誰にも確認してもらってないのです。
ジャンプの友にもmy同期のK氏にも。
余計不安が募るでしょ、
おいおい大丈夫なのかって。


ね、
こういうところに行き着いたって話で。
ここだったかもしれないわって話にしておいてください。











シルバーシャンツェを飛んでいる写真は出てきても、
場所を表す決定打の文章や写真が出てこない。


混乱混迷のるつぼでして。


シャンツェの呼び名がいろいろ、
場所の呼び名もあやふや。


大正7年の話ですから。
1918年といったら計算出来るか?私。
え~っと92年前。


整理というか、
覚えておいていただきたいのですが。
私物事を順序だててきちんと話す書くってすっごい不得意苦手なんです。
読みながら組み立てていっていただきたいのですが。

そう、
覚えておいていただきたいのが、
シルバーシャンツェには仮設と新設があったということ。


…仮設の場所に新設したのなら同じ場所、
あるいはほぼ同じ場所で悩みは少なかったのですが、
どうも思いっきり場所を変更したみたいでして。
それを掴んでいないと、
どうしてこんなに歩くの足生えてるのとね。


この仮設・新設の呼び方と、
ネックとなるのが土地の呼び名呼び方。
アバウトというかまちまちというか…
昨日も書きましたけど、
まぁ当時は何番何号なんてありませんから…


新しい資料には三角山という言葉がでてきますけど、
古いのになると琴似村という表現になってくる。
ここ全体を示しての琴似村ではなく、
三角山とは呼びにくい場所、
つまり離れた場所だったのではと憶測しまして。







じゃぁどこよとなるのですが。
まぁ急がず焦らずに。


アルファ&札幌シャンツェ探しのときによく出てきた言葉が「なまこ山」なんです。
シルバーシャンツェ探しでは「なまこ山」が出てこない。
まずここからこのエリアではないなと導きまして。


逆にシルバー探しで目にする言葉で、
アルファ&札幌シャンツェでは見かけなかった言葉。
それが「シルバースロープ」でした。


【三角山の北側シルバースロープの東側斜面】
これが新設シルバーシャンツェの位置を示す言葉でして。


シルバースロープを特定出来れば自ずとシルバーシャンツェが浮かび上がってくるはずっ。
シルバースロープを探せなのですが…
これが一筋縄ではいかんのです。


当時寺口山はスキーにばっちりのスロープが続いていて、
大勢のスキーヤーで賑わったとか。

おお、ああ、
寺口山ってどこなのよって思われる方もいらしゃりますね、きっと。
寺口山とは、
え~っと今で言うと国立西札幌病院裏手というか、
山の上病院エリアというか。
ここもはっきりとした確認は取れていないのです。
昔の呼び名、昔の位置。








これは昭和30年代の寺口山ですけど、
ここには北大のシルバーロッジが山腹に建っております。
シルバーロッジ、シルバースロープ、シルバーシャンツェ。


アタマとキモチではしっかり結び付けたいのですが、
地図とか証言とか記録に残っているシルバースロープ=寺口山となる、
確固たるモノが出てこないんですわ…
琴似のシルバースロープ。
三角山付近。


北大スキー部は三角山の麓にジャンプ台(シルバーシャンツェ)を造って練習に励み、
遂に村本(金弥)君が28㍍を飛んだ。その時は京都にいた私の手許まで
『ムラモト28メートルトンダ』という電報が届いた位である。 ~北海道のスキーと共により


この熱い思いが情熱が残っている場所はどこなんだ。
琴似のシルバースロープ、寺口山、三角山の麓、仮設、新設。
うぉぉぉぉぉっ。


手詰まりの頃、一枚の写真が出てきまして。





大正11年竣工ですから、
これは新設のシルバーシャンツェです。


この写真を見てパキーンと閃いたというか雷が頭上に落ちたというか…
私にはこの尾根のラインに見覚えがあるのです。
もしかしたら…
もしかしたらこれは私が毎日見ている尾根…?






夜明けを共に、





朝日を共に、





そして日の暮れも。



丁度公園の大きな樹が重なっちゃってますけれど、
ラインが似ているのです…
ちょいと涙がでましたわ。


それで現地調査に出向きまして。
あれは3月26日ですな。
ぐるっと周ってくるつもりが強風で止めにした日。
帰りにここの尾根を見に寄りまして。
樹の太さや何か何かどんなことでもいいから残っていないかと。
さらに角度というか、
どこに着地していたのかなんてね。








ズーム&トリミング。
奥にこのような見出しポールが何故か数本。
年代的に違うとは思いますが…90年前には見えないってね…






大なまこ、円山と一直線に並びましたわ。
珍しい構図でしょ(笑)。







色がすみませんなんですけど(汗)。
急です、崖です。
眼下に北一条宮の沢通り。
分断される前はずうっと続いていたはず。
琴似駅までスキーで滑って帰ったという話もあります。
(ジャンパーのKさんは最後は平地だから滑るというより歩いたと)






斜面下から。
近くのクリニックの駐車場から。
この奥は進入禁止の看板ありで不可でした。


これが3月26日。
これで新設シルバーシャンツェは決定だと思っていたのです。
新設を基準に仮設の場所を特定しようと。



がっ。



崩れまして。
ガラガラガラっっっ。


私の気持ちもガラガラガラっっっ。



まさに七転び八起き的な放浪を続けておりますが、
大コケをして大儲けをするという、
この不屈のおっばはぁ~んなんですけど。


書き忘れておりましたが、
もうひとつ重要な言葉がありまして。
それはツツジ山。


ツツジ山とシルバースロープの名前入りの地図を、
遂に手に入れることが出来まして。


もう何のこっちゃでしょ(笑)。
自分でもどう書いたらいいのか、
そしてどうしてこう強運なおっばはぁ~んなのかとね(笑)。


やっぱり私は何かがあるのかもしれません(爆)。


引っ張り弄ぶ?つもりはこれっぽちもないんです。
出し惜しみもね。
この先目を酷使いたしますので、
明日に持ち越します。
もう眼精疲労でばりばりばこばこですっ。