毎日が夏休み

LEAVES THAT ARE GREEN TURN TO BROWN

ジャンプ台放浪記

2010-04-17 23:06:06 | ジャンプ台放浪記関連





さぁ今日で仕上げましょ。









いつから始めたのでしょ。
私が三角山に行くようになってから?
2年前にはもう探しに歩いているし。


単純にね、
すっごく単純にシンプルに、
私の窓から三角山のジャンプ台が見えていたのか。
もしそうだとしたらどんなに素敵でしょうと。
歴史を知りたいとかよりも、
毎日眺めているこの景色のなかにジャンプ台があったのかなと。


時代も規模も何で出来ていたのかも分からなくて。
勝手に、
30メートル級ぐらいの木材&鉄骨&コンクリートの土台がアタマに浮かんでいたのです。
このお山の片隅にその廃墟が眠っているとね。
それを見つけに行かなくちゃと。


ところが、
時代は大正、素材は木。
日本で最初かもしれない固定シャンツェだとわかりまして。
そのもとは北大生が板を担いで作った飛躍台だと知りまして。


今みたいな高機能のウエアも肌着も手袋もブーツもない時代。
どんなに寒くて冷たくて痛かったでしょうと。
熱い想いだけでユキマミレになって飛んでいたのかなと。
これは私だけの夢とロマンのジャンプ台ではないんだとね。
まぁやってしまったわけです。


自分でもここまで調べれるとは思っていませんでした。
不思議なことに、
本当不思議なんですけど、
必ずポイントポイントで誰かの助けを得られるのです。
これからどこをどう探せばいいのか、
必ずヒントを与えられ、
私はそれをかき集めたにすぎないのです。


…タウシュベツ橋梁見に行った先の露天風呂で、
ジャンプ台の話になること自体方向付けされていたのかも(笑)。



実際ジャンプ台はいくつあったのか。
わかりません。
かなりの数のジャンプ台、簡易飛躍台があったのではと。
板製、スコップで雪を固めた製、櫓製。




端から始まりから。



大正7年 琴似ツツジ山の丘に木造の仮設飛躍台。
これが北大生が板を担いでスタートしたあの端っこの記号だと。
そうそうオペッカウシ。
アイヌ語の「尻・川・上・につけている・所」で
川岸が高い丘になっていることを意味しているそうな。





どんぴしゃっ。


ちなみにあまり良い画像ではないのですが、
私が2008年03月09日にここの住宅地奥からinしまして、
寺口山シルバースロープを歩いていた?画像が出てきましたので載せます。








高っ。怖っ。
画像手前下の柵から崖、すと~ん。
道路があって発寒川。












このときは『シルバースロープ』を狙ったのではなく、
あくまでも寺口山から尾根伝いに三角山まで歩くのがメインでしたので、
スロープは意識して写していないのですわ…



ジャンプの友が現地で撮影した画像、
載せちゃっても良いでしょか?
まずけりゃ即削除いたしますので。






私この画像大好きなんです。
きません?胸にくっときません?
勝手に共有共感できるというか、
私の目でもあるんです、ヘンな表現ですけど。
何故か私がそこに立って見ている感覚・錯覚に陥ってしまう。


三角山北尾根が正面に。
きっとその昔寺口山、
シルバースロープで滑っていた人がこの画像見たら泣けちゃうのではと。






さっぽろ文庫69 大倉山物語


開きで字が消えているとこ読み難い部分を書き足しました。
ここに寺口山シャンツェと出ているでしょ?

いつの時代なのか不明なので憶測ですけれど、
学校用のジャンプ台もあったという話を聞きましたし、
タウシュベツ、糠平温泉でお会いした元ジャンパーIさんは、
『あの頃は娯楽がなくスコップと板で作った台で飛んでいた』と話してくれました。
上の図イコールではないですけど、
ここいら辺にはジャンプ台が消えては現れてを繰り返していたのではと。








こちらは元ジャンパーのKさんが送ってくださった地図です。
ここで、雪をスコップで固めて造ったジャンプ台で一度飛んだことがあると。
Kさんからいただいた情報を元に(上の地図とは別の)北大シャンツェを探して歩きましたが、
そのときに思ったことは、
この記憶は確かだと。
こちらの記憶も間違いないのでは。
この三角山山の手側登山口に向かう(勝手にゼロの坂と呼んでますが)坂、
その石垣が組まれた右手のエリア。






昭和4年1月18日北海タイムス




これはくまぼうさんが現在の地図に書き込んでくださったジャンプ台3つ。
上からシルバーシャンツェ 大正11年こけら落とし
札幌シャンツェ 昭和3年
アルファシャンツェ 大正13年おけら落とし


このシルバーシャンツェには何度泣かされたことか(笑)。
北海タイムスの記事が出てくるまで足生えて歩く移動するでして(笑)。
私の理解力読解力のなさがさらに加わりわやな展開でしたわ。
仮設・新設と場所が大きく移動したこと、
数回に渡り改修工事をしていること、
シルバーシャンツェと命名されるのが遅かったこと。
これが私の混乱の大きな原因だったのでは。


必ず大混乱が起こりヘタれ崩れ、
助けてくれる人がいて、
立ち上がるときには何か必ず別のブツを手に掴んでいる(笑)。








大なまこ山。
年代はわかりませんが、
後ろが立派な街になってますし西高校舎らしきものも写っている。
木の生え具合もなかなか。
…これ何処から写した?
札幌シャンツェ付近?
でもこの頃にはもう無くなっていたのではと思われますけど。







宮の森病院開院が昭和58年。
その前はわかりませんけど採石の道路ありますからね。



【シルバーシャンツェは、台そのものはいまからみると幼稚きわまりないもので、
 またスケールも当時の技量にマッチしないものがあった。
 だからシルバー時代は案外短く、その後三角山のふもとに札幌山岳会がつくったアルファ・シャンツェ、
 市の力でできた札幌シャンツェが多く利用されジャンパー揺らんの地になった。
 しかし、外国書を翻訳し、写真をながめながら、未知のシャンツェと取り組んで、
 とにもかくにもシャンツェというものを築き上げた盛んな研究心、
 先覚者としての自負心は高く評価されなければならない。】 北海道大学スキー部七十年史より


【幾多の涙ぐましい努力がはらわれたが、このシャンツェには欠陥も多かった。
 ~略~昭和8年(1933)に部練習用「宮の森シャンツェ」がつくられるまで、
 北大スキー部員に愛用され、伴をはじめ神澤謙三、村本金彌などの名選手を生み出したのである。】
                                    さっぽろ文庫69 大倉山物語より

シルバーシャンツェは短い運命だったようです。



で。



これってびっくりというかやっぱりというか、
シルバーシャンツェは私の窓の真正面なんです。
我が家に向かって飛んでいた(笑)。
笑い事ではないってね。
ね?、やっぱり私は三角山とジャンプ台と縁があったと思いません?。



難航したシルバーシャンツェの場所特定。
巻き戻していけば、
北海タイムスにたどり着くきっかけを与えてくれたのが元ジャンパーのKさんと義理の娘さん(お嫁さん)。
3月30日の記事に写真や詳細を載せてあります。






これが送ってくださった地図です。
右側の○がジャンプ台のあった位置。
後日分かったことですが、
ここら辺は北大と縁のある土地で合宿所もあったそうです。
この合宿所=大野精七さんの本の琴似の合宿所とはわかりませんけど。


ここを調べに行って、
資料のコピーをいただいて(公開禁止)、
そのコピーに乗っていた北海タイムスの地図の一部分、
そこに書いてあるシルバースロープとツツジ山を見つけ、
(くまぼうさんには本当に感謝です)
それを拡大してみたらジャンプ台と思われる書き込みを発見した…
北海タイムス自体は非公開ではありませんので、
この新聞記事を調べに行って手に入れたのがあの汚いけど手ごたえのある地図でした。


さらにこの地図には盤渓小学校手前にも同じジャンプ台と見られる書き込みがあります。








これは昭和4年、シャンツェ建設の適地(大倉山に決定)を探しに来たときに、
大倉山裏側に位置する小別沢(現在の西区小別沢)の西南西斜面で雪のジャンプ台を造り、
試験飛躍をした時の写真です。


スコップと人の力が集まればジャンプ台って意外と造れたのかも。
我が家の裏の公園にも必ず冬にはわずかな段差のジャンプ台は現れますし。



ここで原点ともいえる私の窓からジャンプ台が見えていたかですけれど(笑)。
見えていたってものじゃないってね(笑)。
シルバー、アルファ、札幌、荒井山、宮の森。
これは確実。
大倉山は角度で隠れてしまうけど、
夜ならライトアップの光りは見えてるわ(笑)。
荒井山の横に北大シャンツェ、大なまこの腰にもひとつ、
寺口山赤坂山でも飛んでいた。
時代年代ごちゃまぜですけど(笑)、
なんだかジャンプ台の特等席というかスタンド席。
ありえないんですけどね、一同揃い踏みはね。
でも夢とロマンが目の前で繰り広げられていたとね。



なんでしょね、
本当不思議なチカラというか縁というか。
私一人ではとてもここまで出来ませんでした。


ジャンプがきっかけで知り合った、あれ?いつから?「ジャンプの友」、
ただの同期というだけなのに親身になって手伝ってくれたくまぼうさん。
元ジャンパーのKさんとその義理の娘さん、
元ジャンパーのIさん夫妻、
参加して下さったTammyさんヒデさんNoridearさん。
大倉山の学芸員さん、
道新のお姉さんに山の手博物館のお姉さん。
通い詰めた図書館(笑)。
コピーに埋もれ異世界突入する妻を温かく無視してくれた夫、
つまり好きなようにやらせてくれたってことね、
なんだか触らぬ神に祟りなし?(笑)。
うちのやつはヘンだけど何処行ってもいいからちゃんと帰って来なさいでして(笑)。
それから多くの方々が、
いったいどうなるんだと興味を持ち読んでくださっていた。
ありがとうございます。
ジャンプ台の他にあたたかいものを得られたような。
おかげさまでなんとかここまでわかりました。


でもね、
本当にこれは「みどちゃん説」ですから。


私は住んでいる家のこの窓から見える?ということで場所にこだわりましたが、
大事なことは細かい場所よりもっと他にあるわけでして。
それを時の流れと共に簡単に忘れてしまってはいけないよなとね。
知らなくたって生きてゆけるけど、
知っていたほうが断然いい。
そう思いません??









間違いのないように気をつけて気をつけて書いたつもりですが、
なんといってもそれが才能のような持ち主ですので…
何か新たなことが分かったり間違いが判明したらその都度訂正を入れます。


カテゴリーを新たに作りまとめようと。
整理整頓物事順序だてが苦手ですので…
どうしましょなんですけど…


枝分かれというか関連でその他いろいろ横で待機しております(笑)。
まだ当分この深みから逃れられない?(爆)。


ジャンプ台に関してはこれでおそらく「完」っ。
長い間お付き合いくださりありがとうございました。
深く深く感謝いたします。